小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(23) 「 堂々巡り 」の語源  −国語学のデタラメー

2012年04月29日 | Weblog
 NHKのお昼の放送の中に日本語の意味、用法、語源などについてキャスターが解説する番組があるが、そこで 「堂々巡り」 の語源について、僧侶や信徒がお堂のまわりをグルグル回る儀式から来た仏教用語であると説明していた。本当だろうか。たしかに、このように説明したそのキャスターに責任はない。なぜなら『広辞苑』や『大辞泉』をはじめ、すべての「国語辞典」「語源辞典」にはそのように書かれているからである。
 ところがである、私が図書館で調べた『仏教大辞典』や各宗派の辞典類には「堂々巡り」や「堂々回り」などの用語はまったくない。当たり前である。「お堂」とは本来「仏様(ほとけさま)」もしくはそれに準ずる人物などをおまつりする建物である。観音堂(観音菩薩)、釈迦堂(釈迦如来)、大師堂(弘法大師)、御影堂(開祖の御影、つまり画像など)、
 これら神聖なお堂のまわりをグルグル回るなど、御本尊の背後に立つことであり、信仰心の篤かった昔の人には考えられないことである。仏教用語にないのは当然のことである。浄土宗の一派、時宗の「踊り念仏」でもお堂のまわりを回ったりしていない。(「時宗」で検索するとその映像が見られる)。

 なぜ、このような説が出てきたのか。だれか、おそらく著名な国語学者であろうが、仏教関係者に問い合わせることもなく、「堂々」の「堂」という漢字に引っ張られ、「堂」は仏教の「お堂」のことだと思い込んだことから生まれた俗説、語源俗解の類だと思う。それがそのまま今日まで無批判に踏襲されてきているのであろう。では正しい語源はなにか。答えは単純明快、そのまま「堂々」の意味である。

 −「堂々」の意味とはー
 白川静『字通』(平凡社)には漢字「堂」は「神聖なる拝所」「高殿」とある。(例、朝堂、廟堂)。これが転じて、「高い」「大きい」「明らか」「盛んなさま」の意味を持つとある。そして「堂々」は「威厳があり」「立派なさま」を表わす漢語とある。
 日本語はこの漢語「堂々」をそのまま借用している。「正々堂々」「威風堂々」「堂々たる態度」、戦前の軍歌に「ああ、堂々の輸送船・・・」というのもあった。これらは、「大きい」「威厳」「盛んなさま」を表しているが、中には、「白昼堂々と銀行に押し入る」と強盗事件にも使われることもある。この場合は、こっそり忍び込んだりしない、つまり「明らか(白日の元にさらす)」の意味である。「堂々巡り」とは上記の意味と同様に使っている言葉であることは間違いない。双方の議論が白熱し、お互いにその主張を明確に表明している。しかし、合意には至らない。そこで、「議論が堂々巡りする」。つまり、これである。
 
 国語辞典には「堂々巡り」の意味として「同じことを何度も繰り返すこと」とあるが、同じ動作を繰り返してもそれを 「堂々巡り」 とは言わない。例えば、毎日、同じお堂にお参りしたとしても、これを「堂々巡り」とは言わないように、「堂々巡り」という言葉は、意見、主張、議論などの意味を言外に含んでいる。
 
 現在の消費税問題にたとえると分かりやすい。野田首相は消費税引き上げの必要性を何度も明確に説明している。一方、引き上げ反対派もこれまた明確にその理由を繰り返し主張している。そしてこの両者の主張は連日マスコミで報道されており、双方とも一歩も引かない。まさにこれこそ「堂々巡り」である。そうして、この不毛の論争は「威厳」「立派」とはとても言えないが、『字通』のいう「明らか」「盛んなさま」であることは間違いない。

 <追記>
 漢語の「堂々」をうまく使って「堂々巡り」という言葉を作った昔の日本人の言語センスの高さに敬服するばかりである。しかし、後世の国語学者が、仏教のお堂を巡ることだと誤解してそのまま国語辞典に載せている。このままでいいのか。日本の仏教関係者はこの事実をまったく知らないと思う。私のこの論考を読んでいただければ、おそらくびっくり仰天するのではないか。仏堂は正面からうやうやしく拝むものであり、そのまわりをぐるぐる回るなどもってのほかだと・・・。
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勝海舟と西郷隆盛の江戸会談の真相

2012年02月28日 | Weblog
 江戸開城のための勝と西郷の会談は日本史教科書にも出ているあまりにも有名な話である。しかし、前に書いたように、西郷亡きあと勝の一方的な話が史実として信じられているにすぎない。勝の話はすべて嘘とは思わないが、勝の性格からして割引いて考える必要がある。この会談には二つの疑問点がある。それを明らかにしたい。

 疑問点その一、 なぜ西郷は江戸に急行したのか。
 3月9日、西郷は山岡鉄太郎に駿府で五ケ条の条件を提示した。これは幕府に無条件降伏を迫るものであり、そうすれば寛大な処分になるとのことであった。山岡は、慶喜の備前藩お預け以外はすべて了承して江戸にとって返した。ところが、西郷は後を追うように江戸に急行している。13日には官軍本営のあった池上・本門寺に入っている。そうしてその日に勝海舟と会っている。なぜそれほど急ぐ必要があったのか。これにはやはり和宮が関係していると思われる。
 山岡はその時、江戸の情勢を西郷に詳しく話している。西郷は「江戸の状況がよく分かり申した」と答えている。この時点で江戸城内では憂慮すべき事態が起きていた。徹底抗戦を叫ぶ幕臣たちが江戸城の諸門に胸壁(バリケード)を築き、石垣上には大砲さえ据えて戦闘準備をしていた。これら主戦派の連中を、恭順派の勝海舟や大久保一翁などもどうすることもできず、ただ手をこまねいて傍観するしかなかった。江戸城内は一種の無秩序、無政府状態であったのである。
 
 すでに官軍の先鋒部隊は江戸を包囲しており、まさに一触即発の状況であった。このことを知った西郷は総督・有栖川宮に相談の結果、不測の事態を避けるため江戸に急行したのであろう。このとき、有栖川宮はそれら抗戦派を官軍の力で鎮定することはやむなしと西郷に江戸城攻撃の許可を与えた。ただし、いまだ江戸城内にいるかっての婚約者和宮は必ず無事に城外に移すようにと命じた。おそらく、和宮の嘆願書に目を通していたのであろう。このことを証明する土佐藩の資料がある。(後述)

 疑問点その二、 なぜ会談は13、14日と二日あったのか。
 その時点で幕府はすでに官軍に恭順する体制が出来ていた。つまり、「徳川幕府幕引き内閣」である。『海舟日記』によると、勝海舟は1月17日に海軍奉行並(海軍副総裁)、1月23日陸軍総裁に就いていた。2月25日には軍事取扱を命じられるとある。軍事取扱とは幕府全軍の統括者の意味であろう。同じく恭順派の大久保一翁は会計総裁、田安慶頼は慶喜から徳川宗家の後継者に指名されていた。(慶頼の子が後に静岡70万石の藩主となった田安亀之助である)。この3人を中心として官軍と交渉するように慶喜が後事を託したのである。 

 しかし、3月5日、山岡鉄太郎が勝の屋敷にやって来るまで、勝とてまったく打つ手がなかったのが実情であった。この山岡の駿府行きを勝の使いのように誤解している人がいるが、実際はそうではない。寛永寺で謹慎している慶喜から相談を受けた遊撃隊長・高橋泥舟が自分の義弟、山岡鉄太郎を推薦したことに始まる。慶喜に面会した山岡は、命を賭して駿府の総督府に赴き、慶喜公の恭順謹慎の思いを大総督・有栖川宮に伝える決意であった。そこで、行く前に勝の屋敷に立寄ったのである。この時が勝と山岡の初対面であった。勝の日記によれば西郷宛てに手紙を託すとある。
 
 ところがである。山岡は後年(明治14年)、岩倉具視の求めに応じて、この駿府行きの顛末を詳しく書いて提出しているが、そこには勝の手紙の一件は全く触れられていない。なぜか、山岡はその手紙の内容に不快感を持ったからであると思われる。その手紙の内容を要約すると、今、国内で戦争することは外国の干渉を招くだけであるので進撃を止めるべきであると、むしろ官軍を非難するような主旨であった。ここに勝海舟の本質が見えている。「幕府だ、藩だ、などと言って内輪もめしている場合じゃねえ、今は日本国のことを考えるときだ」、この勝の言葉に感動した龍馬の話は有名である。しかし、事態は勝の思惑をはるかに超えて進行していた。

 ー3月13、14日の会談の真相とはー
 『海舟日記』によると、13日には記述はないが、翌14日にこの2日間の出来事をまとめて書いたようである。13日には西郷に面会し、「天下之大勢愚在書を送くる」とある。14日には 「西郷江再会、諸有司之嘆願書相渡し愚在を述ふ、同人督府伺として明日出立、依って明十五日江城侵撃之日限延引之命を下たさむと云、此両日は全力を以て談判す・・・」 とある。
 日記はいたって簡略で、具体的に何が話し合われたのか一切記述はない。なぜ、西郷は江戸城攻撃を突然中止して、15日に駿府の総督府に向かうことになったのか。大きな謎である。
 後年、勝が語ったことは額面どうりには受けとれない。真相はおそらくこうであろう。
 
 13日、池上本門寺の官軍本営に入った西郷はすぐ使いを出して勝を高輪の薩摩藩邸に呼び出した。同時に官軍各部隊に15日を期して江戸城総攻撃の命令を伝えさせた。この事実を証明する土佐藩の資料が存在する。
 『土佐藩戊辰戦争資料集成』(高知市民図書館刊行)によると、3月13日 「特ニ薩人大惣督府ノ命ヲ奉シテ来訪ス、諸道ノ官軍三月十五日ヲ以テ斉ク江戸ニ入ル」 とある。 
 また、同資料の中の「谷氏私記」によると、谷干城はその時、土佐軍本隊を率いて府中にいたが、やはり13日に江戸城攻撃の命令を薩摩人より受けている。この中で谷は注目すべきことを記録している。それは 「其時田安家、和宮様ヲ奉シ甲府ノ如ク御立退キ被遊ル付・・・」 とあり、和宮を甲府に避難させるのでそのことを兵士たちに周知徹底させるように総督府から通知があったことを書いている。これは後年、勝が13日の西郷との会談で、「和宮様を人質に取ったりはしない」と西郷に言ったことの裏付けとなる。
 つまり、勝は日記には何も書いていないが、13日の会談で西郷から15日の江戸城攻撃を通告された。 その時、西郷は有栖川宮から命じられた和宮の無事城外避難のことにつき勝に協力を求めた。そこで勝のあの発言となったのであろう。勝はこの日はこれだけの話で終わったと言っているが果たしてそうであろうか。

 おそらく、この日、西郷は3月9日に駿府で山岡に示した無条件降伏五ケ条を再度提示したのではないか。山岡は単なる使い番にすぎない。総督府参謀として西郷は正式に徳川幕府の回答を迫った思われる。常識的に考えてこれしかない。
 返答に窮した勝に、西郷はあと一日猶予を与えるので、幕府の他の重役と協議の上、明日ご返答お願い申すと丁寧な口調で話したと思う。つまり、和戦両様の構えであった。そこで西郷は、これを受け入れれば大総督宮様の厚き思召しがあると、一言付け加えることも忘れなかったと思う。
 この夜、勝は大久保一翁、田安慶頼などと協議の上、この五ケ条を受け入れることを決定した。とくに、大久保と田安はこの降伏案に全面的に同意し、これと引き換えに15日の江戸城攻撃の中止を西郷に求めることを勝に強く要請したと思われる。勝は不本意ではあったがこれしか取るべき道はなかった。生来、人に頭を下げることを潔しとしない勝の性格からして、これは屈辱的なことであったであろう。
 
 この勝の不満が 後年、西郷もすでになく、戊辰戦争も過去の歴史物語となった時、勝のホラ話として噴出してくる。つまり、江戸中の町火消しを使って、江戸の町を焼土とするなどがそれである。そんなことをすれば、明暦の大火(1657年)や関東大震災以上の大惨事となったであろう。なによりも、火事を消す仕事に命をかけ、誇りを持ってきた江戸の町火消しがそんなことをするわけがない。勝は江戸町火消しをバカにしている。ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、いまだにこんな馬鹿馬鹿しい話を信じ込んでいる人がいる。

 いよいよ翌3月14日、勝は西郷にこの全面降伏五ケ条の受け入れを伝えた。そうして、条件として明日の江戸城攻撃中止と慶喜の身を備前から水戸に移すことを要求した。西郷はこのニ条件をあっさり認めた。これが江戸開城に向けての勝と西郷の会談の真実ではなかったのか。なお、この14日の会談に大久保一翁も同席していたのではないかとの説もある。それは『岩倉公実記』に書かれているものであるが、これを証明する確実な資料は今のところないので、何とも言えない(松岡英夫『大久保一翁』中公新書による)。
 たしかに、同席した可能性は高いと思う。大久保一翁は、「徳川幕府幕引き内閣」の中心人物であったし、主戦派から命さえ狙われていた。 『海舟日記』には、4月9、10日には、翌日の江戸城引渡しの最終打ち合わせのため、大久保一翁と一緒に池上・本門寺に出向いたとある。そうして、大久保一翁は4月4日の二名の勅使の入城と11日の江戸城引渡しの幕府側の代表をつとめている。ところが、勝はこの重要な両日とも欠席している。勝の官軍に対する意識がこれからもよくわかる。
 
 この西郷の一連の動きの背景にはやはり総督・有栖川宮の意思があったと思う。それを受けて西郷は江戸での戦闘を極力避けようとした。それには幕府の全面降伏が前提であった。それが成った以上、あっさりと江戸城総攻撃中止(実際は延期)命令を下したのであろう。先の「土佐藩資料」にも14日、すでに本隊は内藤新宿、先鋒部隊は四谷見附にまで進出していたが 「時ニ海道惣督府ヨリ明日江戸攻入ノ事ハ暫ク停止ス可キノ命アリ」 と記録されており事実である。この中止命令を受けた東山道参謀・板垣退助はすぐ馬を飛ばして池上・本門寺に急行し西郷に抗議したが、おそらく西郷は 「大総督宮様の御意思である」 と答えたであろう。これにはさすがの板垣も返す言葉がなかったはずである。西郷は15日には江戸を立ち、駿府で大総督・有栖川宮の承認を得た後、20日には京で天皇の裁可を得ている。

 <追記>
 幕末史のハイライト、江戸無血開城は後年、勝海舟が書いたり話したりしたことがそのまま史実として信じられている。もう一方の当事者、西郷隆盛の証言がないのでこれでは片手落ちである。勝はあくまで自分が主役で、得意の弁舌で天下国家を論じ、西郷を説き伏せたことになっている。本当だろうか。敗者が勝者を説き伏せる、主客転倒ではないのか。ところが、もうひとりの当事者、山岡鉄太郎は駿府の総督府に持参したはずの勝の手紙について一言も触れていない。さらに、山岡が後年、弟子たちに語った話として、「江戸開城は俺と西郷の二人でやったのだ」 との言葉が伝わっている。こちらの方が真実であろう。
 
 山岡鉄太郎は正直で誠実な人間である。若い時には江戸で清河八郎の勤王塾に出入りしていた。その関係で、清河が浪士隊を率いて京に上るとき、幕府から浪士取締り役を命じられ共に上京している。(この時、後に新撰組を結成する近藤、土方らが同行していた)。がしかし、清河が幕府をだましていたことが発覚し、幕命により江戸で暗殺されたとき、それに連座して幕府から謹慎処分を受けている。このような経歴を持つ山岡にとって官軍に降伏することはすなわち天皇の命に服することであり、なんら恥ずべきことではなかった。これが山岡鉄太郎の根本精神であった。
 
 一方、勝海舟はたしかに幕府とか藩を超えて日本国のことを真剣に考えていた。がしかし、今回の徳川征討軍は官軍の名をかたる薩長軍にすぎないとの思いが勝の頭を強く支配していたと思われる。勝が西郷に宛てた手紙の文面からそれが十分読み取れる。 「薩長なんぞに頭を下げたくない」 これが幕臣・勝海舟の偽らざる本音であったと思う。がしかし、3月14日には現実に妥協せざるをえなかった。 その後はこの江戸占領軍に積極的に協力している。変わり身の速さも世慣れた勝の得意技の一つである。勝のこの屈折した感情が、後年、江戸無血開城も徳川家存続もすべて自分の功績だと吹聴する土台となっているのではないかと思う。

 

   
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新発見の鉄剣銘文と稲荷山鉄剣銘文

2012年01月08日 | Weblog
 昨年(2011年)9月、元岡古墳(福岡市西区)で出土した鉄剣銘文の読みについて福岡市教育委員会から発表があった。それによると、暦年代が特定できる日本唯一の鉄剣銘文であるとのことであった。その年代は西暦570年、銘文は 「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性) の19文字。「庚寅の年の正月6日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読めるとのこと。
 中国の古代暦によると、干支で年代と日付を表す方法があり、それにより、570年が明確になったとのことであった。問題はこの570年である。まさに、欽明天皇の時代である。
 
 ー稲荷山鉄剣銘文との関係ー
 すでに「稲荷山鉄剣銘文の読み」で述べたように、銘文 「辛亥年七月中記」 の 「辛亥」 を西暦471年の雄略天皇の時代に当てはめるのが学会の定説のようであるが、それでは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」 が十分説明できない。私の説、「寺」を欽明天皇の中国風の漢字一字表記と考えれば全体がスンナリ読める。「獲加多支鹵(ワカタケル)」とは欽明天皇の本名ではなく、「若き勇者」との通称名にすぎない。「記紀」によれば、古代には「タラシヒコ」の名(通称名)を持つ天皇が何人かいるのがその証拠である。もともと、「記紀」には歴代天皇の本名など、まったくと言っていいほど書かれていない。中大兄皇子(天智天皇)や聖徳太子の長男、山背大兄皇子も、「中」「山背」は地名、「大兄」は「長兄」、もしくは尊称の意味にすぎない。つまり、通称である。江戸時代に、阿波守(阿波蜂須賀家)とか土佐守(土佐山内家)と呼ぶようなものである。

『日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)倭国は百済に暦博士の派遣を求めており、翌年来朝している。つまり、欽明天皇の時代、百済から仏教と共に、中国暦も渡来したと考えるのがもっとも自然である。従って、稲荷山鉄剣銘文の製作年代は還暦60年後の531年説がますます有力になったのではないかと思う。なにも553年にこだわらなくても、6世紀頃から、倭国と百済との交流は非常に頻繁になっているので、中国暦はこのころ日本に流入したと考えればいい。
 
 なお、百済は倭国より一歩先んじて、中国南朝「宋」(445〜509)の元嘉暦を使用していたらしい。この元岡古墳の鉄剣銘文は元嘉暦による国内最古の事例であると研究者の談話が新聞に出ていた。(日本経済新聞 2011・10・29)
 
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江戸無血開城の真の功労者は

2011年11月27日 | Weblog
 慶応4年(明治元年)3月13、14日の江戸高輪、三田の薩摩藩邸での勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城を官軍側に平和裡に明け渡すことが合意され、江戸城総攻撃は中止された。その結果、江戸の町は戦火から救われたというのが歴史の通説である。
 勝は後年、自著『氷川清話』の中でその功績を自慢げに語っているが本当だろうか。勝の話には大風呂敷が多く、あまり信用できないというのが一般的である。そこで、慶喜の使いで駿府の征東大総督府に出向いた幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)の功績を主張する人がいるが、これとておかしい。山岡は微禄の旗本にすぎない。
 いかに徳川幕府が混乱状態にあったとはいえ、たんなる慶喜の使い、戦場でいえば伍番衆(伝騎)にすぎない。この程度の人物を(勝海舟の手紙を持参していたとはいえ)、幕府の代表とみなして総督府参謀・西郷隆盛が官軍(朝廷)の条件をいち早く提示したのにはある大きな理由があったとみるべきであろう。その理由こそ江戸の町、ひいては徳川家を救った女性の存在である。その女性とは和宮(静寛院宮)である。

 −その時の和宮の動きー
 徳川慶喜は大坂から江戸城に逃げ帰って、まず最初に取った行動は勝海舟を呼んで、自分は恭順謹慎するからあとの始末をやれと勝に押し付けたことと、同時に和宮(静寛院宮)に会いたいと宮に使いを送ったことである。この慶喜の使いに対し、和宮は2度3度会いたくないと拒絶したらしい。当然である。自分の夫、家茂の死の直接の原因をつくったのは他でもない慶喜であったからである。(将軍・家茂の反対を押し切って長州再征を強行した張本人は慶喜であった)。
 
 それでもずる賢い慶喜は篤姫(天璋院)を使って和宮を説得してもらった。それに折れた和宮は慶喜に面会を許す。そこで慶喜は、自分は天朝にそむく意図などは毛頭なく、鳥羽伏見での戦いは家臣たちが勝手に始めたものであり、それを抑えきれなかった自分の無力がくやしい・・・などと涙ながらに訴えたのであろう。その名演技に心を動かされた和宮は、慶喜の助命嘆願と江戸を攻撃しないように自分の実家(和宮の母親は公家、橋本家から出ている)宛てに手紙を書く。この手紙がすべてを決定した。
 慶喜は自分の命を救ってくれるのは和宮しかいないことは痛いほど分かっていた。和宮がそれに応じてくれたことは、徳川慶喜はどこまでも運のいい男である。

 和宮の助命嘆願の手紙を託された侍女・土御門藤子は1月21日江戸を立つ。そうして、2月8日に京に着き、橋本家当主・橋本実麗に渡す。その結果、朝廷からの返書は「願いの儀については朝議を尽くす」とのみあったが、同時に橋本実麗から和宮宛ての手紙の副書には、三条実愛(三条実美とは別家)の名で 「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」 との文言があった。
 ところが、2月15日、大総督・有栖川宮熾仁親王率いる東征軍が進発している。この2月8日から15日までの一週間にいったい何があったのか。

 −京の新政府が下した判断とはー
 我々は普通、鳥羽伏見の戦いに勝利した後、とりわけ西郷、大久保などの薩摩が政治の実権を握った如く思いがちであるが、実際はそうでもない。
 前年の12月9日の王政復古の大号令とともに、将軍、関白などの旧制度を廃止し、天皇親政の元、総裁、議定、参与を置いた。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮、三条実愛などの皇族・公家と、徳川慶勝、松平春嶽、山内容堂などの旧藩主を、参与には岩倉具視、橋本実梁(実麗の子)など公家と大久保一蔵、横井小楠などの武家が任命されている。
 
 この構成から分かることは、天皇の裁可を得るには、まず議定の承認を受けた後、総裁・有栖川宮を通してのみそれが可能となる体制である。いかに西郷、大久保が慶喜切腹を主張しても、議定の顔ぶれを見ればそんな意見が通るわけがない、慶勝、春嶽、容堂こそ、鳥羽伏見の戦いの直前まで慶喜を擁護してきた人たちである。

 和宮の手紙は橋本実麗を通して参与・議定会議に出されたであろう。岩倉具視でさえ徳川家には寛大な処分を主張していたので、大久保一人が厳罰を主張したが結論は出ず、上の議定会議に回された。ここでは全員一致で寛大な処分が決められた思われる。この決定を受けて有栖川宮は明治天皇(当時16歳)に奏上し、自動的に裁可を得た。これですべてが決まった。この私の考えは決して創作ではない。多くの状況証拠がある。なお、和宮はその手紙の中で 「徳川家を朝敵として討ち滅ぼすなら、自分も徳川と共に滅ぶ覚悟」 とまで書いている。

 −これまで無視されてきた状況証拠ー
 その1.西郷は2月2日付の大久保一蔵宛ての手紙で、慶喜の処分を厳しくすると書いている。この時点では慶喜の切腹も考えていたようである。ところが、3月9日の駿府での山岡鉄太郎との会談でいきなり寛大な処分案を提示している。(後述)
 
 その2.先に述べた朝廷から和宮への返書の副書(口頭で伝えられたものを実麗が書いた)に、そのとき議定であった三条実愛の名で「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」とあった。続けて 「厚(あつき)思召も有らせられ候やにも伺候間 右の所は宮様よりも 厚御含有らせられ候様(原文)」 とあり、「厚思召し」とは天皇の意志であり、「宮様」とは有栖川宮のことであるので、この事実は重い。
これは明らかに和宮の手紙が議定会議にかけられ、最終的に天皇の裁可を得た証拠である。つまり、総裁・有栖川宮の承認も得ていたことでもある。有栖川宮は2月15日に東征軍大総督として京を進発する。その段階ですでにこのことは心に秘めていたと思われる。
事実、3月6日 駿府で東征軍先鋒総督橋本実梁、参謀西郷隆盛などの幹部を集め、慶喜の助命などの内々の方針を表明している。西郷は京ですでに有栖川宮から聞かされて知っていたと思われる。

 その3.大久保一蔵が2月16日付で鹿児島の友人、蓑田伝兵衛に出した手紙があり、それには、慶喜が助命嘆願してきたことに触れ、「あほくさ」と書いていることである。この「あほくさ」の意味は、一つには武士にあるまじき慶喜の行為に対する軽蔑であり、あと一つは、それを受けて「助命してやれ」と言うお公家衆とお殿様たちに対する「どうしようもない連中」との思いであろう。大久保はこのとき決して権力を握っていたわけではない。それは新政府が東京に移って以後のことである。

 −西郷と山岡の駿府会談ー
 いよいよ、3月9日、慶喜の使いとして山岡鉄太郎が駿府にやって来る。山岡は大総督・有栖川宮に直接面会したい旨を述べたが、あまりにも身分が違いすぎると西郷は思ったのであろう、それは許さなかった。山岡はそこで慶喜はすでに寛永寺にて恭順謹慎しており、寛大な処分を求めた。ところが、西郷は次のような書面を提示してきた。
   1.城を明け渡すこと
   1.城中の人数を向島に移すこと
   1.兵器を渡すこと
   1.軍艦を渡すこと
   1.徳川慶喜を備前藩へ預けること

 このことを山岡鉄太郎が交渉の結果、西郷から引き出した功績だと主張している人がいるが、私がこれまで述べてきたとうり、これらはもともと京の新政府ですでに決まっていたことである。だからこそ、西郷は交渉というよりいきなりの条件提示であったのである。ただ、山岡は最後の備前藩(岡山)お預けは強く抵抗した。この時、西郷は朝命であると言っている。つまり、この書面の内容はすでに京の朝廷で決まったことであると西郷自身が認めていることでもある。この一件は次の西郷と勝の会談に持ち越された。
 山岡は、無抵抗で平和裡に江戸城を明け渡せば官軍は攻撃もしないし、慶喜以下幕臣も過酷な処分はしない、ということと理解したであろう。
 ただ、一つだけ真実がある。それは西郷が、山岡鉄太郎その人となりに惚れ込んだことである。それほど山岡の態度は立派であった。明治5年、西郷は山岡に明治天皇の教育係りを依頼している。山岡はそれを受けている。

 −勝と西郷の江戸会談ー
 3月13,14日の薩摩藩邸での両者の会談はあまりにも有名である。この会談は後年、勝が語ったことが史実と信じられている。つまり、官軍が江戸城を攻撃するなら、江戸中の火消しを使って江戸を焼土にするなどがそれである。すべて嘘である。
 また、当時横浜にいたイギリス公使パークスから横やりが入ったから、江戸城総攻撃は中止されたと主張する人がいるが、これとて荒唐無稽の説である。もともと、西郷には江戸城を攻撃する意図などなかったのだから。
 
 勝は西郷が駿府で山岡鉄太郎に提示した条件を必ず履行すると約束しただけであろう(つまり、無条件降伏の受け入れ)。その時点でも江戸城内には徹底抗戦を叫ぶ主戦派の幕臣たちが多数いた。これら主戦派をなんとか説得して城外に出すのが勝に課せられた大仕事であった。そうして、翌15日の江戸城総攻撃は中止されたことになっている。この劇的な舞台を演出したのは勝と西郷の二人であったが、後年、西郷の死後、勝はすべて自分の功績として吹聴している。
    
 この勝の大仕事に和宮も積極的に協力している。3月18日、和宮は田安慶頼(徳川宗家の後継者)の依頼を受けて主戦派の幕臣たちに向け、徳川家存続の朝廷の内意を知らせ 「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家への忠節であり、家名を守ることになる。」 との書付を出し、幕臣達の説得にあたった。これとて、裏で勝が田安慶頼に頼んだのであろう。
 これより前にも、和宮は官軍先鋒総督・橋本実梁(和宮のイトコにあたる)に対して、江戸攻撃猶予と徳川家に寛大な処分を求める手紙をやはり土御門藤子に持たして送っている。3月10日に沼津で手渡された、この手紙には、大総督宮様へのお取りなしの事を幾重にもお頼みする、と書かれていた。
 
 そうして、4月4日に勅使(柳原前光、橋本実梁)が入城して朝廷の命を伝えた。その後、4月11日には官軍(尾張藩兵)が入り、江戸城明け渡しが平和裡に行われた。この日、慶喜は数十人の遊撃隊士に守られひっそり江戸を去る。
 この後も和宮は徳川家存続のため奔走している。慶喜の赦免と徳川家存続が決定した後 (3月20日、西郷が京に戻り、天皇の裁可を得た)、4月21日、和宮は朝廷に寛大な処分に対してのお礼の手紙を書いている。
 
 勝海舟の功績と言えば、慶喜の備前藩お預けを水戸謹慎に変えさせたこと(これは勝のねばり勝ち)。それと、江戸市中で乱暴を働く幕府洋式歩兵隊の隊長に金を渡し、北関東に追いやったことと、主戦派の幕臣たちを寛永寺の輪王寺宮御守衛という名目で上野の山に集めたことぐらいである。これが後に上野彰義隊戦争に発展する。勝海舟はけっして江戸を戦火から救った真の功労者ではない。

 <追記>
 これまで見てきたように、鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城それと徳川家に対する寛大な処分について和宮の果たした役割は大きい。しかるに、日本史上ではこのことはほとんど無視されている。戦前の皇国史観の時代においてもそうである。おそらく、男尊女卑の時代背景があり、皇女とはいえ、一人の女性の力で時の政府が動かされたことに触れたくなかったのであろう。また、民主主義全盛の現代では、逆に天皇や朝廷の役割を認めたくない一部の歴史学者の意見が主流をなしているからと思われる。
 どの時代でもその時代特有の背景がある。西郷隆盛は総督・有栖川宮や天皇の意思を無視して勝手な行動はしていない。過去の歴史を現代人の感覚もしくは自分の個人的感情で判断してはいけない。
 後日談として、慶喜は後年、和宮の命日(9月2日)には必ず増上寺の和宮のお墓にお参りし、口ぐせのように「命の恩人だ」と言っていたことが、慶喜の息子の嫁の話として伝わっている。

  

 

 
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淀殿自筆書状問題について −続編ー

2011年10月04日 | Weblog
 福田千鶴著『淀殿』(ミネルヴァ書房)を読んだ。この本から多くの新しい知見を得た。同書には、淀殿書状として慶光院に伝わるもう一通の手紙が紹介されていた。(「神宮徴古館」所蔵)。 この書状も先の手紙と同時期に出されたものであり、宇治橋のほかに客殿や庫裏などの造営を稲葉道通と古田重勝に担当させることを片桐且元に命じた内容である。
 この書状の差出人署名はわりとはっきり残っており、一応、「あこ」と読める。しかし、問題がある。

 問題点その1
 この書状も 「秀頼よのつね、そくさい(息災)に候・・」 と豊臣秀頼を呼び捨てにしている。また秀頼のため祈祷してくれたお陰で 「(秀頼の)御心やすく候へく候、御うれしく思ひまいらせ候・・」 と感謝の言葉を述べている。そうして、「我々、こころあしく候て、をそく申つけ候」 とあり、我々二人が体調がすぐれなかったので、普請のことを申しつけるのが遅くなったと述べている。この「我々」は自分(茶々)と秀頼のことであるので、この一文からも淀殿自筆書状であることを裏付けている。

 問題点その2
 この書状の署名であるが、同書にはその拡大写真が出ている。たしかに「あこ」と読めるが、「あ」に対して「こ」の部分があまりにも小さいしその位置も不釣合いである(接近しすぎている)。 またこの手紙全体が女性特有の丸みをおびた字体であるが、平仮名「こ」は上下とも半円形であるはずなのに、上は一直線で、下は角ばっている。いかにも後から書き加えたような不自然さがある。
 また同書には、淀殿が慶長7年(1602)に慶光院に寄進した金灯篭に彫り込んであった「秀頼卿、御母儀、御寄進」の文字を、幕末の文化年間に焼き消してしまった記録を紹介している。(「伊勢上人慶光院事績集」)

 この事実こそ、署名「あこ」の「こ」が後に書き加えられたことを物語っているのではないか。つまり、この文化年間、この書状を見た慶光院の関係者(上人その人かもしれない)が、差出人「あ」の署名から、この書状は淀殿の侍女「あこ」の代筆だと思った(現代の歴史学者とてそうである)。朝廷の尊崇もあつい慶光院の上人に対して「あ」などと署名するのは無礼である。そこで、「あ」の下に「こ」を書き加えた。そのため丸みをおびた「あ」に対し、非常に不自然な形となってしまった。これが真相ではないのか。

 さらに、私の説を裏付ける資料が同書に出ている。それはこの書状の説明として「慶光院旧記」には、「太閤様より当院御造立之御奉書、御あこの御方より被下」 とあることである。つまり、この書状は太閤秀吉の命で、侍女あこが下されたものだと、江戸時代には慶光院側が認識していた証拠でもある。しかし、太閤様は明らかに間違いで、実際は淀殿である。この点は福田氏も指摘している。ということは、差出人署名「あ」を慶光院関係者も当然、侍女「あこ」だと思い込んでいたことを物語っている。

 −侍女「あこ」とはいかなる人物かー
 同書には「あこ」について詳しい説明がある。「あこ」は室町幕府の奉行職(執事)にあった名門、伊勢氏の出である。 (有名な北条早雲は本名、伊勢新九郎であり、伊勢氏の一門である) 「あこ」の父親は伊勢貞為といい、信長や秀吉に仕えた。おそらく、事務官僚としてであろう。このような環境で育った「あこ」は淀殿の侍女として仕えるようになっても、大上臈として御所に参内できる官位をもっていた。当然、淀殿の側近として祐筆の仕事もこなしていたと思われる。大坂落城のとき秀頼、淀殿と運命を共にしている。(「寛永諸家系図伝」)
 こうみると、残された3通の淀殿書状も祐筆「あこ」の代筆といってもおかしくはない。
 しかし、祐筆が主人の意を受けて書いたとしても、祐筆自身の署名などするわけがない。このことから、桑田忠親氏も福田千鶴氏も非常に困惑しているようである。

 −署名はやはり「あ」であるー
 前回書いた長浜市知善院所蔵の書状と慶光院文書中の書状の署名を福田氏は不鮮明で「あ」とも「あこ」とも断定できないとしている。慶光院書状の一通はたしかによく分からないが、知善院書状の拡大写真を見るかぎり、やはり、「あ」の文字がうっすら浮び出ている。どう見てもその下に「こ」の文字はない。
 福田氏はどうしてもこれらの手紙の署名が「よど」とか「ちゃ」であって欲しいと願っているようである。無論、だれだってそうである。知善院書状はあまりにもプライベートな内容の手紙である。関ケ原合戦の後、大坂城内で孤立感を深める淀殿の心の叫びが聞こえてくるようである。今一度紹介する。

 「たひ ヘ秀頼わか身かたへ御たよりとも給候て御うれしさ、いく千とせまでもといわひ入まいらせ候・・・・・、又やかて へ 御のほりまち入まいらせ候、かしこ」

 たびたび秀頼とわたしにお便りくだされて、そのうれしさは幾千歳までお祝いしたいほどです・・・・・、またやがてやがて(繰り返している)おのぼり(大坂に来ること)を心待ちしている。

 涙を流さんばかりに京極高次からの手紙を読む茶々の姿が目に浮かんでくるようである。このような自己の孤独な胸の内を吐露するような返書を、いくら側近の侍女とはいえ他人に書かせるだろうか。それは考えられない。だからこそ福田氏もどうしても淀殿の自筆書状と思いたい。そこで、署名は不鮮明で判別できないと言っているのであろう。しかし、事実はやはり「あ」である。「あ」は「おちゃあ」の「あ」と考えるとすべてに無理がない。

 −慶光院周養上人と淀殿の関係ー
 同書にある慶光院上人あての書状に興味ある記述がある。それは  「大さかにもそもしのやとの御事申つけ候て、いまたてさせ候・・・夏中ハここほとへ御出候て御入候へく候」 とあることである。つまり、大坂に上人の宿舎を建築中なので、夏には大坂に来て利用してくださいとあることである。
 このことは、上人に祈祷してもらったお礼として淀殿が言っているわけではないと思う。たしかに、秀吉の母、大政所や淀殿の第一子、鶴松が病に倒れたとき、秀吉は伊勢神宮をはじめ、多くの寺社に病気平癒の祈祷を命じている。そのとき、初めて淀殿と慶光院の上人が知り合ったとは思えないほどの親密な仲である。わざわざ宿舎を用意するから夏には大坂に来てほしいと言っているのである。
 やはり、上人とは子供の頃からの知り合いであったのではないだろうか。浅井家も伊勢神宮の遷宮には関わりがあったらしいので、上人は浅井家の縁者であった可能性もある。 事実、浅井一族でも秀吉の家臣になったものもいる。子供の頃の「おちゃあ」を知っている仲だからこそ、淀殿は自筆書状に「あ」とのみ署名したのではないか。

 <追記>
 淀殿が過去の栄華を棄て、徳川家の一家臣として生きる道を選んでおれば、幕藩体制下の一大名として明治まで存続していたであろう(北政所ねねがそうである)。すると、妹からの手紙も何通か残っているはずである。 
 その中に、「 おちゃあへ    初 」とか「 おちゃあ殿    江 」などの手紙が出て来るかも知れない。そうすれば、この自筆書状問題もスンナリ解決する。しかし、今となっては無い物ねだりである。


 
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桶狭間合戦の真実 −見落とされてきた戦国合戦の常識ー

2011年09月03日 | Weblog
 永禄3年(1560)5月の織田信長と今川義元が戦った桶狭間合戦はいまだに多くの謎がある。これまでの通説は、旧陸軍参謀本部が主張してきた信長迂回奇襲作戦であり、これがあたかも真実の如く流布してきた。ところが、近年、太田牛一著『信長公記』を元に藤本正行氏により正面攻撃説が提唱され、これが多くの文献史学者の支持を得てあたかも真実の如く一人歩きしている。
 しかし、これとておかしい、なぜなら『信長公記』には正面攻撃したなどとはどこにも書かれていないからである。この点を歴史研究家の桐野作人氏は批判している。たしかに『信長公記』は信頼できる一級史料であることは間違いないが、こと桶狭間合戦の記述では一番重要なポイントが抜け落ちている。つまり、信長率いる2千の織田軍がどのようにして今川義元本陣真近にまで接近できたのか、この一点である。これまで見過ごされてきた重要な事実がある。ここにそれを明らかにする。

 −『信長公記』の記述ー
『信長公記』・「首巻」の記事をもとに合戦を復元してみる。
 信長は有名な「敦盛」を舞ったあと清洲城を飛び出し熱田神宮で2千の兵を整える。さらに東に向かい、鳴海城の北に位置する善照寺砦に入る。この時、すでに織田方であった鳴海城の山口父子が今川方に寝返り、鳴海城には今川軍が入っていた。この鳴海こそ桶狭間合戦の重要地点である。鳴海は江戸時代の東海道の40番目の宿場であり、ここから、義元が本陣を置く桶狭間山(実際は小高い丘、「首巻」は「おけはざま山」と書いている)にまで街道が続いている。

 この時点で、鳴海城の南に位置する大高城には松平元康(後の徳川家康)が入り、大高城の北にあった織田方の鷲津・丸根の二つの砦も陥落し、すでに付近一帯には今川軍が充満していた。 つまり、織田軍の最前線は善照寺砦であったのである。私は鳴海城に行ったことがあるが、小丘陵で本丸あとは公園となっていて、そこから四方を見渡すことができる。そこにあった案内板には、北の善照寺砦、東の桶狭間山、南の大高城などが図で示されていた。 周囲は一面なだらかな丘陵地で、桶狭間合戦の全体が数キロ四方に見渡せる近さであった。

 善照寺砦に入った信長は佐々隼人正と千秋四郎を大将に兵300を今川軍に繰り出す。ところが、この部隊は大将二人と50騎が討ち取られあっさり敗退してしまう。この報に接した今川義元は「首巻」によると 「心地はよしと悦(よろこん)で、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候」 とある。つまり、信長なにするものぞと悠々と舞をまったのである。
 この直後、信長は意外な行動に出る。鳴海城の東、善照寺砦の東南に当たる中島砦に向かおうとする。これを家老衆が馬の轡(くつわ)を取って止めようとするが、信長は振り切って中島砦に移動する。この間の事情を「首巻」は 「脇は深田の足入、一騎打ちの道なり、無勢(兵の少なきこと)の様体(さま)敵方よりさだかに相見え候」
 この一文は重要である。中島砦より先は旧東海道の狭い一本道で、脇は深田であり、さらに敵からは丸見えだと言っているのである。つまり、中島砦の前面にはかなりの今川軍が布陣していたことになる。その上、後方には今川方に寝返った山口父子の鳴海城があり、信長軍は完全に袋のねずみ状態になる。だからこそ家老衆が必死になって止めようとしたのである。信長は自暴自棄となったのであろうか。そうではあるまい。ある一つの策があったと思われる。それこそ鳴海城の前に出る。この合戦の重要ポイントである。

 −正面攻撃をうかがわせる記述ー
 信長は中島砦より再度兵を繰り出している。このことを「首巻」は 「今度は無理にすがり付き、止め申され候へども・・・」 と家老衆の止めるのも全く聞く耳もたぬ様を書いている。さらに続けて「小軍ニシテ大敵ヲ怖ルルコト莫(な)カレ、運ハ天ニ在リ・・・追崩すべき事案の内なり、分捕をなすべからず、打捨てたるべし・・・」。 
 かなり省略したが、要するにこれから今川軍を攻撃をするに当ってその心構えを演説した信長の言葉を長々と引用しているのである。このとき、前田又左衛門(利家)ほか8人が敵の首を取ってきたが、先の趣旨を聞かせたとも書いている。つまり、敵の首など捨てよということ。
 
 この一文を読むかぎり、正面攻撃したのではないかと思えるが、これでは先の家老の言葉 「脇は深田、一騎打ちの道なり」 と整合性がない。狭い街道を一人また一人と討ち取って前進したことになる。どうみてもおかしい。先に繰り出した300人は50騎討ち取られ敗退している。信長直率の精鋭とはいえ、4万5千の大軍(「首巻」はそう書いているがこれは誇張であろう、2万ぐらいか)の今川軍に勝てるはずがない。所詮、数の多い方が勝つのは戦国の合戦の常識である。ただし、奇襲攻撃すれば少数でも勝利するチャンスはある。

 ー『信長公記』・「首巻」は明らかに奇襲攻撃を書いているー 
 「首巻」によると、中島砦での信長の大演説のあと、いきなり場面は義元本陣真近にまで接近した織田軍が出てくる。それには 「山際まで御人数寄せられ候の処」 とある。この「山際(やまぎわ)」とは間違いなく今川義元が本陣を置く桶狭間山のことであろう。それは、その次の場面で信長がみずから槍を取って、大音声で 「すはかかれ」 と下知したことから分かる。
 突然の織田軍の出現に今川軍は大混乱している。そのことを「首巻」は 「水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり」 と書いている。つまり、まるでバケツの水をひっくり返したように崩れたと言っているのである。これは奇襲というより、まるで不意討ちである。この乱戦の中で今川義元は討ち取られる。もし正面攻撃で織田軍が迫ってきたのなら、その位置を今川軍は最初から把握しており、なにも慌てる必要はない。大軍でゆっくり包み込んで討ち取ればいいのである。
 織田軍はなぜこんな近くにまで接近できたのか。しかも、義元本陣は気付いていない。「首巻」もこの点には全く触れていない。太田牛一が意図的に書かなかったとしか思えない。
 もし、藤本氏の言うように正面攻撃なら中島砦を出たところから、次々と繰り出される今川軍の前にしだいに消耗し、結果的に全滅したであろう。織田信長の首を取ることは今川軍にとって大手柄であり、恩賞は望みしだいであろうから。それがまるで神隠しのように忽然と消え、義元本陣の目と鼻の先に出現するなど起こり得るはずがない。
 
 通説では急に降りだした大雨にまぎれて、義元本陣に接近したと言われているが、「首巻」ではまったく違う。信長が御人数(部隊)を山際に寄せた時、にわかに大雨となり、信長は 「熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申候なり」 とある。つまり、義元本陣の桶狭間山の麓まで来たとき、突然雨になったのである。当然、今川軍は雨を避けようとして多少の混乱は起きる。なによりも、義元自身が山から下って街道筋にある農家に避難しようとしたと思われる。このスキを突いて信長は全軍突撃を命じた。
 合戦においては下から上にいる敵を攻めることは絶対的に不利だからである。このことを「神軍」と表現したのであろう。事実、義元が討ち取られたのは桶狭間山を下った田楽狭間と言われている所である。そこも公園となっており、今川義元の供養塔が建っている。

 ー信長がとった戦術とはー
 いよいよ桶狭間合戦の真実が明らかになる。それも意外な文献資料にちゃんと書かれている。近年、黒田日出男氏が主張した「甲陽軍鑑」に書かれている今川軍が乱捕り(略奪行為)に夢中であったのがその原因なのか。いや違う。これはまったくの作り話しであろう。
 それは儒学者・小瀬甫庵著『信長記』にある。この甫庵の『信長記』は嘘、偽りが多く、史料的価値はないとされている。しかし、後に旗本・大久保彦左衛門が自著『三河物語』の中で、甫庵の『信長記』は偽りが多く、真実は三に一つしかないと書いている。この記述は重要である。逆に考えれば記事のうち3分の1は本当のことであると大久保彦左衛門自身が認めたことでもある。
 この甫庵『信長記』に興味ある記事がある。それは 「山際までは旗をまき忍びより」 との一文である。甫庵は自序「信長起起」の中で、「戦場のことなどは人々の説々まちまちにして定めがたし」 と書いている。甫庵4歳のとき桶狭間合戦が起きている。成人してのち、多くの人たちにこの合戦の模様を聞いてみたが、答えは人によって違うと嘆息しているのである。
 がしかし、ポロッと本音を漏らした人がいた。その答えが 「旗をまいて忍びよった」 であったと思われる。正面攻撃説をとる藤本正行氏はこれは甫庵の創作だと一蹴しているが、この策以外に義元本陣の真近にまで接近できる方法はない。

 −旗を掲げることは戦国合戦の作法ー
 「旗幟を鮮明にする」という言葉があるように、日本では源平合戦以来、敵と味方を識別するため旗や幟(のぼり)を掲げることは武士としての当然のルール、作法であった。 そうでなければ、戦場は当然敵、味方入り乱れるので識別できない。「関ケ原合戦図屏風」や「長篠合戦図屏風」を見ても旗、幟が林立している。信長はこの慣行、掟を破った。父親(織田信秀)の葬儀で位牌に末香を投げつけたほどの人物だからそれぐらいのことはやりかねない。しかし、相手の今川義元は足利一門の守護大名として格式にこだわり、誇りに満ちた人物だったと思われる。そこに油断があった。
 
 「首巻」によると、信長は家老の制止を振り切って中島砦から兵の一部を街道正面に向かわせる。これには織田家の旗を持たせ、あたかも織田本隊であるかの如く装う。いわゆる陽動作戦である。当然、今川軍は殺到して来るが、狭い一本道のこと、戦線は膠着状態となる。この間に信長自身は残る千数百の精鋭部隊を率いて丘陵地帯にわけ入る。
 どのコースを取ったのかは「首巻」は何も書いていないので不明であるが、旗を巻いて移動すれば、丘陵地帯のあちこちに布陣する今川軍は戦闘を終えて後方に移動する味方だと思い込む。事実、これより少し前、丸根砦と鷲津砦で戦闘があったし、織田軍50騎を討ち取っている。
 つまり、この両砦周辺には今川軍が充満していたはずである。またこの時代、武器や糧食は武士たちは自前で用意しなければならない。その荷駄隊は当然、後方にいるのが普通であろうから戦闘部隊が後方に動くことはなんの不思議もない。
 これから合戦に望もうとする織田軍なら当然、旗を掲げるのが戦国時代の作法であり、旗印は武門の誇りなのだから。現代人の感覚でその時代を判断してはいけない。

<追記>
「講談師見てきたような嘘を言い」という言葉があるが、信長正面攻撃説は「歴史学者見てきたように断定し」と言える。『信長公記』・「首巻」をどう読んでも正面攻撃説など出てこない。中島砦からは一騎打ちの狭い道であると家老が出撃を止めていることからも分かる。そこを一人また一人討ち取って義元本陣まで約1500メートル前進したことが本当なら、今川軍は余程の弱兵だったことになる。ところが、その前に織田軍300人のうち50騎が討ち取られ、大将首二つ取られている。さらにその前に織田方の丸根、鷲津の二つの砦も今川軍に陥されている。今川軍は決して弱兵ではなく、むしろ強兵であった証拠である。 やはり、これまでの通説どうりひそかに義元本陣に近ずいたというのが正しいと思う。
 ただ、問題はその方法である。『信長公記』は何も記していない。これまでの通説のように今川軍に悟られぬように迂回してしのび寄ったのではなく、旗を巻き、まるで今川軍の一部隊の如く堂々と近ずいたのではないか。これは武士として恥ずべき行為である。だからこそ、太田牛一はあえて書かなかった。これが桶狭間合戦の真実ではなかったのか。
 
 
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閑話休題 「なでしこジャパン」の快挙

2011年07月29日 | Weblog
 ワールドカップ女子サッカーで日本の「なでしこジャパン」が優勝した。まことに喜ばしいことであるが、この「なでしこ」という日本語に私は非常に興味を持った。
「なでしこ」とは世界中に何十種類もある植物で、「大和なでしこ」というのは古来日本の山野に咲く一種であるらしい。テレビでもその花が紹介されていた。

 −「なでしこ」の語源ー
 広辞苑や語源辞典には、「なでる(撫でる)」から「なで・し・子」が生まれた。漢字で書けば「撫子」となるとあった。
 私の日本語文法理論では「し」は助詞ではなく、動詞「する」の名詞形「し」である。「なで・る」の「なで」は「捨てる」の「捨て」と同じで名詞語幹である。「なで」も「猫なで声」とか「なで切り」のごとく名詞として使われる。また口語で「なでなでする」のように擬態語用法もある。 
 
 この「なでしこ」と同じ用法として、与謝野晶子の有名な歌「君死にたまふことなかれ」がある。その中の「末に生まれし君なれば」の「生まれし」がそれである。名詞形「生まれ」(例、生まれ年)に動詞「する」の名詞形「し」(国文法の連用形)が付いた。この「し」は「する」の意味と「(ある)状態にある」という意味、つまり、助動詞「たる」や「なる」と同じ意味を持っていると解釈すべきである。
 
 朝鮮語の ha-da 「する」は「(ある)状態にある」との意味もある。「平和 ha-da 」で「平和である」、「平和 han 」で「平和な」の意味になる。日本語は「する」の名詞形「し」として現れている。この「し」は古語形容詞の「広し」「高し」の「し」とも一致するものであると思う。
「末に生まれし君」は「生まれた君」とも言えるが、「し」を使った方が詩文として優雅である。すでに取り上げた阿倍仲麻呂の歌の「・・・三笠の山にい出し月かも」の「し」も同じものであろう。「い出し月」は「い出たる月」とも言い換えられる。(「い」も「出」も名詞形)、つまり「する」の名詞形「し」は助動詞「たる」と同じ意味を有しているのである。

 「なでしこ」とは「撫でさするほどかわいい花」との意味を込めた日本語独特の言葉なのである。日本に帰化したドナルド・キーン氏もこのような世界に類をみない繊細さを秘めた日本語に魅了された一人である。

 <追記>
 故・井上ひさし氏がその著書のなかで「日本語に文法はいらない」と書いていた。勿論、この場合の文法とは国文法のことだと思うが、日本語をこよなく愛していた同氏にしてこのように言わしめる国文法とは一体なになのか。
 トルストイの小説「戦争と平和」、日本人はだれしもこの「戦争」も「平和」も名詞だと思っている。がしかし、「戦争」は名詞であるが、「平和」は「平和の象徴」の場合は名詞だが、「平和な国」の「平和」は形容動詞である。「平和な」はその連体形である。「戦争だ」の場合、名詞「戦争」に断定の助動詞「だ」が付いたものだが、「平和だ」を文法的に正しく説明できる日本人は一部国語教師を除いて皆無であろう。
 正解は、「平和だ」は形容動詞の終止形である。
 また、「舌触り」は名詞だが、「目障り」は形容動詞である。(例、目障りな奴)。国語辞典にはそう書いてある。こんな文法を日本の生徒が真面目に憶えようとするわけがない。国文法を拒絶しているのはなにも井上ひさし氏だけではない。日本人のほぼすべてが拒否反応を起こしているのである。
 
 世界のどの国の人でも、自国の言語(母国語)に深い愛情を持っている。
義務教育で学んだ基礎的な文法ぐらい頭に残っている。がしかし、日本語の基礎文法である国文法(学校文法)はだれも頭に残っていないし理解もしていない。「広く」「高く」は形容詞「広い」「高い」の連用形などとだれが理解しているだろうか。第一、連用形とは何か、正確に説明できる日本人が一体何人いるだろうか。最近「日本語が滅びるとき」(水村美苗著)との題の本を読んだが、この本の著者も日本語の将来を憂えていた。まさに日本語の未来は暗い。
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「淀殿」自筆書状問題について

2011年07月07日 | Weblog
 滋賀県長浜市にある知善院(ちぜんいん)に淀殿の書状が伝わっている。知善院では自筆と紹介している。この手紙は戦前から京都大学の日本史の教授により淀殿自筆と認定されていた。日本中世史の学者・今谷明氏も、ある雑誌でこの書状を取り上げ、自分が京都大学の大学院生のとき、教授に連れられて知善院でその実物を拝見したことを語っている。
 ところがである。同じ日本中世史の桑田忠親氏(故人)が、この手紙は淀殿自筆ではなく、侍女「あこ」の代筆であるとの説を発表した。今谷氏はその説に対して不満であるようだが、といって積極的な反論はしていない。反論が出来ないのである。それはなぜか。
 実は、その自筆と言われてきた書状の署名にはなんと「あ」とのみあるからである。
そこから侍女「あこ」の代筆説が出てきたのである。淀殿自筆書状なら、署名は「ちゃちゃ」とか「ちゃ」、もしくは「よど」とあってしかるべきなのに・・・。
 署名「あ」とは一体だれのことなのか。私の新説を述べる。

 ー知善院書状の内容ー
 この手紙は非常にプライベートな内容である。宛先は「さい将殿」、つまり若狭宰相・京極高次、淀殿の妹、お初の夫である。関ケ原の合戦の後もたびたび大坂の秀頼と淀殿の元にお便りをくだされたことと、直接会いに来てくれたことなどに対する礼状である。そうして、また大坂にお越しくださることを心待ちしているとまで書き添えている。
 写真で見るかぎり、この書状は一種独特の個性的な字体で、とても祐筆や侍女の代筆とは思えない。がしかし、署名はまぎれもなく「あ」である。ということは、「あ」こそ淀殿本人の署名と考えるべきである。

ここで、よい範例がある。それは、私が北政所の本名問題で取り上げた織田信長の北政所・ねね宛ての手紙である。夫・秀吉の浮気癖を大目にみてやれと、信長がねねをたしなめたものであるが、文面のほとんどは平仮名である。おそらく、信長が口述したものを祐筆か侍女のだれかが代筆したものであろう。
 ところが、差出人の署名はやはり平仮名で「のぶ」となっている。つまり、だれかの代筆であっても署名は「のぶ」とせよと信長自身が命じているのである。このような何の政治的な背景や思惑のないプライベートな手紙に代筆者の名前を書き入れるはずがない。代筆者はだれであろうとそれは問題ではない。
 
 知善院の淀殿書状も同じことである。かりに侍女「あこ」の代筆であっても、署名は「ちゃちゃ」とか「よど」とせよと命ずるはずである。代筆者が自分の名前、それも省略して「あ」一字にするなどとは、人間関係上あり得ないことである。
 北政所の自筆書状の中に「祢」とか「寧」とのみ署名されたものがあるが、それらは自身の甥(兄の子)に宛てたものである。淀殿書状の宛先は若狭小浜藩主・京極高次、つまり大名である。
 このような説を述べる桑田忠親氏の常識を疑うが(桑田氏は署名は「あこ」と読めると言っているが、今谷氏は「あ」としている)。

 ーあと二つの淀殿書状ー
 桑田忠親著『淀君』(吉川弘文館)の中にあと二つの書状が紹介されている。その一つは淀殿の側近であった片桐且元の家系に伝わった淀殿から且元宛ての書状の写しで(原本は残っていない)、その署名は「ちゃ〜より」となっている。このことから、桑田氏は淀殿は自分の書状には「ちゃちゃ」と署名した証拠であり、知善院の書状の署名「あこ」説の裏付けとしている。
 あと一つは、伊勢神宮附属の尼寺・慶光院の子孫の家に伝わる淀殿書状である。式年遷宮に合わせて宇治橋を新たに普請する旨を、当時の慶光院周養上人(女性)に書き送った手紙である。この書状もこれまで淀殿自筆とされてきたが、署名はやはり「あ」となっている。
 桑田氏はこの書状も侍女「あこ」の代筆としている。はたしてそうであろうか。

 上記二つの手紙には大きな違いがある。片桐且元宛てのそれは豊臣秀頼の後見人(生母)としての公的な立場から出されている。有名な方広寺鐘銘事件で釈明のため駿府に赴いた且元は家康に体よくあしらわれ、徳川に寝返った裏切り者よばわりされ、豊臣家臣から命さえ狙われていた。このようなとき、淀殿が詳しく事のいきさつを知りたいので大阪城に来るようにとの催促の手紙である。片桐且元は勿論行かなかった。正解である。行っておれば間違いなく命はなかったであろう。淀殿側近中には老獪な家康と渡り合える人物はいなっかたのである。
 この書状の署名が「ちゃ〜」となっていることは、豊臣家の家臣に対しては「ちゃちゃ」の名で手紙を出していたことを物語っている。

 では慶光院の書状はどうか。伊勢神宮の宇治橋の普請を片桐且元に申し付けたなどと事務的な手紙のようであるが、終わりの方で、「秀頼と二人とも息災であるから安心してください」とあり、続けて「江戸でも若君が誕生されたこと、これまたご安心お願い存じます」と書かれている。秀頼に「様」を付けず呼び捨てにしたり、江戸の妹・お江の消息を伝えているなど、かなりプライベートなことを書いている。
 これから見えてくることは、この手紙の受取人である周養上人と淀殿とは面識があり、個人的にも親しい間柄であったという事実である。
 慶光院の上人は格式も高く、朝廷より紫衣の着用も許されていた。二人の接点がどこであったのかは不明であるが、上人はお江のこともよく知っていたのではないかと思われる。以上のことから、慶光院の書状も淀殿自筆と考えて問題ないと思う。
 
 −署名「あ」の意味はー
 先の知善院の書状については今谷明氏も指摘されていたが、関ケ原の合戦でお初の夫、京極高次は徳川方につき、大津城にろう城して西軍の大軍を引き付け、関ケ原の東軍勝利の要因を作った。そのことで、淀殿とお初との中がしっくりいかなくなり疎遠になっていた。それを打開するため、淀殿が出した手紙が知善院に伝わるこの書状である。
 この手紙の末尾に「申給へ」と書き添えてある。だれに申すのか、むろん高次の妻、お初にである。現代風に書けば「お初によろしくお伝えください」であろう。
 その後、淀殿とお初の中も修復され、大阪夏の陣では、お初(常高院)は淀殿と秀頼の命を救うため、徳川軍総攻めの前日夜まで大阪城に留まって局面打開のため奔走したことはよく知られている。

 いよいよ私の結論を言う。
 知善院の書状は妹の夫宛てである。つまり、親族、身内である。私が北政所「おね」説で述べたように、「おね」とは夫、秀吉が日常「おね、おね」と愛称で呼んでいたことから手紙にもそう書いたに過ぎない。
 では、淀殿は妹たちからどう呼ばれていたのか。私の推測では「おちゃあ」ではなかったかと思う。遠く近江・小谷城以来そうではなかったか。兄弟姉妹や子供どうしは古今東西現代でも愛称で呼び合う。だからこそ「おちゃあ」の「あ」と署名したと考えるのが一番妥当ではないかと思う。お初の夫、京極高次も姉妹が「おちゃあ、おちゃあ」と呼び合っている場に何度も居たはずである。
 慶光院の書状も、小谷落城後、織田信包の岐阜屋敷にしばらく居たことが分かっている。越前・北の庄落城後は清洲城や安土城に何年か姉妹でいたらしい。このころ、後に慶光院の上人となる女性とも一緒に暮らしていたのかも知れない。その女性は織田家の縁者だったのかもしれない。ただ言えることは、手紙の内容から親しい間柄であったことだけはうかがえる。

 最初に述べたように、このようなプライベートな内容の手紙、それも豊臣秀頼を呼び捨てにできる人物は淀殿しかいない。だれかに代筆させたとしても、差出人の署名までその代筆人の名前を書かせることはあり得ない。これまで言われてきたように、この二通の書状は紛れもなく「淀殿」その人の自筆であると思う。「あ」は「おちゃあ」の「あ」なのである。

 <追記>
 最近みたポーランド映画で主人公の女性が幼い娘を「ニカ、ニカ」と呼んでいた。後でその娘の本名は「ベロニカ」であった。またあるテレビ局の海外取材番組で、イギリスの田舎町で出会った幼い子供が下の妹を「イジ、イジ」と呼んでいたが、一緒にいた母親が本当の名前は「イザベル」だと言っていた。このように、近親者を愛称や通称で呼び合うことは古今東西ふつうにあることである。
 英語の名前「ベティ」はもともとドイツ語の名前「エリザベート」の愛称からきている。エリザベートは英語ではエリザベスとなる。日本でも当然そうであったと思われるが、文献資料に残ることはほとんどない。手紙に「おね」とあるから「おね」が本名だとか、「あ」と署名しているから「あこ」だなどと断定することは非常にあぶない。
 最近でも、秋篠宮は記者会見で「悠仁(ひさひと)親王」を家では「ゆうちゃん」と呼んでいると言っていた。人間の情愛は今も昔も変わらないものである。
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日本語の諸問題(22) 国語(日本語)教育はどうあるべきか

2011年05月03日 | Weblog
 義務教育での国語(日本語)教育は大きな問題をはらんでいる。それは義務教育で学んだ国文法は日本語文法のはずであるのに、普通の日本人には全くと言っていいほど記憶に残っていないことである。基礎語彙である「広い」や「賢(かしこ)い」の品詞は形容詞であることは誰でも分かるが、「広く」「賢明な」となると、私の周囲にいる誰に聞いても正確には答えられなかった。(正しくは、「広く」は「広い」の連用形、「賢明な」は形容動詞、「賢明に」はその連用形)。こんな言語は世界中でおそらく日本語だけであろう。「賢い」と「賢明な」は同じ意味なのにその品詞名は違う。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。国文法は日本語文法として統一される必要性がある。それを書く。

(1)日本語は「現代語」と「文語」と分類すべき
 国文法では「口語」と「文語」と分類されている。「口語」とは普通、会話体(話し言葉)の意味であり、世界のどの言語でも会話体(口語)と文章語は大なり小なり違うものである。「口語」との用語は誤解を招く。日本語でも「あちら」「こちら」を「あっち」「こっち」と言うように、後者が口語(会話体)である。また、現代語の中にも古語(文語)起源の言葉が数多くあり(例、「私ならそうしない」の「なら」など、これを国文法では助動詞「だ」の仮定形としているが、文語「なら・ば」からきている)。これは「私だったらそうしない」の意味であるので、文語起源の助詞と説明すればよい。

(2)動詞は「連体形」と「名詞形」が根幹をなす
 日本語動詞はきちんとした法則がある。名詞を修飾する連体形と名詞形である。連体形はまた動詞の基本形と決められていることをまず教える。英語の動名詞 go-ing とは違い、もともとあったものである。
 
 1.第一型動詞・・「読む」「書く」「取る」などが基本形であり、これらは「読む人」のように名詞を修飾し、かつ「本を読む」と終止形にもなる。つまり、連体形は終止形を兼ねるので用語としては連体形でよい。
 名詞形は「読み」「書き」「取り」のように、五十音図の「イ」列段で終わる。この第一型動詞の名詞形がいかに普通名詞として日本語に定着しているか生徒に考えさせる。それらは無数にある。(例、遊び、楽しみ、釣り、おにぎり、お好み焼き)
 次に、この名詞形が他の名詞と結び付き、多くの熟語を作ってゆく日本語の豊かな造語法を教える。(例、切り札、読み手、手書き、渡り鳥)これらも無数にある。
 「か、き、く、く、け、け」など暗誦させるより生徒はずっと興味を持つはずである。
 
 活用(語尾変化)は次の3種類
  ア)発展形・・「読ま」(「読まない」「読ませる」「読まれる」)
  イ)名詞形・・「読み」(「読みます」「読みたい」「読みながら」など)
  ウ)仮定形・・「読め」(「読めば」)
 *それぞれ色々な接尾語が付き、文を作ってゆく。命令文は別項目でよい。
 *未然形(まだ起きていない意味)では「漱石はよく読まれている」が説明できない。
 *発展形なら「花咲か爺さん」とか「行こう(行か・う)」がよく説明できる。
 
 2.第二型動詞・・「得る」「出る」「着る」「見る」「用いる」などが基本形であり、連体形(終止形を兼ねる)でもある。この型の動詞の名詞形は語尾「る」を取った語幹部分である。「得(え)」「出(で)」「着(き)」「見(み)」「用(もち)い」がそれである。つまり、この型の動詞は名詞語幹に連体形形成と動詞形成の二つの機能を持つ接尾語「る」が付いたものである。(アルタイ系言語に特有の機能)
 この場合も普通名詞化した多くの言葉があることを生徒に考えさせる。(例、こころ得、出口、思い出、着物、薄着、お見合い、花見、用い方)これも無数にある。これらを上一段活用動詞とか下一段活用動詞などと言われると、私だけでなくだれでもウンザリする。

 活用(語尾変化)は次の3種類
  ア)発展形・・「見(み)」(「見ない」「見せる」「見られる」)
  イ)名詞形・・「見(み)」(「見ます」「見ながら」「見た」)
  ウ)仮定形・・「見(み)れ」(「見れば」)
 *命令形は「見ろ」、「見よ」、「見なさい」など多様な表現があるので、別項目を立てて説明した方がよい。

 3.変格動詞「する」「来る」
 これも基本形は連体形であり、名詞形は「し」「き(来)」と「イ」列段である法則はきちんと守られていることを教える。
 同じく、名詞形から生まれた熟語を考えさせる。(例、「仕事(し・こと)」「お終い(し・舞い)」「仕組み(し・組み)」「出来事(で・き・こと)」など。

 「出来る」の語源については、「広辞苑」もその他の「語源辞典」も古語「い出来(く)る」(生まれる、現れる)からきたと説明している。しかし、「出来た」はいいとしても、連体形の場合は「来(く)る」であるのに、なぜ「出来(き)る」なのか(例、出来る人)、この点についての十分な説明はない。国文法の法則では「出来(く)る人」のはずであるが・・。
 この答えは私の動詞理論で簡単に出る。「出来(でき)」は二つの名詞形がくっ付いたものであり、普通名詞として定着していた。(例、「出来心」「出来不出来」「おでき」)、つまり、ニ型動詞の法則が適用され、名詞形「出来」に連体形を作る接尾語「る」が付いたものである。そこから「出来る」という動詞が出来た。この「出来る」が可能の意味を持つようになった江戸時代あたりからである。
  
 4.規格外動詞、可能動詞
 「読める」「書ける」「行ける」などがそれである。この動詞は近代、おそらく明治以後に普及したもので、その由来については諸説あるが、私は次のように考えている。
「読める」の「る」は動詞と連体形形成の接尾語である。一型動詞なら名詞形は「読めリ」であり、ニ型動詞なら「読め」が名詞形であるはずであるが、その両方ともその法則に合わない。
 これは文語(古語)の已然形と密接な関係があると思う。文語の已然形では完了の意味を作る場合、助動詞「り」が付く。(我、勝てリ)。ところが、近代になって「り」に代わって「た」が使われるようになったのではないか。ところが、すでに過去・完了を意味する「読んだ(読み・た)」とか「書いた(書き・た)」「行った(行き・た)」が存在していたので、完了の「読めリ」と同じ意味で生まれた「読めた」が「読んだ」と区別するため可能の意味を持たせるようになったのではないかと思う。
 「読めた」は可能動詞であっても、文語の完了の意味もその中に保持しているのである。「書けた」は「書きあげた」と同じ意味、つまり終了したとも言っているのである。
 ともかく、可能動詞は日本語動詞の新参者として、動詞の法則の外にあることを生徒に分からせればよい。

 活用は基本形(連体形)「書ける」「読める」「行ける」
 その他、「書け・ます」(現在)、「書け・た」(完了)、「書け・ない」(否定)、「書け・たら、れば」(仮定)となる。
 発音は同じニ型動詞の「かける」(掛ける)と比較してみると分かりやすい。「掛ける」の名詞形は「掛け」(例、かけソバ、衣紋掛け、掛け橋)、可能動詞「書ける」に名詞形はないことが一目瞭然である。
 
(3)形容詞・・「イ型形容詞」と「ナ型形容詞」の二種類がある。
 1.イ型形容詞
 形容詞語幹を設定する。「たか(高)」「やす(安)」「ひろ(広)」「ふか(深)」
 この語幹にさまざまな名詞や接尾語が付き、造語してゆくことを教える。
「高い(形容詞)」「高く(副詞)」「高める(動詞)」「広げる(動詞)」「高窓」「安物」「広さ」「高め」「深み」「高見の見物」「高々と(副詞)」など無数にある。日本語の造語法の豊かさを生徒に考えさせる。
 例外的に「黒」「白」「赤」などは独立した名詞としても使われる。ところが、「緑(みどり)」は名詞でも「緑い」とはならず、「緑の」となる。言語というのは理科系の法則とは違い、偶然性と柔軟性があるものである。

 イ型形容詞の特徴として、状態動詞化する助動詞「かる(そういう状態にある)」を設定する。英語の be 動詞に当たるものである。「私は若かった」の場合、「若・かり・た」から「若・かった」と音変化したことを教える。「かり」は「かる」の名詞形、そこから「若・かり・し・頃」などの文語表現が生まれた。この助動詞「かる」の活用は動詞「刈る」と同じであるが、仮定形だけ「刈れば」のようにならず、「安ければ」「遠ければ」のように「けれ・ば」と音変化している。
 発展形は「安から・う」が「安かろう」と音変化している。「稲をかろう」と同じ。
助動詞「かる」を設定すれば、現代語としても日常使われている「良かれと思って」も十分理解できる。(国文法では「良き」の命令形)

 2.ナ型形容詞
 国文法で形容動詞とされているものであるが、実は、イ型形容詞は助動詞「かる」を付けて状態動詞化しているのに対し、ナ型形容詞は接尾語が「な」が付く(文語の「なる」からきた)。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」を「猫だ」「猫なり」とも言えるように、文語「なる」も助動詞としては「そういう状態にある」「現れる」の意味を持つ。この「なる」が助詞化して「な」が生まれた。その機能は「なり」と同じであることを生徒に理解させる。
 
 このナ型もイ型同様語幹を設定する。「静か」「あざやか」などがそれである。イ型との違いは語幹が名詞機能を持っていることである。このことが両者の根本的な違いである。その結果、漢語(これは名詞)に「な」を付けて形容詞化できる。(「平和な」「賢明な」「華麗な」)、「静かな」の「静か」のように語幹が名詞機能を持っているので「静かだ」「静かだった」のように使える。この「静か」を「雪国」に置き換えても同じことである。「静かに」も助詞「に」が付いて副詞になっているだけである。

 どうして形容動詞なる用語が生まれたのか。この理由は単純なところにある。江戸の国学者も明治の国語学者も、名詞というのはそれだけで独立した意味を持っていなければならないと考えた。たしかに「静か」も「あざやか」「明らか」も独立した名詞としては使われない。「山」とか「川」とは違う。(「国語辞典」も「静か」は形容動詞に分類されている)。つまり、「静かな」「静かだ」「静かだった」で言葉としての機能を持つ。そこから「静かな」を一つの言葉と決めて、活用するとしたのであろう。まさに、国学の思想である。「一つの言葉はそれだけで意味を持たねばならない」、それが大和言葉なのだ。
 
 しかし、これでは外国人どころか日本人にも理解しがたい。その証拠に、私の周辺にいる誰に聞いても「静かな」を形容動詞と答える人は皆無である。皆「形容詞」と答える。義務教育の国文法は全く理解されていない。ではどうすべきか。
 答えは簡単である。「静か」「あざやか」は普通名詞ではなくとも、言語として名詞機能を持っているとすればいいのである。だからこそ「とても静かだ」と言えるのである。
また、イ型の「高い」も「たか(高)」だけでは当てはめる品詞名はないので、国文法では「高い」で一つの言葉(形容詞)として活用するとしたのである。これらはイ型形容詞語幹として特に品詞を決める必要はない。「美しい」の「美し」も同様である。(中には「いとしのクレメンタイン」とか「うるわしのサブリナ」などのように名詞機能を持つものもある。言語の柔軟性である)。
 
 また「賢明」「華麗」「多彩」のような漢語を「国語辞典」は形容動詞と分類しているが、これらは抽象名詞として、助詞(接尾語)の「な」が付き形容詞化するとするべきであろう。同様に、助詞「に」が付くと「賢明に」「華麗に」と副詞になる。(なお、同じく漢語を大量に使っている朝鮮語はこれら漢語は名詞としており、日本語の「な」に当たる -han を付けて形容詞になるとしている)。
 また「フレンドリーな人」のように、英語に「な」を付けて形容詞化もしている。日本語の造語法は豊かである。
 
 −おわりにー
 「日本語は世界一難解な言語だ」「日本語に文法はない」、誰が言ったか知らないが、このような発言が出る根本原因は国学の思想に基いた国文法にある。
 国文法が言語の機能を無視して、意味の上から日本語を分類しているからである。
 今、「国語辞典」を開いてみると「遊び」や「楽しみ」は名詞と分類されている。ところが、「読み」や「書き」は辞書に出ていない。基本形の「読む」「書く」が出ている。(「読み、書き、算盤」と寺子屋の時代から言われてきたのに)
 つまり、言語の機能からして「遊び」「楽しみ」も「読み」「書き」も同じ名詞形(国文法の連用形)なのである。たまたま「遊び」「楽しみ」が独立した言葉としてよく使われているに過ぎない。「遊び方」「書き方」となると双方その使用頻度は拮抗してくる。言語の機能としては両方とも同じものである。
 日本人には文法の説明はしてもらわないと言ったドイツの日本語の教授は、おそらく私の理論と同じ方法で学生たちに教えているのではないかと思う。つまり、語幹を設定し、それに様々な接尾辞(語)が付いて言葉や文を作ってゆく。これなら学生たちも理解しやすい。 日本語はけっして難しい言語ではなく、表記法は別として、むしろやさしい言語なのである。
 



    
 

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日本語の諸問題(21) 学校教育の「国語」はなぜ「日本語」にならないのか

2011年04月30日 | Weblog
 現在、高校で学ぶ「日本史」は戦前「国史」と称されていた(古い字体「國」が使われていた)。しかるに「国語」はこれまでどうり「国語」である。なぜ「日本語」にならないのか。それには十分な理由がある。

(1)戦前の「国史」とは
 現在の日本史教科書には、3世紀の倭国女王「卑弥呼」が必ず登場する。邪馬台国が九州か大和かはさて置いて、倭女王・卑弥呼が中国(魏)に朝貢して、「親魏倭王」の金印を授けられたことが書かれている。「親魏倭王」とは、魏の皇帝の臣下として冊封されていたことを意味する。「国史」教科書には全く触れられていない。
 日清戦争に勝ち、東アジアの盟主としての地位を確保しつつあった日本が、古代に中国の属国であったなどの事実は一般国民には知らせたくなかったのである。しかし、大学の研究者がこのことで論争することはわりと自由であった。この点では、現代でも平気で歴史を捏造する一党独裁の国とは違っている。
 卑弥呼に代わって「国史」に出ていたのが「記紀」の「神功皇后」である。神功皇后の三韓征伐は日本の朝鮮支配の理論的裏付けとなった。神功皇后が実在したのかどうか、古代に日本が朝鮮半島南部を支配していたのか(任那日本府問題)はさて置いて、古代より今日に至るまで、日本は天皇をいただく東アジアの強国であったことを子供たちに教えるのが「国史」の目的であった。
 あと一つは、天皇に対する絶対的忠誠心を植え付けること。その結果、楠正成や新田義貞は忠臣であり、足利尊氏は逆臣と教えられた。(今日では信じがたい話だが、栃木県足利市出身者は肩身の狭い思いをしたらしい)。 つまるところ、「国史」とは忠君愛国を教える教科であった。

(2)戦後の「日本史」と「国語」
 戦前の天皇制イデオロギーの呪縛から解放された日本は、新しい日本史像を構築した。歴史を文献史料をもとに、より公平にあるがままに記述するようになった。「国史」との決別である。卑弥呼が登場し、足利尊氏も復権した。
 しかるに、「国語」は「日本語」とならなかった。なぜか。それには「国語」の由来を知らなければならない。
 
 もともと、今の「国文法」の土台を作ったのは幕末の国学者である。「国学」とは外来思想である仏教や儒教を排し、日本古来の精神に日本人としての拠り所を求めようとする学問であった。当然、万葉集や古事記の研究が中心となり、幕末の尊皇攘夷運動の理論的支柱となった。つまり、日本は古来、万世一系の天皇を中心とした国であり、日本語も悠久の昔からこの列島に存在するものであるとの観点から、明治の国語学者がほぼ現在の形にまとめ上げたものである。つまり、「国語」とは「国学」の一形態なのである。
 「国語」「国文法」との用語は日本人が日本の心を知るためのものであり、言語としての日本語を学ぶ学問ではないのである。有名な国学者、本居宣長の歌

       敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花

「国語・国文法」とはまさに「大和心の発露」なのである。そこには言語の文法とはかけ離れた奇妙な論法が展開されている。私がこれまで述べてきた形容詞の活用がそうであり、極め付けは形容動詞である。「静かな」「平和な」がなぜ形容詞的意味を持つ動詞(形容動詞)なのか、日本人も理解できないし、まして外国人にはなおさらである

 言語としての日本語は「日本語」「日本語文法」と呼び、外国人のためにのみ使われる用語である。もし、日本の学校で学ぶ「国語」を「日本語」に統一した場合、当然、「国文法」は「日本語文法」との整合性が求められる。日本語文法には二種類の文法体系があるなどという詭弁は許されない。「静かな」を「形容動詞」とするか、それとも日本語文法のように「な形容詞」とするかがその一例である。
 
しかし、これは絶対に起こり得ない。なぜなら、「国文法」を正式の「日本語文法」として文部科学省が認定し、これを外国人に教える教師に国家資格を与えたとしても(フランスはそうである)、この国家資格日本語教師に教えられる外国人たちはおそらく全く理解できないと授業をボイコットするであろう。まして、外国の大学などの日本語教育機関に派遣された場合、その大学から「もういいから帰ってほしい」と通告されるのがオチであろう。「未然、連用、終止・・・」など日本の生徒もチンプンカンプンなのに外国人に理解できるわけがない。
 そのことが分かっているから、日本の国語学者も「国文法」を正式の「日本語文法」とせよとは言わない。川端康成の「あいまいな日本」ではないが、「曖昧な国語・国文法」でいいのである。「国語・国文法」とは日本の心を知るための「国学」なのであるから。これでは、日本の生徒が可哀想である。

 <追記>
 あるテレビ局がドイツの大学の日本学科を取材した番組で、日本語に堪能なドイツ人教授が 「日本人には文法の説明はしてもらわない」 とキッパリ言っていた。多分、その教授は自分なりの日本語文法を会得しているのであろう。それはおそらく私(小松)の日本語文法理論と同じではないかと勝手に想像している。
 外国人にとって日本語のような膠着語とは、単語に様々な接尾辞 suffix をくっ付けて文を作る言語であり、日本語の助詞も助動詞もとどのつまりは suffix であり、「広い」「広く」「静かな」「静かに」の「い」「く」「な」「に」もすべてある意味を作る接尾辞と理解し、学生たちに教えていると思われる。これを国文法のように活用するとか、(外国人向け)日本語文法のように「広く」は形容詞「広い」の副詞的用法などと言うから、日本人に文法の説明は御免こうむりたいと言ったのだと思う。
 日本語がアルタイ語的(膠着語)要素を持つ言語であることは従来から言われてきたことである。最後に今一度、日本の国語(日本語)教育について触れたい。
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日本語の諸問題(20) 助動詞活用表のデタラメ

2011年04月15日 | Weblog
 中学国文法の教科書には動詞、形容詞、形容動詞、助動詞の活用一覧表なるものが出ている。無理やり「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」に合わせようとしているが、矛盾だらけで、もはや言語の文法の説明とは言いがたいシロモノである。

(1)丁寧の助動詞「ます」の未然形として「ませ、ましょ」とある。これはまったく意味不明、さらに仮定形として「ますれ」とある。「行きますれば」などと言う表現が現代日本語にあるのだろうか。同じく「です」の未然形「でしょ」が出ている。これも意味不明。

(2)否定の助動詞「ぬ(ん)」(知らぬ)の連用形として「ず」とある。「ぬ」と「ず」は同じ否定の意味を持っていても、まったく別の言葉であり、同じ活用表に入れるとは理解に苦しむ。「知らぬ(ん)ふりする」とか「減らず口を叩く」という表現をよく使うが、「ぬ」が「ず」に活用(語尾変化)したと強弁することは犬と猫は同一種類だと言っているようなものである。呆れて物も言えない。
 「ず」はもともと文語である(革命いまだ成らず)。文語文法でも「ず」と「ぬ」を同じ活用表に入れている。正気の沙汰とは思えない。

(3)断定の助動詞「だ」(先生だ)の仮定形として「なら」が出ている。これは「君ならどうする」の「なら」を想定したものだと思うが、やはり、まったく違う二つの言葉を同じ活用表に入れている。もはや支離滅裂、国語(日本語)の文法は一体全体どうなっているのか。
 元々「なら」は動詞「なる」の未然形のはずである。この「なる」は動詞の意味(木に実がなる)と文語の助動詞(静かなる朝)の意味を持っている。
 つまり、文語助動詞では「(そういう状態)にある、・・である」の意味であり、英語の be 動詞と同じ用法である。動詞では四段活用動詞である。その未然形「なら」がなぜ仮定形となるのか。理由は単純で、文語(古語)では未然形で仮定を作ったからである。(例、「海ゆかば」、「東風吹かば」)。「私が君なら(ば)そうはしない」という日本語表現は文語が現代語にも生きている例の一つにすぎない。
 これまで私が何度も言ってきたように、文語表現も立派な現代日本語なのである。この「なら」も助動詞「だ」の仮定形などとせず、独立した文語表現と生徒には教えればよい。「だ」の仮定形などと説明すること自体、意味不明、理解不能である。

 
(4)過去・完了の助動詞「た」(起きた)の仮定形の「たら」も矛盾だらけである。「雨が降ったら行かない」の「たら」は仮定形でいいが、「朝起きたらもう8時だった」の「たら」は仮定とは言えず、むしろ完了の意味を持っている。国文法の法則に合わない表現は無視しているのである。これでは文法とは言えない。「たら」は「た」の仮定形などとせず、仮定や完了の意味を持つ助詞とした方がいいのではないか。この「たら」も先の「なら」同様、文語の存続・完了助動詞「たる」(例、人間たるもの)の未然形から来ている。だからこそ、完了の意味も保持しているのである。
 文語文法では「堂々たる」は形容動詞である。では「人間たる」はどうか、名詞「人間」に助動詞「たる」(・・である)が付いたものである。この二つを区別する必要性があるのだろうか。私は形容動詞無用論である。

 結論として言えることは、助動詞の中には活用などしないものもあるということである。文語文法の完了の助動詞「り」(我、勝てリ)などは、これ自体で完結した言葉であり、活用表にある「ら、り、り、る、れ、れ」はまったく意味不明である。特に未然形の「ら」は理解不能である。「未然」とはまだそうなっていないことなのに、それが完了の「り」に有るとは、一体全体、本当にそんな文があるのだろうか。
 連体形の「る」は動詞已然形(完了体)に連体形形成の接尾語「る」が付いたものであり、「捨てる」「見る」の「る」と同じ機能を持つ接尾語と見るべきであろう。
 「歌、詠める人」とは「今、歌を詠む人」、つまり英語の現在完了と同じ用法である。この「る」と完了の助動詞「り」とは別の接尾語と見るべきであろう。
 この文語「詠める」「書ける」の已然形「詠め」「書け」が失われてゆく過程で、可能動詞「読める」「書ける」「行ける」が生まれてきたことは前に書いた。

 <追記>
 なぜ国文法は矛盾だらけなのか。それは簡単明瞭、日本語がアルタイ系文法(膠着語)であるという基本認識がないからである。様々な機能を持つ接尾語、それらをどういう名称で呼ぼうとそれは問題ではない。助動詞は動詞と同じように活用するという奇妙な思い込み。これは言語の分析ではなくむしろ宗教的信仰に近い。
 動詞と同じ機能を持つ「たる」(堂々たる人生)と「なる」(静かなる朝)などはたしかに活用(語尾変化)する。しかし、完了の「き」(有りき)とか「り」(勝てリ)などの一音節語はそれだけで完結した言葉(接尾語)である。それを無理やり活用させようとするからおかしくなってしまうのである。
 その一番いい例は「平和な国」である。「静かな朝」の「静かな」は固有の大和言葉であり、国文法では形容動詞とされている。では漢語「平和」に「な」が付くとやはり形容動詞なのか。「平和になる」「平和の象徴」の「に」「の」は助詞と考えた方がずっと分かりやすいのに(例、学校に行く)、「平和な国」の場合は「平和」と「な」を切り離すことは出来ず、「平和な」が一つの言葉(形容動詞)で、「平和に」「平和だ」のように活用する。つまり、国文法助詞に「な」はない。これが国文法の法則である。こんな馬鹿げた文法を外国人に教えられるだろうか。
 「な」は文語「なる」から変化したものであり、助詞「に」がある方向に向かう意味なら、「な」はある状態を示す助詞でいいのではないか。つまり、英語の peace-ful のように、名詞に「な」が付いて形容詞化する。そうすれば「静かな朝」「静かになる」も「平和な国」「平和になる」もスンナリ理解できる。日本語はきちんとした法則性を持つ言語である。それを複雑怪奇にしたのは他でもない国文法である。だからこそ、外国人には別の日本語文法が存在するのである。このような二つの文法体系を持つ言語が世界の他に有るのだろうか。私は寡聞にして知らない。

 
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日本語の諸問題(19) 国文法と日本語文法 その2

2011年02月06日 | Weblog
 前回の形容詞に続いて動詞を取り上げる。外国人日本語学習者用の日本語文法もいまだ国文法の呪縛から解き放たれていない。これまで私が述べてきたように日本語動詞の活用(語尾変化)は3種類しかない。国文法の「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」の活用表は無用である。

 ー外国人用日本語文法の動詞ー
 動詞は3種類に分類されている。
 1)国文法の五段活用動詞・・読む、書く、話す、取る、走るなど
 2)国文法の上一段、下一段活用動詞・・見る、用いる、着る、食べるなど
 3)国文法の不規則動詞・・する、来る

 1)の五段動詞はローマ字で書くと語尾が母音 U「う」で終わるので(例、yomu 読む )U「う」動詞、あるいは子音幹動詞( yom-u の語幹 yom が子音なので )と称されている。
 この説明は日本語の音声構造を全く理解していない。日本語は子音プラス母音の開音節語である。yom-u(読む) などと分解すること自体に無理がある。しいて語幹を決めるなら yo-mu とした方がずっと分かりやすい。語尾変化するのは「読む」の「む」なのであるから。私は「読む」や「書く」に語幹を設定する必要はないと思っている。日本語動詞には語幹のない動詞とある動詞がある。後述する「食べる」や「用いる」は語幹がある。この場合「食べ」「用い」が語幹であり名詞形である。

 2)の上一段、下一段動詞はローマ字で書くと語尾が RU「る」で終わるので(例、見る、食べる)、RU「る」動詞、あるいは母音幹動詞( mi-ru とか tabe-ru のように語幹部分が mi、tabe と母音 i と e で終わっているので)と称されている。
 この説明もおかしい。語尾が「る」で終わる五段動詞「切る」も上一段動詞「着る」と同じく語尾は「る」で終わる。このことを日本語学習者にどう説明するのか・・・。
 何よりも、国文法の活用表「未然、連用・・・」をそのまま使っている。まさに国文法の呪縛である。
 3)の不規則動詞「する」「来る」は国文法に準じている 
 
 ー私(小松格)の日本語文法論ー
(1)動詞の基本形は連体形
 世界の多くの言語は動詞に基本形を設定している。英語の go ドイツ語の gehen などがそれである。日本語の場合は「行く」「読む」「見る」などがそれである。これらは実は連体形である。
 動詞の基本形などというのは、後世の人が文法体系を構築するとき決めたものであり、万葉人や王朝時代の紫式部や清少納言がそのような認識を持っていたわけではない。昔の人々が無意識的に使っていた動詞の連体形がそのまま基本形として設定されている。つまり、日本語動詞の基本形を知ると同時に、連体形と終止形を憶えたことになる。(連体形と終止形は同じもの、分かりやすく言えば、連体形で文を終止させることが出来るということ。この用法はアルタイ語族ひとつトルコ系のウズベク語に同じ)
 上記のことから、国文法の活用表から連体形と終止形は除くことが可能であり、日本語動詞の活用は、未然、連用、仮定の3種類に落ち着く。命令形は別の項目で取り上げるべきである。英語でも基本形の go を命令形などとは呼ばない。たまたま両者が一致しているだけである。日本語で基本形が連体形と同じものであるように。

(2)動詞の連用形とは名詞形である。
 先に同ブログで述べたように日本語動詞の根幹を成しているのは国文法でいう連用形、実際は名詞形である。現在の国文法や日本語文法では、動詞の連用形は名詞としても使われると説明されている。これは逆で、名詞形に様々な接尾語が付いて文を作ってゆくのである。連用形という言葉自体あいまいで日本人にもよく分からない。

 五段動詞の場合、「行き」「読み」「話し」がそれであり、これに助動詞、名詞、助詞が付き文を作ってゆく。「行きます」「読みたい」「話し方」「読みが深い」の如く。
 上一段・下一段動詞の場合、「見る」の「見(み)」「着る」の「着(き)」「食べる」の「食べ」がそれである。「花見」「見ます」「着たい」「食べ物」の如く。
 われわれ日本人は「映画を見に行く」とか「酒を飲みに行く」と無意識的に言うが、名詞形「見(み)」「飲み」に助詞「に」が付いたものであり、先の形容詞のところで述べた「学校に行く」「平和になる」と同じ用法であり、日本語は整然とした法則に従って構成されている。
 不規則動詞「する」「来る」の場合、名詞形は「し」と「来(き)」であり、「仕事」の語源も「し・こと」から来ていることが判る。つまり、日本語動詞の中には名詞語幹を持つ動詞(上一段・下一段動詞)が存在するのである。

(3)日本語動詞の活用は次のようになる。
 1)五段動詞(第1型)・・基本形(連体形、終止形も兼ねる)「読む」
  (ア)読ま・・発展形(国文法の未然形)「読まない」「読ませる」「読もう」
  (イ)読み・・名詞形(国文法の連用形)「読み物」「読み手」「読みが深い」
  (ウ)読め・・仮定形(国文法の仮定形)「読めば」
  註1. 未然形という用語は誤解を招く。「読まれる」「読ませた」を説明できない。
  註2. 呼び掛け「読もう」は発展形「読ま・う」から音変化したと説明すればよい。 
 2)上一段・下一段動詞(第2型)・・基本形「見る」「捨てる」(連体形)
  (ア)見(み)、捨て・・発展形「見せる」「見ない」「捨てない」「捨てよう」
  (イ)見(み)、捨て・・名詞形「見もの」「花見」「捨て猫」「世捨て人」
  (ウ)見(み)れ、捨てれ・・仮定形「見れば」「捨てれば」
  註1.2型の動詞は発展・名詞形は同じであり、仮定形のみ「れば」となる。
  註2.仮定形は「捨てたら」のように「たら」を使う場合が一般的である。

 3)不規則動詞の「する」「来る」(連体・終止形)も上記の用法と同じ。

(4)五段動詞(1型)と上一段・下一段動詞(2型)の見分け方
 1型の「切る」と2型の「着る」は共に基本形語尾は「る」で終わる。この両者の違いはどこにあるのか。それは簡単明瞭、名詞形にある。「切る」は「切り」(例、大根切り、切り札)、「着る」のそれは「着(き)」である(例、着物、晴れ着)。「晴れ着」の「晴れ」も2型動詞「晴れる」の名詞形であり、二つの名詞がくっついたものである。
 一般の日本語文法書のように「読む」を yom-u と分解して、日本語の音声上ありもしない語幹 yom など設定しなくても、1型動詞の名詞形はすべて五十音図の「い列段」を取ると説明すれば学習者はスンナリ理解できると思う。

 2型動詞の名詞形もこれまた簡単に導きだせる。「見る」の「見(み)」、「晴れる」の「晴れ」、「捨てる」の「捨て」。これを見れば一目瞭然、2型動詞は語尾の「る」を取ったものが名詞形である。つまり、2型は名詞語幹を持つ動詞であるとも言える。これは形容詞語幹「たか(高)、ふか(深)」などと同じ機能を持っている。そうして、この1型動詞の名詞形の中には完全に独立した名詞として定着しているものもある。(例、話し、遊び、休み、楽しみ、おにぎり)
 
 2型動詞語尾「る」は名詞を動詞化する接尾語であり、かつまた連体形を作る語尾でもある。この文法要素はすでに多くの先人が指摘しているように日本語アルタイ系説の根拠の一つでもある。−r でもって動詞の連体形を作るのはトルコ系諸語や朝鮮語にある。朝鮮語で「行く道」は ka-r kil と言う。( ka 行く、kil 道)
 トルコ系のウズベク語では、名詞を動詞化する接尾辞として -la があり、動詞の連体形を作る接尾辞として -r がある。そうして、連体形で文を終止させることが出来るのは日本語とまったく同じである。つまり、日本語の動詞語尾「る」型はアルタイ諸言語のこの二つの要素を併せ持っていると言える。だからこそ、日本語動詞基本形は連体形でもあるのである。
 不規則動詞「する」と「来る」は特別に憶えさせればよい。それでも「する」の名詞形は「し」、「来る」の名詞形は「き(来)」であり、他の動詞と同じく、「い列段」の法則はきちんと守られている。

(5)動詞連体形の名詞機能 
 動詞連体形は名詞機能も持っている。(文法としての名詞機能と「山」とか「川」などの普通名詞とは違うことは留意しておく必要がある)
「取るに足りない」とか「逃げるが勝ち」などがそれであり、よく使われている言葉である。これは形容詞でも「古きを訪ねて、新しきを知る」とか「水、低きに流れる」と言うように、「古き(こと)」「低き(所)」という意味を含めていると考えられる。同じく動詞でも「取る(こと)」「逃げる(こと)」との意味を含めて、名詞機能を与えていると考えられる。人間の使う言語というものは理科系の諸現象とは違い、柔軟性を持っているものである。

 このように日本語は整然とした法則をもっているようで例外もある。しかし、それにはそれなりの理由がある。それは可能動詞とされている「読める」「書ける」などである。
 2型の「掛ける」の場合は名詞形は「掛け」で「掛けうどん」とか「衣紋掛け」と問題はないが、「書ける」には名詞形「書け」はない。その理由は古語の「已然形」(完了体)が影響していると考えられる。現代語では「仮定形」とされているが、古語では「書け・り」と言って「書き終えた」の意味であった。
 また、「歌、詠める人」は現代語では「歌を詠むことが出来る人」の意味であるが、古語では可能の意味ではなく「詠める」の「る」は名詞を修飾する連体形の「る」であり、英語の現在完了に近い用法である。例えば、「花、咲ける野にい出て」は「今、花が咲いている野に出て」の意味になる。このように、古語では「詠む人」「詠み人」「詠める人」で明確な区別をしていたのである。その後、已然形が失われてゆく過程で、可能の意味が生まれてきたと思われる。
 つまり、「書け」は古文では1型五段動詞の已然形であり、現代語の「書けた」「読めた」も完了の意味も保持しているのである。後代に可能の意味が加わったため可能動詞と呼ばれているが、本来の完了の意味は失っていない。分かりやすく言うと、現代語の「仮定形」のなかに「已然形」(完了体)が隠れているのである。「読めた」「書けた」は意味上は可能形でも、文法形態論的には「読めリ」「書けり」と同じ機能を有している。古語の「り」が「た」に置き換えられため起こった結果である。「読める」とか「書ける」「行ける」という単語は日本語の新参者であり、日本語動詞の法則外にある。

 <追記>
 NHKの語学番組で著名な国語学者が「ハメをはずす」の語源について、馬の口に噛ませる馬具の一種「ハミ」が「ハメ」に音変化して出来た言葉だと言っていた。呆然自失、開いた口が塞がらない。「ハミ」は動詞「はむ」の名詞形(国文法の連用形)である。万葉集の山上憶良の有名な歌「瓜はめば子供思ほゆ・・・」にも出てくるあの古語「はむ」である。私がこれまで述べてきたように五段動詞の名詞形(連用形)は五十音図い列段にきちんと音変化している。例外など私は寡聞にして知らない。
 「ハメをはずす」の語源は「はめる」「はめ込む」の名詞語幹「ハメ」であり、お寺の本堂の回廊に敷き詰めてある板を「はめ板」と言うように、「ハメをはずす」とは「タガがゆるむ」とよく似た言葉で、規律や節度がなくなる無礼講のことである。
 誰が言ったか知らないが、日本語は文法のない言語ではなく、きちんとした論理と法則に基いて成り立っている。これをわれわれ日本人でさえ理解できないほど難解なシロモノにしたのは他でもない国文法である。この呪縛から開放されない限り、日本語に未来はない。
 
    
  
 
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日本語の諸問題(18) 国文法と日本語文法  その1.

2011年01月20日 | Weblog
 よく言われていることであるが、日本語には義務教育で学ぶ国文法と外国人の日本語学習者に教える日本語文法の二通りの文法体系がある。
 私はかねがね不思議に思っていたのであるが、義務教育の国文法教科書は文部科学省検定の教科書であり、日本国政府公認の日本語文法であるはずなのに、外国人には違った文法が公然と教えられている。国文法が正式の日本語文法である以上、日本国文部科学省はなぜこのような間違った、つまり偽りの日本語教育を野放しにしているのか理解に苦しむ。外国にはこのような例があるのだろうか・・・。
 これまで私が述べてきたように、国文法は言語の文法とは言いがたいシロモノである。日本の中高生でも理解できない文法が外国人に分かるはずがない。しかし、外国人のための日本語文法といえども国文法の呪縛から完全に脱却できていない。そのことを明らかにしてゆく。
 
 −日本語文法の形容詞ー
 国文法では形容詞も形容動詞も動詞と同じように活用(語尾変化)するとされている。形容詞の語尾が変化すると言えば、日本語はドイツ語やロシア語のように名詞に男性、中性、女性などの区別があるのか、日本語は印欧語の一種かとの誤解を招きかねない。では、外国人用の日本語文法ではどうなっているのか。さすがに、形容動詞との項目はない。形容詞のみで、国文法の形容動詞は「な形容詞」と称されている。つまり、日本語形容詞には「い形容詞」と「な形容詞」の2種類がある。

 1.い形容詞は国文法と同じく「高い」「広い」「大きい」など
 2.な形容詞は国文法の形容動詞で「静かな」「穏やかな」「明らかな」など

 ところが、「高く」「広く」「静かに」「明らかに」は形容詞の副詞的用法と説明されている。つまり、日本語形容詞はやはり活用するのである。まさに国文法の呪縛である。
 そうして、「高かった」とか「静かだった」、「高ければ」とか「静かならば」と様々な活用を暗誦させるようになっている。形容動詞を排除していることは一歩前進と言えないこともないが、これでも外国人には難解である。私の考えは次のとおり。

 −語幹の重要性ー
 1.の「い形容詞」には語幹がある。「たか(高)」「ふか(深)」「あか(赤)」「うつくし(美し)」「などがそれである。この語幹には二つの型がある。
 
 第一型は語幹そのものは名詞として独立した意味を持たない。
 例えば、「やま」「かわ」と聞くと、普通「山」「川」を連想する。しかし、「たか」「ふか」と聞くと鳥類の「タカ」かも知れないし、魚類の「フカ」かとも思う。漢字で書けば一目瞭然であるが、これは日本に漢字が流入して以後の話である。
 この語幹に様々な接尾語を付けて単語、熟語、文を作っていく。このような言語を膠着語と言いアルタイ諸言語に特有のものである。日本語はその法則性はきちんと守られている。
つまり、語幹「高(たか)」から「高い(形容詞)」「高く(副詞)」その他「高さ」「高め」「高御座」などの名詞、「高まる」「高める」などの動詞、さらに「高見の見物」とか「高止まり」などのように動詞の名詞形(国文法では連用形)「み(見)」や「止まり」とも結びつき熟語をつくる。

 第二型は語幹そのものが独立した意味を持っており、名詞としての機能もある。
 例えば、「赤の広場」の「赤」は名詞である。この「赤(あか)」から「赤い」「赤く」「赤み」「赤らむ」など、「黒」から「黒目」「黒ずむ」「白」から「白ける」などのように様々な単語が作られる。問題は「美しい」や「明るい」である。
 この「美しい」の語幹「うつくし」は文語から生まれたものであり、現代日本語では第一型と第二型の2種類に分化している。例として、「なつかしの名曲集」とか「うるわしのサブリナ」「なしの礫(つぶて)」などの場合は「なつかし」「うるわし」「なし」は独立した名詞機能を有しているが、「うつくし」は独立した名詞ではなく、「たか(高)」や「ひろ(広)」と同じ第一型である。「明るい」の語幹「あかる」も同様。つまり、形容詞語幹は名詞機能を持つものと、持たないものとに分けられる。これら語幹から「美しく」「美しさ」とか「明るく」「明るさ」などの単語が作られてゆく。

 本来、言語というものは、理科系の諸現象とは違って必ず一定の法則があるわけではない。同じ形容詞でも「いとしのクレメンタイン」とは言えても「うつくしのクレメンタイン」と言うと何か変である。「いとしい」「美しい」は共に形容詞であるのに、また「少し」という言葉は「古語辞典」でも「国語辞典」でも副詞とされているが、「少しの辛抱」となると明らかに名詞扱いである。このように言語は本来、柔軟性を持っているものなのである。


 ところが外国人用日本語文法でも「い形容詞」は活用(語尾変化)すると教えられている。この国文法の用法がすべての混迷の根本である。形容詞(例、若い)は活用などしない。何度も言うが、語幹「わか」に様々な接尾語が付くだけである。
 「私は若い」は英語で I am young. だが、過去の「私は若かった」は I was young. であり be 動詞が変化する。膠着語である日本語は語幹「わか」に英語の be 動詞に当たる助動詞「かる」を付けて活用させる。この「かる」は文語にはあるのであるが、国文法では形容詞の活用(語尾変化)とされており、独立した助動詞とはされていない。そこから「かろ(か)、く、い、い、けれ」との形容詞活用表なる奇妙なものが日本の生徒に強制されている。「かる」は「そういう状態にある」との意味の助動詞と見るべきである。日本語助動詞とは、それだけで独立した意味を持たないが、動詞や形容詞語幹に付き様々な文を作っていく。文字通り動詞を補助する役割を有するものであり、原則的に動詞と同じ法則で活用する(活用しない助動詞もあるが)。
 文語表現として「良かれと思って」とか「良かれ悪しかれ」という言葉は今でも日常使われている。「良(よ)」「悪(あ)し」は形容詞語幹である。「この「良かれ」の「かれ」を日本語教師はどう説明するのだろうか。

 形容詞未然形とされている「安かろう」は「安・から・う」から、過去形の「安かった」は「安・かり・た」から、仮定形の「安ければ」は「安・かれ・ば」から音変化して出来たと考えられる。このように、助動詞「かる」は動詞(例、刈る)と同じように「から、かり、かれ」と活用する。(動詞の基本形はもともと連体形であり、文を終止させることもできることはすでに同ブログで述べたとうり)。文語表現として「若かりし頃」などがある。
 この「かる」を国文法のように形容詞の活用語尾とするか、独立した助動詞と見るかによって、日本語学習者(日本の生徒も含めて)の理解に大きな違いが生じると思うのは私だけだろうか。
 
 2.の「な形容詞」(国文法の形容動詞)も語幹がある。「静かな」「穏やかな」「明らかな」から「な」を取ったものである。「静か」も「明らか」も名詞として独立した意味を持っているので、第二型に属する。これに形容詞形成の接尾語「な」が付き「静かな」、副詞形成の接尾語「に」がつくと「静かに」となると教えるとスンナリ理解できる。語幹が名詞である以上、「静かです」とか「明らかだ」のように様々な助動詞が付いて文を作っていくのは当然のことであり、活用するのはこの部分であり、形容動詞という用語(形容詞意味を持った動詞、つまり国文法では動詞扱い)は意味不明である。

 ただし例外もある。すでに時枝誠記氏は私と同じく形容動詞不要論に立っているが、形容詞「大きい」はともかく、「大きな」の扱いに困ったのか、これを「この」「その」などと同じ連体修飾語としている。「大き」が「静か」のように独立した名詞ではないからである。(「大き・だ」とは言えないので)
 しかし、これはおかしい。もともと古語では「おほき」は「大」と「多」の両方の意味があったが、中世期に「おほき」は「多き」のみに使われるようになり、現代語の「多い」となった。その代役として「大きな」「大きい」の形容詞が生まれたのであり、「大き」が独立した名詞でなくても、第一型の語幹(独立した名詞ではない)とすればよいことである。
 古語では「古き」「良き」は形容詞の連体形であり、名詞を修飾する。(例、古き良き時代)。ところが、「古きを訪ね、新しきを知る」とか「水、低きに流れる」などの言葉があるように、この場合、連体形の「高き」「低き」に名詞機能を持たせている。これは、「古き(こと)」「低き(所)」との意味を含めていると考えられる、文法機能としては連体形「古き」は助詞に接続することが出来るのである。
 この「大きな」の「大き」も「たか(高)」や「ひろ(広)」と同様、形容詞語幹と見ても何の不思議もない。(例、「大きさ」は「広さ」「高さ」と同じ用法である)。その他、「小さい」と「小さな」も同じく「小さ」は独立した名詞ではないが、形容詞語幹である。

 ー「静かな」の「な」は助詞ー
 もし日本語学習者(日本人も含めて)から次のような質問があったら、国語教師や日本語講師はどう答えるのだろうか。

「平和な国」と「静かな朝」の「な」は同じか違うのか、また「学校に行く」「平和になる」の「に」と「静かになる」の「に」はどう違うのか。
 
 上記の質問がすべてを語っている。国文法の原則を当てはめれば「平和な」は形容動詞の連体形、「平和に」はその連用形になってしまう。日本語文法でも「平和に」は「な形容詞」の副詞的用法になりかねない。私が言うように、「静か」という名詞語幹を設定すれば、この「な」も「に」もすべて同じもの、つまり接尾語(助詞)であり、単純に名詞に付くだけである。日本に漢字が定着した後、「静かな」「静かに」と同じ法則が適用され「平和な国」「平和になる」と言っているだけである。「に」は「な形容詞」の副詞化などとせずに、単純に助詞とするべきである。同様に、助詞「な」(静かな、平和な)も現代日本語では名詞を形容詞化する助詞として定着していると見るべきである。
 
 日本語は一見無原則のように思えるが、やはり一定の法則はある。人間の話す言語は本来単純に出来ているものである。日本語とてしかり。今こそ国文法の呪縛から解き放されなければならない。

 <追記>
 日本語は不幸な言語である。学校で日本政府公認の日本語文法(国文法)を学ぶのに、ほとんどの生徒はまったくと言っていいほど理解できない。私もそうだった。形容動詞など、一体全体何のことか分からなかった。多分、それを教える教師とて同じことであろう。ただ渡された教科書にそう書いてあるから生徒にそう言っているだけと思う。自国の子供たちがまったく理解できない母国語文法を学校で教える国が他にあるだろうか。
 今、普通の日本人に国文法のことを聞いても、国語教師や研究者以外はだれも明確には答えられない。自分の生まれ育った母国語であるのに、その文法のことはまったく分からない。一方、外国語である英語の文法はかなり覚えている人も多いのではないか。
 日本語に文法がないからではない。だれでも理解できるようなやさしい文法体系が構築されてないからである。国文法は一部学者の秘伝の文法書と言っても過言でない。私はこれを中学生でも分かるように説明したいと思っている。次に動詞を書く。
  
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龍馬暗殺に残された謎 ・ 最終章 その2

2010年11月20日 | Weblog
(6)慶応3年11月15日 近江屋事件の真実とは
 その1.
 近江屋事件に関しては現場に駆けつけた多くの人たちによって様々なことが語られている。それらは基本的に信用できない。瀕死の重傷を負った中岡慎太郎がどれほど明瞭な意識があったのかどうかさえ定かでない。実行犯、今井信郎の証言とてしかり、今井は生涯、外部の人に対しては本当のことを話していない。その理由は、明治3年の刑部省口書(検事調書)で検察側と同意の上、御差図した人物はけっして口外しないという約束を守ったからであると思われる。
 しかし、時が流れ、近江屋事件も遠い昔物語となったとき、生涯一度真実に近いことを身内に語っている。そのことが『坂本龍馬を斬った男』(今井幸彦著)に紹介されている。それは今井信郎の実弟、今井省三が大正10年頃、真下菊五郎という人に宛てた書簡である。その重要部分を抜き書きすると

「或日、永井玄蕃ヨリ密会ヲ求メラレ土佐浪人阪本龍馬ヲ討取ルベキ内命ヲ拝セリ、早々同志三、四名ト手筈ヲ協議シ、兄ノ策ヲ用ヒ、兄ハ阪本ノ旅宿ニ至リ面会ヲ求メ、座敷ニテ問答中、阪本目早ク覚リ、同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ、旅館ヲ出デ・・・又老生省三ハ姉上ノ所持セシ永井氏ヨリ金五十両慰労ノタメ送リシ書附ヲ見タルコトアリ・・」

 この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは大目付・永井尚志であることを明確に述べている。そして、永井からもらった慰労金50両の書き付けを姉(信郎の妻イワ)が持っているのを見たと言っているのである。
 この手紙は非常に重要な証言である。50両の慰労金の真偽はともかく、実行犯でなければ知りえない秘密を吐露している。それは何か・・・。

 今井信郎は明治3年の口書で、自分は階下で見張りをしていたと供述している。2階に上がった3人は、いずれも鳥羽・伏見の戦いで戦死している。ところが、後年、新聞や雑誌の取材を受けた折、その供述を翻し自分一人で斬ったと言っている。
 
 その内容の大筋は、近江屋の1階で下僕藤吉に信州松代藩の者だと言って取次ぎを頼み、藤吉が階段を上がるあとを追って背後から一刀のもとに斬り倒し、そのまま奥の八畳の間に踏み込んで、まず龍馬の頭を横に払い、返す刀で中岡を斬り倒した。そのあとを2番手、3番手が部屋に飛び込んできた。
 しかし、この供述は根本的におかしい。物音ひとつしない静まりかえった夜8時ごろ、2階で人を斬れば当然悲鳴が上がるだろうし、相撲取りであった藤吉が倒れればかなり大きな音がするであろう。ここで龍馬が 「ほたえな」 という有名な声を発するのであるが、一体、だれがこの龍馬の声を聞いたのだろうか。中岡慎太郎しかいない。本当に中岡は瀕死の重傷の中で冷静に現場の状況を説明できたのであろうか。 はなはだ疑問である。「不覚をとった」「無念だ」ぐらいのことは言ったかも知れないが、中岡から聞いたという人の証言は、すべて後世の創作ではないのか。
 
 龍馬がピストルを所持している可能性は見廻組も十分承知していたはずなのに、なぜ、相手に悟られるような行動をとったのか。ピストルはなくても、異変に気付いた龍馬と中岡が刀を引き寄せて身構えていたら今井信郎はどうするのか。狭い八畳の間で大乱闘を演じるつもりだったのだろうか。今井は嘘を言っている。
 この幕末には桜田門外の変をはじめ、数多くの暗殺事件が発生している。そのどれを取ってみても、不意討ちもしくは闇討ちである。相手を倒して自分は傷つきたくない。これが武士の真実の姿である。では、今井信郎が実弟に語った真実とは・・・
 
 その2.
 今井省三の書簡の中に 「座敷ニテ問答中」 との一文がある。これこそ、今井信郎が長い人生の中で唯一語った真実だと思う。実の弟だからこそ本当のことを話しておきたかったのであろう。(孫の幸彦氏は有り得ないと否定しているが・・・) 

 今年、民放のあるテレビ局が元鑑識課員や剣道の師範を招いて、近江屋事件の現場検証の番組をやった。それによると、現場にあった掛け軸の血痕の位置から、龍馬は座位のままいきなり額を横に払われ、ふり向いて後ろの床の間の刀を取ったが、抜くひまもなく賊から上段に斬りこまれ、鞘のままそれを受けた。その時、鞘に大きな裂け目ができ、その刀が天井に穴を開けた。そして背をむけて逃げようとして今度は背後から一撃を受け動けなくなったのであろうとのことだった。
 つまり、賊も龍馬と同じく座って対面していたというのがその結論であった。いきなり部屋に踊り込んで上段から斬り付ければこのような血痕の飛沫はできないとのこと。この検証が正しいとすれば、省三書簡の 「兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ」 とはまさにその状況を正直に言ったことになる。
 
 その番組では、賊が連続で龍馬に3太刀あびせたと言っていたが、私の考えでは、連続では龍馬は床の間の刀を取って立ち上がる時間的余裕がないはずであり、一刀目は龍馬、返す刀でニ刀目は隣の中岡、その間に龍馬は刀を手に取り立ち上がったが、すでに賊の三刀目が振り下ろされてきており、やむなく鞘のままそれを受けざるをえなかった。これだと省三書簡の 「返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 にぴったり合う。現場検証から見えてくることは、今井信郎が実弟に真実を語ったという事実である。
 今井信郎の斜めうしろに控えていたもう一人の賊は、今井の一刀目を合図に中岡に斬りかかったと思われる。その時、異変に気付いて奥の八畳の間に入ろうとした下僕藤吉は2階の階段前で待機していたもう一人の賊に背中から斬られた。これが事件の現場の真相ではないかと思う。もう一人の賊は今井の斜めうしろに居ないと、自分自身が今井の抜き討ちに斬られかねないからである。(斜めうしろの位置はこの事件のキーポイントでもある)

 あと一つ、省三書簡の重要な記事は 「兄ノ策ヲ用ヒ・・・面会ヲ求メ座敷ニテ問答中」 である。夜、初対面の相手、それが松代藩士であれ、十津川郷士二名であれ(これは谷干城が瀕死の中岡から聞いたと言っている)、座敷に招き入れ、それも抜き討ちのできる距離(それは約2メートルぐらい、それより近すぎても遠すぎても不可能)にまで接近させることはまず常識的に考えても有り得ないことである。来客はふすまを開けて敷居の所でまず挨拶するのが常識であり、龍馬も部屋の中央で来客と一定の距離を置いて用件を聞くのが普通の作法であろう。
 この位置関係では抜き討ちは出来ない。今井信郎も当然それは分かっていた。そこで、究極の奥の手を使ったのではないか。それこそ、龍馬に抜き討ちできる距離に接近できる唯一の策である。それは・・・。

 「永井玄蕃様の急ぎの用で参りました」 と言うことである。龍馬は前日も永井に会い、自身の新国家構想(これは徳川慶喜を新政府の首班とすること)を熱心に永井に説いている。このことは福井藩士、中根雪江の日記で明らかである。
 藤吉の取次ぎでこれを聞いた龍馬は、何事かと、むしろ進んでその使いの者を室内に招き入れたことであろう。大目付様のお使いともなれば自分よりも上位に遇さなければならない。刀も床の間に置き、正座してうやうやしく迎えたことであろう。その間隔もわずか2メートルほど、まんまと室内に入った今井信郎は斜めうしろに従者だと言ってもう一人を座わらせ、おもむろに用件を切り出す。
 二言、三言話したところで、龍馬にこれは怪しいと感ずかれた。それが省三日記の 「阪本目早ク覚リ」 であり、その瞬間 「同座ノモノニ合図スルト同時ニ、兄ハ抜キ討ニ阪本ヲ斬リ、返ス刀ニテ他ノ者ヲ斬リ」 となる。すべてが終わるまでほんの10秒間ぐらいの間だったと思われる。斜めうしろに従者を置ける人物、それは永井玄蕃の使いであれば当然のことである。先に、これがキーポイントと言った所以である。兄が用いた「策」とはこのことではなかったか。
 私のこの考えはこれまでなかった新説であるが、省三書簡が真実を伝えているとすれば、現場の状況との整合性にもっとも適う説だと思っている。

(7)近江屋事件のその後
 前に述べたように、この事件には土佐藩上層部が関与している。その中心人物は京都藩邸の責任者、福岡藤次であろう。中岡慎太郎個人に恨みがあっただけでなく、尊王倒幕集団の土佐陸援隊に対する嫌悪感もあったのであろう。(中岡に対する恨みは、吉田東洋暗殺事件探索のため上方に派遣されていた下横目・広田章次が伏見で殺害されたこと)。
 土佐藩は大政奉還の建白書は出したが、藩内は武力倒幕派と幕府擁護派に分かれ、藩内分裂したまま鳥羽・伏見の戦いへと突入してゆく。
 土佐藩上士でありながら、土佐勤王党に名を連ねていた宮川助五郎が15日に奉行所から土佐藩邸に渡されるので、陸援隊で預かってほしいと福岡が中岡慎太郎に通知していたらしいことはすでに述べた。福岡は幕府が龍馬を狙っていることを何んらかの理由で知った。そこで、中岡を近江屋におびき出す策として宮川を利用したのであろう。そして、事件当日、そのもっともな適役として岡本健三郎を使ったと考えられる。福岡は17日の龍馬と中岡の葬儀にも参列していない。
 私にとって、近江屋事件の最大の謎は、なぜ龍馬が見廻組に襲われたのかではなく、その時近江屋の2階に二人しかいないことを見廻組はどうして知りえたのか、この一点に尽きる。

 事件後の土佐藩の行動には首をかしげる。何の証拠もないのにいち早く新選組の犯行と断定し、世間にもそれを意図的に流布させている。当時の公家や諸藩の重役などの記録や日記類にはほとんどすべて新選組の仕業らしいと書かれている。土佐藩の作戦は成功している。
 そして、大目付・永井尚志に福岡藤次の名で新選組の取り調べを強硬に申し入れしている。永井は二条城に近藤勇を呼び、形ばかりの取り調べをしただけであった。近藤は当然否認した。この件はこれでうやむやとなった。
 
 事実、新選組犯行説を信じた陸援隊と海援隊の同志たちは、新選組屯所(その時は西本願寺にあった)に斬り込みを主張したが、田中光顕に止められている。そこで、彼らの怒りの矛先は、「いろは丸沈没事件」の交渉で紀州藩の代表を務めた三浦休太郎に向かい(三浦が沈没事件の恨みから新選組を使って龍馬を襲わせたとの根拠のない噂を流したのも土佐藩であろう)京都の三浦の宿舎を襲撃する。この動きを知った三浦は新選組に警護を依頼していたので、両者は死者を出すほどの乱闘を繰り広げている。やはり、土佐勤王党以来の上士と下士(郷士)との確執が尾を引いていたのであろう。
 
 明治の世になっても、土佐閥を代表する子爵・谷干城は生涯、近江屋事件は新選組の仕業だと言い続けた。谷はこの事件に土佐藩が関与していたことを当初から知っていたのであろう。 そのため、生涯、新選組説を主張せざるをえず、その秘密を墓場まで持って行って土佐藩の名誉を守ったと思われる。
 その後、龍馬暗殺の黒幕は誰かとの説が繰り返し出されてきた。黒幕など誰もいないし、政治的背景もない。龍馬は寺田屋での同心射殺事件の懲罰を受けたにすぎない。
 もし、ある藩の武士が平和な江戸時代に奉行所同心を殺害したのなら、その藩の重役は藩に迷惑がかからないように自分で始末をつけよと、その藩士に命ずるであろう。いかに幕藩体制の秩序が崩壊していた幕末とはいえ、奉行所同心殺しの下手人を幕府がそのままにしておくことは常識的に考えても有り得ない。実行犯、今井信郎も、後年、あれは公務(警察活動)であったと繰り返し述べている。これは真実であろう。
 
 龍馬はたしかに武力倒幕に反対であった。その切り札として大政奉還に大きな期待をかけていたのは事実である。その前日にも、後藤象二郎に激励の手紙を送り、慶喜が拒否すれば海援隊を率いて慶喜を討ち取るとまで言っている。そこまで龍馬は精神的に高揚していたことがうかがえる。しかし、歴史の現実は龍馬の思惑をはるかに超えていた。
 大政奉還の10月14日、まさにその日に薩摩と長州に倒幕の密勅が出ている。薩長にとっては、慶喜が将軍職を朝廷に返上しようがすまいが、徳川政権を武力で打倒することは既定の方針であり、一遍のゆらぎもない。この密勅のことは龍馬には知らされていなかったようである。それは1ヶ月後の11月14日、暗殺の前日にも自身の新政府構想を熱っぽく大目付・永井尚志に語っていることからも分かる(中根雪江「丁卯日記」)。龍馬は完全に蚊帳の外だったのである。
 
 小松帯刀や西郷隆盛、桂小五郎も個人的には龍馬と親しかった(小松と西郷は龍馬とお龍の結婚の立会人になっている)。しかしそれはそれ、現実の政治の世界は別次元のものであった。龍馬がいかに新政府構想を発表しようとも、それはあくまで在野の人間のたわごととまでは言わないまでも、西郷や大久保にとってはなんら拘束を受けるものではないし、それらはすでに幕藩体制を否定する多くの人士によって語り尽くされてきたものである。(熊本藩士・横井小楠は龍馬の「船中八策」の下書きといえるものをすでに公表している。龍馬は小楠を3度訪問して話を聞いている)。
 これを龍馬の天才的なひらめき、オリジナルな発想であり、明治維新のプログラムは坂本龍馬によって創られたとの設定で小説にしたのは他でもない司馬遼太郎である。「明治維新は龍馬なくしてはなかった」 これも司馬氏の言葉である。この言葉が一人歩きし、坂本龍馬は国民的ヒーローに祭り上げられた。泉下の龍馬も苦笑しているのではないか・・・。

 <追記>
 ある作家が坂本龍馬について、西郷や大久保と比べれば三流の志士だと言っていた。しかし、この比較は根本的に間違っている。西郷や大久保は組織(藩)の人であるが、龍馬は在野(脱藩浪士)の人である。組織の人はその組織(藩)の実権を握れば巨大な権力を行使できる。高杉晋作がその良い例である。藩内クーデターにより実権を握った高杉は長州藩を武力倒幕に持ってゆくことが出来た。薩摩藩の場合は家老・小松帯刀が島津久光の信任を得ていたがゆえ、西郷、大久保も薩摩藩を動かすことが出来た。「小松帯刀なくして明治維新はなかった」 というのが歴史の真実である。『竜馬がゆく』では小松帯刀は脇役でしかない。
 実際、薩長同盟締結の場所は京の小松屋敷であり、薩摩藩のトップは小松帯刀であったはずなのに、西郷と桂二人が主役である。
 しかし、在野の人、坂本龍馬は数多い幕末の志士の中ではずば抜けた存在といえる。当代一流の人士と幅広く交流し、男女を問わず会った人々からは好意を持たれ、その行動力は群を抜いている。その人間的魅力こそが坂本龍馬がいまだに日本人を惹きつける最大の理由であろう。
 しかし、在野の人である以上、政治的には無力であった。龍馬が日本を分裂させかねない倒幕戦争をなんとか回避させようとした情熱は高く評価されるべきであるが、この龍馬の思いはその師である勝海舟が常々口にしていた言葉でもあった。日本が内戦状態になると、そこに西洋列強の介入を招き、日本が植民地になってしまう。それでも、内戦は避けられなかった。
 しかし、龍馬も人間であった。伏見寺田屋でのただ一度のミスが龍馬の命を奪った。明治に龍馬が生きておれば、権謀術策の政治の世界とは縁を切り、本人も言う世界の海援隊を率いて実業の道で大成したであろう。返すがえす残念である。
 
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龍馬暗殺に残された謎 ・ 最終章 その1

2010年11月11日 | Weblog
「(明治維新のため)天は竜馬を下し、そして天に召した」、これは『竜馬がゆく』の作者、司馬遼太郎の言葉である。今でも、これを信じて疑わない人が多い。ごく最近も、龍馬暗殺の黒幕として京都守護職・松平容保説が出された(礒田道史「龍馬史」)。
 容保説じたい別に新説でもなんでもなく、これまで出されてきた多くの黒幕説のうちの一人にすぎない。松平容保は尾張徳川家の支藩、美濃・高須家の生まれであり、終生、身命を賭して徳川幕府を守ろうとした人であり、最後に徳川慶喜に裏切られ、悲劇の主人公となったことは周知のとうり。
 はたして、その容保が坂本龍馬という名前を知っていたのかどうかも疑わしい。また、会津藩が龍馬を殺してなんの益があるのか。たしかに、龍馬は大政奉還を強く後藤象二郎に説き、この案が土佐藩から慶応3年10月3日に将軍・徳川慶喜に「大政奉還の建白書」として提出されたことは事実であるが、この将軍職を朝廷に返上する案は、早くから越前の松平春嶽とそのブレーンたちによって主張されており、龍馬のオリジナルではない。龍馬はあくまでも在野の人であり、幕末の政局をどうこう出来る立場の人ではなかった。この基本的な観点から再度龍馬暗殺事件を検証してみる。

(1)今井信郎の刑部省口書がすべてを語っている。
 函館・五稜郭で降伏した今井信郎は東京に護送され、同じく降伏した永井尚志、榎本武揚、大鳥圭介などと同じ牢に入った。その時、近江屋事件についての供述調書が残されている。
 その主要な部分を抜書きすると

「先年伏見捕縛ノ節 短筒ヲ放シ 捕手ノ内伏見奉行組同心二人打倒シ其機乗シ逃走候処 当節河原町三条下ル町土州邸向ヒ町家ニ旅宿罷在候ニ付 此度ハ不取逃様捕縛可致。万一 手ニ余リ候得ハ討取候様 御差図有之ニ付 一同召連出張可致。・・・」

 これを読むと、見廻組は前年の伏見寺田屋における龍馬の奉行所同心二名殺害の容疑で捕縛に向かい、抵抗されたら討ち取ってもよいとの命令を受けていたとのことである。つまり、龍馬暗殺の真犯人は?とか、黒幕は誰かなどの説が出る余地はもともとまったくないのである。
 ここで、問題となるのは、御差図(命令)をしたのは誰かということである。このことについては口書の最後のところに、旧幕府では閣老重職の命令を御差図と言うとあり、また見廻組は京都守護職付属なので、松平肥後守(容保)の差図かもしれぬが、自分は知らぬと供述している。幕閣か守護職か、この二つに絞られた。

(2)京都見廻組の真の差配役は
 もともと見廻組は井伊大老暗殺事件に衝撃をうけた幕府が、幕臣から選抜して編成されたもので、要人警護が本来の任務である。それほど世襲の旗本はあてにならなかったのである。
 文久3年(1863)将軍・家茂が上洛する。その前年、幕末京都の治安維持のため新たに設置されていた京都守護職(会津藩)の配下という形で、京都見廻組が編成されたが、時代は将軍、老中、大目付などが京都に出張ってくるという異常事態となり、見廻組も幕臣である以上、その支配下に置かれるのが当然であった。
 
 つまり、今井信郎の言う「京都守護職付属」というのはたてまえ上のことであり、実際、京都見廻組は二条城を本拠として、要人警護の任に当たった。このことを単的に証明している事実は、会津藩の公用日誌である『京都守護職始末』には見廻組についてほとんどその記述がなく、唯一、元治元年の(1864)蛤御門の変に際して、各藩配置部署に 「伏見長州屋敷に蒔田相模守(見廻組の差配役)が入る」 とあるだけである。この日誌には会津藩預かりである新選組のことはこと細かく書かれているのにである。つまり、幕府が事実上京都に移ってきている現状では、見廻組は会津藩の支配下から離れていたと会津藩自身が認識していたことに他ならない。
 
 もし、龍馬暗殺を松平容保が命じていたのなら、当然その詳しい経緯の記載があってしかるべきである。当時、会津藩の公用日誌に目を通すことのできるのは藩主・容保と重臣たちだけだったのだから。このことから今井信郎の孫、今井幸彦氏はその著『坂本龍馬を斬った男』(新人物文庫)の中で、京都守護職の線は消えると述べている。さらに今井幸彦氏は、祖父の供述 「だれの御差図かは知らない」 について、これは取り調べる側と祖父との談合上の文面だとしている。真の命令者を検察と被告の合意のうえ隠した。つまり、これ以上追求しないことにしたのだと。さすが新聞記者をしていただけあって卓見であると思う。ただ、その理由については事実誤認がある。それは何か・・・。

(3)今井信郎はなぜ処刑されなかったのか
 後年、今井は函館・五稜郭で龍馬殺害を自供したとき、近藤勇のように即刻斬首されると思っていたと述懐している。これを助けたのは官軍の参謀であった薩摩の黒田清隆であり、東京での判決も禁固刑という甘い処分であった(明治5年には出獄)。これにも西郷隆盛の意向が働いていたと巷間言われている。おそらく事実であろう。
 薩摩藩は早くから近江屋事件は幕閣の御差図であろうことは十分承知していたふしがある。京都留守居役・吉井幸輔(その孫が鹿児島の小松帯刀邸で龍馬とお龍を見ている)が近江屋事件の直前にもそのことで龍馬に土佐藩邸に移るように忠告している。
 では、なぜ薩摩藩は今井信郎の命を救ったのか。そこで、龍馬暗殺には薩摩藩が背後でうごいていた、西郷・大久保黒幕説がどれだけ出されてきたか枚挙にいとまがない。これらはすべて荒唐無稽の妄想である。武力倒幕に反対する龍馬が邪魔だったから消した。何度も言うが、龍馬には幕末の政局を左右する力などあるわけがない。坂本龍馬は最初から最後まで在野の人だったである。

 では、真の理由はどこにあるのか。
 この答えは単純明快、勝海舟と西郷隆盛の間で交わされた江戸無血開城の取り決めにある。 徳川慶喜の首を刎ねると息巻いていた西郷も、あっさりと勝の要求を受け入れ、慶喜は謹慎、幕臣はだれも処罰されないという世界の革命政権史上でも類をみないほどゆるやかなものであった。今井信郎も幕臣(旗本)であり、北関東や五稜郭で官軍に抗戦したことは罪に問われたが、京都での龍馬と中岡殺害の件と併せてたった3年の禁固刑で済んだ。
 この判決を下したときの刑部省のトップ(刑部大輔)は土佐藩上士の佐々木高行であったので、今井を処刑しないのはおかしい。これは佐々木の背後に西郷の影がある証拠であり、龍馬暗殺の黒幕はやはり薩摩だとの妄説がいまだに繰り返されている。西郷が佐々木高行に圧力をかけたとすれば、勝との約束を守らせたことであろう。西郷は律儀に約束を守る「情」の人である。それがゆえに、城山の露と消えた。
 同ブログの「赤報隊はなぜ偽官軍にされたか」を読んでいただければ分かるが、西郷は自分が許可した赤報隊に一度は京に戻れと指示しているのである。それを無視した相楽総三にすべての責任がある。

 では、近藤勇と幕臣・小栗忠順の場合はどうか。この二人は斬首されたではないかとの反論が出そうであるが、近藤勇は幕臣と見なされなかったということに尽きる。江戸時代という差別的階級社会が生んだ悲劇と言える。 新選組は幕府と会津藩にただ利用されたにすぎない。
 小栗忠順の場合は主戦派ではあったが、江戸開城のあと自身の領地、上州(群馬県)権田村に帰った。その後、北関東での脱走幕兵による争乱を裏で指揮しているのは小栗だとの噂が流れ、小栗は江戸城の御金蔵から大量の千両箱を運び出したなどの話がまことしやかに囁かれていた。この根も葉もない噂を本当に信じ込んだかどうかは分からないが、当時、高崎まで来ていた東山道官軍参謀・伊地知正冶(薩摩)は謀略でもって小栗親子を高崎の総督府に呼び出し、なんの弁明も許さず即刻首を刎ねた。西郷や板垣であればこんなことは起こりえなかったであろう。
 小栗忠順の領地が上州・権田村であったことと官軍参謀が伊地知正冶であったことがこの悲劇を生んだと言える。今、権田村の地に「罪なくして斬らる」との小栗親子の追悼碑が立っている。

(4)寺田屋遭難と薩長同盟
 慶応2年1月24日、龍馬が寺田屋で伏見奉行所の捕り手に襲われたのは幕府が薩長同盟の動きを察知していたからだと言われている。龍馬はすでに幕府にとって要注意人物としてマークされていた。その証拠はあるというのが通説である。本当だろうか。遠く下関や長崎での薩摩と長州とのやりとりを幕府はどうやって知りえるのか、はなはだ疑問である。薩長両藩と龍馬周辺に公儀隠密でもいないかぎりそれは不可能である。その証拠の史料を検討してみる。

 その1. 肥後藩京都留守居役・上田久兵衛の手記(「京攝日録」)
 慶応元年12月3日 上田は老中・小笠原長行と板倉勝静に大坂城に呼ばれ、会津藩の小野権之丞と共に面談する。そのときの記録 「坂下良馬潜匿の一条、薩人の謀略等、密々下問」(坂下良馬は坂本龍馬のこと)、薩人の謀略とは薩長同盟のことだというのが定説である。
 はたしてそうだろうか。桂小五郎が薩長同盟締結のため京都に向かったのは慶応元年12月27日、同じく龍馬と三吉慎蔵が下関を出立したのは翌慶応2年1月10日、そして16日に兵庫に着き、18日に大坂へ入る。「潜匿の一条」がこの龍馬の行動をさすものではないことは一目瞭然である。上田久兵衛が大坂城で老中にあったのは一月半も前のことである。
 
 この「潜匿の一条」とはなにか。それは長崎での亀山社中の活動と思われる。亀山社中は龍馬が薩摩藩を利用して作った日本最初の商社だと思い込んでいる人が多いが、実際は薩摩藩の家老・小松帯刀が作った偽装組織であり、資金のすべては同藩が出していた。小松帯刀は神戸海軍操練所が廃止され、行き場のなくなった龍馬たちを勝海舟に頼まれ(勝が直接会って頼んだのは西郷だが、家老・小松の承認がなければ、藩から公金が出るわけがない)。
 小松帯刀はかれらを利用してこの偽装商社を作ったのである。目的は長州との同盟であり、そのため龍馬を高杉晋作のもとに送りその意志を伝えたのである。龍馬はこれに十分答え、その後は自分自身が積極的にこの同盟の締結に奔走するようになる。
 
 この亀山社中の活動は当然、幕府の長崎奉行から幕閣に報告されていたはずである。浪士集団が巨額の金を使って、武器商人グラバーから銃器を購入しいったいどこへ運んでいるのか。 長崎港の船の出入りの監視は長崎奉行所の管轄であり、その船が長州・下関に行っていることはすぐ分かることである。対岸の小倉藩は下関の監視の任務を幕府から命じられていたのであるから。この一連のうごきを老中から聞いた上田久兵衛は 「坂下良馬潜匿の一条、薩人の謀略」 と日誌に記したのであろう。
 
 幕府による第二次長州征伐発動の理由は、三人の家老の首を差し出して恭順した長州藩が、その後、武備を整え公然と幕府に反抗する姿勢を示したことにある。亀山社中の背後に薩摩藩がいることも長崎奉行からの報告で幕閣は知っていたはずである。そしてそのリーダー、坂本龍馬の名前も。だからと言って、まさか薩摩と長州が同盟して幕府に戦争を仕掛けてくるとはその時点では夢にも思わなかったであろう。なぜなら、長州再征で長州藩は取り潰す予定であったのだから。この肥後藩の上田久兵衛を大坂城に呼んだ老中・小笠原長行こそ、第二次長州戦争で小倉口の幕府軍総督を務めた唐津藩主にほかならない。

 その2.幕臣・大久保一翁の発言
 薩長同盟締結のため龍馬と三吉慎蔵は慶応2年1月10日下関を立ち、16日兵庫着、18日には大坂に入る。その日の夜、幕臣・大久保一翁(忠寛)に会っている(「三吉慎蔵日記」)。
 その時の大久保の発言として 「坂本等のことは探索厳密にて、目下長州人同行にて入京の旨あい知れ、その沙汰あり、手配りいたしたるに付き、早々立ち退き候ほうしかるべし」 と日記にある。この記事こそ幕府が薩長同盟を察知していたなによりもの証拠だと言われてきた。はたしてそうだろうか。
 日記といっても、旅先ではメモ程度しか書かないものである。後に、そのメモを元に一冊の読み物に仕上げるのが普通である。この一文は相当粉飾がある。16日に兵庫について18日に大坂に入っている。その日の夜には幕臣・大久保一翁の元に龍馬一行の情報が届いていた。 そんな馬鹿な話があるわけがない。龍馬の顔も知らない幕府の密偵は365日兵庫の港で見張っていたのだろうか。それとも、下関からすでに密偵は龍馬と同じ船に乗って兵庫まで来たのだろうか。
 大久保一翁は勝海舟と同じ考えを持つ開明派の幕臣であった。すでに隠居の身であったが、長州再征にあまり乗り気でなかった将軍・家茂により、主戦派の慶喜や幕閣を抑えるために召し出された。その説得のかいなく幕府は長州戦争に突入してしまう。大久保一翁は慶喜にとってはけむたい存在であった。後に明冶新政府に仕え、東京府知事にまで栄達している。
 おそらく、大久保は長州再征が避けられないことを龍馬に告げ、すでに幕府の洋式歩兵隊が大坂に駐屯しており、長州人は密偵(探索方)として捕縛、殺害されるおそれがあることを話し、すみやかに退去された方がよいとの忠告したものと思われる。
 
 その後、歴史が逆転し薩長の時代となった。新政府の役人となっていた三吉慎蔵は、尊敬する龍馬は常に幕府に命さえ狙われる大物であったことにしたかったのであろう。それで、日記に大久保一翁の言葉としてあのように書いたと思う。明治の元勲の伝記類には粉飾が多いことはよく知られていることである。
 
 それと最近、寺田屋で龍馬を襲った伏見奉行所が京都所司代に送った報告書の一部の写しなどが発見され、新資料などとマスコミ報道されているが、私はこれらはすべて後世のニセモノであり、史料的価値はないと思っている。全文の写しならまだしも、なぜ一部だけ抜き書きする必然性があるのかはなはだ疑問である。それに、龍馬一行を追っていた幕府の密偵の報告書の写しなるものまであるが、これらもすべてニセモノである。それには「神戸村の塾跡に居住せし誰々・・」とあり、「塾跡」とは神戸海軍操練所の跡地のことと思われるが、神戸海軍操練所は幕府の公的機関であり、個人や民間の塾ではない。勝海舟が土佐藩大坂藩邸への手紙で、龍馬を持ち上げるため「塾頭」と表記したにすぎない。完全にボロが出ている。今日でも忠臣蔵の偽グッズが出てくるように、国民的ヒーローとなると様々なニセモノが出回るものである。
 
 三吉慎蔵の日記のもう一つの矛盾点は、伏見へ向かう大坂天満の八軒茶屋の船着場で、長州浪士取締りのため出張ってきていた新選組に、薩人だと言ってすり抜けたと書いていることである。龍馬一行は16日兵庫上陸後、幕府の密偵に追尾され、18日に大坂へ入ったその日の夜には将軍・家茂の側近、大久保一翁にまでその情報は達していたのに、なんと長州浪士取締りの最前線に立つ新選組には伝わっていなかったことになる。電話もFAXもない時代に、米CIA顔負けの諜報能力を持っていた幕府が、最後にポカをやらかしたと言ってしまえばそれまでだが・・・。
 
 三吉慎蔵は龍馬のボディガードだったとされているが、実際は、高杉晋作の命で上方の幕府軍の動向を探るのが真の目的だったと思われる。そのような人物と同行した龍馬は大胆だったのか、はたまた軽率だったのかなんとも言いようがない。
 そうして、薩長同盟に立ち会った3日後の1月24日、運命の日を迎える。だれかが長州浪土らしき者が寺田屋にいると奉行所に密告したのであろう。長州浪士取締りの高札は京・大坂に出ていた。そのため、新選組が大坂まで出張って来ていたのである。
 もし密偵によって龍馬の行動が逐一監視されていたのなら寺田屋に着いた当日でも伏見奉行所は踏み込めたはずである。このとき被弾して死亡した二名の同心の報復が翌年の近江屋事件へと繋がってゆく。これまで龍馬の寺田屋遭難は薩長同盟と結び付けて考えられてきたが、幕府の長州再征の動きと関連させて理解するのがより常識的である。

(5)佐々木只三郎に御差図したのはだれか
 今井信郎は見廻組組頭・佐々木只三郎の御差図で近江屋に向かったと供述している。では、佐々木に御差図した人物とは誰か・・・。
 ここで、佐々木只三郎の実兄で会津藩公用方・手代木直右衛門の証言が注目される。(佐々木只三郎はもと会津藩士で旗本佐々木家に養子にはいった)。それによると、直右衛門が明治36年死去する直前に、近江屋で坂本龍馬を殺害したのは実弟の佐々木只三郎であると語ったとのこと、それを命じたのは某諸侯であると肝心の命令者は明かさなかったという。この某諸侯こそ、自身の主君・松平容保のことではないかとされている。かっての主君・容保をかばったのだと。この証言の根拠には二つのルートが考えられる。
 
 (1)主君・容保が手代木直右衛門に差図し、手代木が直接見廻組に命じた。
 (2)京都守護職は近江屋事件と何の関係もないが、手代木が個人的に実弟から聞いた。 
 
 ここで、京都見廻組の実際の差配役は二条城の幕閣であったことは先に述べた。(1)の線は消える。おそらく、戦雲が迫ってきた慶応3年末、見廻組が二条城を退去する前に、今生の別れとして手代木は実弟・佐々木只三郎と京の料亭で一杯くみ交わした。そこで、龍馬と中岡殺害のことを弟から打ち明けられた。 当然、御差図した人物の名も明かされたと思う。しかし、手代木直右衛門も最後までその名を口にすることはなかった。武士の一分を守ったのであろう。事実、佐々木只三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死し、兄弟は今生の別れとなった。
 見廻組は鳥羽・伏見の戦いでは、大坂城に集結していた幕臣の遊撃隊に加わり、最後まで幕臣としてその使命をまっとうした。一方、新選組は伏見の奉行所を本陣としていた会津藩と行動を共にしている。このことからも、京都見廻組が会津藩の支配下にはなかったことを証明している。(2)のルートしか考えられない。守護職御差図説はやはり消える。

 もう一つ怪しげな文書がある。これは明治39年に世に出たものであるが、近江屋事件の前日、幕府側の不穏な動きを察知した寺田屋のお登勢が、龍馬に藩邸に移るように手紙で知らせた。その返事として、龍馬が幕閣永井玄蕃(尚志)と守護職松平肥後守(容保)に面会し、今では何も心配することなく安心するようにとお登勢に伝えたというものである。この文書を出してきたのはお登勢の娘婿の男であるが、肝心の龍馬の手紙そのものは伝わっていない。
 これとて、先の幕府密偵の報告書同様、論評にも値しない偽文書である。船宿の一女将がどうしてそのような情報を手に入れたのか。明治も後半になってくると坂本龍馬は有名人となり、様々なニセモノが世に出回るようになる。最近の伏見奉行所の京都所司代への報告書の写しなどもそうであろう。明治から大正にかけては、まだまだ江戸の文化が残っており、このような文書を書くことの出来る人はどの町にもいたのである。

 やはり、佐々木只三郎に御差図したのは幕閣、大目付・永井尚志しか考えられない。龍馬は事件の4日前の11月11日に二条城に永井を訪ねている。その前日14日にも再度永井の元に行っている。このことは、翌15日、事件当日永井の元を訪ねた越前藩士・中根雪江の日記(「丁卯日記」)に詳しい。龍馬が武力倒幕に反対である持論を永井に披露したことが書かれている。要約すると、兵力を用いるのは朝廷にあい済まないとか、兵力によらず事を成すのが道理にかなっているなど、これに対し永井は至極ごもっともと同意したことなど・・・。最後に中根は 「龍馬のノ秘策ハ、持論ハ、内府公関白職ノ事カ」 と結んでいる。
 つまり、内府(徳川慶喜)を新政府の首班とする諸侯連合政権(所謂、列候会議、議長は慶喜)構想であった。
 龍馬が書いたと言われている有名な「新政府綱領八策」の中の、新政府の首班OOOは「慶喜公」であることはこの中根の日記から明らかである。
 しかし、龍馬は永井尚志を誤解している。永井を勝海舟や大久保一翁と同じ考えの持ち主と思っていたようだが、永井は頑迷な幕権論者であり、性格的にも陰湿である。第一次長州征伐のとき、幕府軍総督・尾張藩主徳川慶勝が、三家老の首でもって終結とし、藩主親子は寛大な処分としていたのに、あとからやってきた永井が藩主親子を広島に呼び出し、首を刎ねてしまえと主張し慶勝を怒らせた。このため、第二次長州戦争には尾張徳川家は出兵を拒否した。

 龍馬は11月11日付の芸州藩士・林謙三宛の最後の手紙で、永井尚志を 「ヒタ同心」(同じ考えの人) と書いているほどである。龍馬のご高説を、「ごもっともごもっとも」と頷いて聞きながら、その裏で見廻組に龍馬殺害を命じていた。その理由は前年の寺田屋での同心殺害に対する報復であった。永井は大目付になる前は京都町奉行の職にあった。このことが強く影響していたのであろうことは想像にかたくない。奉行所同心はかって自分の直属の部下であったのである。
 永井にとっては龍馬は所詮在野の人間であり、薩長との戦争は避けられないと思っていたであろう。龍馬の説く新政府構想など絵に描いた餅ていどにしか思っていなかった筈である。そこに理想家坂本龍馬の人間的弱点があるように思う。(その2に続く)

 

 
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