NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

深川江戸資料館

2010年07月31日 | エコでボランタリーな江戸の町
私が江戸時代へのタイムスリップを楽しむときは、「江戸生活辞典」「守貞漫稿」「江戸物売図聚」を広げることをブログで紹介しましたが、本の世界で飽き足らなくなると「深川江戸資料館」や「江戸東京博物館」へ足を運びます。

深川江戸資料館はリニューアル工事のため1年間ほど休館していましたが、7月24日に再オープンしたので期待に胸を弾ませながら行ってきました。

深川江戸資料館は都営地下鉄大江戸線の清澄白川駅から徒歩3分、下町の風情が色濃く残る江東区白河1丁目にあります。







常設展示室は、江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現してあり、いつ見ても興味が尽きませんが、館内はとても暗いのです。

これは「情景再現システム」といって、昼夜の明るさ、夕焼けや月、さらには風の音やネコの鳴き声などの要素を駆使して、一日の情景を描き出すための仕掛けのようです。


八百屋「八百新」



「船宿の船頭松次郎」の住まい



水上タクシー「猪牙船」




何か変です。リニューアルオープンなのに展示内容は全く変わっていないのです。受付嬢に聞いたら、「館内の音響や照明などの工事をしていました」。

それで1年間の休館? 資料館と道を隔て営業している「江戸みやげ屋」の親父さんは、客が激減してうつ状態になってしまったというのに・・・ 開館して少しは元気になったようですが、頑張ってくださいね。




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最近の県内経済情勢

2010年07月30日 | 経済情報
財務省関東財務局横浜財務事務所は、7月26日に開催された全国財務局長会議の資料として「最近の県内経済情勢」を取りまとめました。

これによると、「最近の県内の雇用情勢等をみると、個人消費はこのところ持ち直しの動きがみられ、住宅建設は前年を上回っている。また、企業の設備投資は増加見通しとなっている。
こうした需要動向のもと、生産活動は緩やかに持ち直しており、企業収益は増益見通しとなっているものの、企業の景況感は、大企業は『上昇』超幅が縮小、中堅企業は『上昇』超、中小企業は『下降』超幅が拡大している。
また、雇用情勢は厳しい状況にあるものの、緩やかな持ち直しの動きがみられる。
このように県内経済は、雇用情勢等に厳しい状況が残るなか、持ち直しの動きが進展している。」との内容になっています。

また、ヒアリング結果をみると、
・消費者の低価格志向が続いておりチラシの特売品しか購入しない傾向が強く、他店の特売品を購入した後に当店の特売品を買い求めて来店する消費者が増えている。(スーパー)
・エコカー対象者については、販売の好調が持続している。(自動車販売)
・薄型TVの売上高は前年並みであるが、6月に入ってエアコンが好調なことから、売上げ高は前年を上回っている。(家電量販店)
・分譲マンションの需要は二極化しており、好立地の物件か低価格の物件のどちらかである。(建設)
・中国の設備投資関連で急速に需要が拡大し、工作機械向け等を中心に産業製品の好調が続いている。(情報通信機械)

天気図でいうと、「本曇りから曇りへ」という状況のようですが、「くもり一部晴れ」から「晴れ一部くもり」には早くなって欲しいと思います。
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ダックレース情報(その3)

2010年07月29日 | 二宮町商工会の紹介
今日は、午前中にダックレースのコースとなる葛川の清掃を実施する予定でしたが、朝から小雨模様のために中止することとしました。







まだ、そんなに増水している状況ではないのですが、最近は局地的な豪雨で急に増水する事故が発生していますので、安全を最優先しての決定です。

今回のダックレースは、単なるお楽しみだけのイベントではなく、二宮町の中心を流れる葛川に目を向けていただくことが大きな目的です。二宮中学校と二宮西中学校の生徒に呼びかけたところ、22名の生徒が清掃ボランティアとして名乗りを挙げてくれました。

今日は残念ながら中止となりましたが、1週間後の8月5日に再度実施したいと思います。幸い、ほとんどの生徒さんはリベンジ清掃に参加していただけそうです。やっぱり、二宮はすごいですよね。
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高木敏子「ガラスのうさぎ」

2010年07月28日 | 地域情報・まちづくり
昨日と今日は、戦時中の二宮町を舞台にした小説を二冊、私の友人でアナウンサー・朗読研修講師の原良枝さんの著書「彼女の場合 神奈川・文学のヒロイン紀行(かまくら春秋社)」から紹介しています。

「昭和十九年の八月、敏子さんは東京からここ二宮町に疎開してきた。食べ物も『麦ごはんだったが、そのころにはめずらしく、三度三度たべられたし』疎開先の人もよくしてくれ、学校でもみんな仲良くしてくれたという。しかし、翌年三月十日の東京大空襲で母親と二人の妹を、さらに五月には、二宮駅での機銃掃射で父親を失ってしまった。

(中略)

 幾度も難局を乗り越えていく。その都度『一生けんめい生きていかなけらばならない』『わたくしはどんなことがあっても生きなければ、がんばらなければならない』と呪文のようにこのことばを繰り返し、自らを奮い立たせながら健気に生き抜いていくのである。

(中略)

 しかし子供たちは、『ガラスのうさぎ』に限らず戦争に関する本を読むとかわいそうで哀しくて泣けてくるから嫌だという。自分たちと同じような子供が主人公なので、シンパシーを感じやすいのだろう。ページをめくるうちに、戦争という死と隣り合わせの恐怖を追体験しこわくなる悲しくなって、思わず父や母の手を握ってはそのぬくもりに安心する。子供たちにはこの時あふれ出た熱い涙を忘れないで欲しいと願う。」

戦争で家族を失った少女を描いた高木俊子さんのノンフィクションは、実写映画やテレビドラマ、アニメ映画でも知られていますが、昭和56年に永遠の平和を願う人々の浄財によってガラスのうさぎ像が建てられました。二宮町にお越しの折には、ぜひJR二宮駅の南口に回って文化勲章受章者の彫刻家・圓鍔勝三さんにより製作されたこの像をご覧ください。
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山川方夫「夏の葬列」

2010年07月27日 | 地域情報・まちづくり

敗戦記念日が近くなりました。今日と明日は、戦時中の二宮町を舞台にした小説を二冊、私の友人でアナウンサー・朗読研修講師の原良枝さんの著書「彼女の場合 神奈川・文学のヒロイン紀行(かまくら春秋社)」から紹介したいと思います。

 「読み手側からの朗読の魅力として、尽きせぬ感動との出会いがある。その感動と会うために私は今読み手として、先の戦争の作品に、山川方夫の『夏の葬列』を加えている。昭和四十年に、交通事故で三十四歳という若さで夭折した作家・山川方夫が、戦時中、二宮に疎開していた当時のことをモチーフに書かれたものである。

濃緑の葉を重ねた一面のひろい芋畑の向こうに、一列になった小さな人かげが動いていた。線路わきの道に立って、彼は、真白なワンピースを着た同じ疎開児童のヒロ子さんと、ならんでそれを見ていた。 この海岸の小学校(当時は国民学校といったが)では、東京からきた子供は、彼とヒロ子さんの二人きりだった。二年上級の五年生で、勉強もよくできた大柄なヒロ子さんは、いつも彼をかばってくれ、弱虫の彼をはなれなかった。 よく晴れた昼ちかくで、その日も二人きりで海岸であそんできた帰りだった。

二人はここで空襲に遭う。そして彼は、助けようとしてきてくれたヒロ子さんを突き飛ばしてしまった。なぜなら彼女が白いワンピースを着ていたからだ。白は目立つために敵機にみつかりやすい。彼は彼女を目の前から突き飛ばしたのだった。その直後、ヒロ子さんのワンピースは血で真っ赤に染まり、彼女は意識がないほどの重傷を負った。

(中略)

ヒロ子さんの生死を確かめられず懊悩する彼の心情や、失われたヒロ子さんの将来のこと、娘を亡くし娘の人生まで生きた母親の哀しい人生についての思いが、読むたびに膨らんできる。せつなく、つらく哀しい。でもだからこそ私はことばを信じて、朗読する女としてその思いを表現したいのだ。」

私は、この本を読んでいません。子どもの頃から小説はほとんど読みませんし、戦争物にアレルギーがあるためですが、いつかこの本を読める心境になるまで気長に待ちたいと思います。

 

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えっ、彼が消費者庁長官に!

2010年07月26日 | 経済情報
7月15日のブログで、2010年第2回公共経営交流サロンは「『新しい公共』と公共サービス改革」をテーマに福嶋浩彦さんを講師に招いて開催すると紹介しましたが、7月23日の神奈川新聞に「政府は22日、消費者庁長官に前千葉県我孫子市長で中央学院大学教授の福嶋浩彦氏(53)を充てる人事を固めた。」という記事が掲載されているのを読んでひっくり返りました。

神奈川新聞は、「福嶋氏は、政府の行政刷新会議の事業仕分け人も務めた。消費者庁は09年9月に発足。初代長官は政権交代前の同年7月に決まり、麻生政権が内閣事務次官を務めた内田俊一氏を起用した。消費者に身近な地方行政に詳しい福嶋氏を起用することで、前政権との違いを示す。」と解説しています。

福嶋さんは元々は生活協同組合の職員で、市会議員を経て市長になった方です。我孫子市長の時代には、市民参加とパートナーシップの推進、補助金の抜本的な見直しなど、そのラジカルな手法は全国的に注目を集めました。

消費者問題と地方行政に精通しているという点については折紙付ですし、加えて事業仕分け人としても手腕を発揮されましたので消費者庁長官に適任であることは確かですが、身近な方だけに驚きは人一倍です。

これまでに培った経験を生かして、大いに力を発揮していただくことを熱望していますが、これからは気安く「一杯やりましょう!」なんて言えなくなるのかなあ。
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甘露忌

2010年07月25日 | 日記
今日は、神奈川県生まれの俳人、秋元不死男の忌日で甘露忌と呼ばれています。

不死男は昭和16年2月、新興俳句事件に連座して、丸2か年を芝高輪警察署・東京拘留所で過ごしました。特高警察は、旧左翼が壊滅してしまって取り締まるべき対象がなくなると、理由のないところに事件を捏造しましたが、新興俳人の多くがその犠牲者となりました。

独房に釦おとして秋終わる
胸寒く見下ろす獄衣袂なし
借りて読む獄書のくさき十二月
獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

大量の拘引者を出した新興俳人の中で、獄中吟を残しているのは不死男だけです。しかも、彼の獄中吟は心理的な暗さはなく、むしろ楽天的な感じさえします。

晩年は擬声語を巧みに使ったことでも知られていますが、その自由奔放な句風は、とても真似が出来ません。

鳥わたるこきこきこきと罐切れば
ライターの火がポポポポと滝涸るる
へろへろとワンタンすするクリスマス
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ふれあい広場を開催!

2010年07月24日 | 二宮町商工会の紹介
今日は、二宮町商工会青年部主催の第28回ふれいあい広場を大盛況のうちに開催しました。





二宮町では光化学スモッグ注意報が発令されるほどの猛暑でしたが、本部救護班に来られる方は一人もなく、来場された皆さんには夏の一日を十分に楽しんでいただきました。




大歓声の中のシンケンジャーショー



ここのカブトは電池を入れなくても動きます。



夏の風物詩「金魚すくい」



盲導犬のデモンストレーション「肉球が熱くてゴメンナサイ!」



今日の山口くん



ふたり


お陰様でダック里親券は完売しました。


皆さん、暑い夏の一日をお疲れ様でした。
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今日の山口くん

2010年07月23日 | 地域情報・まちづくり
二宮町出身アーチストの第3弾は、「今日の山口くん」です。

なんか変てこりんなステージネームですが、なぜこんな名前になったのか?
以下は、彼のHPから抜粋です。

「mixiというサイトに、プロミュージシャン『伊太地山伝兵衛』さんのコミュニティーがあり、一度伝兵衛さんの九州ツアーにOA(前座)として参加したところ、気付いたら伝兵衛さんのコミュニティーのトピックに、《今日の山口くん》というトピックが出来ていて、誰かがオレを写メで撮っては投稿し、皆がオレの写メを見ては笑う…。そんなトピックのおかげで、気付けばオレのSTAGE NAMEが決まっていた。」

そうですか、伊太地山伝兵衛さんとのご縁ですか。
イタチヤマ・デンベイという名前も、ちと変わってますよね。

私の友人に伊太地山伝兵衛さんの大ファンがいるのですが、娘の6歳の誕生祝いに彼のプライベートコンサートをプレゼントしました。

これだけで十分に驚きなんですが、なぜか「村上“ポンタ”秀一」さんがバックでドラムを叩いてくれたのには、さすがの私もひっくり返りました! 6歳の娘の誕生パーティーにあのポンタさんがですよ! 考えられません。

「今日の山口くん」から話題がそれてしまいましたが、彼は二宮町商工会が主催する「第28回ふれあい広場」のステージで、午前11時15分から出演しますので、ぜひ聞きに来てください。
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デュオ・ボーカルグループ「ふたり」

2010年07月22日 | 地域情報・まちづくり
昨日に続いて、二宮町出身のアーチストの二番目は、デュオ・ボーカルグループ「ふたり」です。

中学時代から活動をしてきた小沼卓郎さんと石崎紀彦さんが「ふたり」を結成したのは、2005年8月です。以来、ワンマンライブを何回か開催、2009年には待望のCDデビューを果たしました。





二宮が好きで、もっと多くの人に二宮町を知ってもらえるようにと曲名も歌詞も二宮町にこだわっているという「ふたり」は、二宮町観光協会から観光親善大使にも任命されています。

二宮町青年部が、7月 24日(土)に二宮町生涯学習センター・ラディアンで開催する「第28回ふれあい広場」では、午後3時15分からライブステージに出演しますので、爽やかな生「ふたり」に会いにきてください。


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SCOOBIE DO /スクービードゥー

2010年07月21日 | 地域情報・まちづくり
今日から3回シリーズで、二宮町出身のアーチストを紹介したいと思います。

トップバッターは、SCOOBIE DO /スクービードゥーです。
4人組みのファンクバンドですが、ボーカルのコヤマシュウさんが二宮町出身なんで、ブログでも何度か二宮町のことを話題にしています。

'95年の夏に結成。当初は'60年代の黒人R&Bのカバーを中心に活動していたようですが、最近はROCK、FUNK、HIP HOPと幅を広げた音楽活動を行っています。


最新アルバムの「何度も恋をする」が7月7日にリリースされましたが、なかなか熱い演奏です。公式HPでも楽しむことができますので、試しにどうぞ。




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ダックレース情報(その2)

2010年07月20日 | 二宮町商工会の紹介
二宮町商工会創立50周年記念事業として、8月7日に開催する「愛Love にのみや ダックレース in 葛川」のダック里親券を本日から販売開始しました。







初めての事業ですが、心配した混乱もなく「夢があって良い企画ですね」などと励ましのお言葉をいただきながら販売も順調です。

販売総数は1100羽分ですが、今日は午後5時で600羽ほど売れていますので、明日には完売するものと思われます。購入希望の方は、お早めにお越しください。
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江戸時代と米(その3)

2010年07月19日 | エコでボランタリーな江戸の町
幕府米、藩米など、江戸に流通する様々な米のうち、旗本や御家人からの蔵米を扱ったのが札差です。

「蔵前の札差というのは、幕府の士どもで俸禄を御蔵からいただく者がある。それらの人々のために御蔵米を受取って、入用だけを渡し、不要な分を売るのが札差の仕事なのですが、その際に何々様と書いた札を俵に刺して区別しておく、そこから札差の称が起こったのだと言います。一口に申せば御蔵米受取代理人であります。一石について何程という手数料を取るわけですが、それは瑣細なものに過ぎません。(三田村鳶魚 江戸生活辞典)」

本来、札差の収入は僅かな手数料ですが、御蔵米を抵当にした武士相手の貸金業に手を広げることにより巨富をため込んでいきました。

しかし、幕府は寛政の改革・天保の改革では、借金を棒引きにする棄捐令を出しましたので、米を担保に資金を融通していた札差の多くが廃業に追い込まれました。

いつの世にも、汗を流さずに金を儲け過ぎると、予期しない反動があるのですね。
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江戸時代と米(その2)

2010年07月18日 | エコでボランタリーな江戸の町
100万都市である江戸には、全国から約100万石もの米が天領や諸藩から送られてきました。

その大量の米は、浅草、深川、本所、芝、日本橋の河岸沿いに立ち並ぶ米蔵に納められていました。その界隈は蔵前と呼ばれましたが、この地名は現在も浅草に残っています。

幕府や各藩は家臣たちに給料として俸禄米を与え、残った分は米問屋に売って収入としていましたので、江戸には大量の米が流通していたと考えられます。

江戸時代の絵師で戯作者の山東京伝は、江戸っ子を「金の魚虎をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、御膝元に生れ出ては、拝搗(おがみつき)の米を喰て、乳母日傘に長・・・」と表現しています。

拝搗の米とは精米のことで、江戸には臼と杵を携えて町中をまわり、玄米を精米して生計を立てていた大道搗という人たちがいました。搗き米屋が表れたのは、承応・明暦期(1652~57年)以降といいますから、それまでは玄米を食べていたと思われます。

これが仇となり、「江戸わずらい」という病気が流行しました。これは今でいう脚気で、ビタミンB1の欠乏症です。玄米には十分なビタミンB1が含まれていますので、玄米を食べている頃には起きなかった病気です。

江戸詰の武士や地方からやってきた商人などにかかった者が多かったようで、故郷に帰ると自然に治ってしまうために、江戸の奇病として恐れられていました。

江戸わずらいという病気があったほどですから、江戸では大量の白米が食べられていたことは疑いのない事実だということが分かりますね。
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江戸時代と米(その1)

2010年07月17日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸時代、日本の人口はどの位だったかご存じでしょうか。

享保6年(1721年)に初めて全国規模の人口調査が行われましたが、その時の町方の人口は約2600万人です。これに武士や公家、僧侶などの人口が約500万人いたと考えられていますので、江戸中期の日本の人口は約3100万人と推定されます。

日本は山の多い島国で平地は国土の30%もありませんから、世界でも有数の人口過密国と言えますが、狭い国土に3100万人もの人間が暮らせたのは、日本人の主食が米で、日本の気候風土が米を作るのに適していたからにほかなりません。

米は経済の基礎であり、諸藩の規模を表すにのにも、武士の収入や資産を表すのにも石高制が使われており、米は貨幣と同じ役割をしていたと言えます。

藤井譲治「近世国別石高変遷表」『日本歴史大辞典』によれば、全国の石高の総量は、1697年には2583万石、1873年には3352万石となっていますので、1人当たりの生産量は平均して1石(150キログラム)ほどになります。

人間は1年間に1石の米を食べていれば生きていけますので、凶作の年を除けば日本人全体が米で生きていける量の生産量はあったと考えられます。

米は輸出されていませんし、捨てられてもいません。また長期保存もできませんので、生産された米は数年以内には消費されていたはずです。

武士だけが庶民の10倍も米を食べていたとは考えられませんので、基本的には日本人全体が米を食べていたと思われます。

私が学生の頃は、江戸時代の農民は自分たちが作った米は年貢によって収奪されてしまい、食うや食わずだったように教えられていましたが、実際はそうではなかったようですね。
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