日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

ゆらめく春。

2021-03-27 22:22:00 | 日記
とても良い天気が続いています。今日などは初夏のような陽気です。

金曜日は、週一の移動販売でやってくる発酵玄米メインのお弁当を買いにご近所へ。

そこへの道すがら、桜が満開でミモザも咲き、春爛漫なご近所です。

おいしい発酵玄米のカレーを昼食用に買い、夜の分のお弁当も購入。

そうするうちに、夫が早めの帰宅でした。

この春は、引っ越しこそしませんが、夫は異動でした。

他にも、少し、色々な変化が続く春になりそうで、落ち着くには、夏、もしかしたら秋くらいまでかかるかもしれません。

変化は変わるに任せるしかないので、私自身は淡々と今まで同様の暮らしを継続するだけです。

春が来て、いつの間にか初夏といつも同様に季節は巡ります。

より良い年に、と新年を迎えるような気持ちの春です。




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福岡で発達障害と心の病についての講演会がありますよ!

2021-03-24 22:23:00 | お知らせ
先日、友人と「世の中のお仕事って結構アバウトでも回ってるよね」というような話をしました。

例えば、こちらが二度手間にならないようにお店に提案してみたら、「お客様、その点は大丈夫です!」と太鼓判押されて安心して戻ってきたら、数週間後「お客様〜、実はー」と言ってくるようなこと。

しかも、お店都合の日程だったり。

それで、「学校やなんかでこの子きちんとできない、なんて、まぁ、どうにかなりそうだよね」というような話で終わったのでした。

案外、社会は緩いとこも交渉で乗り切れたり、人同士でフォローし合ったり結構していると思うのです。

社会はサラダのように、色々な人がいて、彩り豊かで、楽しい場所ですよね!

ところが、社会は失敗したら抹殺される所のように煽り気味な教育。

発達障害?それじゃあ生きづらいね、繊細だと心が傷つくね、辛いね、休んでいいよと優しくわかった顔する精神科医療界隈。

それらは、本当に個人の抱える問題を解決に導く手伝いをしてくれるのでしょうか。

4月10日に福岡で「発達障害と心の病について考える講演会」というものが開催されます。


講演会は2部に分かれていています。

1部は伏見美穂さんの「発達障害と診断された過去を振り返る」

2部が小倉謙さんの「心の病が治らない本当の理由」

以前、伏見さんが主催された『発達障害のウソ』や『発達障害バブルの真相』の著者米田倫康さんをお呼びになったオンライン講演会を聞きました。

そのとき、伏見さん自身も周りと違いを感じ精神科に行き、投薬されるようになり、良くならず不調が不調を呼ぶように生活が変わっていき、「おかしい⁉︎」と思い始めご自身で普通の生活者になっていくために壮絶な戦いを経験されたお話を聞きました。

そんな伏見さんが発達障害や精神科医療、投薬について「生きている間に、これをどうしても伝えたい」と思い、講演会を始められたそうです。

入学や新しい環境で忙しい4月ですが、だからこそ、多くの方が聞かれたら、と思います。

私はこの講演会には行けませんが、翌日の同じお二方による薬についての勉強会に参加します。

花風社の本や著者の方以外の、こういう講演やお話を聞く機会が私はこれまでありませんでした。

ぜひ、お近くの方は行かれてみてはどうでしょうか。

お申込みはリンク先へ!
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藤家さんの講演会に行きました。

2021-03-21 22:25:00 | 発達応援
昨日は佐賀の放課後等デイサービスこどもひろばさん主催の藤家寛子さんの講演会に行きました。

この講演会は3部作で行われたもので、昨日はその最終回、3回目の講演でした。

題は「就労・投薬の問題を考える」で、藤家さん自身が投薬で体験したこと、就労するにあたり、どのように行動したかや現在仕事についても触れられました。

私が印象に残ったのは、「支援では、生きていく方法を教えてくれない」というようなことを言われたことです。

人は、どこかに住み、食事をしたり、疲れたら体力を回復して、そうして生き続けていかねばなりません。

そのためには、一人暮らしするにせよ、実家というようなところで暮らすにせよ、社会の中で自分の力を発揮して、収入を得ていくことが必要です。

でも、支援の場では「この支援を受け続けて行きさえすれば良い」ということが前提。

人が広い社会の中で生きていく方法や社会で生きていくにはどうすれば良いのかという視点が欠落し、支援者の目の届く範囲で暮らすことが前提で支援が進んでいくことを藤家さんの話を聞きながら改めて感じました。

そして、支援に繋がった当初は必要であったであろう「個別支援」が、本人の状態が変化していってもそのまま継続される怠慢さ。

支援の場というのは、通う人を成長させようとする場であると共に、そこで働く人々の生活の糧を得る仕事場である矛盾を孕むことも経営する者の目を濁らせるのかもしれないなぁと思うことでした。

もう一つ、印象的だったのは、藤家さん自身は「等身大の自分が見えていなかった」と語る青春時代や若い頃も常に「今、何ができるか」ということを模索し、体力が最悪でも、そのとき、そのときのベストを尽くそうとしていたということです。

それは、幼い頃に、家の酒蔵のお手伝いをしていたときから、「私にできることはないかな」と大人の仕事を観察し、自分の仕事を見つけて「いらっしゃいませ」と酒蔵の入り口でお客様にご挨拶をして、おもてなしをしていたという話と繋がっているなぁと私はしみじみ思いました。

まだ子どもだけど自分に何ができるか、今の自分は最悪だけど何ができるか。

力が足りないときでも、「私に何ができるのか?」と小さい頃から試行錯誤する質だったことは前へ前へと進む力になったのではないでしょうか。

そういう話から、将来像がとてつもないようなことでも、本人ががむしゃらに突き進めるように、体力をつけ、体を整える手伝いができるといいかなぁ、と思うことでした。

藤家さんが今と過去を行き来して語る話は、個人的な話なのだけどその俯瞰して語る視点は個人の枠を超え、人はどう生きるべきか、という普遍的な問いをそれぞれへ投げかけてくれる時間となった気がします。

最後に、ご自身の根を下ろす県内に食い込んでいる「偏った療育方法に一石を投じる」という覚悟をもって、藤家さんの3回にわたる講演会を企画された放課後等デイサービスの管理者の井出直美さん。

その行動に賛同する方々が、それぞれ自分の力を発揮して、施設や支援に縛られず、自由に生きていける地域の子どもたちを増やしていかれることを遠くからですが願っております。

がんばりましょうね!












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お出かけ。

2021-03-20 10:22:00 | 日記
今日は佐賀に行きます。

藤家さんの講演会を聞くためです。


ずっと行きたかったのだけど、主催の講座や教室と重なり、最終回の今回やっと聴きにいくことができます。

しっかり聴いてきます!
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想像力。

2021-03-17 23:03:00 | 発達応援
日曜日は午後、花風社の25周年記念で、ニキ・リンコさんの『モンダイな想像力』の無料読書会が行われました。

この本の中ではおそらく一般とは違う想像力の方向性で起こるニキさんのエピソードが多く語られています。

そんなエピソードを取り上げられながら、浅見さんが問題提起されました。

くすっ、と微笑ましくはあるエピソードを生む『モンダイな想像力」は、果たしてそのままで良いのか、と。

本人はそのあまり現実的ではない「想像力」が不自由ではないのか?不自由ならば、どうにかしてあげた方がいいのか?と。

色々な意見が出ていました。

それを聞きながら、色々考えていました。

ある同じものを見たり、同じエピソードを聞いてもその捉え方、思考の仕方は、たぶんみんな違って、バラバラでしょう。

ある人は個人の持つ深い知識や知見に基づいて、更に深い見方や考え方ができるし、表面だけ見て物事の核心に至らない人もいるでしょう。

そして、また、内容のごく一部のことや言葉に引っ張られて、「何で今、そんなこと考えたの⁉︎」ということになるのでしょう。

焦点は、そこじゃない。

でも、「焦点はそこじゃないと思う」と仕事なら伝えられるし、友人だとしてもその場で「え?そこ?」と突っ込んで話して解消ができる。

時間は有限で命も限りがあるのだけど、生き死にに関わらなければ、それでいいのではないか…。

そして、こうして本になるなどしていないだけで、個々人の想像力も共感度が高いものも低いものも混在している気がするなぁなどと考えることでした。

でも、一方で本当に煩わしく、煩わしいだけでなく、他人の人生に介入し、台無しにする類のモンダイの想像力があることは、世間を震撼させた様々な事件から垣間見ることができます。

それらの事件を聞くとやはり「どうにかならなかったのか?」と強く思います。

そして、私が関わっていた子の中にも突拍子もなく、実行したら周囲が悲しむことを真顔で言う子がいました。

親御さんは小さい頃から突拍子もないその子の言動に慣れているのか「ああ、またか」という感じでした。

その突拍子もない生活の記録を読んだ担任は呼び出して説教をしていました。

私はたぶん、学校の中でその子と一番接する時間が多かったので、その子がそういう冗談を言うような子ではないと思い、突拍子もないことを実行した場合に起こるであろうことを淡々と話しました。

その子はびっくりして、「えっ⁉︎」と言って「じゃあ、やめます」と言ってその話は終わりました。

ニキさんの本を初めて読んだときに、真っ先にそのことを思い出し「ああ、モンダイの想像力だったのかも」と思いました。

変な暴走が偶然、止められたら良いですがそうもいかないこともあるでしょう。

そして、「想像力」というものすごく個人の範疇のものに「それはちょっと…」という線引きをひくきっかけはなかなかなく、
その想像力が問題となるときは、たぶん、「時すでに遅し」の場合がほとんどでしょう。

では、ユーモア、ユニークで済む想像力に踏みとどまるにはどうしたらいいか、と考えると、やはり、頭と体を一致させておくことは大きいのではないかな、と思うのです。

私の限られた範囲の関わった子どもたちは、例外なく、体が思うように使えていませんでした。

単に走ったり飛んだり、体育の授業がとんでも無く不得意なだけではなく、体が疲れやすく、不調が多く、姿勢の維持も大変な子もいました。

また今考えると姿勢が良すぎる子もいました。

そんな子たちは「ん?」とこちらが思わぬ言動をする子たちが多く、私は単純に「運動で不思議な動きをする子は言うことも不思議だなぁ」と思っていました。

でも、たぶん、そうなのかな、と今は思います。

想像力の全てがモンダイではない状態にするには、外で遊び、体を自分の意のままに使え、感じる感覚を育てていくことが大切なのではないかなぁとぼんやり思った時間でした。



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