何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

禍福は寝て待とう!

2018-12-31 23:51:51 | ひとりごと
ウワバミということはないが、いくら飲んでも酔わないし、そもそもお酒をまったく美味しいと思わない私なので、日頃はアルコールを飲むことはない。
そんな私が唯一アルコールをおいしいと思うのは、山と旅先での一杯だ。
 

春の旅、夏の上高地はもう長い間 我が家の定番だが、年末の知恩院のお参りも家人と私の恒例行事となっていた。
本来なら今年も29日にお参りする予定だったが、それが叶わなかった。
家人も私も体調が悪く、今から寝正月を決め込んでいる。
お正月準備をする気力がないとはいえ寝てばかりもいられないので、微妙ながらもパソコンが動いてくれている間に写真の整理をしておこうと思う。

春の 三保の松原から富士山を拝そう!旅の写真は既に数枚upしているが、おいしかったホテルの食事を記録しないままとなっていた。


駿河湾といえばサクラエビが有名なので楽しみにしていたが、記録的不漁だったせいか、先付とサクラエビごはんでしかお目にかからなかった。↑これはその貴重な一品。


静岡の味付けがどのようなものかは知らないのだが、この料理の味付けが妙に気に入り皆で「美味しい」と話していると、給仕してくれていた仲居さんが「お客様の地方出身の料理長が味付けしています」とおっしゃった。


よほど癖の強いビールでない限り、私にはビールの味の良し悪しは分からないのだが、このホテルの生ビールは全く癖がないのに美味しいので何故かと訊ねると、ホテルのすぐ近くにビール工場があり、一番良い状態のものが届くのだということ。

私はマグロが嫌いで、寿司屋でマグロを注文することは、ほぼない。
だから、この旅の予定にマグロ館なるものが入っているのを見た時には、ウンザリしたものだが、夕食で頂いたマグロの刺身は実に美味しかった。本場のマグロは美味しいのか、それとも、このあたりでビールから切り替えた日本酒の冷酒に合ったのか、私がマグロの刺身を美味しく食するというのは、かなり珍しいこと。
マグロのマリネ





この旅から9か月が過ぎ、献立表もないので記憶が曖昧だが、↑このなんの変哲もなさそうな枝豆が、美味しかったのはハッキリと覚えている。なんでも枝豆の燻製とかなんとか。



 
春に続き秋もサクラエビの成長は記録的に悪く、晩秋の頃、この秋の駿河湾のサクラエビ漁は全面禁止か?というニュースがあったので、このサクラエビ御飯の美味しさが殊更に懐かしく思い出される。
ところで、旅館の朝食でよく見かける小ぶりの梅干しにあまり美味しいものはないが、この梅干しは美味であった。何やら特別な説明書きがあったような気もするが、そんなウンチクはさておき美味であった。




こうして静岡を旅した三月末に、今のこの状態は到底想像もつかなかった。

今年の春、仕事上の変化があったのは私だけではなかった。
思いがけない方向に進んでいってしまうことへの抵抗と戸惑いで憂鬱な気分で旅にでた私と異なり、家人は異例の抜擢での春の移動でそれなりに希望に胸を膨らませていたはずだ。
が、本人は全く望んでいない若くしての昇進がやっかみを生んだのか、失われた10年世代がいないシワ寄せを受けているのか、見る間に痩せていき、心身ともに まいりきった年の瀬を迎えてしまった。
そして私も、頼り切っていた素晴らしい後輩が移動となり、片腕をもぎとられてしまう不安な年の瀬を迎えている。

かくして我が家は、お正月準備へ向けての動き手を欠いたまま、新年を迎えようとしている。

だが、こうして写真を振り返ったことで悲観的な気分は少し遠のいてきた。
それは、彼の地が神君家康公ゆかりの土地のため、「鳴くまで待とう」という言葉を思い出したからかもしれないし、あの日 偶然参列できた家康公の誕生を祝う月に一度の祀りの清々しさを思い出したからかもしれない。

「鳴くまで待とう」の時間軸を念頭におき、明るい気持ちで新年を迎えたいと思っている。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空を超える手紙 ハイテンション!③

2018-12-30 17:04:44 | ニュース
「時空を超える手紙 ハイテンション②」の末尾で私は、「自らも弱者の側に立ったふりをして、あるいは正義の何たるかを知っているふりをして、取り敢えず世間受けしそうな きれいごとを並べることの弊害と気持ち悪さを、17日の新聞は、私に突きつけてきた。それについては、またつづく」と書いた。
こう書いた後また20日にも空々しい記事を読んだので、モノ申すための資料は残したが(「未来を考えるための資料」)、次が続かなかったのは、忙しかったせいもあるが、毎度毎度 同じ事で責め続けるのが虚しくなったという理由が大きい。
しかし、私が虚しさを感じるのは、いったい何処に対してだろうか。
いと高き所なのか、それを自らの都合のいいように利用する輩に対してなのか。

一昨年の夏以降、明確に我が国は箍が外れたと私は思っている。

長い歴史の中にはどんな時もあったし、何時の時代にも我が国は「堕落論」(坂口安吾)的であったとは思うのだが、とりあえず立憲君主制という言葉が定着して以降は、その体裁は守られていたと思う。
それが一昨年の夏以降、いとも簡単に箍が外れ、しかも外れたことを、それを一番怒らねばならない所が歓迎している、というねじれが起っていた。
その捻じれっぷりが、最近になり目に余るので、もはや虚しさしか感じられない。

いと高き処から次々とリークが湧き起り、政治が後追いで法整備を行っている。
それでも足らねば、閣議決定直前に追い打ちをかけるかのように、更なるリークが降ってくる。
そうして見たことも聞いたこともない御立場が誕生し、そこに莫大な予算がつけられる。
仮に、リークに政治的意向はなかった、と強弁しようが、後追いで法整備・予算と政治が動けば、それはもはや立派な政治的関与だ。

この おかしさ危険について、まともに指摘する意見が出てこない。
右は、そのおかしさと危険を理解しても、右ゆえに従わざるを得ず、左は、自分達の政治的信条に都合よく利用できれば憲法の根本精神などどうでも良い。
こうして出来上がった捻じれという砂の上に、ご立派という楼閣が立っている。

政治が動かざるをえない状況を作るためのリークは憲法違反だと私は思うが、そのリーク元から、憲法(政教分離)に従えとご立派な御託宣が降ってくる。

政教分離に鑑み費用の削減を唱えながら、自らの住まいに30億円以上の費用をかけることや、毎年支給される費用が三倍になることには、ダンマリを決め込む。
政教分離を引き合いにだし憲法を順守する姿勢を見せながら、政教分離に反するとしている儀式の関連行事に、立場にそぐわない衣裳を新調させて参列する。

政教分離や婚姻の自由を引き合いにだし憲法の精神を理解していると見せながら、その根っこにある平等主義は(都合よく)無視し、女の子である姪の存在は無いものとする。

右は、右であるが故に、そこに男児がいるが故に、黙り、
左は、自分達の主張に都合良ければ、本来その主張の根っこであるはずの理念に反しようと、利用する。

この片棒を、左右の言論界マスコミが担いでいるのだから、救いがない。

とりあえず正論めいたことを正義感ぶって垂れておく。
権力の乱用はイカン、忖度もイカン、イジメも女性差別もイカン

だが、自社の違う部署の人間が、結婚後6年目での待ちに待った御懐妊の兆しをペンの暴力により流産に追いやっても、女児しかいない東宮をそれ故に軽んじ苛め抜いても、また女児の通学問題を混乱させる大元凶となっても、ダンマリを決め込み、しれっと天声人語や社説で御高説を垂れている。

そんなものを見ていると、「未来」(湊かなえ)の一節が浮かんでくる。(『 』「未来」より)

『世の中には正論があふれているのに、イジメにしろ、貧困問題にしろ、何十年も前から続く問題が解決されないのは、本音を語らない人が多いからではないか。問題を解決しようという気はなく、自分の方に流れて来る波を堰き止めるために、都合のいい言葉で堤防を作る。もしくは、その他大勢の方に流れようとする。
金があるかと訊かれれば、生活に困るほどではないのに、貧乏だと答えておく。
幸せかと訊かれれば、さほど大きな悩みを抱えていないのに、不幸だと答えておく。
息苦しい世の中だと嘆いてみせる。生きづらいと不平をもらす。
そうすることにより、本当に問題を抱えている人たちが埋もれてしまうことなど気付こうともしないで。』

広島や沖縄でちょこんと頭を下げる姿でもって平和を愛する意志を継いでいる、と姦しいが、すっかりやせ細った姿の隠し撮り写真に「死ぬぞ」「子供の産めぬ体になるぞ」と大見出しのキャプションをつけられながらも、青空を見上げ平和の有難さに感謝する少女は無視する、言論界。

なぜ天声人語や社説で、女性差別の滑稽さを嘲笑したり、女性差別を変える意思を持とうと大上段に構えたりしながら、現在進行形の皇位継承問題に明確にみられる、それこそが日本の男尊女卑の象徴である問題に一言も触れないのか。

社会の木鐸を自認する新聞が、『都合のいい言葉で堤防を作る』ことで、問題の根幹を埋もれさせてしまう責任は計り知れないほど、大きい。

だから、「未来」の最後の場面で、女の子二人が「ハイテンション」の掛け声で自分達を鼓舞しながら正しい道を歩もうとする その行方に明るいものが感じられないのかもしれない。

自己欺瞞とご都合主義が大手を振って歩いている社会に、明るい未来はないと思う。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来を考えるための資料 ハイテンション

2018-12-24 23:22:11 | ひとりごと
「時空を超える手紙 ハイテンション②」より

広島より世界の平和を願う
「太平洋と時間を超える折り鶴」 「折り鶴に託す物語」より広島の日に向け、折り鶴の少女・佐々木禎子さんと「原爆の子の像」設立に関する本や オバマ前大統領の広島での演説を読み返し、......
「祝号外 敬宮様ご卒業」
「敬宮様の青い空 15の心」




師走二十日の社説は冒頭から、『この国を覆うガラスの天井は、ことのほか分厚い。そのうえ頭上だけでなく、足場も一段低くしつらえられている。それが日本の女性を取り巻く悲しい現実だ。2018年は、そこから次々と問題が噴き出した年だった。いま振り返って特筆すべきなのは、これだけ相次いでなお、差別を根源から問う意識が十分広がっていないことである』と世を憂う。

順天堂医学部の女子受験生差別や財務省セクハラや、「土俵と女性」問題や、女性政治家の数を例にあげ、世界経済フォーラムが発表した男女格差報告書で、「我が国は149カ国中110位だ、指摘されるのは女性の社会進出の低迷だ」と嘆いてみせ、『差別は時の話題になっても、真の解決策は伴わない。それがパターン化していないか』と問題提起する。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13819234.html

その数日前の17日天声人語は、ジャッキー・フレミング著『問題だらけの女性たち』に記された19世紀のイギリス女性を苦しめた迷信の数々を「滑稽だ」と嘲笑しつつ、順天堂医学部の女子差別受験を『個人差よりも性差が先に来るのであれば、19世紀の人達をどこまで笑えるだろう。』と結論付けている。


参照、
女子という理由で、存在価値を無きものとされ、命の危険すら笑いごとにされる少女と、「女性差別はイカン」と取り敢えずは嘆いてみせる社会の木鐸たる新聞

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワンコがいた17年2か月

2018-12-20 09:51:25 | 
ねぇワンコ
こんなにワンコの日のご報告が遅れたのは初めてだね
こんなに遅れたら、もはや時間マジックを使うのは不正に思えてしまうけれど、
ワンコの日のワンコの時間には、ワンコを思っていたから、時間マジックを使うことを許してね ワンコ

先週で夏以降の忙しさに(少しだけ)一段落ついたと思っていたのだけれど、
そうでもない事が今週はじめに分かり、
そのうえワンコの日の翌日には、ものすごくショッキングなことがあったから、
今は忙しさと悲しみと、寂しさで、落ち込んでいるんだよ
勿論 その日が来ることは分かっていたのだけど、
思っていたよりも早く、しかも想像していたのとは違う形だったから、
なんだかさ、まいっているよ ワンコ
すっかり まいってしまって、
呑んでも酔わない私が、酔いそうなくらい呑んだものだから、
今朝起きると、扁桃腺が腫れていたよ
二日酔いならいいけれど、そんなものにはならないで、
扁桃腺を腫らしてしまったのでは、御用納めまでの数日をどう乗り切るんだよ 自分!

グダグダ愚痴を書いていても仕方がないね ワンコ

先週の休日は、ひさしぶりに ゆっくりできたから、ワンコお告げの本も読んでいたので、
その報告をするね ワンコ

「天使がいた三十日」(新堂冬樹)

ワンコお勧めの本とはいえ、
新堂冬樹氏という作家さんを知らなかったので、手に取るのを迷ったのだけど、
今の季節にピッタリな奇麗な装幀なので、お告げに従ったんだよ(『 』「天使がいた30日」より)
装幀 坂野公一
カバー写真 Philip Coblentz / Brand x Pictures / Getty Images


でも、
読み始めて驚いたことに、本書は わんこが悲しみのどん底の人を救うお話しだったんだよ

本書の わんこマリーは『チョコレート色の美しい被毛を持つ雌のアイリッシュ・セター』なので、
柴犬の男の子のワンコとは、犬種も性別も違うのだけど、
『とても賢く、心優しいたったひとりの親友』だというところは同じなんだな

ねぇワンコ
君を『たったひとりの親友』だと言ったからといえ、心配しないでね
わんこを家族として過ごした人なら、誰だって、そう思うに違いないからね
君にとってもそうだったろう?

本書の主人公は新進気鋭の作曲家だったのだけど、
身重の最愛の妻をクリスマス・イブに突然の事故で亡くし、
生きる気力を失い、仕事を辞め、自暴自棄な日々を送り、
どうやって死のうかと公園のベンチで考えていた時に出会ったのが、
わんこマリーだったんだよ

こう書くと、だいたい想像がつくだろう
マリーは、事故で亡くなった奥さんの魂が乗り移っているとしか思えない行動をとり、
落ちるところまで落ちでいた主人公を少しずつ立ち直らせるのだけど、
マリーが主人公を見つめる眼差しと、主人公がマリーの温もりに触れる描写が、
ワンコを思い出させてくれて、
淋しかったり、落ち込んだり、ささくれ立ったりしている私の心を慰めてくれたんだよ

それだけでも有難かったのに、
ワンコの約束の星を思い出させる件まであったから、
これは本当にワンコからの贈り物だと思えて嬉しかったよ

それは、マリーが主人公に星を見るように促す場面なんだよ
その星があまりに綺麗だから、主人公は
『きれいだな。まるで、天国から誰かが何かを伝えたくて光を放っているみたいだ』
と言うのだけれど、この言葉を読んだ時、
ワンコが「約束の星から見守っているよ」と伝えてくれているように思えたよ

夜空を見上げることすらできないほど、気持ちに余裕のない毎日だったけれど、
本書を読んでから、また約束の星を見上げる習慣が戻ってきたよ ワンコ

これから当分、悲しく寂しい時期がつづき、
悲しさと寂しさの理由のために、また猛烈に忙しくなると思うけれど、
ワンコとの約束の星を見上げて頑張るよ ワンコ

だからお空から見守っていておくれ ワンコ
でも、お正月は一緒にのんびりしようね ワンコ
今年もあと数日 頑張るよ ワンコ

12月24日 記




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空を超える手紙 ハイテンション!②

2018-12-19 12:00:00 | 
「時空を超える手紙 ハイテンション①」より

「時空を超える手紙 ハイテンション①」の末尾で、「未来」(湊かなえ)のラストシーンについて、「読者の意見の分かれるところだろうし、私自身どう受け留めたらいいのか、分からない」と、書いた。

ネグレクトに貧困、さまざまな種類の性的虐待まで、本書に登場する子供たちは、世間一般に聞くイジメを’’単純’’なイジメと評したくなるほど、悉く悲惨な目に遭う。
そのような過酷な状況のなかで、「あなたの未来は、希望に満ちた、暖かいものである」と記された未来からの手紙を寄す処にするしかない子もいれば、人格を崩壊させるしか身を護れない子もいる、悪魔になるしかないと苦しむ子もいれば、命を絶ってしまう子もいる。

現代の子供をめぐる問題を、これでもかと凝縮させると本書になるのか、このような問題がもはや珍しいものではないような時代になってしまったのか ー 読み進めていくうちに、不安と不快感が込上げてくる作品ではある。
とはいえ、一読した際のラストの印象は、そう悪いものではなかった。
子ども達が、「ハイテンション」の掛け声とともに建設的と思える方法を選んだことは、タイトルの「未来」に希望を託しているのではないか、と思った(思いたい)からだ。

だが、12月17日の新聞を読み、子供たちの魂の叫び「ハイテンション」が聞き届けられることはないのではないか、と思えてきた。

本書には、そもそも気になる件があった。(『 』「未来」より)

『世の中には正論があふれているのに、イジメにしろ、貧困問題にしろ、何十年も前から続く問題が解決されないのは、本音を語らない人が多いからではないか。問題を解決しようという気はなく、自分の方に流れて来る波を堰き止めるために、都合のいい言葉で堤防を作る。もしくは、その他大勢の方に流れようとする。
金があるかと訊かれれば、生活に困るほどではないのに、貧乏だと答えておく。
幸せかと訊かれれば、さほど大きな悩みを抱えていないのに、不幸だと答えておく。
息苦しい世の中だと嘆いてみせる。生きづらいと不平をもらす。
そうすることにより、本当に問題を抱えている人たちが埋もれてしまうことなど気付こうともしないで。』

これは、本書で重要な役割を果たす女性教師が、あるいじめっ子の作文に感じたものを、書きだした件だ。
小賢しく気が回るいじめっ子は、医者の娘で経済的にも恵まれているくせに、将来の夢という課題の作文で、「(お金に)『苦労しているお母さんにラクをさせてあげたい』から公務員になりたい」と書く。
人前で発表することのない夏休みの課題の作文では、楽しいハワイ旅行を生き生きと書いているのに、選ばれた子だけが参観日で発表できる作文となると、途端に本音を引っ込める。

この女性教師がもつ違和感は、父兄の対応にも及んでいく。
『家族の多様性が尊重されるようになり、両親が揃っていることを前提とした作文や絵画は、学校の課題から外されるようになった。
そのせいで親に対する感謝の気持ちが薄れているのではないか。と不満の声を上げる保護者も毎年数人はいるけれど、その人たちは、自分が離婚しないと言い切れるのだろうか。自分や配偶者が不慮の事故に遭い、幼い子どもを残したままこの世を去るかもしれない、と想像することはないのだろうか。たちえそうなったとしても、我が子は心を強くして乗り越えていけると信じているのだろうか。
不幸は他人に降りかかるものだと、無意識のうちに思い込んでいるのではないか。幸せかと問われると不幸だと答えるくせに、その不幸は他者と足並みを揃えた幸せだということに気付こうともせずに。』

自らも弱者の側に立ったふりをして、あるいは正義の何たるかを知っているふりをして、取り敢えず世間受けしそうな きれいごとを並べることの弊害と気持ち悪さを、17日の新聞は、私に突きつけてきた。

それについては、またつづく

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする