本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4

2010年08月14日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 前回は「天王山の占拠」と「小栗栖での光秀の死」の定説の根拠が、全く同じ史料を判断材料として百八十度異なる形になっていることを書きました。高柳光寿氏は『明智光秀』の中で「天王山の占拠」は「事実ではない」ときっぱりと否定する一方で、「小栗栖での光秀の死」は肯定して実に丁寧な描写を行っているのです。その描写の材料としているのでが「誤謬充満の悪書」と高柳氏自身が信憑性を否定している軍記物の記述です。定説の根拠はこのようなものなのです。
 ★ 定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3

 今回は山崎の合戦の様子について確認してみます。高柳氏は次のように書いています。
 「十三日はすでに梅雨の時期を過ぎていたが雨が降った。午前中は両軍とも動く気配がなかったが、申(さる)の刻(午後四時)ころになって戦闘が開始された。戦闘は秀吉方の右翼川の手池田恒興隊の進出が案外すみやかに行われ、とくに加藤光泰隊の進出がめざましく、これに伴って中央の高山重友・堀秀政らの諸隊も進出し、左翼山の手方面も有利に展開し、光秀方も奮戦大いに努めたがついに総敗軍となり、光秀は逃れて勝竜寺城に入った。このとき伊勢貞興・諏訪飛騨守・御牧三左衛門らの旧幕府衆が戦死している(『兼見卿記』『言経卿記』『多聞院日記』『蓮成院記録』『浅野家文書』『秀吉事記』『太閤記』)」

 それでは高柳氏が参考にあげている順に当時の人の書いた日記の記事から根拠を確認していきましょう。なお、以下はいずれも原文の関係部分のみを現代語に意訳しています。
 まず、『兼見卿記』です。これを書いた吉田兼見(かねみ)は朝廷にあって信長や光秀との対応役だった公家であり、吉田神社の神官でもありました。細川藤孝の従兄弟でしたので、本能寺の変にからむキーマン達とは緊密な関係がありました。
 ★ Wikipedia「吉田兼見」記事

 十日  光秀、摂津を攻める。
 十一日 光秀、下鳥羽に退き淀城を固める。
 十二日 勝竜寺の西において足軽の鉄砲戦あり。近辺が放火された。
 十三日 雨降、申刻に至り山崎において鉄砲の音、数刻鳴り止まず、一戦に及ぶ。
     五條口より落武者が白川一条寺あたりへ落ち行き、一揆のため或いは討ち取られ或いは剥ぎ取られる。
     京都より知らせがあり、山崎の合戦で光秀は敗れ勝竜寺城に籠った、討死は多数とのこと。秀吉軍二万余が勝竜寺城を取り巻いたとのこと。
 十四日 昨夜、光秀は勝竜寺より脱走したとのこと。どこへ落ちたかはわからない。
 十五日 光秀、醍醐のあたりで一揆に討ち取られ、その首を村井清三が織田信孝の許に持参したとのこと。
 十六日 信孝など安土へ向かうとのこと。光秀の首と胴が本能寺に晒された。

 『言経卿記』を書いた山科言経(やましな・ときつね)も公家です。この日記は本能寺の変の直後の六月五日から十二日までの肝心な部分が欠落しています。何かいわくがありそうです。
 ★ Wikipedia「山科言経」記事

 十三日 光秀、山崎にて合戦、即時敗北、伊勢貞興以下三十余人討死。二条城放火。首が本能寺に晒された。
 十五日 光秀、醍醐辺りに隠れていたが一揆に殺された、首が本能寺に晒された。
 十七日 斎藤利三、堅田に隠れていたが捕まり京都引き回しの上、六条川原で処刑された。

 『多聞院日記』は奈良興福寺の塔頭多聞院において書き継がれた日記ですが、問題の部分は当時の院主・英俊が書いています。
 ★ Wikipedia「多聞院日記」記事

 十二日 光秀軍、八幡・山崎に在り、淀辺りへ引き退いたとのこと。
 十三日 勝竜寺が落城。秀吉は上洛して在京。光秀は坂本へ退いた
 十五日 坂本へ光秀の軍勢わずか三十人ばかりが帰り着いた。昨日秀吉は大津にやってきていた。坂本城が落城したとのこと。
     先日の合戦で光秀は討死
 十七日 光秀は十二日(十三日の誤記?)勝竜寺より逃れて、山科にて一揆にたたき殺された
     斎藤利三が捕らえられて安土へ引き立てられた
 十八日 本能寺には光秀始め首が三千ほど集められた。
     斎藤利三は十七日に京を引き回されて首を切られた。

 『蓮成院記録』は同じく奈良興福寺の塔頭において書かれた日記です。 
 十四日 山崎に摂津衆、池田、秀吉が三手に分かれて上洛とのこと。山崎で合戦があり光秀軍は敗れ、その日直ちに撤退し勝竜寺は速やかに明け渡された
     光秀は醍醐にて殺されたとのこと
     数万人討死。山崎から醍醐まであちこちに討ち取られた死体が数を知らずとのこと。

 この4人の日記と高柳氏の記述とを見比べると高柳氏は『兼見卿記』の十三日の記事を基本にして、さらに膨らませて書いていることが分ります。
 膨らませた部分はどこに書かれているのでしょうか。
 まず、「右翼川の手池田恒興隊、中央の高山重友・堀秀政らの諸隊」の部分は『浅野家文書』であることが確認できました。
 『秀吉事記』(『惟任退治記』)には「勝竜寺に立て籠もった」ことは書かれていますが、取り立てて新しい情報がありません。「伊勢貞興・諏訪飛騨守・御牧三左衛門らの旧幕府衆が戦死」という記述もありません。
 この記述がどこに書かれているかというと『太閤記』(『甫庵太閤記』)です。この書は高柳氏が天王山の占拠が勝敗を決したというのは「作り話であって、事実ではない」とした際には、「これは『太閤記』『川角太閤記』などの主張するところ」として信憑性を否定した軍記物です。
 ここにおいても高柳氏の作った定説の根拠がはなはだ信憑性のないものであることが確認できました。

 それでは次回はブログの読者の不知火亮さんから提起された問題「本当に光秀は勝竜寺城に立て籠もったのか?」について検討したいと思います。
 ★ 「光秀の敗走とその死」 コメント欄をご覧ください

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
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   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
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   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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3 コメント

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今回も有難う御座います。 (不知火亮)
2010-08-17 01:34:07
今回も大変勉強になりました。
誠に有難う御座います。

各史料の項目を拝見していると、私自身も色々と見えてきた部分や新たな疑問が御座いました。

・『兼見卿記』『言経卿記』『多聞院日記』『蓮成院記録』等の記録の、山崎合戦に関する情報の出所はどこか?
→これらの方々が戦場で直接目で見たわけでは無いでしょうから、誰からの情報提供だったのか、情報提供者の信頼性の部分がすごく気になりました。

・『兼見卿記』の十日 光秀、摂津を攻める。の部分で、この記述が事実なら、10日に光秀は摂津のどこを攻めたのか。
→この時点では山崎・八幡が有力かと思いますが、摂津の地理の中で、光秀の軍はどこまで進攻していたのでしょうか。

・『兼見卿記』の十一日 光秀、下鳥羽に退き淀城を固める。

→私は淀城の歴史に詳しくないのですが、一般知識として、秀吉が茶々のために築城した城だったと記憶しています。
淀は商業地として栄えていた町ですが、山崎合戦の前の時点で「淀城」と呼べる城が存在していたのでしょうか?
それとも、淀に構えた光秀の陣を「淀城を固める」と表現しているのでしょうか。


・『多聞院日記』の十二日 光秀軍、八幡・山崎に在り、淀辺りへ引き退いたとのこと。これは、前日の「天王山決戦」の事を指すのでしょうか。
→光秀は山崎まで兵を進めていたが、前日の天王山辺りの交戦で淀まで引かざると得なかったのでしょうか。
『兼見卿記』でも10日に摂津を攻めるが、11日に下鳥羽、淀に退いていると記載されています。双方比べると1~2日の誤差がありますが、山崎まで進めていた光秀軍が淀まで引いた様子が伺えます。
これが「天王山決戦」敗北で引かざるを得なかったのか、そもそも勝龍寺~淀辺りを固めて決戦する予定だったのか、すごく気になるところです。


すごく細かい部分もあり、現代では確認不可能な事かもしれませんが、第一印象として書かせて頂きました。


あと、明智先生にお伺いしたいのですが、山崎合戦の折、明智軍本陣は「御坊塚」にあったとされていますが、「御坊塚」が本陣だったと記載されている史料はどのようなものになりますでしょうか?

御坊塚と勝龍寺は非常に近い位置にあります。
ですので、山崎合戦敗戦が決まってから「勝龍寺城に篭った」との状況に非常に不可解さを感じます。



・『兼見卿記』の 十三日 山崎の合戦で光秀は敗れ勝竜寺城に籠った、討死は多数とのこと。秀吉軍二万余が勝竜寺城を取り巻いたとのこと。

とありますが、まさに敗戦が決定してから勝竜寺城に篭っても、秀吉軍二万余が取り巻いたことは容易に想像出来ます。
もし「篭った」としたら、以前コメントで書かせて頂いた通り、
・勝竜寺城に篭った光秀の思惑。
・秀吉軍二万余が取り巻いたのに何故光秀は勝竜寺城から脱出できたのか。
これらが非常に疑問です。

しかし、再度私なりにこの敗戦の状況を改めて想像してみました。

「篭った」という言葉の表現を排除してみると
御坊塚→勝龍寺城→脱出→醍醐
この流れに、ある一定の整合性が取れたような気がしてきました。
おそらく「篭った」、二万余が勝竜寺城を「取り巻いた」、という表現に、非常に誤解を生む要素があるように思います。


次回、明智先生から「勝龍寺城立て篭もり」についての考察を拝見させて頂けるとのことで、非常に楽しみにしております。


少しお時間を (明智憲三郎)
2010-08-21 08:26:25
 山崎の合戦の顛末は「歴史捜査レポート」のコーナーに整理して書くことにしました。高柳氏が根拠にした史料以外のものも確認してみたいので少しお時間をください。
 本件に加えて、9月の美濃源氏フォーラムでの講演準備(光秀の前半生)、次回作に向けた基礎調査(レコンキスタ、コンキスタドール、千利休、関白秀次)と現在三兎を追っております。輻輳した情報がいずれ一本の線にまとまっていく至福の瞬間の訪れを期待しております。
少し情報が集まりました (明智憲三郎)
2010-08-24 23:06:26
 今までの光秀謀反事件の歴史捜査では着眼していなかった山崎の合戦について捜査を始めました。その観点で手持ちの資料を読み返したところ、今までは見過ごしていた情報が見つかりました。それは学研の歴史群像シリーズ「俊英 明智光秀」という雑誌に書かれている福島克彦氏(大山崎町歴史資料館学芸員)の「隘路確保か、禁制遵守か 非戦地帯を巡る攻防」という論文です。
 こういったことを地道に研究している方がいらっしゃるのですね。かなりよい情報をいただいたと思います。うれしいですし、感動します。
 なお、この論文によれば御坊塚(おんぼうづか)に本陣を据えたという情報は『甫庵太閤記』の記述とのことです。ということで、信憑性は落ちます。また、大山崎の村へは決戦に先立って光秀と秀吉の両方から禁制が出されていたと書かれています。したがって、信長の禁制へのこだわりではなかったと考えます。
 この禁制の内容を読んで、何故、光秀が決戦場を大山崎より京都側(勝竜寺近く)へ引いたのかという謎は解けた気がしています。歴史捜査レポートをお楽しみに!

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