旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

坂村真民詩集から

2015-09-05 01:09:29 | 日々雑感
仏教詩人として知られる坂村真民さんの詩は、心に沁みる。

坂村真民:さかむらしんみん(1909年1月6日~2006年12月11日)
     熊本県荒尾市出身。本名は昂(たかし)。

以下は、わが特にお気に入りの坂村真民さんの詩です。


 花

何が
一番いいか
花が一番いい
花のどこがいいか
信じて
咲くのがいい


 タンポポ魂

踏みにじられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする


 今を生きる

咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる


 今

大切なのは
かつてでもなく
これからでもない
一呼吸
一呼吸の
今である


 坐忘

坐して年を忘れよ

坐して金を忘れよ

坐して己を忘れよ

坐して詩を忘れよ

坐して仏を忘れよ

坐して生を忘れよ

坐して死を忘れよ


 雲

一遍さあーん と
呼んだら
おーい
おーい と
きこえてきそうな
雲のゆききの
夕ぐれであった


 生き方

わたしが尊ぶのは
その人の思想ではなく
その人の生き方だ
わたしが木を見て
感動するのも
絶えず天へ向かって
伸びようとしている
あの張りつめた
姿にある
若木は若木なりに
老い木は老い木なりに
己れを己れたらしめようとしている
人間以上のものを
わたしは木々に感じて
その前に立つのである
あの興奮はたまらなくいい


 とげ

刺さっていたのは
虫メガネで見ねば
わからないほどの
とげであった
そのとげを見ながら思った
わたしたちはもっともっと
痛いとげを
人の心に刺し込んだりしては
いないだろうかと
こんな小さいとげでも
夜なかに目を覚ますほど痛いのに
とれないとげのような言葉を
口走ったりはしなかったかと
教師であったわたしは
特にそのことが思われた


 石を見よ

太古から坐り続けている
石を見よ
天地創造の
不思議を知り
人間進歩の
歴史を知り
善も悪も
じっと見つめてきた
石の声を聞け
すべては変転し
流転する中にあって
一処不動
達磨のように
坐り続けている
廓然大悟の
石を見よ


 存在 皿

ざこは
ざこなり
大海を泳ぎ
われは
われなり
大地を歩く


 尊いのは足の裏である
   1
尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である

一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
その努めを果してゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ

   2
頭から
光が出る
まだまだだめ

額から
光が出る
まだまだいかん

足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である


 大事なこと

真の人間になろうとするためには
着ることより
脱ぐことの方が大事だ
知ることより
忘れることの方が大事だ
取得することより
捨離することの方が大事だ


 鈍刀を磨く

鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ


 両手の世界

両手を合わせる
両手で握る
両手で支える
両手で受ける
両手の愛
両手の情
両手合わしたら
喧嘩もできまい
両手に持ったら
壊れもしまい
一切衆生を
両手に抱け


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