本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

大河ドラマ「江」の歴史捜査5追加:光秀謀反決意の理由

2011年02月12日 | 大河ドラマ「江」の歴史捜査
 日曜日の大河ドラマ「江」は晩酌をしながら見ているので、どうも記憶があやふやなところがあっていけません。先週は肝心な「本能寺の変」でしたので、本日土曜日昼からの再放送をしらふで見直しました。その結果、これだけは言っておかねばならいと気になったことが見付かりましたので追加しておきます。
 それは光秀が謀反を決意した理由として「信長も信忠も京都にいる、つまり一緒に討ち果たすことができる」と知ったからだと描かれていることです。その直前には、信長の嫡男信忠は徳川家康に同行して堺に行っており、「京に居る信長と堺に居る信忠を同時に殺せるほどの武将はいない」というせりふを信長が光秀に言っています。この前提が見事に崩れたという設定であり、ドラマの脚本としては大変よくできています。
 でも、これが全く史実と異なるのです。何が異なるかというと、本能寺に信長を襲った光秀は、本能寺の側の妙覚寺に宿泊していた信忠の存在に気付いておらず、妙覚寺を襲撃しなかったのです。そのため、信忠は防御の弱い妙覚寺を出て二条城に立て籠もりました。それに気付いた光秀はようやく二条城へ軍を回したのです。つまり、光秀は信忠が京都に居たことを知らなかったのです。
 ★ 「敵は本能寺にあり」を斬る!

 信長を本能寺で討つために信長周辺の情報を徹底して集めていたはずの光秀が、なぜ信忠上洛の情報をつかんでいなかったのでしょうか。これは本能寺の変の謎のひとつとされてきました。
 しかし、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』が出版された2009年3月、これはもはや謎ではなくなりました。この謎を解く極めて蓋然性(確からしさの度合)が高い答が見付かったのです。それが「信長による家康討ち」です。一見荒唐無稽に見える答が様々な証拠で裏付けられて確かなものになっていく。その面白さを拙著をお読みの方には存分にお楽しみいただけたと思います。

 さて、これにも関連することで先週の放送で気になったことがあります。家康が本能寺の変の勃発を知ったのは堺の宿泊先として描かれていました。
 ところが、史実は違うのです。六月一日、本能寺の変の勃発した前日に、家康は堺に同行していたお抱え商人の茶屋四郎次郎を京都の本能寺近くの自分の屋敷に帰しています。翌日、本能寺にいる信長にお礼に行くための先行という口実をつけて。
 本能寺の変が勃発すると四郎次郎は堺へ知らせに走ります。途中、その朝に堺を出発して本能寺へ向かっていた家康にめぐり会い、そこから「神君伊賀越え」をして三河岡崎まで逃げ帰ることになります。このことは茶屋四郎次郎本人の『茶屋由緒記』に書き残されています。この一連の出来事も拙著に書きましたが、「信長による家康討ち」に関連していたことなのです。
   ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)

 大河ドラマの作り話のお話よりも、こういった史実を拠り所とした歴史の真相の方が面白くないでしょうか? 
>>>トップページ
>>>ブログのご案内
>>>本能寺の変 四二七年目の真実
>>>「光秀子孫が唱える奇説」を斬る!
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

このアイテムの詳細を見る

   歴史捜査レポートとは?
   歴史捜査レポートの目次
【歴史捜査レポート:大河ドラマ「江」シリーズ】
   本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
   兄・万福丸の処刑の真相
   万福丸ショック 
   父・浅井長政の頭蓋骨
   正月の酒宴の出席者
   森蘭丸さん?
   光秀のきんかん頭
   怨恨説踏襲ですね!
   『明智軍記』踏襲ですね!
   信長の遺体
   小栗栖の竹薮
   光秀辞世の句
 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大河ドラマ「江」の歴史捜査... | トップ | 大河ドラマ「江」の歴史捜査... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大河ドラマ「江」の歴史捜査」カテゴリの最新記事