この章は、完成するのに、三日がかりとなっています。でも、完成しました。で、総タイトルの右側に、恒例の△印をつけておきます。
ところで、この文章は最初の総タイトルを、『NHKで、菅原文太の特番が出ないのは、未だ、実際には、生きている井上ひさしの、嫉妬心のせいでしょう』としておりましたが、24日の朝8時半に、『XPサポート終了の日付は、井上ひさしが、自分を死んだという事にした日に設定をされた。理由は?』に変更をしました。
そして、その8時半以降に加筆をした部分には、アンダーラインを引いておきます。今から、前半部分の推敲をし、後半の加筆をしていきます。途中、進んだところまでのしるしとして、@@@@@罫線を入れておきます。
副題1、『小保方ミステリーは、やっと、正しいところで、決着を見ましたね』
この総タイトルは、前報(後注一)のメモ(=副題19)に書いたことです。で、そちらをご覧いただかないと、たいへん唐突にお感じになるでしょう。でも、菅原文太が亡くなって、2週目頃に、すでに、この総タイトルに書いたことは、私自身は、感じていました。
でも、黙っていたのです。というのも、私の文章は、非常に影響力が強くて、否定したい、否定したいと、大権力者、アメリカの大富豪の手下として、働くエージェントたちに思われています。で、否定されます。で、つぶされて、反対の方向に事態が動きます。
それは、小保方ミステリーにも代表される通例です。最近小保方さんには触れていなかったので、大体において正しい方向で決着をしました。研究が、嘘だったというか『スタップ細胞はできなかった』と、発表をされただけでも、大出来です。ところが、早速に小保方さんは、陰謀に巻き込まれているとか、(確かに陰謀に巻き込まれていますが、彼女は被害者というよりも加害者の方ですよ)、言う、なんだか、怪しい作り事やら、これから、タレント活動をしたらいいとか、科学評論家として生きたらいいとか、世間の論調はかまびすしいですが、そういう人は、きっと、発展途上のライターで、さらに上を望んでいる人たちのはずです。
そういう風に、小保方さんを、持ち上げる方向で、書くことによって、収入を得られたり、よい仕事を得たりするのでしょう。
しかし、私が書いたこと、例えば『笹井芳樹氏は、他殺だろう』という部分を否定するために、早く幕引きをしたいから、理研側の、この終結宣言が、発表をされたのかもしれません。この疑惑に関しては、副題3へ、続きます。
でも、引き続き、それを私が書き続けていたら、この終結宣言もなく、小保方さんの、退職もあり得なかったと思います。ずるずると、理研内で、保護されている状態が続いていたでしょう。
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副題2、『原発のケースも同じです。私が、ずっと、黙っていたので、真実が出てきました。しかし、他のことで、真実を書くので、一種の復讐の手段として、また、嘘が発表をされ始めています』
私が、ライターとして大きく地府を上げたのは、≪原発事故が、発生していて、それに対する科学的解説を、ここで、書きましたが、的を得ていて、わかりやすかったから≫だと思います。でも、2011年の6月に菅直人首相の不信任案が提出されるという事態に入って、また、政治的方向で、文章を書く様になりました。
で、科学的側面に触れないでいたら、2013年度の後半から、続々と真実が、私の書いている方向で、発表をされ始めました。
しかし、今はさらに一巡をして、また、嘘の報告が出る様になっています。仕方がないので、放っておきましょう。日本国民が本当のことはどうなっているのかについて、自分で学ぶ意識を持たないと、核燃料の正しい知識も広まりません。今現在の、レベルの、知識に依拠して、NHKが、新たに発表をし始めた・嘘・研・究・がそのまま、通るのなら、『日本刀は、そういうレベルだったのですか』と、言い、それ以外の言葉は、出さないで、置きましょう。
だが、小沢一郎氏の・反原発の姿勢・は、相変わらず、嘘でしょう。彼は、方便として、または、術策として、それを使っているだけです。
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副題3、『菅原文太が、死んで、二週間後ぐらいのちに、≪なぜ、テレビで追悼番組が出ないのか?≫が、ネットの世界で、話題になり始めた』
高倉健さんが亡くなった後で、急に大変な数のオマージュ番組が放映されました。文字で表すメディアでも、それが、印刷され始め、たくさん記事が出ています。月刊文春に、遺稿が出たそうで、感動した人が大勢出ています。
それに反して、ほぼ、直後と言っていいほどの、時間で亡くなった、菅原文太氏への、追悼番組が少ないです。活字メディアは、少し遅れるので、いまだ、状況は断定できませんが、きっと、少ないでしょう。
それに褒章の方面ですが、高倉健さんは、文化勲章をもらっています。が、菅原文太さんは、文化功労者にもなっていません。そこの理由も、わかっているライターや、記者は、いっぱいいると思いますが、気の毒で、それを、書きにくいので、テレビに特番が出ないことだけが、論じられて来ていました。先週までですね。
その大体の論調によると、『反権力運動をしているから、テレビ界は、追悼番組を、放映しないのだろう』と、言う向きになっています。
あのね、反権力運動をやっている人は大勢います。そして、NHKは、長時間のニュースの中では、エッセイ風に、その種の地道な運動をしている地方在住の人などを取り上げます。
NHKが放映する長時間のニュースとは、どういうものを指すかというと、まず、朝の五時から八時まで、司会者が途中で交代する形で、三時間のニュースがあります。その次に、午前11時からの一時間があります。また、夕方五時から、同じく司会者が交代する形で、二時間あります。また、夜の九時からのニュースウォッチは、一時間だけですが、ここでこそ、その種のエッセイ風ニュースが多いのです。そして、普通の人の人生が良く紹介をされています。≪なんで、この人を、こんなに長時間取材をしたのだろう≫と言うほど、平凡な人に、時間を割くことがあります。
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副題3、『最近、顕著だったのは、入江杏さんです。彼女が、小学校で、講演をした事を取り上げたニュースがありました』
平凡な人かどうかはわかりませんが、すれすれなレベルで、一般人に近い人、入江杏さんの露出が増えています。彼女が、小学校で、講演をしたことが、ニュース(もしかすると、11時からの地方ニュース内だったかな?)放映をされました。
入江杏さんというライターは、大衆的知名度は、菅原文太ほどには、高くないはずです。ただ世田谷一家惨殺事件の、被害者である宮沢みきおさんの妻の、姉ですから、一般人ではありません。しかし、彼女は去年までは、これほど、露出が多くはなかったです。最近ご主人が亡くなったそうで、それで、しっかりと、世に出ていく気分になられたのかもしれません。でも、去年までは、こういう映像が出て来る事はなかったのです。
これは、私が考えるに、笹井芳樹さん他殺説を、隠すために、こちらの事件に、大衆の耳目が集まる様に、手配をされていて、入江さんの露出が増えていると、みなしています。昨年までは、宮沢さん一家四人の写真と、警察方面の動きが主なニュース構成でした。
というわけで、入江杏さんは、特殊な例ですが、それでも、こういう風に、専業主婦から、出発した活動的な、女性を、NHKが取り上げることは多々あります。
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副題4、『≪小林カツ代さんが亡くなった時に、瞬時にNHKが特番を作ったのは、彼女が、m9条の会に入っていた≫り、≪神楽坂女声合唱団を主宰していたからだとわかった≫が、と、同時に、≪アカハタ日曜版に寄稿をしていたからだ≫ともわかったのだった』
菅原文太という存在と、小林カツ代さんを比べると、大衆的知名度と、大衆文化への貢献度という意味では、圧倒的な差で、菅原文太さんの方が上です。しかし、NHKの待遇は圧倒的に、小林カツ代さんの方が上ですね。なぜだ。その答えは、後注2(リンク先を示した、ブログ文)で、一回書いています。それを、お読みいただけると、詳しい展開をご覧いただけますが、短縮すれば、4行上の、総タイトルに書いている通りのことです。彼女が、共産党シンパだったことが、有利に働いたのです。しかも、井上ひさしが提唱する、9条の会を、一種の発展的、ヴァリエーションとして、m9条の会を立ち上げました。
mは、マガジンの略です。また、神楽坂女性合唱団は、音楽が好きだという有名人を集めています。その合唱団が、練習に、使っている場所、および構成メンバーを、見ると、これが、どれほど、共産党のイメージを緩和し、美化しているかがわかります。中に入っているのは、有名人ばかりですが、ところどころ、小林カツ代さんに様な共産党シンパが入っているが、それ以外は、ノンポリタレントなので、共産党のイメージが薄まります。
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副題5、『共産党も反原発でしょう。だったら、小林カツ代を優遇するNHKが、反原発運動を理由にして、菅原文太の特番を作らないのはおかしい』
ところで、二週前まで、ネット上を賑わわせていた、≪なぜ、菅原文太のテレビ特番が出ないのか≫という大方の、疑問に対して、答えとして、用意されていたのは、≪反原発運動をやっていたからだ≫というものです。
で、≪現在の日本では、天才は生きにくい≫という、結論を常に開示している私は、ここに、天才に加えて、≪本物も生きにくいのだ≫と、言う結論を、開示したいです。それは、十分にあり得ます。というのも、日本は、高度にカモフラージュをされた実質的植民地です。被支配国家です。誰が支配をしているのか、それは、言わないでおきましょう。ともかく、主権は、日本国民にはありません。
でも、高度にカモフラージュをしないと、日本人は支配できないと、真実の支配者は、考えています。で、言論の自由があるがごとく演出をしています。そのために利用をされているのが、新左翼運動系の知識人と、共産党系の、知識人の両輪です。で、その両輪が、訴えていることは、最終的には、実現をしません。というのは、カモフラージュのための組織だから、実行力を持ってもらうと困るのです。日本人は、核燃料を売りつけられていて、それが、税金に等しい形で、生産国に収奪をされています。いくら大江健三郎氏やら、柄沢行人氏が、原発反対デモに参加しなさいと、訴えても。決して原発は廃棄されません。
核燃料は、原鉱石の形で、日本へ入ってくるらしいです。とても安いものを高く買っている可能性があります。で、ジルコニウムでできている管の中に、原鉱石を、入れ込んで、小単位の核燃料棒に仕上げ、それをまとめて、30cm角ぐらいの大きさの、燃料棒に、仕上げていくのも、日本国内にある日本企業だそうです。そういう企業で働く人たちには、放射線被害は出ないのでしょうか? 全く報道をされていない闇の世界です。
ともかく、とても民度の高い上に、識字率も高い日本人を、アフリカや、インド、または、東南アジア的な植民地支配をすると、もう一度太平洋戦争が起こりかねないと、推察されていて、心理学を駆使した洗脳を含む、高度なやり方で、日本人は、支配をされています。
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副題6、『井上ひさしが、私の文章を深く、観察していると感知したNHK BS プレミアムのボローニャ訪問記特番』
それに役立つのがエージェントと呼ばれる人たちで、外見は日本人ですが、≪自分一人と、自分の家族の特権が維持されれば、それが最高だ。それ以外は、知ったことじゃあないよ≫と内心で思っている人たちで、その人たちが隠れて、特権を握っています。そして、NHKを、支配しきっています。
井上ひさしが、死んだと発表をされた後、だいぶたっているのに、ボローニャ大学訪問をした時の井上ひさしの、映像が特番として、放映されました。その時に、彼が、手に鳩居堂の青い袋を持っていたので、いかに私の文章を研究しているのかがわかりました。
私は、1999年からパソコンを使い始めたのですが、1999年と、2000年の秋は、ニューヨークを訪れ、三か月ずつ滞在し、その二年前は、パリで、三か月滞在をしています。そのたびに、現地で、以前から住んでいる日本人や、白人にお世話になるので、お土産として、鳩居堂の文具を持参することにしていて、外部に、小さいしるしを店内ですでにつけておくと書いています。鳩居堂とは本店が、銀座の四丁目交差点より二つ目のビルとしてある文房具の店です。全国のデパートに支店を持っています。和風のテイストを生かしている、便箋とか、封筒、カードを売っています。こういうものは、日本を離れてから、時間がたっている日本人にも喜ばれるし、むろん、白人等の、外国人にも喜ばれます。
「1500円、2000円、3000円と内容を、区別しておいて、お礼になった濃度に応じて、返礼として差し上げる」と、パソコン内で言って、メルマガとして配信しています。メルマガは限定された相手にか送ってはおりませんが、それがハッキングの威力で、井上ひさしまで、伝わっていた模様です。ハッキングは、ウィルス等で、ハッキングをされたというよりも、対、私狙いで、中継用ルーターなどが、近所におかれている形で、行われていたと、推察しています。
で、井上ひさしは、その私のアイデアを、真似して、ボローニャの町を、歩く際に、あの青い袋を持参していたのです。びっくりしました。ボローニャの町は、季節も反映をしていたのか、全体に、茶色に満ちています。ギリシャは、漆喰で、塗られた白で、満ちている街が多いのですね。トルコの遺跡は、ベージュ色に満ちています。大理石が2000年の間に、劣化して、乳白色になるからです。それらに比較をすると、とても暗い、そしてシックな町でした。そこに、あのピカピカしたコート紙に印刷された、青い模様の鳩居堂の包み紙です。非常に目立ちます。私はパリでもニューヨークでも無論、何らかのバッグに入れてそれを持参していて、あの青い袋を、直接手に持つことはありませんでした。それをわざと見せる様に手に持って歩いている井上ひさしを見ていて、彼が、どれほど、私の文章を研究しているかがわかったのです。
私の文章は、中流の上の人の中に、多くの読者を持っているでしょう。最近では、そういう人にとっては、毒々しいと感じられる、警察の行動記録などが、多く含まれる様になったので、15年以上前からの読者である、中流の上の人は逃げてしまったかもしれません。でも、プロのライター等が、読んでいてくれていて、かつ、プロの政治家集団、とくに頭脳派の政治家集団とか、政治評論家も、読んでくれているのを感じ取っています。しかし、いかんせん、数が少ないでしょう。でも、ブログとしては、読者数が多い方だとは思いますが、それでも、NHKや、朝日新聞で、繰り返し露出をしている井上ひさしに比べると圧倒的に、小さい存在です。
で、彼は、高をくくっているのです。その青い袋を持っていても、私が、マネをされたと、見破ることはないだろうと。また、見破られてもたいしたことはないとも。
しかし、この一事が、後ほど、鶴岡八幡宮の、アメリカキササゲが、伐採をされてしまったことなどに通じて行って、彼が、いかに、頻繁に、私の書いたものをつぶそうと、画策をしているかを知ることとなります。私が書いた文章に現れたものや、現象を無き者にしていくのです。そして、文章内に登場した人物で、名前のわかっている人には、誰か、人的コネを探して、その人を、私から去る様に仕向けます。そして誠実の限りを尽くして築いた、人的コネの破壊も彼が、提唱しているでしょう。こういう風にすればいいとか、ああいう風にすればいいとか。
五億円の被害があると、よく言っていますが、こういう機能や、しくみが解ってきてしまったので、書く物の内容や、テーマも大きく制限を受ける様となりました。こういうことを書くと、結果として、将来どういうことが起きるだろうと、瞬時に推察できる様になったからです。
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副題7、『私の公募団体展、時代について、ここで、少し語りたい』
ところで、私は先輩から、≪あなたがいじめられるのは、一目で、育ちがいいことが、誰にでもわかるからよ。それに、それは、50にもなったら追いつかないことですからね≫と言われたことがあります。そういう電話も盗聴をされているので、私が海外へ三か月の滞在型渡航をする際、版画工房の関係者に、鳩居堂の、便箋等を組み合わせたお土産を持っていくことは、鉄板で、『いいことだろう』と、井上ひさし側が考え、現在の奥さんの、ゆりさんが、横浜高島屋か? 銀座へ、買い物に行った可能性は大きいです。
ところで、ここで、また説明に入りますが、どうして、そういう電話を先輩にかけたかというと、
・・・・・私は美大を出ていません。それは、父に反対をされたからです。歴史的に言って、国が苦しい時期(=国民が貧窮に苦しむ)時は、また、必ず来る。そういうときに、芸術系の学部を出ていても、生きてはいかれない」と言われ続けていました。それは、明治43年生まれで萩の上級士族だった人間の子供だったし、満鉄に勤務した父の、実感だったみたいです。特に満鉄の石油系技師だった時代に、他の有名画家が、戦地で、苦労をしているのを知っていて、だから、こそ、≪実学、とくに理工系は強い≫と、信じ切っていました。
だが、戦後、69年も平和が続くとは、思いませんでしたね。また、経済的な繁栄も長く続きましたので、父の言葉は当たらないこととなりました。
ところで、美大を出ていないのですが、父自身も素人画家として、コンクールに出品をしたり公募団体展に出品をしていて、大賞をとったりしたことがある(ただし、その新聞の切り抜きが盗まれていて、かつ、国会図書館の新聞も、文化面だけ削除されたマイクロフィルム化によって見ることができなくなっている)ので、家の中に、油絵のにおいが満ちているような家であって、私は門前の小僧、習わぬ経を読むの類で、自然に油絵は描けるようになり、
しかも、美術界の色々な、暗黙のルールも結構知っていて、最初の発表の機会は銀座で個展をすることで始めました。今は無くなってしまった『こんぱる画廊』でです。1981年のことで、今から、35年も前のことです。
とても楽しかったのですが、やがて、≪このままいくと、来てくださるお客さまの数に、限界が来るだろう≫との予測はつきました。それに個展をしても絵が売れるわけではなく、個展をする目的は、絵を見ることが好きな人に、見てもらうことであり、それが一番大切だ≫と思い当たりました。≪それには、素人として、出発しただけではだめだ≫と、考えて、1984年ごろから神奈川県で、公募団体展に応募し始め、その次に、東京へ進出したわけです。ただし、このころは、子育ての真っ最中で、1998年以降、2008年ごろまでのほどの、待望は、持っていませんでした。ともかく、1990年に東京の女流展に初入選して、その次の1991年に国展にも入選する様になり、ずっと、油絵化、版画で、連続入選していて、それを、自分側の意思で、2003年にやめるまで、表舞台に出た人と、素人さんからは、見られる様になり、やっと、画家として、人心地がつきました。安心をしました。そして、大勢の、絵を描く人とも知り合いました。
ところが知り合いが美術界に増えれば増えるほど、いじめられる機会も増えて、それが悩みの種になったので、・・・・・
人生の先輩としての賢い女流画家に相談をしたというわけです。すると、上記の「あなたはね、育ちがいいから、云々という言葉が出てきたわけです。
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副題8、『私も、今では、ずいぶんしぶとくなっていますが、それは、海外一人暮らしの、3か月X三回の結果です』
その言葉の後、すでに、20年たっています。それで、ずいぶん変わりましたよ、しぶとくなりました。そして、上品さも相当に薄れてしまいました。特に、創作としての、文章を書いたりするのは、中流の上の社会の人にとっては、「えっ、下品ですよ。それって」という類の仕事です。翻訳ならいいのです。女性の仕事として、まだいい。また、童話を書いたり絵本を描いたりするのもいいのです。だが、このブログの様な、文章を、書くのは、ご法度かな? しかし、私は考えることが大好きであり、その結果、文章を書かずには、いられない人なのでした。誰にどう思われようと、自分自身に素直であるのが、一番楽でもあります。だから、この生き様は、これからも、変わらないでしょう。
しかも、それを、自分で本へ直して出版することをし始めると、すっかり、あわただしくなり、忙しくもなり、しかも弾圧に見舞われているのですから、すっかり、タフになり、荒れてきて、「あなたって、上品な人ですね。しかし、おねんねですね」といわれた時代は、はるか、後ろに過ぎ去ってしまいましたけれど。
しかし、私の文章を丁寧に読んでくださっている方は、どれほど、いろいろな分野で、知識が豊富かは、ご理解をいただけるでしょう。夫婦で一緒に行った外国もあるけれど、一人で、行き、長期に滞在した外国もあるので、実体験が豊富なのです。井上ひさしのボローニャ訪問記を見ていても、滞在が、とても短いですよね。たぶん、往復も併せて、一週間以内の滞在だと思います。そのうえ、NHKのスタッフが、四人か五人ついていて、しかも、現地の事情に詳しい人間が、コーオーディネーターとして、ついてくれていますよね。すると、ものすごく楽ですね。しかし、楽をして獲得した物は、本当の血肉にはなりません。
私の・・・・・アパートも決めないし、所属工房も決めないで、ポーンとニューヨークに飛び、自分自身の作品だけで、美大の大学院へ入ってしまう・・・・・というような生活とは比べるべくもないのです。
威張って言っているのではないのですよ。しかし、大きな被害を、彼から与えられているからこそ、ここまではっきりというのですが、彼には秘密があるのです。生きる得策としての秘密が一つあり、それが、私に見えたということです。
つまり、豊かな暮らしをして来た人に対するあこがれはあり、すぐ、その生活様式を真似するという事です。瞬時のまねです。そういうマナーや工夫を通じて、だれにも負けないという自信を養ったのでしょう。彼がNHKの対談番組に出た時に、麻のスーツを着ていました。これは、横須賀線内でも、『いかにもお医者様ですね。しかも、大学病院の教授ぐらいでしょう』と、推察される人しか、着ていないたぐいの、お洋服です。
私は、そういう高価なお洋服は一切、着ません。しかし、海外の研修時に、本当のことを言うと、一回ごとに、200万円かけています。アパートを「三か月間だけ、貸してください」と、言っても、紹介者がないと、なかなか、信用をしてもらえないので、一年契約にしたりして、帰国する2週間ほど前に、「いついつ、退去しますよ」と、申し出で、契約通りに残金を、一か月以上余分に、払ったりしますから。滞在型研修ではなくて、単なる旅行として、夫婦や、一人で海外へ行っているのもありますし。
そのうえ、本を工業生産的に、6冊も出版をして、それを、売っていないのですから、どれほど、お金を使っているか? まあ、遊んでいる時間はなかったと思います。ので、両親からの遺産を、神様からのお給料だとして受け取り、使わせていただいているのですが。
しかも、日本にいる時だって、1980年以来、毎週二回は、都心に出かけて、あれこれをやって来ていますので、それに、おおきくお金がかかっています。交通費、外食代、そして、本を買うお金、文房具など、好きなものを買ってくるお金。映画を見たり、美術館に行ったりするお金。画材を、買うお金。公募団体展生活をするお金。驚くほどの散財を重ねてきた人ですが、しかし、それらが、すべて、血肉となり、文章を書くときに、種が、スラスラ出てくるのですから、人生無駄なことななにもないし、ちょっと、周辺を見回しても、≪私ほど、日本でも海外でも、本物(美術館の作品を指すのではないのですよ。テレビの、画面を見るのではないという意味で使っています)を、見て歩いている人間はいないだろう≫と、思い至ります。
井上ひさしの、生きる手法(=自分の上の階層が持っている特色をすぐ真似をする)を見ていると、反対に、私など、だれのこともまねしたくないと思いいたります。人、人間、そのモノは大好きで、相当詳しく、その人がどういう人間であるかは、感知してしまいますが、相手のいいところでさえ、まねしようと思ったことはありません。
私だって劣等感はあるし、自分より上の存在があることも、はっきり自覚をしていますが、そういう人に追いつこうなどとは思わないのです。自分がやりたいことは、思考をする事、その次に、それを、まずパソコンで、入力をしておくこと。その次に、編集をして、紙の本へまとめていくこと。その次に好きなことは、本の周辺のデザインをする事。表紙とか目次のデザインです。
それの次に、時間ができたら、また、油絵を描いたり、版画を制作したりしたいと思っていますが、これでも、いつも、とても忙しいです。(笑い)
ぎりぎりの限界と言ってよいほど忙しいです。だから、すべてのことは、40%ぐらいのところまでしかできません。一方で、40%の労働時間しか、注がないのに、120%の成果と報酬を得る人もいます。時には、1000%以上の名誉や報酬を得る人もいます。それが、現代の特権階級です。それになるのには、エージェントとなるのがもっとも、手っ取り早い道です。そのエージェントとなる道は、人的コネで、作り上げられます。
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副題9、『井上ひさしが、今でも生きているという証拠・・・・・前半部分』
私は、自分の文章を研究しつくされていて、それに応じた攻撃を受けています。その成り行きを丁寧に考えていくと、今でも、井上ひさしが生きていることに気が付いています。
それを簡単に前報に書いていますが、その部分をこちらへコピペで、移動をさせておきます。
、『井上ひさしは、まだ、生きていると、私が見る、これだけの証拠類・・・・・まず、死亡日の設定に、意味がある』
*1)、死亡日が、2010年の4月9日と設定をされている事。
この2010年は、私にとって、心底嫌なことの続く日々でした。特にexibit Live and Moris というところで、相手側(オーナーの森さん)から提案された、個展は、その周辺で、異様なことが乱立する真実嫌な個展でした。異様なことの一つは、瀬木慎一氏から電話や手紙で、恫喝をされていたことなどです。ほかにも準備の日(三日)に電車が、北鎌倉と、大船の間で、1時間半以上、何の車内放送もなく、止まってしまって、オーナーに迷惑をかけて、不義理をするとか、個展の初日に、主人の留守を狙って、10月に行った検診の結果、主人に、癌の恐れがあるとの、連絡が、6か月もの後で、5日の月曜日に、額田病院からかかってきたので、私の心痛が増した事とか、夜は夜で、小町通りの共同溝工事を利用して、脅かされきるとか。
しかも、前年の、2009年は、伊藤玄二郎たちが、勘案したおお相撲壊滅作戦で、私が振り回されきるとかもあって、本当につらい日々でした。
でね。とうとう、音を上げた私は、鎌倉春秋社に、8日の木曜日に、個展の案内状を届けて、「伊藤玄二郎社長に、ぜひ、この個展に来てください」と、社員に伝言をお願いをしたのです。これは、むろんの事、単純なご招待ではなくて、別の意味があるのです。私と伊藤玄二郎の間には、親密な友好関係は一切ありません。だから、郵送ならともかく、彼が社長をしている鎌倉春秋社へ、案内状を持参をして直接出向き、「来てください」と言うのは、とっぴ以外の何物でもないのですが、別の意味合いがあるのです。
つまり、あえてはっきり言うと、彼にこういいたかったのです。
『今回の個展と、その周辺、とくに瀬木慎一氏(伊藤玄二郎と、中央大学という同窓関係にある)を動かして、いじめきっているのは、あなたと、井上ひさしの案で、行われていることですね。
しかも、一回、ほど、日程が動かされていて、同時期に、ガレリアグラフィカで、山本陽子展を開いているので、酒井忠康氏も絡んでいる総攻撃ですね。それは、分かっておりますよ』と、
そして、それは、見事に伊藤玄二郎には、通じて、彼はすぐ、井上ひさしに、電話か、メールで、連絡を取ったのでしょう。で、井上ひさしは、≪自分たちがやっていることが、すべて、ばれていること≫を知りました。で、私の勢いがものすごいので、・・・・・ここですが、グーグルがお知らせをしてくる検索回数は、まったくの事、嘘のはずで、すでに、延べ検索回数は、2000万回を超えていると、推察しています。五年前に、彼らが、油断をしていたころに、すでに、770万回でしたから。すごい勢いのブログだったのです。・・・・・すぐ、大きく、自分の悪辣さが、拡散することが、推察されたのでしょう。
で、死んだことにしたのです。
あの訪問は、ただ、直感に従って行ったことでしたが、ああいう手法をとって、よかったと思っています。あの時、今の様な、文章を書いても、読者の皆様は、ちんぷんかんぷんだったと思います。だけど、小保方
諜略として作り上げられるニュースや現象について書いてきています。
しかも、後ろにいる鎌倉エージェントと、私が名付けている人物たちの行動も、丁寧に、書き連ねてきています。それで、読者側が、どうおとりになるかは、別にして、私の方では、ここで、これを書いてもいいという確信をもって、すべての、文章を書いていますので、今、2010年4月8日に、鎌倉春秋社を訪問をして、個展のはがきを、指し示めしたというのは、書き表せることとなりました。
で、井上ひさしは、ビビりまくったでしょう。彼は、実際には、訓練が足りない、自信がない人間です。
そこで、もっとも、効果的な防衛策として、死んだことにしたのです。死んだ後の、ニュースとしての、彼の情報の、露出の多かったこと。作家(文芸系)で、最近死んだ人の中で、これほど、大きくマスコミ(特にNHKが)取り上げた作家はいないと思います。それで、私も、今現在、目の前にある、とことんに、苦しい状況を、書くことができなくなりました。
彼の思惑通りになりました。狙い通りだったでしょう。
以前から、こういうケースではこうしようと、死ぬことを計画していたこともあり、三女には、いろいろ、訓練を施していたはずです。
それで、三女のあの、でたらめ極まりない、記者会見が、行われたのです。これは、別章で、その中にある嘘の数々を、立証していきます。
井上ひさしは、生きていることにして、公的な生活を送りながら、一方で、私のパソコンを監視し、その内容をチェックし、攻撃のアイデアを、出すこと・・・・・(それが、彼のエージェントとしての特殊任務でした。それへの見返りとして、多大の報酬と、マスコミ優先露出が、はかられていると、推察しています)・・・・・には、疲れていて、困っていた彼は、対世間の交渉を絶って、ひたすら、対私への攻撃に専念することとし田のだと、推理しています。これは、私のさしあたっての、文章を差し止めるということの、次に彼が考えた、死ぬことにするメリットでした。
前夫人との間に、三人のお嬢さんがいます。長女が堅実にこまつ座を運営していたのですが、彼女より、こちらの女性の方が、≪芯が強く、世間ずれをしていて、演技力もあり、タフだろう≫と、父、ひさし氏が見抜いたのです。子供を産んだ上に、離婚まで経験をしている、麻矢嬢(三女)の方が、気が強く、また、悪にも、単純に染まることを見抜いて、別分野で活動をしていた彼女を、突然に、こまつ座トップの位置につけたのです。そして、彼女に、記者発表を行わせたのでした。そうとう、前(おお相撲壊滅作戦が失敗に終わったころからだと推察していますが)ら、訓練を施していたので、立派(?)に記者会見を行うことができました。だが、鎌倉に住んでいる身にしたら、嘘ばっかり含まれている記者会見です。
百合夫人との間に生まれた坊ちゃんは、いわゆる本当の上流階級にしたいと思っているでしょうから、表には出しません。テレビに出る人は、まだ、下層階級というか成り上がり中の段階の人であるという、暗黙の社会ルールは彼も熟知していると見えます。
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副題10、『麻矢嬢の発表は、鎌倉に住んでいると、嘘ばっかりだと、分かってくるが、他にも死亡が、嘘であることの証明が、当時でも、できた』
麻矢嬢の発表は、テレビで見ましたが、婦人公論でも、載せているはずです。だから、消えない部分があるので、かえって助かりますが、鎌倉に住んでいると、それが、嘘ばかりだということが、明瞭に分かります。
で、上智大学のホーム頁に、麻矢嬢の同様のインタビューが載っていたのですが、さすがに、それは昨今、消えていると思います。それから、3日前に確かめたところ、グーグル検索に引っかかる麻矢嬢の、項目も少なくなっています。そのうち、こまつ座代表を、長女に戻すのではないですか?
ところで、その2014年12月22日の検索で、こまつ座社長、渡辺某氏が、自殺をしていたことを知りました。なるほどねえ。闇の世界に紛れ込んでしまった、まじめな人の苦しみは、いかばかりだったでしょう。給料をもらっていては、私みたいに、内実として、文章をさらすこともできないでしょうから。
なお、コピペしていないので、皆様に、それをお見せすることはできませんが、鎌倉春秋社の社員が、ノイローゼにかかる割合が多いことが、評判になっているというブログも見たことがあります。さもありなんと思っています。私に対する、緊密にして、忌わしい数々の攻撃を見ていると、どれほど、嫌な精神状況の人間かは、明瞭に分かります。
だから、こそ、伊藤玄二郎と、井上ひさしは、仲良しなのです。
そんな人に動かされている、吉田茂穂宮司様とか、松沢成文元神奈川県知事とか、現在の鎌倉市長とか、熱海市市長、斎藤栄さんとかには、私はあきれ果てていますが、それぞれ、別章を立てて、すでに書いていますので、あとで、リンク先を見つけておきましょう。
ともかく、麻矢嬢に言わせると、父は、アンパンを好物としていて、最後まで食べていました」とか、「病院まで歩いて通っていました』と言っています。あきれ果てる嘘です。井上ひさしは、ユーモアで打っている作家とされていますね。だから、こういう発表に、ユーモアが、含まれていると、彼は考えているのでしょう。確かに、私は笑いましたよ。あまりにも単純な嘘だからです。
末期の肺がん患者が、歩いて病院に通えるほど、鎌倉市、佐助の坂の上り下りは、たやすくはないです。しかも、死を目前にした人なら、ゆっくりと歩くでしょうから、時間がかかるので、片道だけで、30分は、かかる処ばかりです。
上に名前を挙げた、額田病院は、伊藤玄二郎に頼まれて、2010年の4月5日に我が家に電話をかけてきたところなので、井上ひさしの最期をみとったことにしたかもしれません。そう頼んでいるかもしれません。特に、そこなら、駅まで、シャトルバスを運営しています。だけど、おもて駅(鎌倉特有の呼び方で、通常だと、東口と呼ばれる方)の、そのシャトルバスの到着場所までだって、彼の自宅から、病人の足だったら、30分はかかります。
この嘘は、タクシーに乗った形跡がないこと、それから、自家用車を利用すると、ブルジョワに見えるので、そのことを忌避したと、見える発表ですが、ともかく、通院をしていなかったことは確かでしょう。
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副題11、『病名、医者の記者会見、デスマスク、墓、哀悼記念日、偲ぶ会・・・・・すべてに嘘がある』
肺がんという病名だって、非常に変です。彼は、神奈川県知事、松沢成文氏が、受動喫煙の防止条例を作ることの陰にいたと、みなされます。それも、私が喫煙者の扱いが、非人間的で、オーウェルの小説を思わせるというエッセイを書いたとたんに、起きたことなので、伊藤玄二郎と、井上ひさしが、その件をからかう為に、つけた、病名で、嘘だと思います。彼は、いまだ、健康にしていて、生き続けて、いるでしょう。
主治医の記者会見の発表もな居ですね。あれほど、死が大ニュースになったのですから、医者の記者会見があっても、おかしくないです。デスマスクも発表をされていません。演劇界の人間なのですし、自分の顔に自信を持っているのでしょう。みなとみらい線の、横浜駅構内に、ずらっと、A全版のポスターが並んでいたことがあります。それは、神奈川県立文学館の催しのものだったが、ほかの作家の時には、そういう例がないです。顔だけが画面を構成しているものです。NHKが井上ひさしについて語るときも同じものが、必ず、使われます。
ただし、本日以降は、それが、使われなくなる可能性はあります。麻矢嬢の露出が、最近は、減っているのと、同類の現象で、私の文章は、些末なところまで、研究され、否定する方向で、事態が動きますので。
そして、墓の所在地も明らかにはされていないですね。また、桜桃忌などに、相当する、ファンの集いも、開かれてはいません。巨匠と自分を呼ばせていて、ファンが大勢いるはずなのに、不思議なことです。
また、偲ぶ会では、花を献花する、恒例の儀式がなかったです。一応ですが、カソリックの信者を表向きに標榜しているのですから、カサブランカぐらい、会場に用意して、参加者(会費は、立食形式で、1万円ぐらいだっただろうから、カサブランカか鉄砲百合を、参加者文用意するのは、簡単だっただろうに。さすがにそれを、気持ち悪く思う神経はあったと見えます。
しかし、しのぶ会では、壇上に400冊の著書を羅列した。自己宣伝の欲求は強く、それが、ありとあらゆるところで、今も噴出しています。これから先、まだ、たくさん書かないといけませんが、二万字に達しました。で、これ以降は、別章に移します。
なお、このブログの、2010年より、数え始めた延べ訪問回数は、2654028です。それは、相手方の知らせて来るところによればであって、本当はゼロが一つ多いと思っています。では、雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
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