この一文は2万字以内で、まとめられませんでした。続編として、続くものを独立をさせます。明日誤変換を直しておきます。
副題1、『オリンピックで、沸く日本で、地味な神田日勝の業績が、本日夜、再放送をされました』
本日、2013年9月8日(日)は、朝の五時に、オリンピックが東京に来ると、言うことがわかって、日本中、その喜びに打たれた模様です。
私は、本日は、竹橋の国立近代美術館に竹内栖鳳を見に行くかどうかを迷いながら、結局家にいて、家事をしながら、テレビニュースの録画を、整理していました。毎日毎日、人は選択を重ねながら生きていると思います。
私も、本日も通例のごとく選択をしました。朝には何を優先するべきか、考えながら、それでも、より小さなことを、優先して行くことにして一日中を過ごしました。小さなことを丁寧にする。そういう生活のある種のよさに気がつき始めているからです。
集中して、集中して、前向きに生きていくと決めていた私なりの怒涛の時代と、このように、ふっと息抜きをする時期と、どちらがいいか、わからないとも、思う昨今です。いや、たまたま、今の年齢と体力にはこれしかないし、これでいいと思っているのです。
だが、パソコンの中には、このブログのアイデアと言うか、下書きが何本も入っていて、それを、整理したり、加筆をしたりすれば、本日のブログは、かけるし、と思っていたのです。
ところが、夕方の、6時40分ごろに初めて、本日の夜八時からの、日曜美術館が、タイトルは、神田日勝とあって、『あっ』と、驚きました。
これは、6月23日放送とあります。だが、私が録画したのは、夜八時の番組ではなくて、朝9時からの方だったと思います。で、最初の五分間は録画していないのです。と言うのも新聞のラジオテレビ欄には、「半身の馬」と言うタイトルがあって、・・・・・ああ、具象の人なのですね・・・・・と、思い込んだからです。で、本来なら、見ないはずでした。私は忙しいし、そんなに、情報をたくさんインプットすることも人間は不可能ですから、いわゆる現代絵画と言うものしか、精査しないほうなのです。
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副題2、『ヤエノムテキと言うサラブレッドに、熱烈に入れ込んだ時代があった』
本日、その再放送を5、6度目として、見たのですが、その神田日勝と言う、日本全国的に見れば、まだ、有名ではない画家の一生は、とても心を打つものです。皆様にも、もし、ごらんになっておられなかったら、ご覧になるように、お勧めをしたいものです。オンデマンド放送に申し込んでおられるのならさらにお勧めです。
私は録画したそれを、そうですね。何回も見たものです。そして、グーグルで、神田日勝を調べたりもしました。
だけど、それをはじめてみた日には、まったく、予備知識が無くて、上に言ったように、『ふん、具象の人ですね』と、軽く考えて、・・・・・本来なら見ないはずでした。
ところが、ある年の皐月賞を、テレビで見て、ヤエノムテキというサラブレッドに、突然電撃に打たれた様に惹かられてしまったのです。その日、テレビを見ていたのが、偶然一人だったのも幸いしました。主人は松阪に単身赴任をしていて、子供達は出かけていたのです。
とても性格に個性のあるサラブレッドで、かつ、毛色と、毛並みが美しいのでした。G1レースと言う、日本競馬会の種目でも最高峰に、位置するレースに出るのですが、皐月賞は勝ったのに、次に来る、ダービーにも菊花賞にも勝てず、ただし、次の年の秋の天皇賞を勝ちましたが、なかなか、スカッと勝てないのです。
ところが、不思議なことに、私には、勝てない日には、テレビで見ていても勝てないことがわかるし、勝てる日にはテレビで見ているだけで勝てることがわかるのでした。で、手書きで、厩舎に、そういう思いを、送ったら、調教助手さんにひどく驚かれて、ご返事もいただいたし、馬主さんにもそれを、見せてくださったらしくて、秋の天皇賞を勝ったあとで、非売品のぬいぐるみとか、岡部騎手の大型のポスターとかを送って、いただきました。
しかし、ヤエノムテキが引退してしまうと、私のサラブレッド熱も冷めてしまって、それ以降はテレビも見ていません。ディープインパクトなど、非常に美しい馬体(体型)である模様ですが、なぜか、興味を抱けないのです。
本日、2013年9月8日の午前中に東北の人たちが、不思議な現象にであっているという番組があった模様です。亡くなった人が目の前に現れたり、亡くなった人の声が聞こえたりすると言う話でした。見なかったのです。気の毒で見ませんでした。ただし、幻聴とか、幻視と言うだけでは、片付けられない話だと思っています。
集中すると、勘がさえるのです。私はもともと母に鋭い勘の持ち主だと言われていますが、さらに集中していると、勝つのか、負けるのかの、未来予測さえもできるのでした。
オリンピックが東京に来るか来ないかなどは、予測できませんよ。と言うのも、大勢の人が関心を持っていることなど、あまり、力を入れる必要が無いと思っているからです。それは、その人たちの思いの力で何とかなるでしょうから。
特に、オリンピックと経済効果、および、自民党の財政策、それと、消費税増税のこと、そして、インフレのことなどは、実は、浮かれているばかりで、済まされることでもないと思っていますが、本日はそこには触れません。
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副題3、『神田日勝に触れたのは、ほんの偶然だったが、それこそ、ヤエノムテキにほれたように、一気にその絵と人生の両方に、惚れ込んだ』
テレビを通じての出会いなんて、薄い、薄いとおっしゃる向きもあるでしょう。だけど、ある人物、または、ある生き物(サラブレッド)に、ほれると言うことは、ほかの事にも、熱情を抱けると言うことなのです。
私はよく、『私は修行を重ねていますから』と、言います。口幅ったい言い方で、豪語のひとつですが、修行とは禅寺に行かなくてもできると言う意味で、テレビ画面からもできるのだと、言う例として、この神田日勝と、ヤエノムテキなどをあげたいと思います。
まあ、71歳にして初めて知った、神田日勝と『そっくりな人生を送ります』とか、『そっくりな時間の使い方で絵を描きます』というような意味で、修行をするというのではなくて、いき方として、美しいものへ憧れ、そこに身を寄せるということをさします。
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副題4、『5歳の長男を虐待死させた、42歳の父親が、自分はバカだったと、警察署で言ったそうだが』
一方で、本日たくさんの録画されていたニュース類を点検したのですが、その中で、5歳の長男を、30分も殴ったりけったりして結局は死に至らしめてしまったお父さんが、『死ぬとは思わなかった。自分は無知だった。馬鹿だった』と警察署で告白したそうです。
これは、政治には関係が無いので、メモもとらずに削除をしてしまいました。民放だったと思いますが、父と言われる人物が、洋服などで、顔を隠すことなく連衡をされていく映像を見ましたが、ごく普通の男性でした。
たぶん、妻が家出をしているとか、ほかの悪い条件が重なっていたのだと推察しますが、常に、自己点検をしていないと、人間は動物に近くなります。もともと動物なのですが、それが、すぐ表に出るのです。動物の世界だと弱肉強食だから、この父親が、社会から弾き飛ばされた弱い自分を感じていて、イラついていたとしたら、それを弱い弱い、自分の子供に当たるということはありえるのです。無色だったと言いますから、社会から弾き飛ばされた自分と言う感じだったでしょう。それに、もし、私の想像通りに妻が家出をしていたとしたら、なおさら敗残者の思いは強かったでしょうから。
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副題5、『ところで、テレビ東京の<ゴッホ最後の70日>と言う番組も大推奨番組です』
ニュースが利用されて、攻撃を受けるので、その点検に大忙しで、最近では新聞を読む暇も無いのです。で、この神田日勝の番組も皆様にお知らせもできませんでした。そういうおせっかいもできなくなったのですが、昔は、
一度見た番組で、善いものが再放送されるときは、このブログかメルマガで、読者にお知らせをすることがよくありました。二回ほど、強烈に覚えているもののうちのひとつは、テレビ東京で、放映された『ゴッホ最後の、70日間』と言うもので、ゴッホの死は、弟テオが、金の無心をされることに追い詰められきっていて、テオが撃ったという説を、開示した番組です。
その番組では、もうひとつ衝撃的な解釈がゴッホに対してなされていました。それは、ゴーギャンとアルルに一緒にいたときに耳きり事件を起こしているのですが、あの耳を切ったのはゴッホではなくてゴーギャンだったと言う解釈を述べているものです。
ゴーギャンはサーベルをアルルに持ってきていた。ゴッホと、ゴーギャンは芸術家同士だから、激しくぶつかっていて、ゴーギャンが怒りのあまり、ゴッホにサーベルを突きつけて、それで、偶然耳がそぎ落とされたと言う説です。
ゴッホは、激しいほど、善人であって、ゴーギャンを相手にしても、自分が耳をそぎ落としたことにしたし、弟テオが、自分を売ったときも、自分が自殺したことにしているのですが、その番組の例証や傍証を、仔細にたどっていくと、すべて、つじつまがあうのでした。
これは、本当に強烈な番組でした。ゴーギャンがタヒチに行きっぱなしになったのも、死後のゴッホの強烈な思い出から逃げるためだったでしょうし、弟、テオが、その後、ろうそくが消えるように弱弱しく死んでいったのもうなづけるし、テオの妻が、大急ぎでゴッホの書簡集を出したのも、頷けるのでした。
しかし、偉大なこの番組をお知らせしている私の文章が価値が高かったのでしょう。それに、テレビ東京は日経新聞系列ですからね。いろいろ、変なことが昔から多かったのです。5歳上の先輩である、プロデューサーの宮崎明子さんにかわいがられていたのに、突然交流が、切れてしまったり、在ニューヨークの天才的頭脳の持ち主、Tさんが、突然朝の地上波から消えてしまったり、
しかも、挙句の果てに、藤田千彩さんと、いう、元通信者勤務にして、現在は、美術評論家をしている若手の女性から、この番組のことで、激しい攻撃を受けると言う形になりました。それは、今のシリア空爆のようにロンドンにおいて、親切が発表されたと言うが威信も利用する凝った形でした。それで、私は石塚雅彦さんと言う元日経新聞論説委員とか、私の同期生の、古村浩三君が、私を弾圧する役目を担っていることに気がついてきてしまうのでした。
藤田千彩さんが、元外国とのニュースをやり取りする会社に勤めていたとか、いろいろあって、そういう直感が働くのです。これは、雨宮処凜さんの大活躍にも通じるポイントがあるのですが、後者については、今まで、一度も言及したことが無いで、本日も軽くやり過ごして先へ進みます。
芸術に耽溺したくても、このように、突然の妨害とか攻撃が加えられるので、落ち着いて、芸術のことに耽溺できないのです。藤田さんから、突然の攻撃を受けたのは、2011年の、8月の末だったと記憶していますが。
後で、ブログを点検してみるとわかると思います。ただ、彼女は岡山県で育った人で、その後上京して、玉川大学を出た人であり、特権階級意識が今はまだ小さいので、私が彼女の役割に気がついていろいろ書き始めたら、さっと逃げ出したのです。が、そういうところが、潔いと言うか、賢いのでした。人生を送るにあたっての、防衛力が強いようです。誰と比べて、賢いかと言うと藤田さんの一年後に、似たような役割に使われた開発ちえさんに、比べるとです。
偏差値的に言えば慶応大学卒業の開発さんのほうが上なのでしょうが、彼女の方が、お金持ちの家に生まれたと言うことが、こういう修羅場では災いします。
ここらあたり、あなたが何を言っているのかわからないとおっしゃる方があったら、
リキテックス社の賞から連想されてしまった、成りすまし疑惑と、周南事件の相似性△△
と言うタイトルの過去ブログほかをごらんいただけるとうれしいのですが・・・・・まあ、それは、強くは望みません。で、先へ進みます。
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副題6、『数学の難問を解いた、ペレリマン博士の番組(NHK)も素敵でしたよ』
もうひとつ、これは、どれほど、お勧めしても、攻撃の道具としては、利用されたことが無い番組があります。それは、数学の難問、ポアンカレ予想を解いて、数学分野のノーベル賞と言われる、フィールズ賞を授与されながら、その授賞式に現れず、かつ、その後、引きこもり体制に入ってしまったペテルブルグ在住の天才、ペレリマン博士のドキュメンタリー映像です。それは、番組の副題としては、「数学者はきのこ狩の夢を見る」だったかな? ペレリマン博士は、人間とは誰とも付き合っていないのだが、よく森へ散歩へ行くとの事でした。そして、きのこを採っているとのことでした。
なお、本日は、保見容疑者について語らないといけないので、ペレリマン博士についても、神田日勝についても、詳しいことは何も語りません。ご存じない方で、ご興味のある方は、ラジオテレビ欄・・・・特にETVとか、BSプレミアムとか、BSジャパンとかを、気をつけておいて下さるとうれしいのですが・・・・・簡単な情報でよければ、グーグルで手に入るでしょう。今確認しましたが、ペレリマン博士については相当数のブログもある模様です。
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副題7、『神田日勝の兄は、芸大卒業らしい』
神田日勝は、苦労をした人です。東京から北海道の開拓地へ一家で疎開した人の一人で、酷寒の帯広で、ブルドーザーなどの機械も無い昔に、大変な苦労をした上で、32歳で夭折をしています。
NHKの番組は大変いい番組でしたが、ただ、ひとつ不思議でならなかったのは、どうして、神田日勝が現在でも高い評価を受けていて、北海道立か、帯広市立か、鹿追町立か、は、知りませんが、立派な美術館も建っていると言うことでした。
ロマンローランが、言っています。「人間は社会に生きる人として、ピラミッドを形成している。その上であろうが、下であろうが、外側の石になっている人は幸いだ。だが、中に入れ込まれた石となっている人は、不幸せである」と。
なぜ、32歳で夭折したのに、立派な美術館が建っているのか?
絵は魅力がいっぱいで、人の心をうつ人生でもありますが、同じような経歴の人は、油絵作家だけを採ってみても、明治以降でも、五万といるでしょう。だけど、公立でも、私立でも、その作家専門の美術館が、建っている画家はそれほど多くありません。
どうして、それほど、神田日勝が恵まれているのかは、本人の人柄がよくて、兄弟や妻が立派な人だったとしてもなお解せないので、後で、グーグルを引いてみたのです。
すると、お兄さんが、芸大へ、進学していることがわかりました。なるほど、そこにひとつの答えがあると、私は感じました。
どういう事かと言うと、中学卒で、農民として家を引き継ぎながら、行き寒冷で、作物ができないなどの苦労をしながら、道展(ほかの地域では県展と言う呼称のはず)に、大作(ほぼ100号サイズ、ただし、ベニヤ板に書いたので、正確には100号Fより大きくなったはずだが、彼が、100号サイズにベニヤ板を切ったかもしれないので、サイズがわからないが、ともかく、普通の人が趣味で描くサイズではない)を描いて、出すと言う、行動様式が、わからないはずなのです。
それは、過去ブログ、
保見容疑者と、神田日勝との違い・・・・・(メンターの有る無し)△
の中に、考察の経過を書いておきましたが、
そういうものなのです。その上、個展をする。こういうことも、画廊への紹介を、誰がしてくれるのか。そういう意味で、なかなか、一歩先へ進めない人は多いのですよ。
もちろん、神田日勝は、道展応募二回目にして早くも大賞を取っています。だけど、大作を描いて、額をつけて(今は額なしで、工房団体展が、結構ですと言うらしいのですが、昔は必ず仮ぶちと言うのをつけてくださいと言われたものです)、道展に応募すると言うことが、普通の人にはなかなかできないはずなのです。それができたのはお兄さんが、芸大卒、または、芸大在学中だったから、こういうシステムのことを知らせてくれたと考えると、筋道がついてきます。
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副題8、『父が、官展で大賞を取っているから、私には美術界のプロトコールがわかっている』
私が美大卒でもないのに、とんとんトントン、美術界を進んでいくのは、実は父が戦前に、満州文展と言うところで大賞を取っているからです。そして戦後も20年ぐらい休みましたが、その後、太平洋展とか、鎌倉美術展にずっと、出品をしていました。そして画家同士でお茶飲みするのが大好きでした。
父の絵は例のラストエンペラーの宮城や、甘粕大尉の部屋を飾っていたそうです。そして、そのころの新聞記事(切り抜き)がたくさんあり、写真も数葉ありました。それが泥棒に盗られてしまいました。
ただ、私はスキャンをすることをやっていなかったのです。いつも忙しくて。でも、国立国会図書館にはあるだろうと思っておりました。が、なんと文化面だけは、マイクロフィルム化されていないのでした。そして、私が国会図書館へ行くたびに、それが午前6時であろうと何であろうと、機動隊のバスとか、パトカーとかが必ず二台いて、脅かすのです。
ですから、私が美術の才能があり、しかも、父は、今で言うオイルシェール(当時は頁油岩と言っていた)の研究を満鉄の調査部、中央試験所で、やっていた知識階級でしたから、お嬢様育ちであることを、読者(または、国民)に開示させないようにしている勢力があるわけで、それは、必ず、夜に私の電話をワン切りしたりして脅かす人間です。今もこれをパソコンで書いていて、まだブログとして、公開していない段階で、電話がぎりぎりと言いました。ワン切りしようとしたが、私がワン切りについて過去例を書いたので、実行を差し控えたのでしょう。
ところで、その同じ国会図書館ですが、『びょんぶ』という書物(豪華本らしい)をどうも隠しているらしいのです。河出書房新社から出ていて、それが、原因で、伊藤玄二郎が、ポルトガル国のエンリケ(?この正式な名称を今覚えていないが)皇太子勲章をもらうこととなった本です。その本を誰が編集したかは、大問題なのです。私を取り巻く暗闇の秘密が、そこから解けるほどの大切な本ですが、国会図書館はそれを秘匿しているらしいです。
ですからいつか、この20年間で、国会図書館の館長をしていた人にはインタビューをしてみたいと思っています。その裏側にどういうことがあったのか? 誰が満州に関する新聞のマイクロフィルム化を提言して、文化面だけは、削除する様に、仕向けたのか? ぜひ知りたいと思っております。
警察がパトカーを出して国会図書館前で脅かすので、伊藤玄二郎がエージェントであると断言するのです。彼の元愛人である石川和子さんが、私の猫のことで、自分が隠していたのに、その隠しているはずの私の猫が、私のほうを慕って家の中から出てきたことに、イラついたあまりに、、警官を呼んだことがあるのです。しかも、私を、「その夫に叱ってもらうように、あそこのだんなに、頼んでください」と、警官に頼んだのです。
猫風情で悔しい思いをしたからといって、隠していたのは、自分のほうなのですから、そんな事を警官に頼むこと自体、驚天動地のばかげた行動ですが、それにのって、のこのこやってきて、我が家の玄関のドアノブをガチャガチャやって、私のだんなを呼ぶ警官がまた、おばかさんでした。その上、この130段も石段がある地域には絶対に、車が入らないのに、なんと、その警官たちが、交通事故の調書をとって、さらに、脅かしたのです。まったくバカの三重唱ですが、絶対に謝罪をしないで、このようにさらに脅かしの上塗りをすることで解決しようとしています。
でね、どうしてそういうことになるの?と不思議極まりないので、伊藤玄二郎とその盟友であって、現在も実際には生きている井上ひさしが、国際的軍産共同体のエージェントであるので、これほどの、特権が利くのだとわかってきています。
驚くべきあくどいことが、この雪ノ下二丁目の谷戸では、起こっているのです。私は、何十回も入った泥棒の一部は警察ではないかと思っているほどです。泥棒を取り締まるはずの警察が泥棒をしているのです。電話の盗聴やらパソコンのハッキングもその可能性があります。
父に絵の才能があったことは、一種の挿入と言うかスピンオフの話でしたので、元の神田日勝に戻ります。
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副題9、『仲間とタバコをくゆらす、日勝の落ち着きは、兄の芸大入学という学歴が、支えていたはずだ』
芸大の音楽部は、ほとんど、試験が無いようなものだという側面があります。楽器部門は、芸大の先生に、入試前に、見てもらっている必要があるから、そこで、大体合否がわかるようなものだからです。
美術のほうではそれほどでもないと思いますが、神田日勝のお兄さんは、帯広にいて、予備校で、デッサンを習うなどと言うことがあったかどうかを知りませんので、純粋に、才能はあったといえるでしょう。東京の子供が芸大に入学するのと、帯広の子供が芸大に入学するのではやはり、違いがあって、帯広から、入学したほうが勲章度が、高いと言えます。
そういうお兄さんがいる青年として、日勝は、画家仲間に相当いい位置でもって受け止められていたと思われます。NHKが開示した写真の中に、画家仲間と喫茶店で、談笑している写真があってそこの日勝は、とても落ち着いていて、幸福そうです。
この喫茶店が札幌にあるものだと仮定をすると、普段は、帯広からは、なかなか、出席できない仲間うちの会だから、日勝の気分が高揚していたともいえます。が、はしゃいでいるとか、高ぶったと言うよりも静かに落ち着いています。これは日勝がみんなに受け入れられていると言うことを信じきっていることをあらわしています。
しかし、『友あり、遠方より来る、また楽しからずや』と言っているほど、画家って、単純な生き物でもなくて、激しい嫉妬の感情などがあるものなのです。
それに画家でなくても、日本人って、すぐ、談笑の際でも、上下関係の位置は確定したい方ですから、中卒であって、しかも若くして、大賞を取っていて、しかも農民であるとなると、その位置取りは非常に難しく、ややもすれば、弾き飛ばされる可能性もあるでしょう。
画家は、自由業ですが、たいていはそれでは食えないので、別の仕事を持っていて、その職業でも人間とは上下関係を作るものだからです。美大か、国立大学の教授をしている人が一番偉くて、私なんか職業としての肩書きが無いので、下っ端中の下っ端です。だけど、内面的な実力があるから、みんな扱いに困ってしまうところがあるわけです。
比較して、日勝が、周りから、素直に受け止められたのは、お兄さんに、芸大入学者と言う、勲章があったからです。そして、弟にも才能があると、みんなが素直に認めてくれたからです。
そしてお兄さんから美術界のプロトコールやら、出世へのシステムを教わっていたことも大きいでしょう。道展で、大賞を取っていたことも幸いしたし、個展を一回だけでもやっていたのは、後世に名前と作品が残るためには大きく、寄与したと思います。
また、テレビでは、語られなかったけれど、若い未亡人を支えた、親戚からの経済的援助等もあったと思います。それは、彼の名前を冠した、公立の美術館が、すでにあるという形で、現在世に出ている彼が、確実に世に出るための布石が生前にすでに、行われていたということです。
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副題10、『芸術家が、世に出る・・・・・と言うことは、どういうことなのか?』
私は、五冊目の本『黄色いさくらんぼ』のあとがきとして、21歳の詩人と言う短いエッセイを載せています。それは、ニューヨークの地下鉄で、乗車駅で、いすにうつぶせに座っている大変な美形の若い人を見つけて、女の子だろうか、男の子だろうかと、いぶかしく思ったことから始まります。服は白いサマーウールのスーツ(背広)で、ペイン格子という上等で、しかも、ホームレスなどとは違って、清潔なものなのですが、あっちこっちほころびていて、コインランドリーでがさがさ洗濯していると思われ、現在は貧乏だと思われるのですが、育ちはよさそうです。
あまりにも不思議で、ずっと見つめていて、彼が降りるときに一緒に降りて、喫茶店に誘いました。ニューヨークでは、それほど、高級な喫茶店と言うのは無いのです。コーフィーいっぱいぐらい軽いおごりなので、おごりたいと言うと、水だけで結構ですと言うのです。誇りは高いです。
出身国はエジプトだと言うので、大統領一家または、その候補クラスの上流階級の子弟だと推察されました。想像したとおりに芸術の道に入っているのでした。しかも詩人だとの事です。
それで、すぐさま、『ああ、そういうわけで、親から勘当をされて、今、仕送りが無いんですね。それは、2,3年前からでしょう。この洋服は既製品ではないでしょうね。肩幅がとても広いのに、ぴったりのサイズですから。素材は最高級です。だけど、ぼろぼろだと言うことは、3年ぐらい前から、新しいのを買っていないということでしょう。なるほど、なるほど』、などと、思い至りながら、そんなことは初対面ではいえないので、
「で、本は出したの?」と聞きました。タイトルを聞いて、本屋で買ってもいいと思ったからです。ところが、こで彼は猛然と怒り出しました。その力強さが、私が「彼が、ハイクラスの政治家か、軍人の家系の人間だ」と最初に申し上げた推察が当たってきたところです。ただ、顔だけがクレオパトラもかくやと言うほどの美形なのですよ。色も白くて、いわゆるハーフなのかもしれません。
彼は、小さな、しかし、しっかりした声で、「どこからが、芸術家だといえるの? 本を出さないと芸術家ではないと言うの?」と言いました。私は虚をつかれたと言う以上にびっくりして、「ごめんなさい。だけど、日本では、そういうことが必要なの。ニューヨークとは違うの。そうしないと認められないのよ」と、言いました。
これが、後で、逆説的に、私を本の世界へ追い立てることとなります。ニューヨークと日本は違うのです。そちらの方が芸術の世界では、拝金主義ではないのです。それと、一点集中主義でもないのです。貧富の差が激しくても、芸術家は、芸術家として一定以上の尊敬を受けているので、生きる気力がわきます。だけど、日本って、貧富の差が激しくないのに、お金が無い人はただ、それだけで、軽蔑される悲しい社会です。で、どうしても、お金を持っていないといけないので、純粋に創作だけをやっている芸術家が少ないのです。
私だって、「専業主婦だ」と常に、がなり立てているのは、それがひとつの職業であって、「ある程度以上のお金はありますよ。特に、生活費は大丈夫なのですよ」と、皆様に知らせたいからでした(笑)。いや、笑い事でもないですかな?
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副題11、『神田日勝は、すでに有名人だが、芸大出身のお兄さんは有名人ではないぞ。なぜか?』
「一将、功なって万骨枯る」と言う言葉があります。日勝はすでに、日曜美術館で、二回も放送をされていて、しかも、公立の美術館さえあるので、作品は散逸せず、芸術家として、後世にまで、その作品を残すことができます。
ふとですが、その美術館の館長はお兄さんだった時期もあるのではないかと考えることもあるのです。大卒のお兄さんには、公務員として生きる資格があって、特に道立高校の先生などを引退した後で、教育委員会づとめから、館長へ転任していくと言う道はあると思います。
それと、お兄さんには、農業を捨てたわけですから、生計を別の何かで立てないといけないので、学校の先生をした可能性は高くて、そうすると、それなりに忙しいと言うことがあります。また、いい先生ならそれなりに、かえって達成感を感じる毎日も訪れるでしょう。
それと、もうひとつあります。芸大に限らず、美大に進学した人が、絵を描くのに飽き飽きしてしまうと言う現象もあるのです。入学前やら、入学後にあまりに大量に描かされすぎると言うことはあるので、それで、食傷してしまうと言うこともあるのです。版画に逃げる人が多かったりするのは、版画と言うのは、それほど、大量に作ることができないので、飽きると言うことは無いからでしょう。
ものすごく面倒くさい手順が必要です。忍耐強さが必要な道なのです。刷り師に依頼できるほどの有名人になったら違うのでしょうが。
または、教え込まれすぎると言うこともあるでしょう。それも面白さが、半減する行為です。そして、成績もつきますね。しんどいことです。
ところが日勝には上に上げたような弊害は一切ありませんでした。その上、農業は、夏は忙しく、そこでは、絵描きとしては、半分休んでいるようなものだから、冬になると、やっと描けるようになったと思い、うれしくて、猛然と集中したと思われます。
しかも、兄に比べれば『自分は素人だ』と思う謙虚さもあったでしょうから、『売れる絵(小品となる)を絵描くかなあ?』などと言う野心は一切無かったと思われ、常に道展で、展示をするに向く、大作を作ることとなりました。しかも三年後からは、無審査になったと思われるので、一年に一作描けばいいのです。これは、相当に集中した作画ができるので、濃密で、人を驚かすレベルの作品ができると言うこととなります。
ただ、初個展のときに、緊張した様子が、添え文として、プログラムに載っているそうです。それがほほえましいですね。
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副題12、『ぶっちゃけて言ってしまうと、私の個展のお客様とは、ハイレベルな階層の人が集中していたのだった』
初個展と言うのは誰でも、同じです。私も緊張しまくったのですが、初個展に挑戦したのは、そのいわゆる人間としての実力のなせる業といってよいでしょう。それと、美術界には、相当な知識があったということもあります。美大卒ではないものの、子供のころから、美術館等には、常に連れて行ってもらっていて、ありと、あらゆることがわかっていたと言う側面もあります。
私の9回目の個展、exibit Live and Moris で、行われたものだけは、私は乗り気ではありませんでした。この最中の2010年4月9日に、井上ひさしが、自らを突然に、死んだことにしたことからも、今でははっきりと、わかるのですが、諜略行為そのものの、ひとつであって、引っ掛けて、貶め、心理的に暗殺をするものだったからです。
この9回目の個展ひとつだけでも、20万字以上の文章が書けるでしょう。
JR東日本がどういう風に利用をされているか?
阿南みらいと言う画家が、もしかしたら、いちばゆみさんと、関係があるのではないかとか、山本容子さんが、ガレリアグラフィカで、個展をする時期に合わせて、私の方が延期をされたこととか、同時期に渋谷のユーロスペースで、増山麗奈さんのパフォーマンスが行われたこととか、ありとあらゆる、諜略行為の裏側が集約して訪れたころでした。瀬木慎一さんが、恫喝してきたのもこのころでした。中央大学法学部政治学科卒の美術評論家であり、どこかで、同じ科目出身の伊藤玄二郎とつながっているはずです。
しかし、2000年ごろまでは、私は自分を取り囲む闇には気がつかず、個展を開けば必死になって、お客様をお招きしたものです。数としては、大量のお客様はいらっしゃいませんでしたよ。しかし、その客層のレベルの高さには、どの画廊のオーナーも舌を巻いたと思います。
それは、1994年の個展のときのオープニングパーティで、渡辺豊重さんに言われましたよ。だけど、今2013年の9月2日には、そのトヨシゲさんが、銀座で、私をいじめる役目にかりだされている始末ですが・・・・・
でも、それだからこそ、はっきりとすべてが書けるのですけれどね。親切にされると、人間は恩義を感じますので、書けませんが、不親切な行為、ましてや、攻撃用弾丸として使われるのなら、堂々と、その人について書く事ができます。いずれ、私の渡辺トヨシゲ論を書くつもりではありますが、今のところ、政治的分野のことを書くので大忙しなので、看過して置きましょう。
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副題13、『1982年に、女性のテレビプロデューサーから、<あなたは、すでに世に出ていらっしゃるわ>と言われた私だが・・・・・』
銀座の有楽町側に金春どおりという、南北に走る道があります。今春流の何かがあるのか、あったのか、今でも、金春湯と言う銭湯があるかもしれない? しかし、もう、無くなっているかな? 銀座に詳しい方なら、わかる場所です。そこのあるビルの三階にあったこんぱる画廊と言うところで、初個展をしました。ビルそのものは建て替えられて、今はもう無くなっていると思います。
嫌われることを覚悟で、はっきりといいますが、私自身は社会階層的に、エリートコースを歩んできていて、それが反映したお客様だから、上流階級の人オンパレードと言うようなお客様たちが来てくださいました。
しかし、いわゆる美術評論家は、一人も来てはくれませんでした。毎日新聞に、『今週の個展』と言うコラムがあって、その7人ぐらいの中の一人に選ばれていましたし、同じ欄に、上條陽子さんの名前があったのですが、美術評論家は誰も来てくれませんでした。
初個展では、私の表情は優しくて、温和です。後で、探して見てスキャンしてあるものがあったらここにアップをするかなあ?
ただ、この写真では、美術の関係者が、『あら、それって素人っぽいですねえ。それじゃあ、美術評論家はきませんよ』というといけないので、最近の個展の写真を同封させていただきます。ずっと、プロっぽくなっているでしょう(笑)
で、写真の説明から元へ戻ります。
しかし、内心では、美術評論家が、一人も来ていないことに、失望を深くしていました。
週の後半だったと思いますが、大学の先輩として、宮崎明子さんが、当時はまだ、女子アナだった、勝恵子さんを連れてきてくださいました。勝さんは今では、経済面かアフリカか、または、イスラム圏専門のキャスター(評論家)です。あのころから30年は経っているから。
勝さんはお忙しい模様で、先に帰られたのですが、残った宮崎さんの名刺を見て、テレビ東京のプロデューサーと書いてあったので、驚いた私が、つい、「美術評論家が来ていない」ことへの愚痴を伸べてしまったのです。すると、宮崎明子さんが、「あら、あなたはすでに、世に出ていらっしゃるのに」とおっしゃったのですよ。
この単純なエピソードには、種々さまざまな付随文をつけないといけません。宮崎さんは、私より五歳上だと思われるので、テレビ東京がまだ、朝日新聞系列下にあった時代で、教育チャンネルそのものだったころに入局した方です。だから、上品で控えめな方であり、メディアの人だと言っても、林真理子さんに代表される、あのような雰囲気とは無縁の人でした。
さて、今は其のときから30年がすでに過ぎ去っているわけですが・・・・・で、あのときに、私が40で、明子さんが、45だったと思うのですが・・・・・その年齢の普通の女性に比べれば、老成と言ってよいほど、成熟した精神を二人とも持っていたと思います。それは、洋服を着ている外観からは見えないものですが、ある種の直感で、人はそれを知ることもあり、その二人の成熟度に関する信頼感が、ある種の共感を招いたのでしょう。
と言うのも今、グーグルで調べると、テレビ東京は、長らく、赤字続きで、経営破たんをしそうで、そういう面での心理的な苦労があった中、突然に朝日新聞系列下から、日経新聞系列下に収まったわけです。番組も当然に変更されてきて、株式投資などという新しい側面が入れ込まれていて、明子さんは、それに適応しつつあった時期だったでしょう。だけど、それは、見るべきほどのものは見つ」と平家物語に言っているような修羅場を経験した後の平和と言うものです。
一方の私ですが、北久里浜で、益山某と言う元海軍参謀が、1200坪の土地をただで取得する大詐欺を計画して、その隣地地主として、大きな事件(ただし、世の中には、一切が開示されていない)に巻き込まれ、相当な修羅場を経験した後での、平和と言うものを味わっている時期だったのです。その益山某氏が、元陸軍参謀にして、伊藤忠の大物、および、日本エージェント界の最大メンバーとして君臨した、瀬島龍三と、親友だったことが我が家の電話や室内が盗聴をされるという、今につながっていると、私は推察しています。だが、当時は彼が、それほどの大悪人だとは夢にも思わず、したがって、『嵐が去った後の平和』を味わっている、ちょうど、明子さんと似たような心理的な成熟度に達していた時期だったのでした。
明子さんが、おっしゃったことはありがたいことではありました。今思うと、本当に幸せな時期だったのです。でも、その当時はまるで気がつきませんでしたけれど。
そして、業界が違うと、いろいろ、ものの見方も違うものだと思いました。美術の業界の側から見れば、1982年の私なんて、まだ、作家として、認められてもいないと言ってよいほどでしょう。個展がどんなに内容がよくでも、業界の仕組みとかプロトコールがあって。
だけど、別の世界・・・・・特に宮仕えの必要なサラリーマンの世界から見れば、好きなことをやっていて、しかも、それは、創作と言う分野であり、自分ひとりで、管理できて、自分ひとりで、活動することもできて、しかも、それを発表できる。なんという幸せ者かと見えたことでしょう。
ある編集者からも、昔言われたことがあります。「私ね、大変な思いをしながら、それでも三人の子育てを同時にやってきました。一方で、あなたは、専業主婦で、生きてきて、・・・・・今は、子供が小学生になりましたので、もう一回、世の中に出て行きたい・・・・・などと言っています。それは、贅沢すぎます」とも。その種のきつい言葉を浴びせられてきている身に、宮崎明子さんの言葉は、なんと温かく身にしみたでしょう。
私は深く感謝しました。それに感応してか、明子さんは、絵を買ってくださったのです。それは現地でスケッチしてきた鉛筆による風景画でエフェソスが、舞台でした。国際基督教大学では、一年のときに、厚さ5センチのペーパーバックを読むことが求められていました。それは、紀元一世紀ごろの使途たちの業績を描いた小説で、その舞台のひとつがエフェソスなのです。だから、買い求めてくださったと思われます。
さて、この宮崎明子さんとのエピソードは、この先、それこそ、10万字ほどにも発展するお話となっていきます。それをどう処理するかについて、迷ったりしていて、疲労困憊したのでした。
だが、前日からこの一文を書き始めた発端が、神田日勝に感動した点にあります。ですから、この一文を、急に絵、そのものにまつわるエピソードへと、転換をさせてくださいませ。
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副題14、『エフェソスで、立花隆を叱った(笑)私』
さて、上にあげたスケッチを描いていた、1981年の夏、私はトルコエフェソスの遺跡の真ん中にしゃがんでいました。7月の末か、8月のはじめの午後で、大変暑いのです。
エフェソスの遺跡には午前中は観光客がいっぱい来ます。地中海クルーズが寄港するクシャダスか、空港があるイズミールと言う大都市から、バスで、やってきます。それ以外にやってくる個人客はほとんどいません。どうしてかと言うと、交通の便が悪いからです。きちんとした路線バスは無くて、ジープを改造した、乗り合い自動車がありますが、運転手は英語をしゃべりません。でも、勇猛果敢な私は、彼らに乗せてと頼んで、街道上のエフェソスの入り口でおろしてもらいますが、そこから、さらに、20分ぐらい歩かないと遺跡の入り口まで到達できませんし、さらにそこから、遺跡の中を歩くのに、膨大な広さがあって時間がかかり、疲労困憊するからです。
さて、その時、天上、天下私一人だったその遺跡の道路をしたから上がってくる男性がいました。それが立花隆だったのです。だが、この挿話は、非常に長くなるので、別の機会に詳述させていただきます。 なお、このブログの2010年から数えはじめた、伸べ訪問回数は、1787796です。
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