本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

武田信玄重臣は信長の家康討ちを予測していた!

2016年12月19日 | 歴史捜査レポート
 拙著『本能寺の変 431年目の真実』は数多くの証拠と論理的な推理によって、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたのは、信長が徳川家康とその重臣一行を本能寺へおびき出して光秀に討ち取らせる企てがあったからだと明らかにしました。
 >>> 「信長による家康討ちはあり得ない」という方へ
 その証拠と推理の結果からは、この答しかあり得ないのですが、本能寺の変研究者は「信長が同盟者の家康を討つなどはあり得ない」と決めつけて否定しています。確かに四百年来、誰も言っていないのですから答だけを聞けば誰もが「あり得ない」と思うに決まっています。その答を出した私自身が「あり得ない」と思ったほどなのですから。
 拙著を真面目にお読みいただき証拠と推理の検証をしていただければ、本能寺の変研究が大きく一歩前進するはずですが、これまでの本能寺の変研究者の姿勢はまことに残念なことです。
 さて、『甲陽軍鑑』に武田信玄重臣の馬場、内藤、高坂、山形、原、小山田ほかが家康の噂話を雑談している記事があります。話の内容から見て永禄十一・二年頃、つまり家康と信長が同盟して7~8年、信玄が死ぬ4~5年前の話のようです。
 その最後に高坂弾正が「信玄公が死んだら信長は家康を殺すだろう」と言い、馬場美濃守・内藤修理が賛同したことが書かれています。
 皆さんは「信長の家康討ちなどあり得ない」と言う現代の歴史学者と「信長の家康討ちは必定」と言う武田信玄重臣とどちらの言葉を信じますか?
 信長の父・信秀は家康の祖父・清康、さらに父・広忠と戦争を続けており、その戦争の最中に清康も広忠も自分の家臣に切り殺されたという史実をご存知ですか?二人とも二十代半ばでの非業の死です。信秀の策謀が無かったと思われますか?
 広忠の死を知った八歳の家康がその時、織田家に人質として捕らわれていたことをご存知ですか?その知らせを聞いた家康がどのように反応し、その家康を十六歳の信長がどのような目で見ていたのかを想像したことがありますか?成長して平氏を滅ぼした源義朝のおさなご、頼朝や義経と重なって見えなかったのでしょうか?

 なお、『甲陽軍鑑』の史料としての最新の評価は下記の本に詳しく書かれております。
『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想
クリエーター情報なし
校倉書房


 >>> 『甲陽軍鑑』の歴史捜査
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 >>> 「織田信長」の虚像を暴く『信長脳を歴史捜査せよ!』
 『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
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明智 憲三郎
文芸社

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(注)この記事は2015年4月18日投稿、2016年12月19日に加筆して再投稿したものです。

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13 コメント

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家康の行動 (高倉)
2015-05-03 09:29:20
武田滅亡によって家康の存在意義が無くなったことは確かですし、本能寺の変は家康殺害の罠だったのだろうと以前から思ってました。ただ、家康もそのことは察してたでしょうし、光秀との密約以外に何らかの備えはあったはずです。その家康の変後の慌てぶりがどうも腑に落ちないのですが、伊賀越えに見るあの無防備さはどこから来るのでしょうか?
無防備とは? (明智憲三郎)
2015-05-04 09:32:55
 拙著『本能寺の変 431年目の真実』第10章「徳川家康の企て」をお読みください。
 茶屋四郎次郎、本多忠勝を二重に先発させて変勃発の早期キャッチを図り、二百人の伊賀者を護衛に従え、穴山梅雪討ちも行った。「無防備」という判断は腑に落ちません。
家康のコンティージェンンシープラン (高倉広幸)
2015-05-09 21:58:01
『無防備』という表現はおかしいかもしれません。
家康も信長に滅ぼされるであろうことは察していたでしょうし、だからこそ本能寺への招待に際しても、何らかの緊急時対策(コンティージェンシープラン)があったはずだと思っていたのですが、それが何だったのかが分かりません。実際には光秀の謀反が成功するので家康が本能寺に出向くことはなかったわけですが、本能寺で待ち受けるかもしれない運命への対策を採っていたことが推察出来れば、世の歴史家たちへの反論シナリオが完成するような気がしまして
段取りの良さ (明智憲三郎)
2015-05-10 17:14:47
 ありがとうございます。
 ただ、第10章の説明で裏付けられていると思うのですが、伊賀越えとその後の甲斐・信濃侵攻の段取りの良さの方が重要と考えています。
Unknown (Unknown)
2016-07-13 19:15:32
最近、坂本龍馬の先祖が明智一族を名のっていることの関し本能寺の変との関係をかいた本を見かけたり。『しぶとい戦国武将達』という本で、徳川家康のことがあり、三方が原の戦い以降、非常に立場が危なくなったので、嫡男の信康にひそかに武田に内応させ、いわば二股をかけたとあったので、今まで関心が無かった、この話ほかなり胸のモヤモヤ感が少なくなった感じではあります。
Unknown (太田昇)
2016-12-31 03:47:59
お返事されないでしょうが、一言。
伊賀者は服部半蔵が伊賀越え時に告知して集めたのであって、家康が予め集めたわけではありません。

また伊賀者がお供したのは鹿伏免山路からです。伊賀越えルートのかなり後半です。飯盛山から鹿伏免山路までは伊賀者はいなかったわけです。
「伊賀者由緒書」に書いてありますので一度お読みください。
半蔵は家康の家臣 (明智憲三郎)
2016-12-31 10:24:11
 「伊賀者由緒記」には半蔵が伊賀に居たように記してありますが半蔵は三河生まれで家康の家臣です。「石川忠総留書」にも家康に同行した三十人ほどの家臣の一人として書かれています。その半蔵が告知して伊賀者を集めたとなると、正に家康の命令で集めたことになります。また、全行程を伊賀者が護衛する必要性はさらさらなかったわけで、いわゆる「難所」が彼らの役目ということでしょう。
護衛しなくてもよいのですか? (太田昇)
2016-12-31 19:51:23
お忙しい時期にお返事くださりありがとうございます。
 「伊賀者由緒記」は手柄話もあるでしょうし、実際は家康が同行する半蔵に命じていたと考えても差し支えありません。
問題は、
飯盛山~加太越えまで(歩行ルート計測で約70kmもの山道)を彼らは護衛していないこと、です。
ですので「伊賀者二百人が護衛したのだ」と主張されても、それは最後の峠越えだけですよと補足したくなったのです。

伊賀国の人々は家康の味方だとしても『茶屋由緒記』に「所々山賊の蜂起」に遭遇したとあるのであれば安全な移動ではないですよね。大金があるなら殺して全部奪ってしまえと考える集団がいる"可能性"もあったわけです。
ですので万全の備えをするのであれば武装した護衛を付けておくべきで、加太越えまでは護衛はいなくても金を撒けば大丈夫、ということにはなりません。伊賀者のあの忠誠心の高さを考えれば前もって伝えておけばどこへでも駆けつけたと思いますよ。
飯盛山~加太越えの間で護衛がいた記録がないために(子孫の手柄話を除く)、本当に伊賀越えは計画していたのかな?と感じるわけです。
帰国後の侵攻はいずれにしても行うと私は考えます。
重臣30人が護衛 (明智憲三郎)
2016-12-31 20:45:04
 「石川忠総留書」によれば家康には重臣・小姓30人以上が同行していました。その中にはのちに徳川四天王と呼ばれる酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・伊井直政、さらに石川数正、服部半蔵らがいます。本能寺の変の勃発を誰よりも早く知った家康がこれらの家臣に守られて移動したのですから、むしろどのような具体的な危険があったのかをお聞きしたいです。
安全なので備えは不要と確認しました (太田昇)
2017-01-04 17:51:14
危険な目に合った記録がなければ家臣30名以外の護衛は不要というご主張ですね。私は『431年目の真実』に「所々山賊の蜂起に遭遇した」と書かれていたために道中は安全ではないと思ったと前回書きました。

用意周到に飯盛山などに護衛兵を待機させていれば同行者全員が計画に気づいてしまうので家康は護衛を準備できなかった、という理由にはならないのですか?同行者には重臣でない人物や織田家の長谷川秀一もいます。

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