雨が降りそうな明日。久しぶりにしっとりした空気ですね。
知り合いが、朝から「医療を待つな、あてにするな。支援もあてにするな。」と熱いメールをくれたので、あけてみると悲しいニュースが添えられていました。
福祉や医療は何のためにあるのか?自分たちが都合よく診断した人たちを、都合よく飼いならすため?
早期診断から漏れて、自由に生きる選択があったはずなのに、途中で周りとのズレに戸惑い苦しくなったら、どうしたら良いのでしょう?
行政に相談したら「診断されないと支援できない」と言われ、診断を求めて行った先では「思春期は診断が難しいから20歳になったら来て」と言われたこのケース。
きっと、母が、子が欲しかったのは「発達障害」という診断ではなかったのではないだろうか?
周りの子と違うこだわり、感覚の敏感さをどうやって乗り越えればいいのか。この子が生きていくための知恵だったり、周りとの違いへの戸惑いをどう受け止めたらいいか、「専門家」「支援者」と言われる人たちに話を聞いてもらって、子どもをラクにするヒントを教えてもらいたかったのではないだろうか?
現実問題としても「ちょっと様子を見たほうがいい」と言われたものの放置されてどこかに行かねば!と右往左往したり、診断されず、でも、子どもが辛そうだ、どうしたらいいの⁉︎と戸惑う親御さんが、医療や療育センターや民間の支援資格を持った人たちと繋がれば、繋がりさえすればどうにかなると、右往左往する姿があります。
「身体から、ちょっと緩めてみようよ!」そんな些細とも思える一言でもあれば、明日への一歩を踏み出す力になり、その一歩一歩が治るの道へ繋がったかもしれない。
ラクになるヒントは、巷に溢れる本の中にも沢山あります。
そして治すのやラクにするのは行政や発達支援センターや医療や支援者が持っているのではありません。医療や行政、療育や支援者は治すための答えを持っていないし、治すことに応えようという気概も今のところない場合もあるでしょう。
家でできることがある、ということに辿り着いて欲しいと、この記事を見て心から思いました。身体がラクになれば「私の普通」という個々人の持つ普通の差に気がついて、気持ちもラクになったのではないかと思うのです。
目標持ってがんばろうとする人が、自ら命を終わらせる、そんな悲しいことが起きないように、「家でできることがある!まず、身体をラクにしよう!」「行政よりも「発達障害 治す』などのワードでググって!」と言い続けたいと強く思うことでした。
若くして亡くなった方にご冥福をお祈りいたします。