何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

武士道とは語らざること

2016-02-29 19:23:05 | 
「どちらを向けば良いのか」で、価値観が一変してしまった御一新に途惑い背を向ける武士たちを描いた「五郎治殿御始末」(浅田次郎)には、価値観の変化と存在意義について書かれている後書きがあると書いた。

「五郎殿御始末」あとがきより
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものぬ対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。
武士道とは死ぬこととみつけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだが、あまりに単純かつ象徴的すぎて、後世に多くの誤解をもたらした。
社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。
人類が共存する社会の構成において、この思想はけっして欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点だろう。』

明治時代に和洋の精神・新旧の理念を悉く対立するものとして捉えたという事の裏を返せば、それは前の時代の武家の時代が如何に盤石であったのかという証左なのだと思うが、その盤石な武家の時代にあって、自らの存在に懐疑心をもっていた武士という視点は新鮮だ。
武士もいろいろで二刀を誇示するだけの者も多かったので、浅田氏のように『無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった』と言い切るのは難しいと感じるが、「武士道とは死ぬこととみつけたり」で有名なあの葉隠の武士道の精神についての浅田氏の論考には、大いに感じるところがあったのだ。

ところで、この葉隠で有名な佐賀藩の藩士であったのが、雅子妃殿下の御先祖にあたる方々だ。
雅子妃殿下の高祖父・古賀喜三郎氏は海軍予備門(現在の海城中学・高等学校)の創設者である。海軍予備門設立にあたり、宮内省の土地が下賜されたのは、創設者である古賀喜三郎氏が幕末から有栖川宮殿下と親しく、有栖川宮殿下はじめ他の皇族方の御協力を得ることができたからでもある。(他にも古賀氏の交友関係を通じて、西郷従道や渋沢栄一や錚々たる学者の協力を得て、設立されたと云われている)
この古賀喜三郎氏の娘婿となるのが、同じ佐賀藩出身で海軍兵学校を全教科首席で卒業し明治天皇に拝謁のうえ日本刀一振りを賜っていた江頭安太郎中将(雅子妃殿下の曽祖父)だ。ちなみに、江頭安太郎氏の御子息・豊(雅子妃殿下の祖父)に娘寿々子を嫁がせたのが南部藩士の山屋他人海軍大将(東宮御用掛なども歴任)である。山屋大将の妻貞子は、尾張藩士であり後に鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司となる丹羽与三郎房忠の娘であり、長男・太郎は伏見宮博恭王付武官を務め高松宮親王殿下の日記『高松宮日記』(昭和4年2月8日)には「山屋大尉」と記されている。

かのように雅子妃殿下の御先祖にあたる方々は、幕末・維新の頃から海軍を基点に皇族方や政財界の中枢人物と関わっておられ、いわば明治初期に既に完全に日本の上流社会に存在されていたのだが、現在それを喧伝されることはない、それどころかネットでは不届きな捏造与太話が流布されている。
捏造与太話などは歯牙にもかけず泰然と毅然とされているのは、確固たる自信のあらわれでもあるだろうが、この度「葉隠にある武士道」を読み、深く納得できるものがあった。
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった』『社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。』を旨とし、武士の世であった江戸時代にあってさえ、武士という存在に懐疑的であったゆえに勤勉であった佐賀藩士。その血を脈々と継いでおられるために、自己の存在を殊更に誇示するようなことを良しとされないのだろう。

謙譲の美徳はおろか恥の文化すら廃れてしまった感がある現在の日本にあっては、「嘘も百回言えば本当になる」的浅はかな風潮が蔓延しているので、嘆かわしく心配であるが、幕末から続く高い志を受け継ぐ若者を育てる教育が今も守られており、そこで高い志を培った若者が次の時代のリーダーとなることを強く願っている。


海城中学・高等学校のホームページに記される古賀喜三郎氏の業績と志
http://www.kaijo.ed.jp/about/message/ より
創立者古賀喜三郎(1845-1914) は、幕末から明治維新へ、そして19世紀から20世紀へと変革の時代を駆け抜けた人物でした。
佐賀藩の若き軍人として活躍していましたが、文久4年20歳の時、藩の修習生として長崎に来航していた英国軍鑑に派遣され、英国海軍士官からの教育を受ける機会を得ました。また明治13年36歳の時には北米への遠洋航海に従事し渡米、我が国と米国の圧倒的な国力の差を、身をもって体験しました。
このような経験から世界に自が開かれ、多くの人々が藩という意識のまだ強い時代に、国家としての日本を意識しました。そして、我が国が世界の国々の中で発展してゆくためには、優秀な人材を育成することこそが急務だと考え、海軍を退役して海城学園の前身である海軍予備校を設立しました。
創立者は藩を超えて国家を意識しましたが、今21世紀を生きる我々は、国家を超えて地球を意識しなければなりません。将来解決すべき課題は、国家の枠を超えて地球規模の広がりをみせているからです。地球上に存在するあらゆる生物が、将来にわたって安心安全に生存するための準備は、今から始めなければなりません。
では、我々は今何をするべきなのでしょうか。

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どちらを向けば良いのか

2016-02-28 01:00:07 | 
例年なら天ぷらに味噌作りにと楽しめる蕗の薹が、今年は数個しか採れなかったので、昨晩天ぷらにして食した。
これで、完全に次の季節を迎えてしまったと感じることは、辛くて仕方がないが、蕗の薹の独特の苦みはやはり美味しい。
味覚からも季節の変化を感じて又「時間論」を思い出したが、今年は閏年でもあるので、それを暦という点から書いた「五郎治殿御始末」(浅田次郎)を読み返してみた。

「14歳のための時間論」(佐治晴夫)には、時間について正体が分からないまでも『時間の経過を測る道具』として天体が使えること、そこから生まれたのが暦だとして、太陽暦と太陰暦について述べられていた。(『 』引用)
太陽暦とは、『地球が太陽の周りを一回りする時間を基準にして決められます。一回りすれば、太陽に対する地球の位置は元に戻ります。ですから、太陽からの光の当たり具合も同じなので同じ季節になります』
太陰暦とは、『地球の周りを回っている月の満ち欠けを基準にした暦です。』『月は、地球の周りをおよそ29.5日かけて回っていますから、それが月の満ち欠けの周期にもなります。』
『しかし、月は地球の周りを回り続けながら、その一方で、地球はその月を連れたまま太陽の周りを動いています。ですから、太陽に対しての地球の位置によって起こる季節の変化と月の満ち欠けが上手く合わないことがあり、現在の社会では主に「太陽暦」が使われています』 

現在では広く太陽暦が使われているが、月の満ち引きによる太陰暦は漁業に便利であり、二四節気は農業の目安であることからも分かるように、暦は土地や習俗にあわせて使われ、いずれを使うにせよ、それぞれ精度を上げる努力は積み重ねられてきた。このあたりは、「天地明察」(冲方丁)に詳しい。
(参照、「合うこともあり、合わざることもあり」 「時と空間を違えて傷つく権威」 「南十字星を見て参れ」

日本の農業や漁業に役立ち人々にも親しまれてきた暦・時は御一新を境に突如変えられるが、その混乱を描いているのが、「五郎治殿御始末」に収録されている「西を向く侍」「遠い砲音」だ。
それまでは、およそ二時間おきに刻まれる時間で暮らしてきた人々が、突如分単位での行動が求められた時の困惑も大きかったが、太陰暦のをグレゴリオ暦に改めることに付随して「12月2日を大晦日にし3日を新年とする」との命による混乱も大きかった。
師走に掛取りをしていた商人や人々は、師走が突如二日だけになったのだから、堪らない。

この混乱に立ち上がったのが、『世が世であれば必ずや出役出世を果たすにちがいない異能の俊才』と誉れ高い、成瀬勘十郎だった。
歴法の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬は、いずれその職能をもって新政府に出仕することになっていたが、待てど暮らせど出仕の命はこない。
『拙者は、そべてに甘んじて参った。たとえ武士には耐え難い泥水でも、世のためと思えばこそ目をつむって飲み干して参った。天長様の世でも公方様の世でも、正しい暦を作る者がおらねば、民百姓は困ると思うたればこそじゃ。御同輩の多くは上野の戦で死に、函館まで落ちて戦い、あるいは公方様のお伴をして駿河に向かった。だが拙者には、さような安易な道は許されぬ。』
正しい暦を作る者がおらねば、民百姓が困ると思えばこそ、御一新後も屈辱に耐え、5年という長きの待命の間も研鑽を積んできた勘十郎だったが、明治五年11月8日に突然発布された「(天文方の叡智の結晶である)「天保暦をグレゴリオ暦へ改める」という改暦詔書は、勘十郎自身の存在を否定しただけでなく、庶民生活を大混乱に陥れた。
事ここに至り、勘十郎は立ち上がり、文部省に談判に出向く。  

『暦は百姓町人の暮らしの支えでござりまするぞ。百姓は暦に順うて田を植え、種を蒔き、村の祭をいたしまする。町人はやはり暦に順うて銭の収支を計りまする。その大切な暦を、かくも性急に改変せしむるとは、国民の国家に寄する信を裏切ることであると思われませぬのか』と説く勘十郎。
一方で、天保暦に誇りをもちながらも、開国した日本が西洋諸国と外交通商関係を結ぶには統一の暦にする必要があることも勘十郎は理解していたので、『西洋暦との誤差ならば、当面は外交官と貿易商だけが承知しておればよろしい』とも説得するが、新政府方は聞く耳をもたない。
その生臭い理由も、勘十郎は見破っていた。
12月を一日・二日だけにすれば、12月分の給与を節約できる。そのうえ翌年(明治6年)は旧暦ならば閏月があったため一年は13か月となるところだったが、暦改変により12か月となるため、これまた一月分の給与を節約できる。つまり旧暦と比較すれば都合二か月分の給与が節約できるのだ。

「暦は百姓町人の暮らしの支えであり、その大切な暦の性急な改変は、国民の国家に寄する信を裏切りだ」という勘十郎の真っ当な意見は、西洋への迎合と損得勘定に凝り固まった新政府には届かない。

もう一つ勘十郎が許せないのは、天皇の名の許に渙発される詔書に科学的な謬りがあることだった。
「天地明察」にも書かれているように、中国から学んだ天文学をもとに作る暦はその緯度の違いから誤差が生じるものではあったが、日本の民百姓のためにと天文方が叡智を結集して作ったものだった。それを、西洋に合わせるためだけに変え、しかも謬が多い暦を天皇の名の許に渙発されていることが勘十郎は許せなかった。
『天長様は神ではござらぬ。しからばかような暦算の商才も、ましてや百姓町人の暮らしぶりなども、おわかりになろうはずはござらぬ。今後、謬てる軍官の担ぎを天長様の御名の許に公布せしむる愚を犯し続ければ、国家は滅びまする。西洋の方に準ずる世は趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる』

科学でもあり精神文化でもある暦にも及んだ卑屈なまでの急激な西洋化による歪みについては、これまでも何度か考えてきたが、これからも考えていかねばならないと思っている。
(参照、「「かのように」を超えた処」 「「かのように」を要する時代」 「永遠の今を生きる 中庸」

それはともかく、西洋化の趨勢は勘十郎の説得で変わるものではなく、しかしその流れにも乗ることを良しとしない勘十郎は、刀を売り払い田舎の妻子のもとへ下る決意をするところで、物語は終わるが、表題の「西を向く侍」とは、『一年が365日と定まり、大の月は、一、三、五、七・・・ああ、わからぬ』と嘆く婆様に勘十郎が言った言葉だ。
『西向く士、というのはいかがでござるか。二、四、六、九、武士の士は十と一でござろう』 と。
(二、四、六、九、士(武士の士で十一)晦日が三十日、それ以外は三十一日ということ)

価値観が一変してしまった御一新に途惑い背を向ける武士たちを描いた「五郎治殿御始末」だが、価値観が一変するときに人が直面する存在意義について等、後書きには書かれている。そのあたりについては、つづく

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それでも 逢いたい

2016-02-24 09:51:25 | ひとりごと
書こうか書くまいか悩んでいたところに、打ってつけというと語弊があるかもしれないが、書くことを後押ししてくれる記事を見つけた。
やはり、ワンコだな。

<被災地>「幽霊現象」体験談 多数紹介 宮城でシンポ  毎日新聞 2月25日(木)11時22分配信より一部引用
「初夏なのに真冬のコートを着た女性を乗せた。目的地に着いて後部座席を見ると誰もいなかった」「人をひいて慌てて車を止めたのに誰もいなかった」……。仙台市青葉区の東北学院大で24日開かれたシンポジウムで、東日本大震災の被災地で「幽霊現象」の体験談が多数語られていることが紹介された。
社会学を学ぶ教養学部4年の工藤優花さん(22)が、石巻市のタクシー運転手が体験した「幽霊現象」について書いた卒業論文が反響を呼んだことから同大がシンポジウムを企画。学生や市民ら約150人が熱心に耳を傾けた。
工藤さんは2013年5月~14年3月、毎週石巻市を訪れてタクシー運転手約200人に聞き取り調査し~略~話を聞いた。
工藤さんはこの運転手たちには幽霊への恐怖心がなく、畏敬の気持ちを持っている印象を受けたという。その理由については「地元への愛着や震災で突然亡くなった人への共感が、幽霊への理解を生んだのではないか」との見方を示した。
東北地方の怪談や心霊現象を集めた書籍を出している仙台市の出版社「荒蝦夷」の土方正志代表もマイクを握り「周囲の人の突然の死を受け入れられない人たちの思いが幽霊には投影されているのかもしれない」と分析した。
終了後、工藤さんは「調査中、心のどこかで被災した経験を乗り越えられず、前向きになりきれない人にたくさん出会ったので、震災5年を迎える今、そういった人たちの心のケアをしていく必要があると思う」と話した。


先々週の土曜の朝、皆の第一声が「ワンコの夢をみた」だった。
声を聞いただけの者もいるけれど、空から庭の花水木のもとに下りてくる姿をみた者や、この時期ワンコが必ず陣取っていたストーブの前で寛ぐ姿をみた者や、ワンコが嬉しくて堪らない時に飛び跳ねるあのポーズをみた者や・・・・・・・口々にワンコの夢をみたと久しぶりに家族皆に笑顔がでた一時だった。
ワンコがお参りをして挨拶をすませて、帰ってきた!
だが、数日前に家人がポツリと言った、「うちにはワンコから電話がないな」
聞き捨てならない言葉に何事かと問うと、家人が言うには上司の携帯に亡くなった愛猫から電話があったそうなのだ。
数年前に上司の愛猫が亡くなったそうだが、ちょうど一月経った頃に愛猫たまから電話があったのだという。

会議中の上司の携帯が振動した。
確認すると、〇〇たま子(○○は上司の苗字)と表示されている。
上司は自宅の番号を「家」と登録しているので(〇〇を自宅とは思わず)、〇〇たま子という知り合いがいたか?それを登録したことがあったかと訝しく思いながら、会議が終わるのを待ち、表示されているところに折り返し電話すると、何とそこは自宅だった。
キツネにつままれた気分で電話を切ると、そこに着信履歴も発信履歴も残ってはいない。
そして、次の瞬間気が付いた、愛猫の名は「たま」だったと。

「誰が信じてくれなくとも、家族はたまから電話があったと信じている」と大真面目に話し、「君のところにもワンコから電話はあったか」と問う上司。
家人はその話を信じたが、信じると今度は、「ワンコから電話がないことが気にかかる」と話していたところだったので、被災地の方の『幽霊への恐怖心がなく、畏敬の気持ちを持っている』という気持ちがよく分かる。
それでも 逢いたい と。

あの日から、まだ5年、もう5年
癒えない哀しみを抱えた被災者の方々に、寄り添い守るものがあると信じている。

『見えぬけれどもあるんだよ
 見えぬものでもあるんだよ』 「星とたんぽぽ」(金子みすず)より




追伸
このページの持つ不思議な意味を大切に胸にしまっていく。

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水と火を包む徳の花

2016-02-23 23:23:00 | ニュース
「お水取りが終わると春がくる」という言葉は知っていたが、どちらかと云うと「球春」の方に馴染みがあった私が「お水取り」に関心をもったのは、ある話を聞いてのことだった。
それは、同僚の母の姉の嫁ぎ先の義理の妹の嫁ぎ先である東大寺関係者から漏れ伝わった「お水取り」の話で、真偽のほどは確かではないが、「お水取り」に関心を抱かせるには十分な話で、それを契機に読んだのが、「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」(佐藤道子)だった。

「お水取り」というと連日夜空を焦がす「お松明」ばかりが有名で、近年ではすっかり観光の目玉にもなっているようだが、「お松明」が始まる3月1日を前にした2月20日から「別火」と呼ばれる前行の期間があり、2月23日にはその一つである「花ごしらえ」が行われる。

<東大寺>「お水取り」整える花と心  毎日新聞 2月23日(火)12時17分配信より一部引用
東大寺二月堂の修二会(お水取り)の本行入りを前に、仏前に供えるツバキの造花を手作りする「花ごしらえ」が23日、同寺であった。
前行に入っている僧侶「練行衆」らが木の芯に黄色い紙を巻き付けて雄しべとし、花びらをかたどった紅白の和紙を張った。約400個の造花が次々と完成し、作業が行われた広間は華やいだ雰囲気に。仏前に供えるナンテンの枝も用意し、明かりをともす燈心を切り分けて整えた。
本行入りは3月1日。14日まで連夜、宿所から二月堂に参る練行衆の道明かりとして「お松明」が上がる。僧侶らは堂内で深夜、内陣を駆ける「走り」、膝を板に打ち付けてざんげする「五体投地」など厳しい行に臨み、15日未明に満行を迎える。


「お水取り」や「花ごしらえ」という言葉には雅やかな響きがあり、「お松明」には勇壮ななかにも華やかさがあるが、実は「お水取り」の本行の厳しさは壮絶なものだ。
今、手元に「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」がないので行の詳細は記せないし、博物館で見た「お水取り」の展示と記憶が混同しているかもしれないが、その厳しさは記憶に残っている。

昼夜分かたず行われる「お水取り」の行。
まだ寒さ厳しい二月末から三月14日にかけて、紙の袈裟だけを纏っての行はそれだけでも厳しいが、紙の袈裟での「五体投地」は壮絶で、紙の袈裟が裂け血が滲んでも行は続けられるという。このような厳しい行でもって国の安寧を祈り、また人々に成り代わり懺悔をもしてくださるが、行の厳しさを殊更に喧伝することはない。
火のお祀りかと思うほどに「お松明」ばかりが前面にでているが、主役はあくまで「お香水」。にもかかわらず、肝心の「お水取り」は13日夜半に限られた方々だけで行われ、外からは伺うことさえ出来ないという。

この感じが、私はとても好きだ。
本当は厳かでも御立派でもないのに、さも大層なもののように喧伝するのが流行る昨今にあって、真実厳しい行に臨みながら敢えてそれを感じさせず、雅やかで華やかなところを人々と共有する、そこにこそ誠を感じるのは、私の捻くれた感性のせいだろうか。

「万物の根源 誕生」で、タレスが「万物の根源は水」と規定したと書いたが、そうするとヘラクレイトスは「万物の根源は火」だと云う。「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)によると、『ヘラクレイトスはまた、世界は対立だらけだと言っている』『神は昼であり夜である。冬であり春である。戦であり平和である。空腹であり満腹である』『ヘラクレイトスの神は、絶えず変化する、対立矛盾に満ち満ちた自然なのです』 ということになる。
哲人ヘラクレイトスに何事かモノ申さんというわけではないが、異なるものを対立と見做すよりは、真逆の性質こそ調和させようとする精神が、私には合っている。だからこそ、水と火がともに主役となる「お水取り」に心惹かれるのだが、「お松明」を実際に拝見したのは一度きりしかない。

その「お水取り」の前行「花ごしらえ」は2月23日と決まっている。
皇太子様の御誕生日の日だ。

行程が厳しく定められている「お水取り」だが、閏年はその日程がいくつかズレる。だが、この「花ごしらえ」の日は変わらない。
厳しく厳かなところや真実誠のある部分は秘め、雅やかで華やかな時間を人々と共有しながら、やはり厳粛な趣を保ち続ける「お水取り」の変わらない日に、皇太子様が誕生されたことに、私はひとり感動している。

水を研究される皇太子様は御自身が明鏡止水のごとき佇まいでおられるが、その御心に火のごとく熱い心をお持ちでないはずがない。
妻は男子を産めなかったというだけで心が病むまで追いつめられ心を病んで尚バッシングに遭い、娘は男子でなかったというだけで幼少の砌から様々な攻撃に晒されている。もとより歴史学者でもある皇太子様が御自身にかされる歴史的重みを受け留め苦しんでおられないはずもない。
しかしながら、そのような苦しみを一切微塵も感じさせず、いつも穏やかで冷静で品格のある佇まいを守るには、心に火のごとき熱い意思と理性が必要だと思うのだ。

火のごとく熱い御心を胸に明鏡止水の佇まいを守られる皇太子様の御誕生の日を、心からお祝いしている。

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万物の根源 誕生

2016-02-23 00:00:00 | ひとりごと
万物の根源を水と云ったのは、水だけにタレス、と世界史で暗記したのを思い出させる文が「14歳のための時間論」(佐治晴夫)にあった。

『そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。
 空界もなかりき、その上の天もなかりき。
 何ものか発動せし、いづこに、誰の庇護の下に。
 深くして測るべからざる水は存在せりや。
 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(太陽、月、星など)もなかりき。
 かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。
 これよりほか何ものも存在せざりき。』「リグ・ヴェーダ讃歌」(辻直四郎訳)

佐治氏によると、『これは宇宙の始まりを歌ったもの』であり、「風なく呼吸せり」という一節を「永遠の時間」と捉えて時間論につなげていく。
「生きていることが時間」だとする佐治氏は、生きているということの定義、あるいは単なる物質を生き物たらしめるものについて考察するため、空気やダイヤモンドを例にとり説明している。
空気はチッソや酸素の分子からできているが、その動きはデタラメで生きるために次なる行動をどうするかは考えていないので、生き物ではないとする。
ダイヤモンドは炭素原子が規則正しく並んでいて見事な結晶構造を作っているからこそ硬く、光をきちんと反射するからこそ美しく輝くが、より硬く美しく輝くためにすべきことを考えていないので、生き物ではないとする。

しかし、水は空気やダイヤモンドとは異なるという。(『 』引用)
『(水は)入れ物に入れれば、うまく入るように、形を自由に変える、という意味では空気に似ています。また、すぐに水素と酸素に分解してしまわないという意味では、ダイヤモンドにも似ています。』 と示したうえで、『水は水素原子二つと酸素原子一つが、三角形になってくっついている化合物だ』 ということを読者に思い出させ、『ここに、水が「いのち」をつくるのに、とても重要だという秘密があります』と結論付けている。
『水の分子は、ダイヤモンドのようにカチッとしているのではなく、それぞれの原子が、ずれた形でくっついています。そのために、水の近くにやってくる色々な原子たちと、手を結ぶことが得意なのです。水は、たくさんの物質を溶かしこんでくれる、とても寛容な物質だといってもいいですね。そこで、話を一足飛びにしてしまえば、水は例えば、リン脂質というような物質がやってくると、それらと上手く手を繋ぎます。そして、自分を中に閉じ込めるように、膜をつくってしまいます。細胞膜です。これが細胞の誕生です。
これらの細胞たちは、それぞれが集まって、その形を保てるように動いてみたり、別の物質と手をつなごうとしたりします。
それは、空気のようなデタラメでもなく、ダイヤモンドのようなカチッとしたものでもありません。』
『半分デタラメで、優柔不断』
『水は、その「ゆらぎ」の中で、エネルギーについても有利な条件を探しながら、存在し続けようとする目的をもつ新しい物質のかたまりーいわば、生命の芽のようなものをつくっています。』
これは、人の体がおよそ60兆個の細胞からできているが、その細胞が水で満たされているので、人間の体の70%以上が水だということからも根拠づけられると書いている。

古代インド聖典とギリシャ哲学が水に注目する理由に共通点があるのは、分子原子レベルで考えれば、水こそが命の源となるからだろうか。
そして、水が命の源となる理由が「変幻自在」「ゆらぎ」、つまり寛容だということ。

水の偉大さを知るのに、何も古代ギリシャやインドの思索を持ち出さなくとも、日本にも素晴らしいものがある。
水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり

この水五訓は、水を祀る貴船神社に記されているそうだ。
貴船神社には、残念ながら私自身はお参りできないでいるが、水を司る神社参りを趣味としている友人から、霊験あらたかな貴船神社とそこに記される水五訓の話は何度も聞いている。

万物の根源であり命の源である、水
寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる、水

今日2月23日は、水の研究家でもあられる、皇太子様のお誕生日だ。

御所の「道」から水の道(水運)の研究に入られた皇太子様は、ネパールで水汲みと水運びに多くの時間を費やす女性や子供を御覧になり、「水」を通して女性の権利や子供の教育についてまで関心の幅を広げられ、更に近年では、自然災害(地震・津波や洪水)と水、水と衛生という分野にまでご研究の幅を広げておられる。
これは水が、変幻自在で多様性に富むため、研究分野が多岐にわたるというということもあるだろうが、皇太子様ご自身が寛容で柔軟であり、常に己の進路を求めて止まない「水」と同じ気質を有しておられるからだと思う。

そして、寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる皇太子様の御存在は、混迷の度合いを深める可能性の高い我が国の拠り所となられると信じているし、このような皇太子様を信じていかねば、混迷は更に深まると思っている。

日本のために 皇太子様の益々の御健康と御多幸を心からお祈りしている。

ところで、リグ・ヴェーダの一節は「万物の根源は水」という文言を思い出させるが、暗記することだけに終始していた高校時代は、水だけにタレス、だとか、古代インドの聖典も「リグヴェーダ」と「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」とその名前だけを呪文のように暗記していた。哲学や聖典がうまれた時代背景やその内容の深いところをまったく知ろうとせずに、年代と固有名詞に追いまくられ、今となってはそれが知識の欠片としてすら残っていない自分を反省する時、弱冠12歳・小6で「御堂関白記」(藤原道真)について深い考察を記したレポートを書かれた敬宮様の学習姿勢の素晴らしさに頭が下がる思いがする。歴女である敬宮様は歴史学者である皇太子様と歴史を学ばれることも多いそうだが、それが単に歴史年表の暗記ではなく、時代背景や人物像や権力についての考察にまで及んでいることは、報道されている「御堂関白記」のレポートの一部を見ただけでもよく分かる。更に、そのレポートを作成するため、博物館を訪問したり多くの資料をあたられていることから、学問に対する真面目で真摯な姿勢が拝察されるが、これを日頃の学習を通じて父と娘で共有されていることが尚、素晴らしい。
皇太子様から敬宮様へと受け継がれるものを信じている。

皇太子御一家のお幸せを心からお祈りしている。

皇太子様の御誕生日を心からお祝いしている。

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