人は考える葦である。
フランスの哲学者パスカルの言葉である。
『人間はひとくきの葦に過ぎない。とても弱い。でも考えることができる。』
人はどんなときに考えるのだろう。
おそらく幸福で充実しているときは考えないものである。
幸せは喉元を過ぎた熱いものの如く、人は無防備になり感謝を忘れ、やがて自業自得が訪れる。
人の考えは言葉にしない限り具現性を持たない。
言葉は伝えるだけのためにあるわけではない。
自己に具現性を持たせるという手段でもある。
最も確実な具現は文章である。
文章はとても難しい。
自分を知らないのは唯一自分自身だからだ。
僕はそういう結論に達した。いちお無知を認める謙虚さなのかな。
自分を客観的に評価することは時に残酷であり、自虐的である。
僕にはそれほどの勇気はない。
歳を重ねるごとに勇気は減っていくものだ。
荒ぶる波に立ち向かう勇気よりも、自分自身に向かう勇気がどれほど酷なものか、
それを臆病という。
結局のところ、自己を見つめるには、自分自身の奥に入り込むしか手がないのだ。
その方法は意外と簡単だけど法律を犯さなくてはいけない。
そのものが何故イリーガルなのか僕には理解できないけどね。
とにかく、僕は自身を見つめる作業の末、いつも自分自身が誰だかわからなってしまう。
自分のいるところがどこでもないところ、Nowhere Landで、
自分は行き場を失った誰でもない男、Nowhere Manだとうことに気がついた。
小説家や芸術家が自ら命を絶つのはここから始まるのか???
NO NO!
僕はそんなにヤワではない。
僕には誰も入り込まない。羊男が入る隙もない。羊博士も入らない。
僕は自己破滅から回避する方法を見つけたからだ。
いやいや、脳が勝手に回避する仕方を学んだんだ。
それはパラノイアになることだ。
僕はパラノイアである。
妄想にふけ、自分の世界で遊ぶ男だ。
世界は意のままに回り続け、僕はドラマの主人公にさえなれる。
台本をちょこちょこ書き直せば主人公である自分を意のままに操れるんだ。
目を開けて、パチン!スイッチをつける。
僕は現実主義の自分に戻る。
二つの世界を行き来する。
目の前に広がる海はまるでディスニーランドで、
スペースマウンテンのようなウエーブライディングをする。
どんな辛いこともビートのきいたロックンロールのように楽しむ。
それが人間の強さなのかなと思ったりした今日この頃でした。
僕は、這い上がるのであった。
もうじき湘南にやってくる大西に向けて!
まちどおしぃですねぇ(-_-;)
日曜は南西期待??