何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

幸の船出、俺たちの船出

2017-07-27 19:47:25 | 
完結をみていないシリーズものの感想を書くのは難しいので、なるべく控えるようにしているのだが、以前かなり辛口の感想を書いていた作品の第三弾が、この作者らしい路線に戻っているので、記しておきたい。

「あきない世傳 金と銀 3」(高田郁)

高田郁氏の作品は何作も読んでいるが、「みをつくし料理帖シリーズ」の澪さんに代表されるように、如何ともしがたい運命に翻弄されながらも、肝心なところで自分で人生を切り拓いていく決然とした強さを主人公が持っているところに、高田作品の大きな魅力がある。

本シリーズ「あきない世傳」の主人公・幸ちゃんも、立派な漢学者の父と秀才として誉れ高い兄を病で失い一家離散の憂き目に遭いながらも、女衆として前向きに勤め始めるという第一弾には、(私がかってに抱いている)高田氏らしさがあり、次作を期待させてくれるものであったが、第二弾でキーワードとなる「縁と月日」が意味したところが気に食わず、第三弾は出版後しばらく読めないでいた。

私は、自分自身を 嫌になるほど俗物だと思っている。
「人の不幸は蜜の味」とまでは思わないまでも、人様の幸運を手放しで喜べるほど度量が広くないことも、重々承知している。
だが、子供の頃に読んだ「わが青春のアルカディア」(松本零士原作 尾中洋一・小説化)にあった言葉が強く心に刻まれているせいか、他人の不幸のうえに自分の幸せを築くといった類のことは、反吐が出るくらい嫌いだ。(『 』「わが青春のアルカディア」より部分引用)

『人が人として最も美しいのは、
 他人の痛みを、自分の痛みとして、感じている時
 人が人として最も醜いのは、
 他人を踏みつけにして、自分を立てようとする時
 人間は、もともと人間として生まれついたのではなく、人間になっていくのだ』

ある人の幸運や振る舞いが、結果的に他の人の不運につながってしまうことが多々あることは、分かっている。
それまでも否定するほど、世間知らずでも青くもない。
だが、自分の幸せのために、人の不幸を願うというのは、どうにも生理的に受け付けない。
とは云え、そうやって伸し上った輩が跋扈しているのが現実なので、それが小説に書かれることを拒絶しても仕様が無いことではあるのだが、高田氏が描く主人公には、どこまでも真っ直ぐであって欲しいと(かってに)願っていたので、第二弾の幸ちゃんに納得がいかなかったのだ。

大阪は天満の呉服屋「五鈴屋」の女衆となった幸ちゃんは、せっかくの良縁を自らの阿呆のせいで台無しにした店主・四代目徳兵衛の後添いに迎えられるものの、四代目の あまりの阿呆ぼん振りが心底嫌になる。
そんな幸ちゃんを励ますのが、幸の聡明さと商才をいち早く見抜き、男子だけしか許されない商売を仕込み、後に4代目の後添いにと推薦する、大番頭・治兵衛だ。
治兵衛は云う。
『大阪には昔から「縁と月日」いう言い回しがおます。何と優しい、ええ言葉やろ』
『物事が成るか成らんかは、人の想いや働きだけで決まるもんやない。
 ご神仏の手ぇが差し伸べられるかどうかだす。
 それに加えて、起ってしもうた難事を解決するためには、短期はあかん。
 決して諦めんと、歳月をかけてゆっくりと時節を待て、いう意味やないか、て考えるようになりました』

「縁と月日」と云う言葉は、本来 意味も響きも美しいものだが、第二弾で起る結果だけをみると、後味の悪いものがある。
「縁と月日・・・短気はあかん。決して諦めんと時節を待て」と云う言葉を折々に思い出しながら耐え忍ぶ幸ちゃんが、諦めんと時節を待った結果手にしたのは、阿呆ぼんの不慮の事故による死亡と、長男亡き後を継ぐ次男による求婚であった。

この後味の悪さを吹き飛ばしてくれる第三弾であったことに安堵しつつ、私の青春時代を飾る一曲を記しておきたい。

第三弾の、幸ちゃんの奮闘と高田氏らしい情緒ある自然描写については、つづく

追記
子供時代から大切にしている本は、「デミアン」(ヘルマン・ヘッセ)「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)など何冊もあるが、「わが青春のアルカディア」は、そんな本のうちの真ん中にある一冊だ。
本書にある『夢は、人がそれを見捨てない限り、消えることはない』という言葉や『愛するということは、互いを見つめることではなく、共に同じ方向を見つめることだ』という言葉は、今読めは少なからず気恥ずかしさも覚えるし、自分自身にどれほど生きたかは、分からない。
だが、今心から応援している野球小僧に、これらの心を伝えたいと思っている。

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