旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

貞山堀(運河)の名づけ親・早川智寛と松音寺

2017-04-22 04:32:30 | 水の道逍遥
2017.04.13(木)は、貞山堀(運河)名づけ親の早川智寛翁の顕彰碑を確認するため、墓所のある松音寺(しょうおんじ)に行ってきた。
「サクラで有名なこのお寺さんには、やはりこのタイミングで・・・」と思い定めて実行したというもの。

 <曹洞宗 松音寺>
北山輪王寺、荒町昌傳庵、南鍛冶町泰心院とともに城下曹洞四大寺の一つとして、領内曹洞宗僧録司を拝命。
山門は、仙台藩主忠宗公から拝領の旧若林城門(切妻造医薬門)
住所:仙台市若林区新寺4-6-28 

早川智寛

 天保15年7月24日(1844年9月6日) ~大正7年(1918年)1月22日
 
九州小倉藩士早川慶兵衛の長男として生まれた。長崎へ遊学、数学や外国語を学び、1873年(明治6年)に土木寮の官吏となった。
1878年(明治11年)2月、野蒜築港内務省土木局出張所(宮城県牡鹿郡蛇田村高屋敷)工事主任として赴任。
北上運河の開削、石井閘門の建設に携わるが11月には内務省土木局を辞し、三重県属となる。
1880年(明治13年)、宮城県属となり土木課長に就任し、1881年(明治14年)頃の運河改修を行った。
早川の講話によれば、舟入堀、新堀、木曳堀が仙台藩祖伊達政宗の構想であることを偲び、各堀を総称して政宗の諡にちなみ「貞山堀」と初めて命名したという。
1886年(明治19年)愛媛県書記官。
1887年(明治20年)、官吏の職を離れて、早川組を設立、東北地方や北海道で土木事業を行うなどして財を成した。
1891年(明治24年)、仙台商工会議所の初代会頭に就任。在任中には仙台~山形間の鉄道建設を政府に請願するなど地域開発に尽力した。
1898年(明治31年)、国立銀行から株式会社に転換した七十七銀行(仙台市)の監査役に就任。このときの同銀行の専務取締役は、後の第4代仙台市長となる和達孚嘉(わだちたかよし)だった。

早川は、1903年(明治36年)4月2日~1907年(明治40年)7月1日まで第3代仙台市長を務めた。 
 














※他の画像より大(横800ピクセル)

(山門入り口の道路に面した場所に建っている。)



(墓所:鐘楼門をくぐり道路を横断したところの墓地の正面向かって左側端にある。)



上に掲載した碑文等は、今回確認した内容をできるだけ忠実に整理した。
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