東日本大震災で被災した貞山運河の東側(太平洋側)防潮林の復元に、ガレキなどを活用し、津波対策だけでなく公園等の機能をも併せ持つ丘を作るという構想がある。
この構想が実現された姿を想像してみる上で、「そうか! このようになるのか!!」と思える格好な材料として思い出したのが、植立山(うえたてやま)。それは、石巻市桃生町中津山(合併前で言えば宮城県桃生郡桃生町中津山)にある。



植立山は、(旧)北上川河畔の砂丘に作られた美しい松林の丘だ。延長1200m、面積44,000㎡の松原公園として、昭和47年に完成している。映画『エクレール-お菓子放浪記』では、主人公の少年と旅芸人一座(座長:林隆三)との出合いと別れのシーンを撮影したロケ地としても使われている。
※ その時の様子を紹介しているブログ ⇒ こちら
この砂丘の成立には、元和3年(1617年)から始まった北上川改修工事で堀り上げた土砂を盛ったとする説や、大河川の河床の砂が風によって吹き飛ばされ堆積したという説などもあるようだ(桃生町誌p687)。
これらの説のどちらに立つかはさておき、この砂丘松林の姿の素晴らしさは見る人を魅了してやまない。「美しいものは機能的である」、「機能的であるものは美しい」とは、だいぶ昔に建築かまちづくり関係の本を読んだとき目にした文言だが、この植立山はまさにその具現と言うにふさわしいと私は思っている。
植立山にはかなり詳細な内容の説明板が設置されている。
この原本となっている『中津山村誌』では、次のように記している。
***
植立山
これは登米城主伊達相模守宗直が元名年間に、北上川の大改修をやった頃、柳津から新川を掘って猪岡短台で迫川と合流させたときに掘り上げた砂山で、防砂、防風の為に松の木を植えたてたのでこの名前が出ている。その後享保年中に黒沢要人俊栄がこの地を領する様になって、この植立が疎林であるので充分に防砂防風の目的を達する事が出来ず、この附近一帯が耕地に適さないのを遺憾に思い、更にこの植立に追加密植させたので、追々に砂も風も防げる密林となったのである。そこで黒沢氏はその臣八木半太夫に命じて開墾させ、附近一帯は立派な畑地となったので、この附近一帯を八木囲と称し、今に其地名が残っている。この様にしてこの密林が次第に繁茂して大木となり、北上川の清流に臨んでいるので、所謂白砂青松相映する絶景の地となり、夏は樹蔭に河風を入れて暑さを忘れ、秋は茸に味覚をそそり、冬の雪景色は又得も言われぬ風情があって美しく、この大公園が都会附近にあったならなあと観る人々を嘆息させる絶勝の地である。
出典:中津山村誌(p475~476)

▲法印神楽始祖一族の碑
***
ところで、この植立山公園内ではニホンジカが飼われている。

親しくしていただいた平塚町長(故人)との会話の中で、
このかわいいシカさん達にもっと活躍してもらうことを考えてはどうか。
北上川川べりと鹿舎の間を柵道でつなぎ、散歩するシカで公園や運動施設の利用者を増やすことができないか。
北上川「川の駅」もあり、ボート遊び客も呼び込める。
何といっても、川べりの草地はシカの遊び場兼放牧地にもなる。
そうなれば、いちいちシカに餌をやらなくて済む。
などと言っては、その反応をうかがったりもした。
いまではとても懐かしく思い出される。
※鎮魂の森!? それとも太平洋沿岸に緑のベルト地帯を!? ⇒ こちら
桃生町(ウイキペディア) ⇒ こちら
宮城県観光連盟による植立山公園の紹介サイト ⇒ こちら
この構想が実現された姿を想像してみる上で、「そうか! このようになるのか!!」と思える格好な材料として思い出したのが、植立山(うえたてやま)。それは、石巻市桃生町中津山(合併前で言えば宮城県桃生郡桃生町中津山)にある。



植立山は、(旧)北上川河畔の砂丘に作られた美しい松林の丘だ。延長1200m、面積44,000㎡の松原公園として、昭和47年に完成している。映画『エクレール-お菓子放浪記』では、主人公の少年と旅芸人一座(座長:林隆三)との出合いと別れのシーンを撮影したロケ地としても使われている。
※ その時の様子を紹介しているブログ ⇒ こちら
この砂丘の成立には、元和3年(1617年)から始まった北上川改修工事で堀り上げた土砂を盛ったとする説や、大河川の河床の砂が風によって吹き飛ばされ堆積したという説などもあるようだ(桃生町誌p687)。
これらの説のどちらに立つかはさておき、この砂丘松林の姿の素晴らしさは見る人を魅了してやまない。「美しいものは機能的である」、「機能的であるものは美しい」とは、だいぶ昔に建築かまちづくり関係の本を読んだとき目にした文言だが、この植立山はまさにその具現と言うにふさわしいと私は思っている。
植立山にはかなり詳細な内容の説明板が設置されている。
この原本となっている『中津山村誌』では、次のように記している。
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植立山
これは登米城主伊達相模守宗直が元名年間に、北上川の大改修をやった頃、柳津から新川を掘って猪岡短台で迫川と合流させたときに掘り上げた砂山で、防砂、防風の為に松の木を植えたてたのでこの名前が出ている。その後享保年中に黒沢要人俊栄がこの地を領する様になって、この植立が疎林であるので充分に防砂防風の目的を達する事が出来ず、この附近一帯が耕地に適さないのを遺憾に思い、更にこの植立に追加密植させたので、追々に砂も風も防げる密林となったのである。そこで黒沢氏はその臣八木半太夫に命じて開墾させ、附近一帯は立派な畑地となったので、この附近一帯を八木囲と称し、今に其地名が残っている。この様にしてこの密林が次第に繁茂して大木となり、北上川の清流に臨んでいるので、所謂白砂青松相映する絶景の地となり、夏は樹蔭に河風を入れて暑さを忘れ、秋は茸に味覚をそそり、冬の雪景色は又得も言われぬ風情があって美しく、この大公園が都会附近にあったならなあと観る人々を嘆息させる絶勝の地である。
出典:中津山村誌(p475~476)

▲法印神楽始祖一族の碑
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ところで、この植立山公園内ではニホンジカが飼われている。

親しくしていただいた平塚町長(故人)との会話の中で、
このかわいいシカさん達にもっと活躍してもらうことを考えてはどうか。
北上川川べりと鹿舎の間を柵道でつなぎ、散歩するシカで公園や運動施設の利用者を増やすことができないか。
北上川「川の駅」もあり、ボート遊び客も呼び込める。
何といっても、川べりの草地はシカの遊び場兼放牧地にもなる。
そうなれば、いちいちシカに餌をやらなくて済む。
などと言っては、その反応をうかがったりもした。
いまではとても懐かしく思い出される。
※鎮魂の森!? それとも太平洋沿岸に緑のベルト地帯を!? ⇒ こちら
桃生町(ウイキペディア) ⇒ こちら
宮城県観光連盟による植立山公園の紹介サイト ⇒ こちら
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