本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

「なぜ本能寺の変は成功したか?」講座案内

2013年05月14日 | 427年目からの挑戦
【2013年5月14日追記】
 この講座をお聴きいただければ、定説の根拠がないことも、光秀冤罪説などの俗説も成り立たないことがよく理解できます。証拠と推論による蓋然性の格段の違いを実感してください。
 ★ 本能寺の変の定説は打破された
 ★ 本能寺の変:光秀冤罪説を斬る
【2013年4月25日追記】
 文末に4月25日時点の講座準備状況ニュースを追記しました。ご注目ください。
【2013年4月11日記事】
 「なぜ本能寺の変は成功したか」という講座を行いますので、本能寺の変の真相を知りたい方はご聴講ください。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みになった方には、この題の意味がよくおわかりだと思います。これまでの研究者は「事実、成功しているのだから何も謎はない!」という態度ですが、私のエンジニア&企業人としての仮説は「これほどのリスクの高い大事件を成功させるためには、確たる成功の目算と相当の準備があったはず」です。
 その仮説のもとに当時の信憑性ある史料から証拠を洗い出し、全ての証拠の辻褄の合うストーリーを復元したら、この答しかありえなかったのです。それが「本能寺での信長による家康討ちです」。
 四百年間誰も言ったことのない答ですので、この答だけを見て、「あり得ない~」、「奇説!」などという人がいるのは歴史を科学する上で誠に残念なことです。講座では、各種の証拠と推論からこの答の蓋然性の高さを検証してみます。通説となっている「偶発説」・「信長油断説」などと蓋然性の高さを比較評価していただければと思います。
 当日の講座の詳細は下記の通りです。
講座名  :美濃源氏フォーラム西新宿講座
 事務局長:山口純男 電話090-4920-4829
 会場  :KTC中央高等学院
      東京都新宿区西新宿8-11-10星野ビル1F
      電話03-3367-5720
 開催日時:2013年5月18日(土) 12:30~15:45
 講座構成
  1.中世歴史回廊講座 12:30~14:00
    歴史工房 明智憲三郎 「なぜ本能寺の変は成功したか-信長による家康討ちを検証」
  2.歴史講座:信長と光秀、そしてその時代 14:15~15:45
    法政大学講師 谷口研語 「光秀と細川藤孝」
 受講料 :2,000円(美濃源氏フォーラム会員は無料)
 会員申し込みはこちら>>>美濃源氏フォーラム平成25年度講座案内
 ★ 各種の講演・講座をお引き受けします。ご案内はこちら    >>>


【2013年4月25日追記】
 本能寺の変の起きた天正十年の信長・光秀・家康・秀吉の日ごとの行動表を整理しました。何月何日に彼らが何をしたのか、それを書いた根拠史料名も記載した表になっています。講座資料のひとつとして当日配付しますが、これだけでも史上初の貴重な研究資料になっています。


【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
 8.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
***************************************
 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
 講演もお引き受けしています
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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12 コメント

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Unknown (Tm.)
2013-05-20 00:00:40
ご講義お疲れ様でした。前回に続き今回も参加させていただました。
今回は最後に参加者の方から注目すべき一報があり、何れ詳しい発表があることが俟たれますね。

今回の講義は自分が尤も興味を持っている本能寺の変ということで楽しみにしておりましたが、少々時間不足であった感は否めませんでした。特に「行動表」についてはご著書の内容にも係わることなので、詳しいご解説を頂きたかった処です。
その上で質問させていただきたい点があります。

それは本能寺の変、直前の信忠の所在であり、5/27には大坂に下っており、信長の上洛を知り急遽、帰洛したとお考えのようですが、同日付の『小畠文書』では冒頭に「尚々、家康者、明日大坂・堺被罷下候」とあり、下向を予定していたのは翌5/28で、『日々記』にも同日、禁裏より遣し物のあった旨が記されており、信忠自身は結局そのまま京に留まっていたと考えるべきではないかと思われますがいかがでしょうか。

それと「家康討ち」の問題ですが、何れそうした方向(知行の縮小あるいはし排除)に進んでいったとは思います。しかしながら、天正10年6月という時期にその必然性があったかといえば否ではないでしょうか。

武田氏を滅したとはいえ、北陸では上杉氏と対峙しており、関東には変の直後に踵を返すような北条氏がおり、それらに対する備えとしての価値はあったと考えられます。
そしてなにより、徳川もまた西国への出陣を求められていた節もあります(『家忠記』)から、将来への憂いと天秤にかけてもその利用価値はまだ勝っていた思われます。
歴史的に敵国であったという点も、隣国同士であれば少なからずそういった関係にあり、特筆すべきものではないでしょう。
家康の策動に対する警戒という点も、天正8年の佐久間信盛らの追放を思えば、全国平定が成った後に、過去のそうした罪状を挙げ追求したであろうと考えるのが至当ではないでしょうか。

「家康討ち」は、当時の情勢を考えれば極めて下世話で短絡的な発想から生まれたまさに噂以外の何者でもなく、もしそれを実行していたなら予想もつかない反動を招いたのではないかと思います。
返信する
ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-05-20 10:16:12
 受講お疲れ様でした。ありがとうございます。
 答を先に想定してしまうのではなく、行動表をじっくりお読みいただき、全体の辻褄のあう別の答があるのかをご検証いただければ幸いです。たとえば、6月2日の各武将の行動の理由がどのようにつくのか。家康、秀吉のその後の行動にどのような説明がつくのか、など。
 講座でも申し上げたように信長に成り代わって信長は「考えたはずだ」「考えるわけがない」と決めてしまうのははなはだ危険です。その前提としている信長の論理も情勢認識も理解できているとはいえないからです。本因坊の碁の打ち手を素人があれこれ批評するのと同じことだと思います。
返信する
信長の事績を予測可能? (明智憲三郎)
2013-05-20 10:23:01
 信長の事績をご覧ください。
 弟信勝を病気と偽って呼び出して謀殺、多勢に無勢にもかかわらず桶狭間で今川氏真を討つ、比叡山を全山焼き討ち、長島で降伏した一揆勢を皆殺し、将軍義昭を追放、重臣佐久間信盛父子ほかを一挙に追放。
 いずれも「予想もつかない反動を招いた」とは思われませんか?
返信する
Unknown (Tm.)
2013-05-21 13:28:55
>答を先に想定してしまうのではなく、行動表をじっくりお読みいただき、全体の辻褄のあう別の答があるのかをご検証いただければ幸いです。たとえば、6月2日の各武将の行動の理由がどのようにつくのか。家康、秀吉のその後の行動にどのような説明がつくのか、など。

失礼を承知の上で申し上げれば、数多の謀略説と同様に、御説もまた「家康討ち」という答えを想定して史料を都合よく解釈、選択し、こじつけているやに自分には思えます。

先の質問にお答えいただけていませんが、信忠襲撃の遅れについては、従来、別働隊の遅延といった考えもありますし、信長の身柄を押さえることを第一とした結果の遅れと考えることも出来るのではないかと思います。実際、本能寺間近に在ったとされる村井貞勝一党も襲撃されていませんし、わざわざ「その所在を掴めていなかった」などという理由付けをする必要はないと思います。
また御説では、信忠は同行していた家康が討つ手筈だったとのことですが、それは敵地にある家康にとってリスクの高い賭けになった思います。

そもそも、わざわざ家康を京へ呼び戻したうえで「謀反の返り討ち」などという茶番を演出せず、遊覧中に暗殺し、治安維持を口実に徳川領へ軍勢を侵攻させても良いハズではないでしょうか。
「謀反のうえ返り討ちにあった」などと云われも残された徳川勢も納得はしないでしょうから、全力で反抗を企て、侵略したばかりの旧武田領でも武装蜂起が起こったり、その隙に乗じて北条が暗躍したと、変の後と似たような事態が起こったとも限らずリスクは高かったと思います。

おそらく他の研究者の方からみても、行動表において△:史料+推理とされているものと▲:推理+史料に然したる違いは感じられず、●:推理にいたっては憶測でしかないと批判されると思います。

>講座でも申し上げたように信長に成り代わって信長は「考えたはずだ」「考えるわけがない」と決めてしまうのははなはだ危険です。

失礼ながら、御説もまた第三者からみれば同じだと思います。
返信する
推理のプロセスが違います (明智憲三郎)
2013-05-21 18:36:56
 講座でも申し上げましたが、証拠の抽出が初めにあり、それらが全て辻褄の合う真実の復元作業(推理)が次にあり、最後に答が出ております。したがって、出てきた答には自分でも驚き、様々な検証を行って、蓋然性を確認いたしました。初めに答を作って、それに合う証拠を探す従来の方式とは根本的に異なります。行動表に列挙した証拠群の全ての辻褄の合う答を定説も様々な新説も導き出すことはできないと思います。
返信する
Unknown (Tm.)
2013-05-21 22:24:33
>証拠の抽出が初めにあり

そもそも、抽出された「証拠」なるものに問題がある訳で、オンタイムで記されたものですら少なからず問題があり精査しなくてはならないことはご指摘の通りですが、「変」が起きて数年、数十年経って記されたものには、「変」自体を念頭に記されたものもありというか、むしろそのほうが多いと言わざるを得ません。
特に長宗我部関係の史料は二次的なものが多く、よくよく注意せねばなりません。

「家康討ち」についても噂の元は現場の下級兵士達であり、そこには「進んで謀反に加担したのではない」との弁明があったと考えるべきで、それを実在した計画とするに足る十分な証明が御説で出来ているか言えば、別の理由も考えられる事象をそれに結びつけさも実在していたと主張されているに過ぎないというのが自分の感想であり、おそらく他の研究者の方々の思うところではないでしょうか。

光秀謀反の動機は、やはり戦線の拡大により生じた中央の軍事的空白であり、理由としては、内に抱えた様々な問題(妹の死、後継者、斎藤利三の件等)や(信長の)側近中心体制への移行(国替え)に対する不安などがあり、信長と朝廷(誠仁親王)との軋轢もそれを後押ししたのではないかと考えられます。

>行動表に列挙した証拠群の全ての辻褄の合う答を

それこそがまさに危険なことであり、自戒を込めた上で、偶発的な出来事や捏造されたものまでを関連づけてしまうことで、返って御説の傾聴すべき点までも否定されてしまうのではないかと危惧申し上げます。

それと、『惟任退治記』の影響や『明智軍記』の汚染については、御著の発刊以前より注目し、ネットで発言し、いまも某掲示の過去ログに残っていることをお断りしておきます。
返信する
「唐入り」 (Tm.)
2013-05-21 23:10:46
それと「唐入り」については、おそらく信長も口にしたことはあったでしょう。

しかしながら本当にそれを実行しようと考えていたかどうは謎であり、秀吉が実行したのだからあったハズだとお考えであれば問題でしょう。
一段と低い身分から登り上がった秀吉には、支配の手段として与え続けねばならない宿命を背負っていたわけで、信長の出来なかったこと実行することもその一環であったと言えます。
信長の「唐入り」は言わば「夢(願望)」であり、秀吉のそれとは根本的に違っていたと考えるべきです。

ましてや「唐入り」が喫緊の課題に上がっていたとは考えられず、その阻止を謀反の一因に挙げるのは、批判の対象にこそなれ賛同をえるのは難しいと存じます。
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証拠の信憑性 (明智憲三郎)
2013-05-22 09:14:43
 証拠のひとつひとつに信憑性の吟味が必要です。「書いてあるから史実」と思い込む傾向がありますが、そうではありません。書いた人物がどうやってその情報を入社可能だったのか、書いた意図は何かあったのか、など様々な視点からの点検が必要です。
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本因坊の碁 (明智憲三郎)
2013-05-22 09:25:56
 信長にしろ秀吉にしろ、戦国の世に勝ち残ろうとした武将たちが本当に何を考え何をしようとしていたのか?それを現代人が現代人の感覚で決めるのは本因坊の碁を素人がウンヌンするのと同じで、私は歴史や武将たちに対してとても不遜だと思っています。(講座でも申し上げましたが)
 「信長がそんなことを考えるわけがない!」とおっしゃる方がいますが、信長が実際に行った事績のひとつとして、その方が事前に「信長はそう考えたろう」と言えるものがあるのでしょうか? 比叡山焼き討ちなど「信長が考えるわけがない!」とおっしゃるのではないでしょうか。
 それほどに現代人の考えを越えたことを彼らは必死に考えていたであろうという畏怖の念を彼らに対して抱いています。武将を見下ろして考えるのか、見上げて考えるのか。これは歴史観の違いです。
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結果の分かっている現代人 (Tm.)
2013-05-22 15:07:40
>「書いてあるから史実」と思い込む傾向がありますが、そうではありません。書いた人物がどうやってその情報を入社可能だったのか、書いた意図は何かあったのか、など様々な視点からの点検が必要です。

そのことに自分も異論ありませんが、反面、危うさも付きまとい、往々にして自家中毒を起こしやすいと言わざるを得ません。
よく「行間を読む」ということが言われますが、あくまでもそれは個人的な推測であり、推測に推測を重ねることで思い込みに陥りやすいことを自覚せねばなりません。

>「信長がそんなことを考えるわけがない!」とおっしゃる方がいますが、

「信長(武将)ならそう考えたハズだ!=論理」も同じだと申し上げます。

>信長が実際に行った事績のひとつとして、その方が事前に「信長はそう考えたろう」と言えるものがあるのでしょうか? 比叡山焼き討ちなど「信長が考えるわけがない!」とおっしゃるのではないでしょうか。

むしろ当時の人々=叡山の僧たちこそそう考えていたのは歴史の事実であり、返って結果の分かっている現代人のほうが信長の性格や行動パターンは分析できていると思います。
偶然までも信長の才覚によるものだと天才視するような見解は別ですが。
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