本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

「信長による家康討ちはあり得ない」という方へ

2015年12月03日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
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【2015年12月3日追記】
 明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫の読者が次のような書評を書いています。
 「前半の細かい史料探求は、読みものとしては面白いが、要の、信長が家康を誘い暗殺しようとしていた、という説は、その、客観的に見て合理性が全くない。どう考えても、まだ北条、東北の大名が従属的にではあるが健在で、毛利・上杉も劣勢ながら、残っている状況下で、家康を暗殺するという信長にとってのメリットはなく、むしろ、世間からの評判を一気に落とし、今後、残存する敵対する大名との外交にも悪影響を及ぼす。個人的には、まず無いと確信しています」
 確信するのはご自由ですが、『本能寺の変 431年目の真実』をきちんとお読みいただければ、ご主張に対する反論となることはすべて書かれており、家康を討つならば、このタイミングこそ信長にとって最適だったことがおわかりいただけるはずです。まさに「時は今」だったのです。
 本能寺の変 431年目の真実』をきちんとお読みいただいても納得できない方は、当時の武将の常識「兵は詭道(きどう)なり」を説く『孫子の兵法』や『韓非子(かんぴし)』をご理解いただく必要があります。現代人の知識や論理のみでいくら考えても、信長の合理性は理解できないのです。
 それを理解するためには『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎をお読みください。客観的に見て信長の「最高の合理性」だったことがご理解いただけると思います。
 武田信玄の重臣たちは見事に「信長の家康討ち」を見抜いていたという史実を皆さんはどう見ますか?

 秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申候
 35万部突破のベストセラー『本能寺の変 431年目の真実』の著者が、今度は信長に挑んだ!!
 >>> 明智光秀の子孫が新解明する「間違いだらけの織田信長」
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』あらすじ
 ●信長は本当に《大うつけ》だったのか
 ●桶狭間での勝利は、偶然ではなく必然だった
 ●天下統一を目指した理由とは
 ●なぜ、明智光秀を重用したのか
 ●天下人の真の目的とは
 ●なぜ、本能寺で討たれたのか

 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』明智憲三郎著・幻冬舎に読者からのお褒めの言葉が続々!
 「他にない論理分析性の高いもの」「今までに読んだことがない斬新な作品」「自分でも推理しながら読み進めていく面白さは過去に経験したことの無いもの」「現代に通じる教訓がここにあります」「見事に一貫性が見出されて面白い」「当時の人たちの考え方を念頭に、改めて史実を再構築した研究家は過去にいなかった」

【2014年3月11日記事】
 信憑性ある史料から見出した証拠の全てに辻褄の合う答を復元したら、本能寺の変とは本来「信長による家康討ちだった」という驚くべき真実が出てきました。このことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社、2009年)に詳しく解説しました。
 この答だけを見た方は「あり得ない!」「奇説!」と叫びます。私自身、出てきた答を見て、そう思いました。ところが、証拠と推理を見直するとどこにも誤りがなく、他の答の可能性もしらみ潰しにあたってみて、確信しました。
 ところが、拙著を読んだようには思えない研究者がご自身の本に批判文を書いています。
 その要旨は、「あの時点で同盟者である家康を信長が処分したら、信長の同盟者も家臣も信長を信頼せず、離れてしまう。そんなバカなことをするはずがない」というものです。
 私は呆気(あっけ)にとられました。戦国の世に天下統一まで進もうとしていた戦略家の信長の次の一手を現代の研究者が読めると思うのだ!おそらく、それは本因坊の碁や名人の将棋の次の一手を素人が読むよりはるかに難しいだろうに、と。皆さんはどう思われますか?
 私であれば、「信長は、家康を討っても、そんなことにならないように、いくらでも対策を講じる」と思います。稀代の戦略家ですから現代人の思いつかないことまで考えていたはずだからです。
 たとえば、「家康が謀反を起こして自分を殺そうとしたので返り討ちにした」と言えば済んでしまいます。(注:あの時点では、家康は信長から駿河を給付されたことによって信長の家臣となっているので謀反となる)
 そう考えると、「信長が無警戒で本能寺にいた」ことが単なる信長の油断ではなかったことがわかります。信長にはそうしなければならない理由があったのです。
 もし、安土城のように信長の本拠地で家康を討ったらどうなるでしょう?
 明らかに「家康が謀叛を起こして自分を討とうとした」という理由が成立しなくなります。誰も警護が厳重な安土城で家康が謀反を起こすという馬鹿げた行動をとるとは思わないからです。信長のでっち上げがすぐにばれてしまいます。
 そこで、「本能寺に小姓二、三十人」で宿泊する必要が生まれたのです。家康は重臣や穴山梅雪ら四十人程度を連れていました。信長が少人数で本能寺にいることは家康を本能寺へおびき出すためにも、謀反の名分を立てるためにも必須条件だったのです。家康があの朝、実際に本能寺へ向かっていたことは拙著に書いた通りです。光秀が信長の計画を逆手にとらなければ本能寺の変は「信長による家康討ち」として歴史に残ったのです。
 詳しい説明は拙著新刊『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)をお読みください。定説にとらわれた観念論で思考停止せずに、歴史の真実を知ることの面白さを味わってください。

 現代の歴史学者の言葉を信じるか、それとも戦国時代の武田信玄重臣たちの言葉を信じるか?!
 >>> 武田信玄重臣は信長の家康討ちを予測していた!!

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家康の可能性 (美濃林通)
2013-08-15 15:14:21
はじめまして。
小生父が美濃大垣出身だったのか、織田氏、明智氏、林氏などに感心を持ち、一介の尾張下守護の家老が、天下を目指し、本能寺で林秀貞と光秀の知将斉藤利三らに殺されたかを日を追って書いてみました。
家康の可能性については、
信長の行政改革と独裁化、
佐久間・林・安藤らの追放、
勝頼平定後駿河・遠州・三河を信長方に囲まれた、
信長の功臣光秀への岐阜での侮辱、と光秀との密議、
などいろいろ考えられますね。
そのうち貴書を読ませて頂きます。
先ずはご挨拶まで
返信する
ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-08-15 22:18:03
 ありがとうございます。拙著をお読みいただければ、これまでの通説にとらわれない、本当の真実に近づいていただけると思います。
返信する
次の一手 (TSR)
2015-09-28 14:50:46
初めまして。
敢えて申しませんが、次の一手がどこに来るのか?てところではと思いますね。
家康をどうするかはさておき、毛利上杉の次を信長も考えていたのでは?と思います。
返信する
信長亡き後の織田家再興と小牧長久手の戦い (部外者)
2018-09-01 00:09:15
織田家再興の戦いと称する「小牧長久手の戦い」は、やっぱり単なる出来レースだったのですか?

家康は織田家を担ぎたかったのかそうではなかったのか、著者の見解はいかなるものでしょうか?
返信する

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