荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

旧宣教師館の書斎と寝室1

2018年07月31日 | 散文
浴室から廊下伝いに書斎に来ました。




廊下を振り返ります。


愛用の机が保存されています。


ベッドがあります。




どうして書斎にベッドが?
隣にある寝室に入ってその訳が分かりました。


寝室は展示室になっていました。


割竹の天井です。
「マッケーレウ゛が住居を構えた頃の雑司が谷地域は、現在の雑司が谷1~3丁目、南池袋1~4丁目、東池袋1・4・5丁目(部分)、西池袋1・2丁目にほぼ相当する地域でした。江戸時代には雑司ヶ谷と呼ばれ、『雑司ヶ谷』という表記は、昭和41年(1966)の住居表記施行直前まで使われました。


明治時代の雑司が谷地域は、明治18年(1885)に目白駅、同36年には池袋・大塚駅が開設、東京の中心と郊外が繋がる鉄道が開業し、駅周辺は都市化が進みます。こうした交通の利便性から次第に人口が増加し、大正12年(1923)の関東大震災では被災地から多くの人々が移住したこともあり、大正時代の終わりには住宅地としての性格を持つようになります。


しかし、現在の旧宣教師館周辺は、大正14年に王子電気軌道(現在の都電荒川線の一部)の雑司ヶ谷停留所が開業するまで、鉄道の届かない地域でした。マッケーレウ゛は、明治40年(1907)、この地に住居を構えるとともに雑司ヶ谷学院を開き、若者たちにキリスト教を伝導したのです。


雑司が谷地域の特徴は、芸術や文化、社会主義に関わる人々が集住したことです。大正時代になると、明治時代の公教育が批判され、子供の世界観を重視する自由教育運動が起こります。それは、鈴木三重吉による『赤い鳥』創刊などの児童文学運動の時代と重なります。雑司が谷地域には、この児童文学者や芸術家などの文化人たちが移り住み、この地で多くの成果を残しました。


マッケーレウ゛は、昭和3年(1928)に雑司ヶ谷幼稚園を開園し、幼児教育に力を注ぎます。それは、雑司が谷地域から生まれた文化的・社会的風潮も影響していたのかもしれません。」
寝室の窓からの景色です。


この話、続きます。
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旧宣教師館の浴室

2018年07月31日 | 散文
階段を上がります。


上がった所が浴室です。




今は何に使っているのでしょうか?
管理人の事務室でしょうか?
とにかく誰も居ないので、訊きようがありません。


部屋を出て廊下を行きます。


廊下からの景色です。






浴室を振り返ります。
好いです。
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薮上の町から藪下通りへ、

2018年07月30日 | 散文
「千駄木ふれあいの杜」脇の石段を上がります。


崖の途中に民家があります。
こんな場所です。




上がった所は「旧駒込千駄木町」です。


上がった所の住宅街を、ある目的があって東へ行きます。


すぐに石段があります。
南側は先程のふれあいの杜脇の石段です。
つまりここは、本郷台東崖縁です。


左右を見ながら石段を下ります。
右の民家の庭木が立派です。


左側は更地になっています。


崖下に路地があります。


振り返ります。


左右を見ます。




この路地が「藪下通り」です。


見上げるのは、先程の石段脇の民家の庭です。


つまり、あの崖の上の「旧駒込千駄木町」が「薮下通り」の上の、曰く「薮上町」なのです。



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「千駄木ふれあいの杜」へ行ってみた。

2018年07月30日 | 散文
千駄木の住宅地の奥に、鬱蒼とした杜があります。
大きな椎の木と楠が見えます。


「千駄木ふれあいの杜」です。


注意事項やオリエンテーションの案内があります。






小さな門があります。


遊歩道を行きます。
当然、誰も居ません。








注意書きがありますが、おそらく欠けた上半分は「まむし」だと思います。


薮蚊が一杯集まって来ます。
腕で振り払いながら遊歩道を行きます。


立ち入り禁止地区が至る所にあって、行動が不自由です。




「江戸時代、この辺りは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が三代将軍徳川家光から賜った下屋敷で、現千駄木1丁目一帯に及ぶ広大な屋敷でした。


そこからの眺めは、「太田備牧駒籠別荘八景十鏡誌・画巻」(詩:林鵞峯・筆:林梅洞・画:狩野安信)に描かれています。
そこには涌き水を源泉とする池があり、明治以降これは「太田が池」と呼ばれました。近くには森鴎外、夏目漱石らの文人が住まいを構え、その作品の中に当時の風景を書き残しています。


昭和の初めまでに「太田が池」はなくなりましたが、昭和40年代まで屋敷内の庭には涌き水が残っていました。


しかし時代の変遷とともに、その涌き水も涸れ、本郷台東縁崖線の姿を伝える崖地の緑も、現在は「千駄木ふれあいの杜」を残すのみとなりました。


「千駄木ふれあいの杜」は、所有者である太田氏(道灌の子孫が現存していることに驚きました)と文京区との間で契約が結ばれ、平成13年10月より市民緑地として一般公開されてきましたが、できる限り樹林を後世まで残すよう配慮することを条件として、平成28年3月に太田氏より区に寄附されました。
区ではその意向に沿うよう、都市に残る多様な動植物の生存空間(生物多様性)の保全をする都市公園(都市林)と位置づけ、多くの方が自然に親しんでいただけるよう公開しています。」


出口にノートがありますが、蚊に追いかけられているので逃げ出しました。


公園の脇の崖に石段があります。
行ってみます。

コメント (7)
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旧宣教師館の教会事務所

2018年07月29日 | 散文
旧宣教師館に教会事務所があります。


現在は「赤い鳥コーナー」になっています。


雑司が谷は文豪が暮らした街で、児童文学にゆかりの街です。
後ほど紹介します。


窓から庭がよく見える部屋です。








児童文学書もあります。


部屋から廊下に出ます。
窓が大きく取られています。


窓と庭の景色が好いです。


階段があります。

2階へ行きます。




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旧宣教師館の食堂

2018年07月29日 | 散文
食堂を見学します。


「宣教師マッケーレウ゛は、明治25年(1892)に来日しました。そして、明治40年から太平洋戦争開戦の直前にアメリカへ帰国する昭和16年(1941)10月までの34年間を雑司が谷の地で暮らし、キリスト教の伝導に務めました。


明治時代の初めの日本は、近代化を指向した明治政府によって欧化政策がとられていました。そのため、欧州諸国との関係から、江戸時代まで禁教とされてきたキリスト教を許容しなければならなくなります。明治6年に切支丹禁制の高札が撤去され、制限つきながら信教の自由が容認されると、キリスト教は西洋文化の象徴と考えられるようになりました。宣教師たちは、その伝導者として受け入れられたのです。






しかし明治時代中期以降の日本は、大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇主権の国家体制が確立する時期でもありました。また、幕末以来の不平等条約改正運動は、国内のナショナリズムを高め、外国人や外国の文化を排斥する運動につながりました。こうして、キリスト教はしだいに苦しい立場となっていくのです。マッケーレウ゛の来日は、このキリスト教苦難の時代と重なっています。


しかし、彼ら宣教師たちの活動は、社会救済事業や教育の分野で、日本社会に多くの影響を及ぼしました。キリスト教の影響を受けた人々の中には阿部磯雄、片山濳のように明治時代から大正時代にかけて、慈善事業を通じて社会主義運動を推進する原動力となる人物も現れます。


マッケーレウ゛は、昭和16年の帰国命令によって帰米した後、再び雑司が谷の地を踏むことはありませんでした。一方で、自国に帰省せず日本に留まった宣教師たちは、昭和20年8月15日の終戦まで、さらなる苦難の時代を迎えることになります。」


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神宮球場納涼ナイター

2018年07月28日 | 散文
昨日台風接近中の東京で、野球観戦に行きました。
随分久しぶりに、涼しい夕方です。


弁当を食べて、ビールを飲んで、声を上げて、空は、「エッ?!」夕焼けです。
明日は晴れかな?


5回が終わると、恒例の花火です。


バックスクリーンの絵の方が鮮やかだけど。
順延になった墨田川花火の代わりとして観ます。


あっという間の300発です。


阪神ファンも大喜びです。




試合の結果?
聞かないでください。




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夏の旧宣教師館

2018年07月28日 | 散文
曇り空の東京です。
おかげさまで、ちょっと凌ぎやすいです。
この看板に遭遇しました。


春に行き当たってから2度目の遭遇です。
次はもう、迷わないで行けます。


このレリーフがある路です。


赤煉瓦の路です。




玄関先の姿です。


今日も玄関が開いています。


にわか雨が降りそうな空です。
思い切って入ってみます。




誰も居ません。


先ずは、居間です。


暖炉があります。


居間の窓からの景色です。


次は食堂へ行きます。
この話、続きます。
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隅田川花火大会の準備完了。 さあ、いつでも来い!/2018年

2018年07月27日 | 散文
今日の桜橋です。


上流方向です。
長閑な隅田川です。


下流方向です。
いよいよ待望の隅田川花火大会が、明日に迫りました。
隅田川花火大会の第二会場はこの橋のすぐ下流、この水面に発射台が設営されます。


左右の墨堤を中心にして見物場所になります。
勿論、既報のとおり街中各所が見物場所になります。




この時間普段は逆光のスカイツリーが撮れるのは、曇り空だからです。


桜橋は花火大会当日は午後から通行禁止になります。


桜橋を危険防止の金網越しに見ます。


墨堤の様子です。


土手の上は、一方通行で、立ち止まり禁止です。
準備完了です。


水上テラスへの階段も使用禁止です。


臨時トイレも設置して、案内矢印も完了です。




「さあ、いつでも来い!」の体制ですが、台風が来ましたね・・・。
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真夏の根津神社/2018年

2018年07月27日 | 散文
根津神社は真夏の昼下がりが一番美しいと思っています。
それならと、陽射しいっぱいの今日やって来ました。


おお!楼門が予想以上の輝きです。




一方、舞殿は寂れの美学を秘めながら、陽射しの強さを伝えています。


この季節のこの時間帯のこの景色が好きです。
光が溢れて、対照的に影が濃くなる季節と時間です。


透かし塀の、光と影の風情です。




乙女稲荷にも光が溢れます。


乙女稲荷の池前から、再び透かし塀へ目を転じます。










社務所も真夏の光の下にあります。


社務所前から舞殿へ行きます。


舞台越しの楼門に光が溢れます。




唐門へ向かいます。


拝殿が輝きます。


振り返ると、楼門が輝きます。


そして、この季節のこの時間帯のこの景色が好きです。

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猛暑日の根津教会/2018年

2018年07月26日 | 散文
真っ青な空に、クッキリと教会が立っています。


一方、太陽光が射さない玄関先は、ちょっと秋の黄昏れの風情があります。


壁に張り付いた様な窓です。
日陰だからでしょうか、立体感がありません。


そんな微妙な陽射しの中で、長屋と共存する教会の風情です。
キリスト教が下町に馴染んだ風景です。


バイクがあっても生活感の無い長屋の玄関先と、元々生活感の無い教会の窓です。


陽射しを正面に受けないこの景色は、猛暑日らしく無いけど、ちょっと好いです。

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猛暑日の平賀源内の墓

2018年07月26日 | 散文
隅田川に架かる白鬚橋を西に渡って坂を下ってすぐ、明治通りにこの石碑があります。
陽射しが強いのが分かると思います。


この角を曲がってすぐに、平賀源内の墓所があります。
「国指定史跡」でもあります。




塀の中は涼しげです。


入り口の前には案内板があります。


入り口が鉄扉でカンヌキが掛かっていますが、鍵は掛かっていません。
従って、自由に入ることができます。


入ったら、いつも扉は開けておくことにしています。
だって、誰かに閉められたら出られなくなるもの。


門の脇には、各種墓掃除の道具が置かれています。


道具が錆び付いている割には、園内は手入れが行き届いていて涼しいです。






平賀源内の墓です。






後ろにあるのは従僕の墓と聞いたことがあります。


更に奥へ行きます。


奥には、源内が生まれた旧高松藩最後の藩主の息子である松平頼寿伯爵(後の貴族院議長)の「平賀源内先生逝かれて百五十年」で始まる額文があります。

四国の北側の瀬戸内海に面した土地は、温暖で風水害地震が少なく物成りが豊かなので、徳川の親藩が置かれていました。西条藩は徳川御三家紀伊藩の分家だし、松山と今治藩は家康の異父弟兄弟がそれぞれの藩祖です。
昭和初期になっても、徳川家に繋がる殿様とその家来の封建気分が社会にも残っていたのでしょう。
松平伯爵は、150年前に死んだ源内を旧領の家来気分で揮毫したのだと思います。

裏側にもびっしりと刻まれています。


その後ろには、数基の墓石があります。


家族の墓と聞いたことがあります。


そんなこんなを見学しながら、酷暑の東京でホッと一息涼をとっているいる次第です。

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墨田川花火大会の準備/2018年ー2

2018年07月25日 | 散文
前回の続きです。

駒形橋です。
ここも車道側のみ完了しています。


駒形橋から見るスカイツリーです。


駒形橋の西詰めに有名な「浅草むぎとろ」があります。
ここの交差点に座って花火を観た事があります。
左右の道路は通行止めになります。
お尻の下のアスファルトが熱かったのを覚えています。


蔵前橋の様子です。




ここは「浅草御蔵跡」です。


「蔵前」という町名の由来の説明板があります。
「浅草御蔵跡碑 台東区蔵前一丁目一番 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買上げ米などを収納、保管した倉庫である。大阪、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御蔵米ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給まい用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。

天和六年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このためそれ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716ー36)頃までに浅草御蔵に吸収された。 
江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を『御蔵前』といい、蔵米を取り扱う米問屋や札指の店が立ち並んでいた。現在も使われている『蔵前』という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
碑は、昭和三十六年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。 平成十一年三月 台東区教育委員会」

蔵前橋から見る隅田川です。


厩橋に来ました。


車道側の工事が完了しています。


「厩橋景観照明工事のお知らせ」がありました。
これは楽しみです。


両国橋に来ました。
古くは「両国の花火大会」が現在の「隅田川花火大会」の原形です。


ここでは道路側と川側両方の工事が完了しています。


随分前に、ここに座り込んで観ました。
立ち止まり禁止ですが、最前列は通行の邪魔にならないからでしょうか、お巡りさんは見逃してくれましたが、居心地は悪かったです。


さて、今年は何処から観ましょうか?

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隅田川花火大会の準備/2018年-1

2018年07月25日 | 散文
浅草の街にこんな看板が出ていました。
来る28日(土)が花火大会です。


スカイツリーに繋がる言問通りが工事中です。
猛暑日の日にご苦労様です。


毎年行われている花火対策の工事です。


工事は車道側ですが、続いて川側も行われます。


橋の上は、立ち止まり禁止ですが、見物客は立ち止まりたい絶好のビューポイントではあります。


白鬚橋へ行ってみました。


ここでは道路側と川側の両方の工事が完了しています。




吾妻橋へ来ました。


車道側の工事が完了していました。


川側はまだです。


この話、続きます。


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京島と押上を行ったり来たりの夏/2018年ー4

2018年07月24日 | 散文
6つ目の踏み切りに来ました。


押上へ渡ります。


振り返ります。


京島の街です。


踏み切りから高層マンションを見ます。


京島に渡って踏み切りを振り返ります。


電車が来ます。


京島2丁目の路地を行きます。
高層マンションが正面に見えます。
このマンションは京島の街のどこからでもよく見えます。


線路沿いの路地を、四ツ目通りに来ました。


四ツ目通りから見る押上のスカイツリーです。
この踏み切りが最後の7つ目です。


四ツ目通りは「ガーデン通り商店街」でもあります。


京島を振り返ります。


遮断機が下ります。


電車が来ます。


電車を送ります。


京島の路地を行きます。
高層マンションを見上げる街です。


このマンションは、京島の象徴的建造物です。


新旧共存の姿です。


以上で京島と押上の散策を終わります。
お付き合いありがとうございました。


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