日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

負け惜しみ大将。

2017-09-21 18:42:01 | 日記
 朝晩は南のこの地でも、うす〜い羽毛布団が活躍する季節です。
そして、その布団に猫たちが集ってきます。

 そして、季節の変わり目になると人もそうですが、猫も体調を崩しがちになります。
ちょっと前は、最年長のちぃが熱っぽく、半日ご飯も食べず引きこもっていました。
昨日、今日は、桃ちゃんが熱っぽく呼吸が早いです。
李ちゃんもちょっと目がウィンクになっているので、要観察中です。

 季節が落ち着くまでは、猫も人も落ち着きませんね。

 子どもの頃にできないことがあったり、自分が思ったようにことが運ばなかったときに、
泣いたり、地団駄を踏んだり、悪態をついたり、そんなことはたくさんあったと思います。

 不思議なことですが、子どもの頃はできないことや思うようにならないことにぶつかると、
それは一生続き、そのできない感じやうまくいかない感じをずっと引きずって生きねばならない、
そんな風に思っていた気もします。


 だから泣いても、何しても何度も何度も同じような結果にしかならないと、
半ばふてくされて、「別に、こんなことどうでもいいや」と思ったり、
「こんなこと、できたところで別に、何の役に立つんだよ、ふん!」とか、
「同じようにできない人が居ても、馬鹿にしたりしないようにしよう」とか、
どうにか、自分で自分を丸め込むために、自分にたくさん言い訳をしていたと思います。

 そして、できればこの嫌な状況を変えてくれる、誰かが居ないかなぁ、などという
他力本願なことも思っていた気がします。

 そんな風にいちいち、できたりできなかったりに振り回されて、
できないことを正当化しようとしていた私が子どもだったとき。

 両親はできないことよりも、そのできないことを正当化しようとしたり、
負け惜しみをこねくり出して、へりくつを言うのが「みっともない!」と言い、
「できないこともあるのよ!できなくていいなら、こだわってごちゃごちゃ言うな!」と言っていました。

 私は私で、「できなくていい!」と自分が言ったにもかかわらず、
それらのことが頭から離れず、実は、できなくてもいい、なんてこれっぽっちも思っていないのです。

 そんな自分の気持ちと、できるようになるための時間や努力や結果を
ぐるぐる、小さな頭でたくさん考えていたような気がします。

 結局、「してみらんね!」とか「せんとわからんのよ!」という、
決して、「あなたなら、できる!」などという言葉ではないことを父だか母だかに言われて、
「だよなー、わかんないよなー」とお気楽に思う単純な子どもだったように思います。

 そんなことを繰り返すうちに、
「ああ、またできないよ!くそ!どうせできるようになりたいんだから、がんばろ」と
諦めが悪くなってきて、とりあえず、なんかやってみよう、とすることを
子どもの頃にたくさん経験できてよかったな、と思った今日でした。
 

 
 
コメント
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