何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

我欲のなれの果て

2018-06-29 12:42:49 | 
「蛍・鈴虫 愛づる京の旅」で、お次はいよいよ苔寺と書きながら、違う内容を書くのは憚られるが、図書館で借りた本(しかも予約待ちの人がいる)の感想なので、順序が後先になるが記録しておく。
もっとも、気忙しくしているため本書も全て読んだわけでなく、冒頭の一話を読んだだけで返却しなければならないのだが、その内容を今日という日に書くのは、なかなかに似つかわしい。

「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」(宮部 みゆき)

江戸は神田の筋違御門先にある袋物屋の三島屋で、風変わりな百物語を続けるおちか。
この世ではないところと関わりをもってしまった人が抱える心の澱をすべて聞き、それを聞き捨てることで、語り手の重荷を取り除いてあげる おちかは、三島屋の主人伊兵衛の姪だが、おちか自身が ある事件をきっかけに心に傷を負い、叔父の家で生活してる。
そんな おちかの許には、苦悩を抱える者が、訪ねてくる。

おちかが聞いた体験(怪)談を綴る本シリーズが妙に怖いのは、ただ化け物が出てくるからでは決してない。
読む者に、その化け物を生み出しているのは普通の人間だという事実を突きつけてくるから怖いのだ。

本書「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」の第一話「開けずの間」も、人間の欲が生み出す魔の恐ろしさを、告げている。

出版から間もない怪談物(ミステリー?)なので詳細に記すことは控えるが、第一話は、おちかを訪ねてきた どんぶり屋の平吉の話だ。
平吉の妻は、病がつづく7つの娘のために願掛けを決意するが、それが塩断ちだと知った平吉は、恋女房を殴ってまでも、それを止めようとした。
だが、その理由を妻と舅に、どうしても言うことが、できない。できないが、できないままに自分の心に留めおくことは、もっといけないと考えた平吉が頼った先が、百物語のおちかだったのだ。

平吉には、やっと授かった息子を姑にとりあげられた挙句に離縁された姉がいたのだが、その姉が、我が子に一目会いたいと縋った先が’’行き逢い神さま’’であったことから一家にふりかかる禍の数々。

’’行き逢い神’’は、「一つ願いを叶えてやる代わりに大切なものを一つ差し出せ」と言う。

人は、生きている限り、何がしかの願いをもつ。
その多くは、強欲といえないほどのことが多い。
子供には、人並みに元気に育って欲しいという願い。
生んだ子が女児では意味がないと言われた嫁が、次には是非に跡継ぎとなる男児を授かりたいという願い。
男の子さえ生めば嫁には用はないとばかりに離縁されたが、引き離された我が子に一目会いたいという願い。
その願いは、どれもこれも強欲とは掛け離れた、ささいで素朴で優しい切なる願いだと思うが、その思いも’’念’’に変わるほど嵩じれば、思いがけない禍を招いてしまうことがある、そんなことを教えてくれるのが、第一話の「開けずの間」だ。

「開けずの間」は、念と誓願について書いている。(『 』「あやかし草子」より)

それほど大それた望みではない。
些細ではあっても人並みの、という願いもある。

だがその願いが、願っても願っても叶わない時、人は『何が足りないのだろう。』『なぜあたしの信心は通じないのだろう。こんなに拝んで願っているのだから、ご先祖様のどなたか一人でいい、どこの神様でもいい、耳を貸しては下さらないか。』と思ってしまう。
そして、『思い詰めた挙句』願掛けをする人もいる。

だからこそ、〇〇断ちの願掛けは『成就の如何がはっきりわかる形で行われるのが普通』なのだそうだ。

そこのところを曖昧にしたままの願いは、誓願とは云わないそうだ。
『こういう(曖昧な)願いは誓願ではない。真摯であればあるほどに、願う者の念ばかりが募ることになり、本人に悪気がなくても、我欲が凝っていってしまう。
そして、我欲は人を惑わせる』

そして、我欲による禍が及ぶのは、我欲の塊の張本人とは限らない。
その怖ろしさを、今日という日は痛いほど思い知らされるのだ。
そう、今日6月29日は、我欲が際限なく膨らみ、その禍が物事の根幹まで揺るがすほどになってしまった事の恐ろしさ、開けずの間を開けてしまった恐ろしさを考えさせる日だと思うのだ。

そのような思いに至ると、なかなか本を読む時間を取れず、また読んだとしても感想を書く時間がとれないでいる昨今にあって、今日という日に我欲の恐ろしいなれの果てを書いた一話を読み記すことができたことには、意味があったと思う。

そして、第一話で誓願について読んだことで、苔寺での体験について今一度考えることができたことにも、意味があったと思っている。

それについては又つづく

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蛍・鈴虫 愛づる京の旅

2018-06-25 23:50:05 | ひとりごと
「鳴かぬ蛍が、コツコツと」 「あらまほしき先達」より

「忙しい」「何だかつまらない」と言う私のため、というわけではないだろうが、友人が計画してくれた京の都のそぞろ歩き。
この日一番の目的は、梅雨どきの雨に濡れる苔を堪能することだったので、雨の予報はむしろ歓迎だったのだが、安定の気象庁というべきか、大雨の予報を大きく外し、晴れていた。
こうなると、西芳寺(苔寺)以外にも、お参りしたい処は多くある、その一つが鈴虫寺であった。

実は、学生時代に一度 鈴虫寺をお参りしたことがある。
願い事を一つだけ叶えて下さるお地蔵様がいらっしゃるとかで、しかも特に恋愛成就に効き目があるとかで、友人に連れられてお参りしたのだが、当時の自分が何をお願いしたのかは覚えていないし、その後の友人を見ていても、・・・ということだったので、そこのところ 御利益 はそういうつもりで今回はお参りした。
事前に調べたところによると、かなり人気のお寺らしく、行列に並ばなければお参りできないとあったが、この日は大雨の予報がでていたせいか人もまばらで、とても静かに長い階段を上ることができた。

長い階段を一歩一歩上ると、静かな空間が広がり、本堂にあがれば、鈴虫の音が響き渡り、浮世の憂さを忘れさせてくれるような心地よさだったが、ご住職様の法話で一気に現実に引き戻された?

これからの世を生き抜くためには、スマホが必要!?とのこと

しかし、さすが臨済宗の御住職。
生きるうえで大切なスマホとは、素・磨・歩のこと
素は、ありのまま
磨は、自分を磨く
歩は、一歩ずつでも自分の足で歩き前へ進む

幸せは誰かと比較して得るものではない、誰かと比較し自分に「ダメだ」というラベルを張り苦しむ「苦・ラベル」は止めましょう、と。
ありのままの自分を受け入れ、しかしそこに安住するのではなく、しっかり自分を磨き、そして自分の足で歩いて前へ進みましょう、と。

身振り手振りのお話しに笑いながらも、良いお話に いい気分になっていると、更に御住職は「臨済宗は、かならず客人を茶菓でもてなす習わしがある。皆さんの前にある、紅白のお菓子とお茶も是非召し上がってください」と声をかけて下さった。
有難くお菓子に手を伸ばしかけると、「そのお菓子には、黒い点々がたくさん入っています・・・・・一年中鈴虫が鳴くお寺ですから、天寿を全うした鈴虫さんが多くいる・・・・・、すりつぶして御供養のために・・・・・なんてことは、していないので安心して召し上がってください」と。

これで大笑いしてしまったせいか、願い事をする時の決まりごと(願いを唱える時に住所氏名を述べる事)を、うっかり失念してしまった。
御住職によると、「鈴虫寺の鈴虫さんは、住所地に願いを叶えに飛んできて下さるので、願い事とともに住所氏名を述べることが、一番肝心」だというのに、住所氏名を念じるのを忘れてしまった。
いやいや今回ばかりではない、どうも前回も、それをした覚えがない。
となると、今回もその願いは・・・・・

だが、良いお話を笑いながら聞かせて頂いたことだけでも有難いと思えるだけの年は重ねたので、今回は十分に満足している、、、けれど、こうして公に書かせて頂いたので私の居場所はお分かりになったはず。
鈴虫さま 私の願いを叶えて下さいと切に切に願っている。

大笑いしながら、いよいよ西芳寺へと歩を進める途中で、腹ごしらえ。

鄙びた感じが景観にあう食事処は、ここしかない、という強みを生かして頑張っておられた。
 
苔寺の苔に見立てた青のりの香りも良く、腹ごしらえもすまして、次はいよいよ苔寺へと、つづく

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想いとともに咲き誇れ

2018-06-24 22:57:05 | ひとりごと
御大は、昨年 目の手術をして以来、庭仕事から少しずつ手を引いていたのだが、その結果はすぐに出てしまった。

連作障害を避けるための植え替えがおざなりだったこともあり、今年の菖蒲はかなり残念なことになっている。

本当はいろいろな庭仕事の引継ぎを私にして欲しいのだろうが、今の私には、とてもではないが その余裕はなく、御大の想いに気づきながら、見て見ぬふりを決め込んでいたのだが、「これだけは植え替えを一緒にせねばならぬだろう、覚えておきたいだろう」と声をかけられたものがある。

シンビジューム

皇太子御夫妻の御成婚を記念して誕生した、シンビジュームのシーサイドプリンセス・雅子
当時まだ学生で懐具合が厳しかったこともあり、ひょろりとした株が二本で一万5千円は、まさに高嶺の花だった。
だが、諦めきれず、園芸店を通る度にのぞいて見つめ続けていると、お店の主人が 「おめでたい事だし、それほど望んでいる人に買ってもらうのが一番だと思う。だけど、需要もあるし、畏れ多い花なので、一万二千円よりは下げられない」と声を掛けて下さった。その申し出を有難く受け、私が育て始めてから、二十年以上の年月がたった。

そして今年、皇太子ご夫妻は銀婚式を迎えられた。
この25年の間には、お辛いことの方が多かったのではないかと拝察される。
事実、銀婚式にあたり発表された書面にも、「喜びや悲しみなどを分かち合いつつ,歩んでまいりました」と、あえて悲しみにも言及されている。

そんな悲しみも、シンビジューム・プリンセス雅子は見つめてきた。

一般にクリスマス頃から店先を飾るシンビジュームだが、我が家はかなり冷え込む時期まで軒下に置き、その後は何度か霜が降りた頃ようやっと縁側に入れる。
そうして、寒さに出会ったシンビジュームは、花が咲く時期こそ一般の開花時期より遅れるが、早咲きの花がすっかり終わった頃に、強く凛々しい花を長い間 咲かせてくれるのだ。

御大の わざわざ寒さに当てる育て方が正しいのかどうかは分からない。
だが、寒さを乗り越え、柔らかいなかにも凛とした花を咲かせるプリンセス・雅子に、「冬来たりなば、春遠からじ」(「西風の賦」(パーシー・ビッシュ・シェリー  訳・平井正穂訳)と、どれほど祈りを込めてきただろう。

これまでも、シンビジュームの株分けを手伝うことはあったものの、それはあくまで手伝いであったが、御大はそれを引き継がせようとしている。
「この株だけは、これからも守っていきたいのだろう」という言葉とともに。


来年5月の御即位の春、プリンセス雅子が見事に咲き誇っているように、新しい御世も咲き誇り続けるように、シンビジュームの育てかたを引き継ぎたいと思っている。

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ワンコ棒?日記②

2018-06-23 10:07:07 | ひとりごと
「ワンコ棒?日記①」より

ねぇ ワンコ
御大は目の手術をして以来、庭仕事のあれこれから手を引き始めたのだけれど、
そのせいか今年の菖蒲は、かなり寂しい状態だよ

あれほど大切にしてきたのだから、私に植え替えやら何やらをして欲しいのだろうけど、
今の私には、とてもじゃないけれど、その余裕はないから、来年の菖蒲はどうなってしまうんだろう?
ねぇ ワンコ
まだまだ元気に頑張らねばイカンよと、御大に発破をかけておくれ ワンコ

さて、’’ケッタイ’’な話の続きだよ

「犬棒日記」(乃南アサ)

せっかくワンコが勧めてくれた本なのに、しかも、かなり面白く読んだのに、
自分が見聞きしたケッタイな話ばかり思い出してゴメンね
でもさ、乃南氏が電車や買い物先や街角ですれ違った人の観察を記した本書を読むと、
どうしても自分の観察記も記しておきたくなったんだよ
乃南氏はさすが作家さんなので、ただ観察したままを記すのではなく、
訳ありに見える人やケッタイな人が抱える問題や闇まで鋭く抉りだしているのだけれど、
私にはその才覚はないので、見たまま聞いたままを書いておくよ

’’この子誰の子’’な話を聞いたのも、朝の満員電車だった
朝のラッシュ時に座れたときは、速攻で寝ることにしているのだが、
熟睡しているわけではないので、車内の会話は意外に聞こえてくるものだ
この時も、夢うつつで聞くともなしに聞いていると、
「誰の子か分からない」 と
何やら、爽やかな朝には似つかわしくない怪しげで興味深い話に思わず耳を欹ててしまう
「前の彼氏と終りっぽい時に、繋ぎと付き合い、今は新しい彼氏がいて‥誰の子か分からない」
この告白に対し、聞き手の友人らしき人間は、
「一番条件がいい男の 子にしてしまえば、いいじゃない?」と
この声に、私の両隣の男性(学生とサラリーマン)が身を固くしたのが、ハッキリと伝わってきた
こうなると眠気も何処へやら、何と答える妊娠女性!?と次の答えを身構え待っていると、
「やっぱりそうよね、付き合う時は血液型をキチンと確認してるから大丈夫!そうしよっと」・・・
これ以上の狸寝入りは我慢ならず、思わず顔をあげ、妊娠女性を確認すると、
そこには、
黒髪をゆるく三つ編み風にたばね、白いブラウスに濃紺のジャンパースカートの清純そうな女性が立っていた
しかし、この場面で顔をあげたのは私だけではなかった
両隣の男性も周囲の人も皆一様に、妊娠女性とその友人の顔を確認したようだ
そして誰もが、いやはや何とも、という表情をしながら再び頭を垂れたのだった


ねぇワンコ
「犬棒日記」は作者・乃南氏が町で見かけた訳ありの人やケッタイな人を観察したエッセイなのだけど、
何度となく、「聞こうとしてないけれど耳に入ってくる」という表現があるんだよ
犬ほどではないけれど、
人間の耳もよくできていて、いろいろな声や音がしている賑やかな所でも、
自分に関わりのあることは、取捨選択して聞くことができると何かで読んだことがあるのだけれど、
雑踏のなか、聞くともなしに聞こえてくる(自分に関わり合いのない)話でも、
その内容を精査し取捨選択し、聞きたい話は聞けるようにできているのかな?

だとすると、ケッタイな話ばかり耳にする私も、
ケッタイな人間なのかな? ワンコ
まさか、そんなことを認識させるために、本書をお告げしてくれたのではないだろう?

でもさ、ここらで一つ身を引き締めるべき時ではあるんだな、私
だから、本書の帯とエピグラフは心に留めておくべきなんだな

『もしもし、あなた見られてますよ』(本書 帯より)

『【犬も歩けば棒にあたる】
 -物事を行う者は、時に禍にあう。
 また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。
 (「広辞苑第六版」より)』 (本書 エピグラフより)

ねぇワンコ
「もしもし、あなた見られてますよ」を肝に銘じ緊張感を持ちつつも、
当り棒に出会うために、とにかく歩いてみようと思うよ ワンコ
これがワンコの真意がどうかは分からないけれど、
とっても面白いエッセイで気分転換できたから、
感謝しているよ ワンコ
来月もヨロシクお願いするよ ワンコ

今年の菖蒲はほんとうに残念な状態だろう?
実はさ、菖蒲は引き継いでいないけれど、大切な花の手入れは一部引き継いだんだよ
そんな話は、またの機会にね ワンコ


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ワンコ棒?日記①

2018-06-20 09:51:25 | ひとりごと
ねぇワンコ
ワンコがお空組になって2年と5ヶ月
いつ頃からか、
ワンコは、ワンコの日に向け、本をお告げしてくれるようになったね
それは不思議な感覚で、
ワンコをより近く感じるし、毎回いろいろ教えられることが多いのだけど、
今回は、まだワンコお告げ本の真意が理解できていないのだよ

「犬棒日記」(乃南アサ)
装画 風間勇人 装幀 小川恵子(瀬戸内デザイン)
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-31345-1/smp.html

表紙デザインにも著作権 ※ はあるのだが、本書を読んだ理由に表紙に惹かれたことがあるので、製作者のお名前を記すことで、掲載をお許し頂きたい

さて、乃南氏というと、最初に出会ったのが あの「凍れる牙」だったし、
本書の表紙にはワンコの仕草とよく似ている犬が描かれているから、
・・・得意げにしている右上の犬や困った顔で振り返っているタイトル左下の犬、ワンコに似ているだろう?
これこそワンコのお告げだ!と思いこんだのだけど、
どうなんだろう?

帯には『あんな人やこんな人。「いるいる!」とうなずくか、「うそでしょ?」と首をひねるか。答えはあなたの中にある。』とあるけれど、
本書は、乃南氏が電車や散歩や外食や買い物などで遭遇した人々の観察記で、
基本的に本書に登場するのは、訳ありの人物かケッタイな人物なんだよ
だから、
「いるいる!」とうなずいた後、こんな人がそこら中に「いる」と困るだろうと思ったり、
「うそでしょ?」なんて思う人は、人間観察が足りないか、よほど恵まれた環境にいるのだろうなと思ったり、

そうして、
数年前 Myブームだった、「ケッタイな人」観察を思い出したんだよ
あの頃、帰宅後 遅めの夕食をとりながら私が話す「今日のケッタイな人」をワンコも聞いていたよね

毎朝そこそこ可愛い顔にせっせと化粧を施す入社から数年目といった感じの女性がいた
毎朝同じ電車に乗っていると、立つ位置座る位置は固定化してくるので、
彼女の化粧は、そこに乗り合わせる人にとっては好ましいものではないにしろ、
当たり前の朝の光景になっていた
そんなある日、彼女の彼氏が、いつもより3つ手前の駅から電車に乗ってきた
いつもなら、彼女の化粧が終わった頃に乗ってくるはずの彼氏が、
その日は何故か手前の駅から乗って来たから、さあ大変
「お前、いつも電車で化粧しているのか」と問い詰める彼氏に、
「いいじゃない、時間を有効に使いたいし、あなたに会う前に奇麗にしておきたいし」と反論する彼女
「電車の人は皆、この男のために、この女は非常識にも電車で化粧しているんだ、と毎朝思っているわけだ、
そんなこととも知らず、のこのこ電車に乗り込み、化粧したてのお前といる俺の立場にもなってみろ、
穴があったら入りたい」と更に言い募る彼氏
その後もしばらく、「時間の有効活用」と「内と外の区別」について激論を交わしていたが、
その日を境に、その二人がその電車に乗ることはなくなった

なんて話もしたよね

他にも、バレンタイン吐瀉事件とか、この子誰の子事件とかあったけれど、
それは又つぎに思い出すとして、
今日のワンコの日には、ワンコの色の花を手向けたいと思うよ

ワンコというと、私は優しいピンクを思い浮かべるのだけど、
家人は、ワンコが枕にしていたハート形のクッションとタオルケットが淡い水色だったこともあり、
ワンコは(男の子だし)水色だよ、と言うのだよ
そんな会話に合わせたかのように、ピンクと水色の花が庭で咲いているよ ワンコ

  


ワンコのお告げの真意については続く、とするね 


※追記、表紙の著作権について
この件について、まだ判例が出ていないし学説も微妙に異なるので、何とも云えない部分があるが、一般社団法人日本児童文芸家協会の「著作権ケーススタディ」には、『(ブログに本の)表紙だけを載せる場合なら、最近は表紙については著作物としてではなく、慣行として「商品」とみなされます(著作権法には規定されていません)ので、無許諾で掲載することが可能です。』とある。
http://www.jidoubungei.jp/cn9/pg78565.html
これまで、このブログで表紙を掲載したのは、数えるほどしかない。
そのいずれもが、犬や野球や山に関するもので、表紙デザインに惹かれて本を選んだというものだった。
これからも、本の内容だけでなく表紙のデザインにも敬意をもちながら、本を読み続けたいと思っている。

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