小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

『「 幕府」とは何か 』(東島 誠 NHK books)を読んで  ーたしかに新事実はあるがー

2023年04月27日 | Weblog

 結論から先に言うと、本書の著者に限らず、日本史で使う「幕府」は明治以前と以後では意味が全く違うとの認識が欠落していると言わざるを得ない。明治の日本史学者が決めた歴史用語(日本史教育用語でもある)を戦後世代の現代学者がいとも簡単に変えてしまうことに私(小松)は憤りさえおぼえる。明治の学者の方がずっと日本語に対する言語力があり、「幕府」との言葉を正しく認識していた。現代学者の言語力はここまで劣化してしまった。坂本龍馬が60歳の他藩の重役に「一筆啓上」を使って手紙を書いている。明治の日本史学者ならこれだけで「一発アウト」と判定するであろう。夏目漱石の弟子たちが漱石先生に対して「一筆啓上」などを使って手紙を書くわけがない。

 ー本書で知った新事実ー

 「幕府」との言葉自体は『吾妻鏡』に出ており、これは「国語辞典」や「歴史辞典」から誰でも知ることができる。ところが、本書には他にも使用例があることを書いている、それは、高野山のある僧侶の記録で「将軍家の裁を申し請う事・・・地頭・守護所に下知せられ・・・もし幕府の御裁定無くんば・・・延応二年二月(1240年)日」とある史料を紹介している。また、蒙古襲来のときには「東関幕府」との用例もあり、室町時代に入って「関東幕府」(鎌倉公方のこと)の使用例も紹介している。著者の説では、東国の武家政権は当時でも「幕府」と呼ばれていた証拠であるとのことであった。しかし、『吾妻鏡』には「文応元年(1260年) 将軍家御居所者称幕府」とあり、鎌倉武家政権自体が自ら「幕府」と称している。鎌倉時代には「将軍府」の意味で「幕府」との呼称は一般的であったのである。新資料はそれを補完したにすぎない。問題は足利尊氏の京の武家政権であるが、「幕府」と呼ばれていたとの資料は全くない。「室町幕府」は明治以後の歴史用語。なぜか、次にこの問題に触れたい。

 ー日本国には東夷(あずまえびす)しかいなかったー

 中国では昔から 東夷、南蛮、西戎、北狄といって、中国の周辺に住む異民族を夷狄と見なしてきた。「幕府」とは中国の皇帝の命により、政治・軍事の全権を委任され、派遣された夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことである。日本でも平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が有名。実は、源頼朝はまさに京の朝廷から見れば夷狄である奥州・藤原氏を討伐している(実際、藤原氏は夷狄とはほど遠い京の文化を取り入れた文化国家ではあったが・・平泉・中尊寺)。

 だが、頼朝の先祖、源頼信や八幡太郎義家などは当時「俘囚」と呼ばれ、京の朝廷から軽侮されていた出羽・陸奥地方を平定している(前九年・後三年の役)。その先祖の御威光もあって、頼朝は征夷大将軍に補任され、その本営(将軍府)は「幕府」とよ呼ばれるようになったのであろう。だが、室町幕府の開祖・足利尊氏が滅ぼしたのは鎌倉の執権・北条氏であって夷狄ではない。征夷大将軍補任も形式上のものであり、従って、当時も「幕府」との呼称は生まれなかったようである。次の徳川家康も同じことが言える。家康が滅ぼしたのは大坂の右大臣、豊臣秀頼である。やはり、「幕府」との呼称はなかったのである。幕末に至り、尊王攘夷の志士たちが使い始めるまでは。水戸学を中心とする尊攘思想からすれば欧米列強はまさに「夷狄」であり、天皇から夷狄討伐を命じられている征夷大将軍の本営こそ「幕府」そのものなのであるから。

  ー日本で「幕府」を称することの出来る存在は「征夷大将軍」だけー

 征夷大将軍に補任する権限のあるのは唯一「天皇」だけである。征夷大将軍を中国風に言い換えると夷狄討伐軍の大将軍となる。その本営(将軍府)が「幕府」なのである(戦後の東京 G H Q と同じもの)。江戸幕府の成立も慶長八年(1603)家康が征夷大将軍に補任された時であり、これ以外あり得ない。家康が実質的に国の権力を握ったのは慶長五年(1600)関ヶ原合戦のあとであるが、これでもって「徳川幕府の成立」とは言えない(「家康政権の成立」とは言えても・・)。武家政権イコール幕府ではないのである。日本史の「幕府」との用語はあくまでも天皇が武家の棟梁を征夷大将軍に任命して初めて使える言葉であるからである。明治の日本史学者はこのことを十分理解していた。だからこそ、鎌倉・室町・江戸にだけ「幕府」を使っているのである。(もし、秀吉が関白ではなく征夷大将軍を選択しでいたら、当然、「大坂幕府」との用語は日本史にあるであろう)。がしかし、「六波羅幕府」「福原幕府」「安土幕府」などの用語は絶対にあり得ないのである。

 <追記>

 なぜ、現代の日本史学者は明治の学者が決めた歴史用語をひっくり返すのか。「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」もすべて日本史教育のための歴史用語にすぎない。だが、これには十分な根拠がある。漢語「幕府」は中国・皇帝が派遣した夷狄討伐軍の本営(将軍府)のことであり、日本史ではこの「幕府」を政治体制の意味として使っていることはすでに書いた。私の中・高時代は、鎌倉幕府の成立は頼朝が征夷大将軍に補任された1192年(いい国つくる鎌倉幕府)であった。何の問題もないどころか、これ以外あり得ない。他の説はすべて誤りである。(今の日本史教科書は違うらしい)。現代の日本史学者は先の信長の「天下布武」同様、言語力が劣化しているとしか言いようがない。

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