NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

江戸しぐさの背景

2010年04月30日 | 江戸
昨日のブログで、江戸しぐさとは何かということについて書きましたが、では江戸しぐさは、いつ頃生まれたのでしょうか。江戸しぐさは、口伝であり文献資料がありませんので成立時期は明確ではありませんが、どのような背景から生まれたのかを考えてみると幾つかのヒントが見えてきます。

家康が江戸幕府を樹立してから、家光まで3代がかりで幕府の礎を築き、世界でも有数の大都市となり、元禄年間に経済が急成長するまでの間を幕府確立の時代と位置付けてみます。

そして、元禄バブルがはじけた後、八代吉宗が享保の改革により体制の立て直しをはかってから、寛政の改革を経て、町人文化が発展した文化文政年間までを改革の時代と考えてみると、江戸しぐさは、主としてこの時代に深められたのではないかと思われます。

八代吉宗が享保の改革を推し進めた頃、商人たちも投機的な市場から撤退する中で、武士に武士道があるように商人にも商人道が必要であることを学んだようです。この時代に、豪商といわれた商人たちは、長期的な視点に立ち、地に足をつけた商売を行っていくことが大事であることを家訓という形で後世に伝えています。

例えば、現在の三越・三井グループの前身である三井越後屋の元祖・三井八郎兵衛高利の母・三井殊法(しゅほう)は、「売り手悦び、買いて悦ぶ」という言葉を残していますし、高利も商売記の中で、「商いの道 何にても 新法工夫可到候(しんぽうくふういたすべくそうろう)-商売するのであれば、何においても創意工夫をしなさい。」と記しています。

また、大丸の業祖・下村彦右衛門正啓は、「先義而後利者栄-義を先にして利を後にする者は栄える」という言葉を座右の銘にしていたそうです。

商人たちは、金儲けばかりしていてはいけない、武士や社会との関係をうまくやらなければ商売を繁盛させることができないし、お互いが気持よく楽しくくらすことができないと考えて、江戸講という場に集まり切磋琢磨する中で、次第に繁盛しぐさ、商人しぐさというセンスが養われていったのではないでしょうか。

(To Be Continued)
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江戸しぐさとは

2010年04月29日 | 江戸
今日からゴールデンウィークが始まりましたが、お陰さまで私もカレンダーどおりの毎日を送ることができそうです。ところで、NHKはゴールデンウィークという言葉を使わずに大型連休と言っているのをご存じですか? その理由は、コチラをクリックしてみてください。

このブログでは、今日から5月5日まで「江戸しぐさ」についてご紹介したいと思いますが、初日の今日は江戸しぐさとは何かについてです。

江戸しぐさは、江戸の小商人から身を起こした豪商たちが、武家社会と上手に付き合いながら商売を繁盛させていくための極意であり、日本橋や神田、浅草などといった限られた範囲に密集して暮らしていた町方が、お互いに思いやり助け合いながら気持ち良く楽しく暮らすために築き上げてきた人づき合いのノウハウがベースになっています。

江戸しぐさは、口伝であり文献資料はありませんが、越川禮子さん(NPO法人江戸しぐさ理事長)が江戸講最後の講師である故芝三光先生から利(き)き書きしたものを体系化し、語り部として現代に継承しているものです。

芝先生の本名は小林和男、1922年に東京・芝に生まれました。母方の祖父のもとで育てられましたが、祖父はかろうじて維新後も残った数少ない江戸講の講元で、芝先生は物心つくころは大人たちの間で静かに我慢することを覚え、8,9歳になると講師の口真似をし、10歳ごろにはお説教の内容が少しわかるようになっていたそうです。

戦後は、GHQ(連合国軍総司令部)に、しばらく勤務していていた時期があります。ある時、女性将校に幼いころ祖父から聞いていた「商人しぐさ(繁盛しぐさ)」について、次のように提言したとのことです。

芝: 日本にはGHQが目の仇にする『軍国主義』とは違う、素晴しい伝統がたくさんある。日本を統治するにはそうした口伝えの江戸しぐさを有効活用すべきだ。
将校: 例えばどんなもの?
芝: とっさに「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」を見せた。
(傘かしげは互いに道ですれ違うとき、相手に雨がかからぬよう傘を反対側にそらすしぐさ、肩引きはすれ違うときに肩を後ろに引いて譲り合うしぐさ、こぶし腰浮かせは船の中で譲り合って席を作るしぐさで、パフォーマンスとしては欧米人に分かりやすかったのだと思います。)
将校: グッド!広めてください。

GHQの中で、江戸しぐさは評判になり、帰国したニューヨーカーたちが五番街でおどけて実演すると、早速、通行人たちが面白がってまねをして一世を風靡したとのことです。

芝さんの周りの古老たちは「GHQがよく許可をしたものだ。後で何か揉め事が起こらぬか。」と懸念する一方で、「江戸しぐさは日本の精神文化復興への手がかりになる。」と喜んだと言います。

以後、芝さんは江戸しぐさの研究をライフワークとし、さまざまな情報の発信を始めていますが、その直系の弟子が越川禮子ということになります。

(To Be Continued)

*記述の一部は、越川禮子さんの著書およびNPO法人江戸しぐさのHPを参照させていただきました。
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吾妻山・つつじ情報(その1)

2010年04月28日 | 地域情報・まちづくり
二宮町の吾妻山の早咲き菜の花は、YAHOOのトップページで写真が紹介されたこともあって、今や全国区になりつつあります。また、菜の花からバトンを受けた桜は、今年は低温の影響でかなり長い間、楽しむことができました。

これで来年までお休み? とんでもない! これからは、つつじ、あじさいが次々に山肌を覆う季節を迎えます。吾妻山には、キリシマツツジ、ドウダンツツジ、ヤマツツジ、オオムラサキなど、何と2万株が咲き誇る「つつじ園」があるのです。









神奈川県内には、葉山町の花の木公園、横須賀市の武山山頂、愛川町のあいかわ公園など自然と調和した景観を見せるつつじの名所がありますが、吾妻山のつつじ園は、それらに勝るとも劣らない姿を見せてくれますので、ゴールデンウィークにはぜひお越しください。
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総会シーズンの真っただ中!

2010年04月27日 | 二宮町商工会の紹介
昨晩は、二宮町商工会の平成22年度第1回目の理事会を開催しました。主な議題としては、5月に予定されている総代会に提出する議案書の承認と会員の加入推進についてですが、お陰様で提案した議題は全て承認されました。この後は、総代会での議決を経て本年度の事業もいよいよ本格的に実施する体制に入ることができます。

この時期は、多くの団体が前年度の事業報告や決算、新年度の事業計画や予算を決めるために役員会や総会を開催しますが、複数の団体に関わっていると会議に出席する回数はとても多くなります。

事務局長の私でさえ、商工会の理事会と総代会、青年部や女性部、各部会や委員会のほかにも、地域の商店会や法人会、青色申告会など両手の指では足りないほどですので、商工会の役員の方となると推して知るべしです。

皆さん、それぞれに本業に関係する諸団体に加えて、行政や福祉団体の委員会、ロータリークラブやライオンズクラブ、町内会や自治会など様々な組織に関わっていますので手帳は真っ黒です。
 
世の中が上手く回っているのは、こうした皆さんのボランタリーな活動に支えられているお陰であると考えますので、改めてそのことに感謝をしながら日々の仕事に向かいたいと思います。
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洪福寺松原商店街

2010年04月26日 | 経済情報
昨日は、久しぶりに横浜の洪福寺松原商店街に行ってきました。以前、相鉄線沿線に住んでいたことがありますのでこの商店街には度々買物に来ていますが、今回ほど驚いたことはありません。





先ず、その人出の多さです。横浜のアメ横と紹介されることがありますが、歳末大売出し以外でこんなに混雑をしているのには初めて遭遇しました。魚の安売りで有名な魚幸水産が新店舗に移動したばかりということもあるのでしょうが、1店舗だけの影響とは思えない盛況ぶりです。







もう一つは、横浜では3月から4月にかけて主要駅に相次いで大型の商業施設がオープンしているのに、松原商店街にはそんな影響が感じられないことです。大抵の商店街はその衰退の原因を大店舗法の改正で郊外型のショッピングセンターに客が流れていると訴えますが、この商店街をみていると原因はそれだけではないことがよく分かります。

この商店街には客を魅了する要因が、4つほどあるように思われます。
一つ目は、やはり商品の安さです。洪福寺松原商店街は、昭和27年に生鮮食品店を中心としてスタートした「松原安売り商店会」が始まりですが、この商店街には創設以来、“良いものを安く売る店の集まりになろう”という共通理念があるそうです。確かに、どのお店からも売値について精一杯の努力をしていることが伝わります。

二つ目は、賑わいの演出です。この商店会は創立の4年後から歩行者天国を実施しているとのことで、どの店も道路まで一杯に商品をひろげていますが、それが賑やかさと懐かしい雰囲気を醸し出しています。







三つ目は、生鮮食品を扱う店が多いことです。今は、どこの駅前も見慣れた居酒屋チェーンやコンビニ、携帯電話のショップが並んでいますが、その街らしい顔を見ることができないのは残念でなりません。洪福寺松原商店街は生鮮食品店を中心としてスタートしていますが、今でもこの商店街に一番多い業種は八百屋、肉屋、魚屋です。それが買物の頻度を増やす大きな要因になっていると思われます。

以上の3点に加えて、商店街として消費者との距離を近づけるアイデアを常に考えていることだと思います。必ずしも大きな費用を使ってのPRではありませんが、親近感が増すようなイベントを企画しているのです。





二宮町の商店会でも、アーケードの新設でもカラー舗装でもなく、それぞれの個店の魅力が商店街全体の魅力となって消費者を惹きつけている洪福寺松原商店街から学ぶことが多いと思われます。
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三田村鳶魚(えんぎょ)  江戸生活辞典

2010年04月25日 | エコでボランタリーな江戸の町
4月17日のブログで、私が江戸の風俗や事物を知りたいときには、「守貞謾稿(筆者は喜田川守貞)」を広げていると申し上げましたが、今日は、諸制度や用語の意味などを調べるときに参考としている「三田村鳶魚 江戸生活辞典(稲垣史生編 青蛙房刊 昭和38年)」について紹介したいと思います。





三田村鳶魚翁は、明治三年(1870)、八王子同心の子として生まれ、昭和二十七年に八十二歳で亡くなった江戸の研究家で、江戸の政治、風俗、文学、文化などを広範囲に研究し、膨大な業績を残しています。鳶魚翁の著作集としては、中央公論から「三田村鳶魚全集」が出ています。

江戸生活辞典は、稲垣史生氏が鳶魚翁の江戸に関する随筆・評論・論講のすべてを、項目別に配分し、体系づけ、事典形式に編纂したものです。鳶魚翁の多様式な著述を集めているために、内容には相当むらがありますので、稲垣氏が補足記事と他書の引用で補っています。最近、江戸時代に関する本などで読むと、諸制度や用語の意味などについての出典を鳶魚翁の著書としているものが少なくありません。











鳶魚翁は、吉川英治や大佛次郎、島崎藤村などの時代物の作品について、時代考証がなっていないと批判しているようですが、自身の記述も根拠を示していない場合が多く、読み物の形をとっていますので、一次史料を重視する研究者の中には鳶魚翁批判する意見も少なくありません。

また、鳶魚翁は八王子同心の子であったことが影響しているのでしょうか、町方については蔑視というか、上から目線での記述もありますので、すべてを鵜呑みにすることはできません。

しかしながら、今日の江戸学研究の基礎を築いた一人であることは紛れもない事実であることを考えると、稲垣氏が補足記事と他書の引用で補っている江戸生活辞典は、江戸時代の全体像を知るうえでは大変使い勝手のよい本だと思います。

世の中のことは、すべて一面的にとらえるのではなく、常に多面的にみるように習慣づけておく必要があるのでしょうね。
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足袋型ソックス

2010年04月24日 | 日記
私は家では、カミさんが端切れで編んだぞうりを使っています。なかなか履き心地がよいと思っていたんですが、どうやら、自動掃除ロボット「ルンバ」の代わりに使われているようなんです。





このぞうりを履いて家の中を歩いていると、「奥様、あなたは亭主にぞうりを履かせるだけ、亭主は、あなたの代わりに自動でお部屋をキレイにしてくれる掃除機です。」という声が聞こえてくるのです。

ぞうりには鼻緒があって、普通のソックスでは上手く履けません。5本指ソックスは、履くのに手間がかかるのでどうしたら良いかと思っていたら、足袋型ソックスなるものがあることを知りました。

100円ショップやスーパーマーケットで探してみたのですが、黒や紺系統ばかりです。これでは、ワンコの抜け毛が目立つのでよろしくありません。

いやー、神田明神の売店でついに見つけました、理想的な足袋型ソックスを! しかも、純和風の絵入りです。





買ってきたのですが、あまりに美しいので未だに履けません。ナニコレ珍百品に登録して、永久保存版にしたいと思います。
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二宮町の由来(その2)

2010年04月23日 | 地域情報・まちづくり
昨日のブログでは、二宮町の町名は二宮尊徳に由来したものではないことを説明しましたが、では二宮町の町名は何に由来しているのでしょうか? それは、遥か昔にさかのぼる必要があるようです。

平安時代の律・令・格の施行細則を集成した「延喜式」という法典の中に全国の著名な神社を収録した神名帳というものがあって、相模国の神社としては、①足柄上郡寒田神社 ②余綾郡川匂神社 ③大住郡前鳥神社 ④同郡高部屋神社 ⑤同郡比々多神社 ⑥同郡阿夫利神社 ⑦愛甲郡小野神社 ⑧高座郡大庭神社 ⑨同郡深見神社 ⑩同郡宇都母知神社 ⑪同郡寒川神社(名神大社) ⑫同郡有鹿神社 ⑬同郡岩楯尾神社の十三社が記載されています。

やがて、首位にある寒川神社を一宮とし、以下、川匂神社を二宮、比々多神社を三宮、前鳥神社を四宮と順付けするようになり、川匂神社が所在する地域を二宮と称するようになったと思われます。

昭和の時代になって、この地域に町制を施行する際に、町名については「二宮町」と「吾妻町」の2案があり町を二分する争いになりましたが、既に東海道線の二宮駅が開設されていたこと、商工業者の9割以上は二宮地区にあり神奈川県二宮や相州二宮の名をもって取引宣伝していたことなどから、昭和10年に二宮町という町名で新しい町が誕生しました。

平成の市町村合併に際しても、新市の名称については各地で争いがあったようですから、今も昔も郷土を愛する気持ちは変わらないということですね。

*記述の一部は、二宮町編集発行の二宮町史を参考とさせていただきました。
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二宮町の由来(その1)

2010年04月22日 | 地域情報・まちづくり
今年の2月、東京ビッグサイトで開催された第7回グルメ&ダイニングショーに二宮ブランドの試作品を出展した際には大勢の方にお越しいただきましたが、何人かの方から「ああ、二宮尊徳が生まれた町ね。」とか、「二宮町って、栃木県ですよね。」といわれたことが気になっていました。

結論から申し上げると、二宮尊徳(幼名:金次郎)は小田原市の生まれですから二宮町ゆかりの人ではありませんので、町名の由来とはなっていません。また、栃木県には二宮尊徳が町名の由来となった二宮町がありましたが、平成20年8月に真岡市に編入合併しています。

私は小田原市に生まれ育ちましたので、小学校では二宮金次郎の銅像の前で「柴刈り縄ない草鞋をつくり 親の手を助け弟を世話し 兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎」と声を張り上げて唱歌を歌い、中学校と高校へは二宮尊徳翁を御祭神とする報徳二宮神社の脇を通学していましたので、二宮尊徳には親しみがあります。二宮尊徳の名前は知っていても、どのような人だったかを知る方は以外に少ないと思いますので、以下に概略をご紹介します。

二宮金治郎は、天明7年(1787)に相模国栢山村(現在の小田原市栢山)の農家に生まれました。近くを流れる酒匂川の再三の氾濫で家は没落し、両親の死後は兄弟ばらばらに親戚の家に預けられました。大変苦しい生活の中でも学問を学び、文化8年(1811)からは小田原藩の家老をつとめる服部家に住み込みながら、財産を増やして一家の立て直しを行っています。その過程で、薪を背負って学問したこと、本を読むための明かりとりの油を菜種を栽培して収穫したこと、川の氾濫を防ぐために堤防に松を植えたことなどが逸話として残されています。

金次郎が32歳のときに服部家から財政の立て直しの依頼があり、それを引き受けたことが金次郎活躍のはじまりです。金次郎の才能は小田原藩主大久保忠真に認められ、藩主の分家であった宇津家の下野国桜町領(栃木県の旧二宮町周辺)の立て直しを命ぜられ、文政6年(1823)に桜町に赴任しています。桜町では、農民の表彰、排水技術の伝授と開墾などに取り組みましたが、数々の障害を受けて苦しい日々が続き、文政12年に行方不明になりました。成田山にこもって断食修行などをしていたようですが、3ケ月後に戻ったときには桜町の様子も変わり、その後は領民の協力を得て領内の立て直しを行っています。

天保8年(1837)に桜町から小田原に戻った金次郎は、天保の飢饉でも手腕を発揮し、小田原領内では一人の餓死者も出さずに、4万人あまりが救われています。なお、金次郎が尊徳(ただのり)を名乗るようになったのは、天保13年56歳のとき幕府の役人にとりたてられてからです。

尊徳が各地を立て直した方法を尊徳仕法といいますが、尊徳はどの土地にもあてはまる雛形づくりに力を入れました。現代風に言えば、地域経営の立て直しと地域振興をはかるマニュアル本ですが、この書は仕法の手本として後世に伝えられています。

尊徳は晩年になっても烏山藩仕法、相馬藩仕法、東郷村をはじめとする14か村の天領仕法、日光仕法などに力を注ぎましたが、安政3年(1856)に現在の栃木県日光市今市で亡くなっています。

少し長くなりましましたので、我が二宮町の町名の由来は明日のブログでご紹介したいと思います。


(記述の一部は、小田原市ホ-ムページの「二宮金次郎物語」を参考とさせていただきました。)
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ペッタンコちゃん

2010年04月21日 | 二宮町商工会の紹介
二宮町商工会の私のデスクに、変なヤツが張り付いています。





その名は、「ペッタンコちゃん」。100円ショップをぶらついていたときに見つけて、連れて帰ってきたヤツです。一応は、ヌイグルミのようですが、手足の先にマグネットがついていますので、大抵のオフィス家具には張り付きます。

実用的か否かという点では、まったく意味のない存在ですが、何故か憎めないヤツです。一生懸命にデスクをよじ登っている姿をみると、つい「頑張れ!」と応援したくなります。今朝も、「おっ早うー!」と声を掛けました。





世の中に存在するもの全てには、何らかの存在理由があるのでしょうね。
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クマカロン 横浜に進出!

2010年04月20日 | 地域情報・まちづくり
今日は、神奈川県商工会連合会と神奈川産業振興センターに用事があり横浜に行ってきましたが、その帰りに、そごう横浜店で開かれている第3回横浜・神奈川グルメフェスティバルの会場をのぞいてきました。





お目当ては、横浜でお披露目することになった「クマカロン」の様子を見ることです。クマカロンは、3月12日のブログで紹介しましたが、二宮町にある洋菓子屋のサン・マローさんが今年の1月に商品化した、くまの顔をかたどったマカロンです。横浜ウォーカーの2月16日発売号で紹介されてからブレイクしたもので、ブログやツイッターでは「スペシャルキュート」「ヤバーイ!キャワイイ!」など大騒ぎです。

サン・マローさんは、地元の二宮町を大切にしている小さなお店で生産量は限られていますので外に出るのは大変だと思うのですが、今回のグルメフェスティバルは横浜ウォーカーとのタイアップということもあって、初の横浜進出になったようです。

横浜は元々商業施設の激戦区なのですが、3月に横浜駅西口に「横浜ベイクォーターアネックス」、桜木町駅に「コレットマーレ」、4月になってから戸塚駅西口に「トツカーナモール」、京浜急行上大岡駅に「mioka:ミオカ」が相次いでオープンしています。

そうした影響もあるのでしょうか、そごう横浜店は平日の昼間とあって客足は多くありませんが、8階の催会場だけは別世界のように混雑していました。うーん、企画展は大事なんですね。今回は、横浜ウォーカーで紹介された神奈川県のこだわりの66店が集結です。




これだけ出店者が多いと、クマカロンを見つけるのも大変。ようやく見つけました、よかった!




第3回横浜・神奈川グルメフェスティバルは、今日から4月27日(火)まで開催しています。二宮町まで足を運ぶ機会がない方は、ぜひ横浜でクマカロンに会ってみてください。
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横浜公園のチーリップまつり

2010年04月19日 | 地域情報・まちづくり
昨日は、横浜公園のチューリップまつりに行ってきました。16万本というチューリップは、さすがに圧巻でした。







その他にも、会場では花と緑の園芸展や園芸用品の即売、ステージイベントなど盛り沢山の催しが行われていました。







花をテーマにしたイベントは誰にでも受け入れられますので、まず失敗することはありませんね。二宮町でも、吾妻山に四季折々の花を咲かせて通年で観光客に来ていただこうという企画があり、いま着々と整備が進められています。既に、菜の花と桜は終わりましたが、これからはツツジとアジサイのシーズンが訪れます。

しかし、沢山のお客さんに来ていただくのは有難いのですが、ものには限度がありますよね。昨日は、ベイスターズとタイガースのデーゲームがありましたので、お客さんの数は半端ではありません。人波を見ているだけで酔ってしまいそうでした。






花の会場は適当に切り上げて、日本大通りでひと休みです。



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シュールな絵

2010年04月18日 | 日記
先日、一人暮らしの次男がふらっと晩飯を食べにきましたが、手土産代わりにヒマつぶしに描いたという絵を持ってきました。子どもの時から絵を描くのは好きだったのですが、こんな絵を描いているとは知りませんでした。







シュールというか批評が難しいという顔をしていたら、「リビングに掛けてあるミロのリトグラフだって、僕には分からないよ。」と言われました。そりゃあ、そうだ。絵というものは、理解するものではなく、感じるものなんでしょうね。





カミさんは嬉しそうですが、狭い我が家で飾るスペースを見つけるのは大変です。遊び仲間のナメ川コーイチさんの作品を押しのけるほどの代物でもありませんからね。取り敢えず、ナニコレ珍百品には登録しようと思います。




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守貞謾稿(もりさだまんこう)

2010年04月17日 | エコでボランタリーな江戸の町
私はあまり歴史が好きなほうではありませんが、このブログでは「エコでボランタリーな江戸の町」と「江戸しぐさ」いう二つのカテゴリーで江戸時代のことを紹介しようとしています。それは、現代の社会にとって最重要課題である環境問題や市民による自治、全うな商いについて考えるうえでは、江戸時代に生きた先人の智慧から学ぶべき点が多々あると思っているからに他なりません。

最近は、江戸時代に関する本を読む機会が多くなりましたが、何度開いても飽きることなく、その度に新しい発見がある本といえば「守貞謾稿」の右に出るものはありませんね。

作者の喜田川守貞は文化7年(1810)、大阪で生まれました。商用で江戸に出ることが多い守貞にとって、江戸で見るもの聞くもの全てが珍しく、大阪の風俗との違いに驚かされ、それを後世に伝えようと決心し、天保8年(1837)に筆を起してから30年間かけて守貞謾稿を書き上げました。

自身で見聞した幕末の江戸風俗を広く集めて分類し、約700項目にのぼる名前や事象を時勢・家宅・生業・雑業・貨幣・男服・女服・娼家・音曲・遊戯・食類などに分類し、詳細に考証・解説していますが、おそらく浮世絵を学んでいたと思われる守貞は多くの挿図を付していますので、通俗的な百科事典として非常に利用価値の高い資料になっています。

守貞の自筆稿本31冊は、現座、国立国会図書館に収蔵されていますので、簡単に手にとって読むことができるものとしては、岩波文庫の「近世風俗志 全5冊」(宇佐美英機 校訂)があります。しかし、私がもっぱら愛用しているのは、「守貞謾稿図版集成」(高橋雅夫編著 雄山閣)です。この本は、国立国会図書館蔵の守貞自筆「守貞謾稿」全31冊の図版1800点すべてと、その解説を中心に編集されていますので、古文書に不慣れな素人にとっては大変ありがたい一冊となっています。













今日も、この本を広げながら江戸の町へのタイムスリップを楽しんでいるところです。
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アクリルタワシ

2010年04月16日 | 二宮町商工会の紹介
我が家のキッチンではアクリルタワシが活躍していますが、これは二宮町商工会女性部の方が作って、昨年の商工まつりで販売したものです。





洗剤を使わないで済むという触れ込みですが、何故なのでしょうか。ネットで調べてみると、日本ヴォーグ社をはじめアクリルタワシを扱ったサイトは結構あるんですよね。

ふむふむ、要するにアクリル100%の毛糸でタワシ作ると、細かなアクリル繊維の弾力性と通気性、通水性のおかげで、ミクロレベルの細かい汚れもかき出してくれるのだそうです。

さらにネットを検索すると、アクリルタワシの作り方を教えてくれているサイトが幾つもありました。100円ショップで売られているアクリル100%の毛糸玉一つで、タワシが5個ぐらい作れるとのこと。うちのカミさんもさっそく作りましたが、こんな小さなことからでも洗剤で水を汚さないエコ活動ができるんですよね。




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