小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

天皇家にはなぜ姓がないのか?  - 続編 -

2019年12月31日 | Weblog

 ー「姓」を与えるのは天皇の権限かー

 この問いに対する答えはすでに書いた。ところが、日本史の大学教授の名字に関する著書に「姓を与えることは天皇の権限であり、姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味する」とあった。これは常識の噓(俗説)である。たしかに、『日本書紀』に天智天皇が臨終の床に伏す中臣鎌足に「藤原」姓を与えたとあり、これが根拠とされているようだが、この記事は藤原姓を名乗った鎌足の子、藤原不比等が「書紀」編纂時に「藤原」姓に正当性を持たせるために挿入させたものであろう。天武・持統朝の都城の名称(藤原京)を臣下が姓とすること自体僭越な行為であるので・・。藤原不比等の野心がこれからも垣間見える。それと、姓を与えることが天皇の権限であるなど、「記紀」のどこにも書かれていない。これは883年、秦公直本が「惟宗(これむね)」姓を天皇から賜った例、さらに後世の「源氏」「平氏」「豊臣」などの姓を朝廷(天皇)が下賜した例との混同である。

 なぜ、このような誤解が生まれたのか。それは古代日本で六世紀頃成立した「氏姓(うじかばね)制度」にある。この漢字「姓」は中国の人名の姓(漢の皇帝の姓は「劉」、唐は「李」)とは違う意味で使っていたからである。日本では当初、「姓」は地位・身分を表わした。蘇我大臣蝦夷とか大伴宿祢家持のように、この場合「大臣(おほおみ)」「宿祢(すくね)」が「姓」である。勿論、これら「姓(かばね)」を与える権限は天皇にある。『日本書紀』にある天武天皇が684年に新たに制定した「八色の姓(やぐさかばね)」の制が有名である。「真人」「朝臣」「宿祢」「忌寸」などのように貴族を八種の階層に分けた。しかし、この制度も奈良時代末頃には単なる通称(貴族意識)として使っていたようである。「秦忌寸足長」(長岡京の宮城を築き、主計頭となる)との人物がいるが、おそらくこの頃には氏族名「秦(はた)」を中国風の「姓」と認識していたと思われる。

  なお、「かばね」とは「海行かば水漬く屍(かばね)」とあるように「骨(ほね)」の意味であり、「かぼね」からの音変化であろう。新羅の位階制である「骨品」制度を真似たものと考えられる。 しかし、古代日本では自分の生まれた氏族への帰属意識が強かった。この点では日本は北方騎馬民族のトルコやモンゴルに近い。朝鮮半島では氏族意識がそれほど強くなかったようで、統一新羅(八世紀)が中国式の「姓」を受け入れた。日本でも奈良時代あたりから位階の「姓」制度がうすれ、氏族名が中国風の「姓」となっていった。今、ネット投稿などに天皇賜姓説が定説のように流布しているが、これは人名の「姓」のことである。つまり、天皇は臣下に姓を与えられるが、天皇に姓を与える上位の人はいないとの・・。とんでもない誤解である。今一度、私見を述べたい。

 ー東夷、南蛮、西戎、北狄 には個人の姓はなかったー

 古代の東アジアで姓を持っていたのは中国だけである。その周辺の諸民族は中華文明の影響を受けて、姓を名乗るようになった。至極、単純なことである。ただ、国家・民族によって、姓を持つ中国文化を受け入れた時代は様々である。まず、朝鮮半島では五世紀頃、王族が高(高句麗)、金(新羅)、余(百済)、列島では倭(日本)などを名乗り始めた。三世紀の倭の女王・卑弥呼や台与には姓らしきものは出てこない。半島では統一新羅(八世紀)が人名、地名などすべてを中国風に改めた。倭国では遣隋使(七世紀)が倭王の姓を「阿毎(あめ)」(大王家の氏族名)と答えており、この頃、倭国でも氏族名を中国風の姓として使い始めたようである。

 - ラストエンペラー ・ 溥儀には姓がなかった ー

 清朝最後の皇帝、愛新覚羅・溥儀の「愛新覚羅」とは「アイシン部族」の意味であり(満州語 aisin ・・金)、20世紀まで姓を持たなかったのである。勿論、「愛新覚羅」を姓として使ってはいたが、現在、中国に住む元清朝皇帝一族の人は皆「金」姓を名乗っている。北狄のモンゴル共和国ではなんと21世紀になって全国民が姓を持つようになったが、中国・新疆のウイグル人はいまだ固定した姓はない。南蛮のベトナムでも中華文明の影響は大きく、有名な建国の父、ホー ・ チミン も漢字名の「胡 志明」からきている。また、楊貴妃でよく知られている唐の玄宗皇帝のとき(八世紀中葉)、西域で反乱を起こした安禄山は、実はイラン系のソグド人であり、本来、姓を持たない西戎であるが、中国風の「安」を姓として名乗っている。「禄山」が名前で、ペルシャ語の「 Roshan ( ロウシャン )・・光、輝き 」の意味であることが分かっている。

 -天武天皇は「大海人皇子(おほあまのみこ)」-

「あめ」と「あま」は容易に交替するので同じものである。「天皇」の称号を使い始めたのは天武天皇からと言われている(それまでは「王」)。天武の和名は天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であり、この「天」を「あめの」又は、「あまの」と読み、通説では美称とされているが、私の考えでは「大伴家持(おおとものやかもち)」や「蘇我入鹿(そがのいるか)」同様、「天氏族に属する誰それ・・」の意味であり、大海人皇子は通称名であったと考えられる。つまり、「大天(おほあま)皇子」。なぜ漢字「海人」を使ったのかは諸説あり定かでない。また、天武天皇の皇后、持統天皇の和風諡号(死後のおくり名)は大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)であり、やはり「天氏族の姫」の意味を持っている。

 大海人皇子は中国の皇帝を意識して、「天皇」の称号を用い、「 天(あめ)氏族・・大王家 」が倭国の全氏族の上に立つ権威を確立しようとしたのではないのか。以前の蘇我氏による崇峻天皇暗殺事件や山背大兄皇子弑逆事件など、二度と起こさせないとの強い決意があったと思われる。(この二つの事件から言えることは、倭国の王権が天氏から蘇我氏に移る可能性もあったということでもある)。この時、現代にまで続く天皇制が確立した。

 また、天武天皇の兄、天智天皇の和名は天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)。つまり、「天氏族の・・」の意味を持つ。その前の欽明天皇の和名は「天国排開広庭天皇」であり、やはり、天国(あまくに)もしくは、(あめのくに)を冠している。どうも欽明天皇あたりから半島の高句麗、百済、新羅が軍事的に強くなってきており、倭国も大王家(天氏族)を中心に強国化を図る必要性を感じていたようである。(欽明天皇23年・・562年、任那日本府滅亡)

 <追記>

 私はかねがね不思議に思っていたが、「天皇」の読みは「てんのう」である。漢字「皇」は日本では「こう」としか読めない。(例、皇帝、皇太子、上皇など) このことに関して明確な回答を聞いたことがない。私は次のように考えている。天武天皇以前、倭の大王は自身の氏族名「天(あめ)」と「王(おほきみ)」から、倭人語で「あめのおほきみ」(天氏族の王)と呼ばれ、漢字音で通称「天王(てんのう)」と称していた。漢字「天王」は仏教の「四天王」と偶然一致しており、欽明天皇あたりから仏教に帰依していた倭国王にとっては最適な称号だったと思われる。天武天皇が中国皇帝に対抗して「天皇」の文字を用いるようになったが、読みはこれまでどおり「てんのう」と変えなかった。これならスンナリ理解できる。すでにこの説を唱えた人はいるかもしれないが・・。

 最後に今一度、言っておくが、天皇家にはなぜ姓が無いのかを考える以前に、日本人はどうして姓を持つようになったのか、という疑問を持つのが先決である。日本人の「姓」の起源は、倭国の氏族名が中華文明の影響を受けて中国風の「姓」となって行ったものである。決して、天皇が賜姓したものではない 。氏族の名称は元々あったものである。全国どこにでもいる「久米さん」の御先祖は神武東征のとき、近衛隊長「大久米命」として古事記に出てくる。神武天皇が賜姓したのだろうか ・・。今でも、奈良県明日香にはその氏寺、久米寺も現存している。その後、飛鳥時代あたりから、国の発展に伴い、多くの新氏族(姓)が生まれた。天皇に姓が無いのではなく、天皇家はなぜかその氏族名「天(あめ)」を「姓」として名乗らなかった。ただ、それだけのことである。(令和元年 大晦日)

 

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日本語の諸問題 (44)  文化庁の日本語教師国家資格構想

2019年12月03日 | Weblog

 少し前、文化庁が日本語教師に国家資格を与える構想があることを新聞で見た。国家資格制度があるフランスなどの諸外国並みに日本語教育を充実したいとの意図であると思うが、これには根本的な問題がある。我々日本人が外国語を学ぶとき、書店や図書館に行けばどの言語であれ、「フランス語文法入門」とか「ロシア語四週間」などの文法書を簡単に手にすることができる。翻って、日本語はどうか。図書館の国語・日本語コーナーには数多くの外国人向けの日本語教育の本が並んでいるが、私はこれまで、日本語の文法書を見たことがない。では、文化庁は国文法(学校文法)を英語で外国人に教えられる人材育成を念頭に置いているのだろうか。つまるところ、日本には文部科学省認定の正式の日本語文法書は無いということである。

 ーある「日本語教育書」についてー

 たまたま図書館で見つけた「日本語教育書」(筆者は大学で留学生に日本語を教えている数人の共著)、そこには驚きの日本語文法が書かれていた。それによると、日本語動詞1型は「捨てる」「食べる」など(私の文法理論の第2型)で、ローマ字表記で「 sute-ru 」「 tabe-ru 」となり、sute、    tabe  と語幹語尾が母音で終わるので「母音幹動詞」もしくは「RU(る)動詞」との名称を与えている。2型は「読む」「書く」など(私の文法理論の第1型)で「 yom-u 」「 kak-u  」となり、yom 、   kak  と語幹語尾が子音で終わるので「子音幹動詞」もしくは 「U(う)動詞」との名称を与えている。つまり、子音で終わる語幹に -a   -i    -e  と 活用すると言っているのである。たしかに理屈上はそうであるが、日本語は子音プラス母音の開音節語であるので 「 yom-u  」  「 kak-u  」と切り離すことはできない。つまり、日本語には子音語幹などはない。あくまで活用は「読ま-ない」「読み-ます」「読め-ば」と平仮名でしか教えられない。

   前に「宣教師ロドリゲスの日本語文法論」で書いたように、「上げる」「下げる」の語根(語幹)は「あげ」  「さげ」であり、「読む」「書く」の語根(私の理論では名詞形)は「読み」「書き」とするのが外国人だけでなく日本の生徒にも一番理解しやすいと思う。400年前の外国人の方が現代日本人より日本語の本質を見抜いていた。

  <追記>

 私は以前、徳島大学の中国・ウイグル人留学生の修士論文(日本語)を点検してあげたことがあり、そのとき分かったことは、その留学生の漢字能力は日本人とほぼ同じであったが、日本語文法についての知識は何もなかった。無論、国文法など論外であり、中国で受けた日本語教育について聞いたところ、ただただ、文型練習ばかりであったとのこと。つまり、現在形は「書きます」、否定形は「書かない」、過去形は「書いた」、仮定形は「書けば」、願望は「書きたい」、呼びかけは「書きましょう」等々。これでは「ホステス日本語」(耳学問)と同じではないかとの感慨を持った。しかし、これも仕方ないことである。日本語の正式の文法書など無いのだから。先の「日本語教育書」にも、この文法理論はあくまでも私案であり、各大学や日本語教育機関によって使っている用語も違い、文法理論も様々であると書かれていた。このような事実を知った上で、文化庁は日本語教師国家資格制度を導入しようとしているのか。まず最初に文科省認定の正式の日本語文法書を作ることから始めるのが正論ではないのか。文型練習の繰り返しだけなら、なにも国家資格者でなくても普通の日本人なら誰でもできる。

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