地鳴りの墓 (下)
(写真は“日本の山里・全国版”~事件には無関係)
山里の道を遠くから見れば、車が走る車道しか見えない。
~それはコンクリートを使ってできた道で、大昔からの道は山裾にある。
車が走る道沿いに、一列に並んだ山里の家。
が、家の裏側には、
江戸時代以前から踏み分けた “三尺道” が~あらゆる方向に走っている。
“三尺道” とは、
昔々~牛・馬が農作業をした時代。
道幅は三尺(約90㎝)あれば充分だった。
三尺の道は、隣近所から田畑へ~山の尾根へ~…………………………
尾根を越せは、村外へ~どこにでも行ける森林の山道だ。
しかも車社会になってからは、
人々の関心はコンクリート道路しか眼中にない。
だから~三尺道は誰の目にも触れず~どこにでもいける不思議な道だった。
戦争中から戦後のドサクサには “密造した酒・焼酎” を背負い、
取り締まりの眼を逃れ、町まで運んだ。~これが、いい金になった。
“密造” したモノは “無税” だ。~これほど便利な道はない。
“密造酒” と共に、三尺道は踏み固まった。
誰にも見られない、不思議な山里の道を老婆が一人、
鎌(カマ)を持って歩いていた。
鎌は草刈り用のカマだ。~山里では普通の光景。
鎌で畑に生えた草を刈る。その為にイツモ持ち歩く。
一見、働き者の元気な婆さんは、地元では “東京婆さん” と呼ばれていた。
東京から帰って来た婆さん~だから “東京婆さん” だ。
日本の高度成長期~1950年代、60年代の日本は
地方に住む若者の多くは、中学校を卒業したのち
経済的な理由から高校へは進学せずに仕事に就いた。
これら中学校を卒業したばかりの “15歳・16歳” の若者を
工場労働力として青田苅りしていた時代。
地方の一中学校から “10人・20人” と・まとめて就職者を募り、
それを就職列車を仕立てて、都会へ移送した。
これが低賃金で、戦後の日本復興を支えた陰の功労者だった。
雇用主は、重労働や低い生活水準に慣れている
若い未熟練な田舎出身の労働者を
「金の卵」と呼び、好んで雇った。
“東京バーさん” は、10歳で母親に捨てられた。
(父親は、10歳から肺結核の為に入院していて、12歳の時に病死)
昔は子だくさんだ。
最初に生まれた子と、一番下の子は、親子ほどの歳の差があったのは珍しくない。
“東京婆さん” は、末っ子でだった。
兄嫁と母親が不仲の内で “厄介者” の様に育てられ、
兄嫁にいじめられて、本当に辛い思いをした。
ようやく中学校を卒業して、
~「食い減らしのため」就職列車に乗った。ふる里には鉄道が通っていない。
朝早く20㎞以上の道を~乗合バスで~やっとのこと、川を超え
この地域の中心地にあるバスの駅までたどり着く
~そこから、さらに30キロ以上の道をバスに乗り、やっと鉄道の駅に着いた。
SL(蒸気機関車)を見るのも珍しかった時代。
「金のたまご」だと言われて、
修学旅行の延長のような気分で、集団就職列車のSLに乗り、
東京駅に着いたのは、夜遅く~やっとの事だった。
駅の構内では、就職先の人が迎えに来ていて、列車の中で知り合った友も
会社の人に連れられ 5人、10人と少なくなってしまう。
食べ盛りの若僧も、腹を空かしてホームに座り込むようにしていると、
就職先の担当者がプラカードを持って探してくれていた。
これから先が、本当の地獄だった。
“東京婆さん” は、大手繊維系企業の工場に入った。
自動車のブレーキライニングを作っている工場だった、
高さ3~4メートルもある巨大プレス機を年若い女の子が扱った。
工場敷地内に寄宿舎と定時制高校を設置してあり、
募集要項に「高校進学ができます」という文句を歌(うたう)っていた。
で、一日のスケジュールは、寄宿舎で起きると日中は工場で働き、
仕事が終わると、敷地内の夜間高校で勉強というものでした。
もちろん~その頃は、まだ休みは日曜だけだから、
工場敷地から外へ出るのは日曜だけ。
かつて女工哀歌とされた明治・大正時代を彷彿させるような就労環境だった。
いつの時代にも、あることだが
都会の生活や仕事環境に幻滅した。と、いう理由で、故郷へ戻った人もいたが、
実家が貧しいから、すんなり帰れる状態ではなかった。
慣れない生活苦からくる精神的疲労から
17歳の時に顔に白癜(しろなまず)という病気で、
顔や首の皮膚が白くなる不治の病気にかかった。
白癜(しろなまず)とは、
尋常性(じんじょうせい)白斑(はくはん)病の通称名で
白斑病とは、突然皮膚の色が抜け、白い斑点ができるものです。
白斑病は後天的なもの(遺伝的ではない)で、
美容的な皮膚の問題以外に身体への影響はない病気なので、
今なら色んな療法があるだろうが~この当時は、三大難治皮膚病とも言われ
なかなか治りにくい皮膚病だった。
伝染することは無いが、
仲間からは「気持ちが悪い、移されそうで怖い」と言われた。
早く、この場所から逃げたかった。
美形の子は、もっと条件のいい “夜の職” に転向する子が多かったが
~白癜(しろなまず)では無理だ。
汽車に乗るのも初めてだった、田舎の小娘に出来ることは~ただ耐えるしかない。
……~ほかに方法が無かった。
ただ~裸電球の下で~………………耐えた。
年頃になって、体だけが目当だったタチの悪い男に、
オモチャにされた事もあったが、他に行くとこが無い。
たった一つ良かった事は、故郷の兄嫁が病気で亡くなった。
~あと少し働いて、年金が入るようになったら~故郷へ帰ろう。
これだけが生きがいになった。
これが “東京婆さん” の経歴だ。~普通なら、これで終わりだ。
が、生まれ故郷に帰ってみると、
数十年前~中学校当時~学校ではデキが悪かった金持ちの娘が
~そのまま~金とコネで~学校の先生になっていた。
~今や高額の年金生活者となり
人から “先生・先生” と言われながら、村の行事の世話役になっていた。
他にも~もう一人~また、もう一人。
同じ様なアホが、
田舎のコネで、上手に~ノンビリと人生を乗り越え、年金をもらいながら
村の指導者的な役目に座り、なつかしそうに “東京婆さん” に声をかけてきた。
“東京婆さん” は関東の “江戸っ子弁” で
スマートに “粋” な返答をしたが、内に秘めた心は
やっぱり “人生は銭” かとの思いが強烈に湧き上って来た。
“東京婆さん” は、誰にも見られない “三尺道” を歩きだした。
手には “鎌” を持っているが、この付近では草を刈る為に誰でも持っている。
三尺道は~畑へ~隣の集落へ~尾根へ~どこまでも通じている。
竹藪から顔を出し、
畑で熟れているスイカに、鎌で浅い切れ目を入れた。切ると、2~3日で腐りだす。
モモやナシも、同じように浅く切った。
「~どうせ年金暮らしのアホが、暇を持て余して作ったモノじゃ」
なにか~得体のしれない憎しみが沸々と煮えたぎってくる。
“なぜ?” と言われても解らん。ただ~快感を感じる。
************************************
この様な事は、一度も無かったので “ウワサ” が駆け抜けた。
~それと同時に “ウワサ” を話題にする際
本名で “ウワサ” をするのが “マズイ” ので、
“東京婆さん” との名前(隠語)が村内に定着した。
~つまり、この時点で~地元では “有名人”
…………何も知らないのは、警察だけだった。
***********************************************
“快感には限度が無い”
~最近~草を刈るより、薬で枯らす便利な除草剤が出回るようになった。
しかも強烈な薬らしく、隣村の集落では、
夏に噴霧器で、風下から除草剤をまき散らしていた爺さんが
畑で倒れて、病院に運ばれ、10日位で死んだらしい。
………………~病院で死んだら “病死か事故死よ”
~それだけじゃぁ~殺したわけじゃない。
~スイカを鎌で切るのと~同じ様なモンさ。
集落を走るコンクリート製の主幹道路は、一本しかない。
この一本に入る、出入り口の
~山の中腹に “東京婆さん” のあばら家(離れ屋)がある。
道路側に木製枠が少し曲がった、動かない窓がノゾキ穴の様にボツンとあった。
つまり~この集落に出入りする車の全ては、婆さんの家から観察できる。
しかも裏山には“三尺道”が、深い森林の中を静かに流れている。
時間だけは、ウンザリするほどあった。
まだ暗いうちに眼が覚め “また一日が始まった” と、思う。
~この瞬間が一番つらい。
窓の “ノゾキ穴” から見ると
~誰の車が~どちら側へ走ったか~手に取るようにわかった。
この村では、人の職業や趣味趣向まで、わかっている。
そこまで解れば、誰の家が留守か~車が無かったら~留守だ。
村の中じゃぁ~バスも走ってない。
車かオートバイが無かったら、買い物にもいけん。
足が無いのと同じじゃ~足をみりゃぁ~留守かどうか解る。聞くまでも無い。
“東京婆さん” は、無言で動けた。
………………~今日は、あの家が留守だ。
~“三尺道” からユックリ流れ出た。
まるでイカダに乗っている様に~音も無く歩いていく。
手には、いつもの鎌を握っているが
モンペ(ズボン型の野良着)のポケットには、除草剤が入っていた。
鍵をかけてない留守宅の裏手は、ハンで押したように山があり、三尺道が通っている。
三尺道から台所に入るのは、婆さんの “あばら家” に入るより簡単だ。
台所に必ずあるものは、醤油だ。ショウユが無い日本の家はない~ココは村だ。
~必ずある。しかも一升瓶で。
一升瓶の中には、7分目~8分目位の醤油が入っている。
これに除草剤を半分ぐらい入れたら~ずいぶん薄くなるから~すぐに死ぬ事はあるまい。
醤油は毎日使うものだから、徐々に少量の薬が入る。
…………死ぬことはない。病院へ行くだけだ。~たいした事じゃぁ~ない。
…………緊張感の中で~最高の快感を感じながら、2度3度と繰り返した。
やがて吉報が届いた。二人入院・一人通院。(その後~全員病死)
(たぶん~それ以上?)
……病院へ行くんなら病気だろう~“病は気から” と言うだろうょ~病気だよ。
が、一つ気になる事がある。
“三尺道” を動いているとき、
何度か知り合い(御近所)の山師(木の伐採・運搬・販売等)に会った。
~ちょうど、その付近で仕事をしていた。(複数の作業員・遠目の山師の目撃者)
何回目か近くで顔を合わせた際、山師が “歩いているだけ” の婆さんを見て
「散歩かい?…………」と声をかけた
…“この村で、鎌を持って散歩なんかするか” ボケェ~
この一言が気になった。
…“もう一人だけ、病人を増やすか”
ヨケイナ事を言った山師は “病院へ行ってもらう”
~たいした事じゃない~病人が一人増えて~病院がもうかるだけだ。
“東京婆さん” には、
除草剤を配達する “この作業” が “ベテラン” の域に達していた。
……~たいした事じゃぁ~ない。
いつものように “三尺道” を流れ~知り合いの山師宅へ~
台所の醤油を取り出してみると、
一升瓶の半分以上使っていたが、いつものように除草剤を入れた。
2~3日は、何も起きなかったが
山師宅では、年に数回は御馳走(すき焼き)を食べる習慣がある。
昔~牛肉は、高価なゼイタク品だった。
~ステーキなんて、家庭では見たことが無い。
映画の中で “アメリカ人だけ” が食える肉だ。
……~“すき焼き” 以上の料理は、日本には絶対ない。
~ステーキは非国民の喰い物だ。
…………あんなモン喰っているから~アメリカ人は、ハゲが多い。
…~ホントかナぁ~…と、思いながら~土佐の田舎で育った。
山師の食欲は絶大なもんだ。
空気がキレイな山奥の山村で、一日中重労働する山師は、
俗に言う “山師の一升メシ”
飯を一升食う “一升飯” と言われていた。
酒もメシも、一人で “一升” たいらげる。
と、例えられる大飯ぐらいが多かった。
それが~久々ぶりにスキヤキで晩飯となった。
焦げ付かないように、たっぷり汁を入れ
野菜や肉と一緒にウドンを入れて堪能するまで食った。
汁を多くしたのは目的があった。
ウドンは汁を多く吸うから、初めからダシが出た汁を多めに……………
そして~
~久し振りのスキヤキは、一度で終わるのはモッタイナイ~
この様な場合。
現在の都会の若者には、理解できないだろうが。
~翌日アマリを食った。
つまり、
その時食べたスキヤキの鍋を、その日に洗って仕舞うのがホントだろうが
……………………~それじゃぁ~そこでスキヤキが終わる。
だから~洗わずに、そのまま残して翌朝~再挑戦する。
これで~二度・すき焼きが食える。
………美味しく食べる・とか
~上品に食べる・とか
~そんなモン、土佐の田舎にはなかった。
徹底的に食う。
山師はスキヤキを残して、翌日の弁当に詰め込んだ。
山師の弁当カン~
この当時は、大きく・ひろい~金属製の箱。(弁当カンのカンは、缶の意味)
重箱よりは小さいが、
メシとオカズ(スキヤキ)を山モリに入れ、上からスキヤキの “汁” を
タップリかけた “汁カケ飯” の上から、
弁当カンのフタを~ギュウ~と押し込むと
メシがギュウ~と “圧縮され” 最大限のメシが入る。~容量の倍は入る。
山師は、容量の倍は入った “巨大な弁当カン” を持って山仕事に出かけた。
…………………………“東京婆さん” の思惑で計算した数倍のパラコートを持って
いつものように汗をかき重労働に精出し、
全身の血液へ、内臓から吸収したエキスが廻った午後~山師は倒れた。
…………………そのまま病院へ運ばれたのだから病気だろうが、早すぎた。
山師の食欲は “東京婆さん” の思惑の数倍。
たぶん~除草剤の濃度もイツモより濃いかった。
“病気になった者” の原因と結果を、最も詳しく理解している婆さんは
やがて~………~警察の足音がする~足音がする~足音がする~~~~~~
と、独り語を~繰り返し~繰り返し~繰り返し~~~~~~~~~~~~……………………
…………不眠症とノイローゼ的な症状で、
自宅付近の草むらに~隠れた警察官を探す様に
…………家の周りを徘徊する様になった。
徘徊したから~見た人がいたのだろう~その後、即・精神病院に入院した。
田舎では、特に山村では
………………………~これは、非常に悪い言い方だが
よほど悪くならないと、この種の病院へ “入院” させない。
一族の者から “病” が出れば、村内の全てに知れ渡る~ウワサが走りだす。
~だから自宅監禁された気の毒な事例がある。
虫歯と精神病は、早く病院へ行くほど治りが早いものだが、
僻地では~そうはいかない。
が、“東京婆さん” は、ノイローゼ程度・不眠症程度で早々と入院した。
……つまり~と、思う。
周辺の身近な人達は、充分な認識があったのだろう。
“知っていた” とは言わない。
“充分な認識” が有った。
~だから “隔離” (病院)した。~逃げ込み寺だ。
…………………………~このくらいは、言ってもいいだろう。
しかし、その必要はなかった。
こっけいな “蛇足”~
…………婆さんは、ヘビの絵に足を書いた。
警察は “墓を掘った” ~“腐乱した膨満死体” を解剖した段階で
すでに “収束宣言” の結論を用意していた。
いや逆だ、“結論ありき” で “墓を掘った”
………………“結論の型” を整える為に “墓を掘った”
“墓掘り” は “お絵描き” だ
~自分は自分で守るしかない。
“お絵描き” をしながら上手に “↑上↑” へ ,
…………………………県 警察本部 へ 御報告したんだろう。
~この刑事課長は
……出世街道を驀進(ばくしん)した。
バカな “墓掘り” をしたのは、警察学校を出たばかりの
クソ若造の~新米アホ警官だ。
~オレの事さ、大ボケ野郎だ。
大ボケ野郎のクソ若造は
その後~何とかして~警察をヤメて、足を洗って正業に就こうとした。
一時期、独学で猛勉強して “社会保険労務士” の国家試験を取った。
都会なら~これでヤメだ。
が、不景気が続き~田舎の大企業(土建会社等)が、次々に倒産する中で
子供は進学~就職~女房は病気になって~結局何もできず
また気を取り戻そうと、一頑張りしたところが
またまた~四万十川の辺で、警察によって隠蔽された “警察犯罪”
「銀行員失踪事件」(悪魔と踊ろう)に遭い
ミミズの様に生きていく羽目になって、やっとこさ~定年より4年早く警察をヤメた。
大ボケ野郎の “墓掘り” から34年たって
クソ若造の~新米アホ警官も中高年のクソオヤジになった。
60歳を過ぎ、後どのくらい生きるのか~
ぼんやり、物思いにふけりながら田舎道を歩いている。
遠くで~稲刈りの準備をしている田んぼの中に、
作業の邪魔をしている~無用のカカシが、一本足で笑いながら立っていた。
脳ミソの中まで、ワラでできたカカシは、
使う時も・捨てられる時も~笑えるもんだ。
まるで粗大ゴミの様に~~~
………………最初から~最後まで、笑いながら使われ~
~笑われながら捨てられるピエロを~~~
なにか~自分を見ている様な・親しみと・あわれみを感じた。
34年たった秋
~カカシにひかれて、腐乱死体を掘り出した墓を見たくなった。
~あれから34年
寒村は益々寒村に~すでに限界が過ぎたかのように、だれも歩いてなかった。
動いているのは、風に揺れる竹かススキの穂~村の亡霊か、他には動けない。
あの時の事件関係者は、皆さん全員~亡くなられた月日が流れた。
もし生きておれば、110歳を超えた人もいる。
………………………~それは~ないだろう。
みんな死んで、墓に入っている。
墓の中で何をしているのか、もし世間で話題になる死後の世界があるのなら
この大地を引き裂くか
~せめて、秋風のメロディ~♪で “地鳴り” ぐらい歌ったら~~♪~♪~~~~~♪
少しは、、マシな世の中に成るのかもしれない。
………………カカシは34年前の夢を山里に見た。
(写真は“日本の山里・全国版”~事件には無関係)
山里の道を遠くから見れば、車が走る車道しか見えない。
~それはコンクリートを使ってできた道で、大昔からの道は山裾にある。
車が走る道沿いに、一列に並んだ山里の家。
が、家の裏側には、
江戸時代以前から踏み分けた “三尺道” が~あらゆる方向に走っている。
“三尺道” とは、
昔々~牛・馬が農作業をした時代。
道幅は三尺(約90㎝)あれば充分だった。
三尺の道は、隣近所から田畑へ~山の尾根へ~…………………………
尾根を越せは、村外へ~どこにでも行ける森林の山道だ。
しかも車社会になってからは、
人々の関心はコンクリート道路しか眼中にない。
だから~三尺道は誰の目にも触れず~どこにでもいける不思議な道だった。
戦争中から戦後のドサクサには “密造した酒・焼酎” を背負い、
取り締まりの眼を逃れ、町まで運んだ。~これが、いい金になった。
“密造” したモノは “無税” だ。~これほど便利な道はない。
“密造酒” と共に、三尺道は踏み固まった。
誰にも見られない、不思議な山里の道を老婆が一人、
鎌(カマ)を持って歩いていた。
鎌は草刈り用のカマだ。~山里では普通の光景。
鎌で畑に生えた草を刈る。その為にイツモ持ち歩く。
一見、働き者の元気な婆さんは、地元では “東京婆さん” と呼ばれていた。
東京から帰って来た婆さん~だから “東京婆さん” だ。
日本の高度成長期~1950年代、60年代の日本は
地方に住む若者の多くは、中学校を卒業したのち
経済的な理由から高校へは進学せずに仕事に就いた。
これら中学校を卒業したばかりの “15歳・16歳” の若者を
工場労働力として青田苅りしていた時代。
地方の一中学校から “10人・20人” と・まとめて就職者を募り、
それを就職列車を仕立てて、都会へ移送した。
これが低賃金で、戦後の日本復興を支えた陰の功労者だった。
雇用主は、重労働や低い生活水準に慣れている
若い未熟練な田舎出身の労働者を
「金の卵」と呼び、好んで雇った。
“東京バーさん” は、10歳で母親に捨てられた。
(父親は、10歳から肺結核の為に入院していて、12歳の時に病死)
昔は子だくさんだ。
最初に生まれた子と、一番下の子は、親子ほどの歳の差があったのは珍しくない。
“東京婆さん” は、末っ子でだった。
兄嫁と母親が不仲の内で “厄介者” の様に育てられ、
兄嫁にいじめられて、本当に辛い思いをした。
ようやく中学校を卒業して、
~「食い減らしのため」就職列車に乗った。ふる里には鉄道が通っていない。
朝早く20㎞以上の道を~乗合バスで~やっとのこと、川を超え
この地域の中心地にあるバスの駅までたどり着く
~そこから、さらに30キロ以上の道をバスに乗り、やっと鉄道の駅に着いた。
SL(蒸気機関車)を見るのも珍しかった時代。
「金のたまご」だと言われて、
修学旅行の延長のような気分で、集団就職列車のSLに乗り、
東京駅に着いたのは、夜遅く~やっとの事だった。
駅の構内では、就職先の人が迎えに来ていて、列車の中で知り合った友も
会社の人に連れられ 5人、10人と少なくなってしまう。
食べ盛りの若僧も、腹を空かしてホームに座り込むようにしていると、
就職先の担当者がプラカードを持って探してくれていた。
これから先が、本当の地獄だった。
“東京婆さん” は、大手繊維系企業の工場に入った。
自動車のブレーキライニングを作っている工場だった、
高さ3~4メートルもある巨大プレス機を年若い女の子が扱った。
工場敷地内に寄宿舎と定時制高校を設置してあり、
募集要項に「高校進学ができます」という文句を歌(うたう)っていた。
で、一日のスケジュールは、寄宿舎で起きると日中は工場で働き、
仕事が終わると、敷地内の夜間高校で勉強というものでした。
もちろん~その頃は、まだ休みは日曜だけだから、
工場敷地から外へ出るのは日曜だけ。
かつて女工哀歌とされた明治・大正時代を彷彿させるような就労環境だった。
いつの時代にも、あることだが
都会の生活や仕事環境に幻滅した。と、いう理由で、故郷へ戻った人もいたが、
実家が貧しいから、すんなり帰れる状態ではなかった。
慣れない生活苦からくる精神的疲労から
17歳の時に顔に白癜(しろなまず)という病気で、
顔や首の皮膚が白くなる不治の病気にかかった。
白癜(しろなまず)とは、
尋常性(じんじょうせい)白斑(はくはん)病の通称名で
白斑病とは、突然皮膚の色が抜け、白い斑点ができるものです。
白斑病は後天的なもの(遺伝的ではない)で、
美容的な皮膚の問題以外に身体への影響はない病気なので、
今なら色んな療法があるだろうが~この当時は、三大難治皮膚病とも言われ
なかなか治りにくい皮膚病だった。
伝染することは無いが、
仲間からは「気持ちが悪い、移されそうで怖い」と言われた。
早く、この場所から逃げたかった。
美形の子は、もっと条件のいい “夜の職” に転向する子が多かったが
~白癜(しろなまず)では無理だ。
汽車に乗るのも初めてだった、田舎の小娘に出来ることは~ただ耐えるしかない。
……~ほかに方法が無かった。
ただ~裸電球の下で~………………耐えた。
年頃になって、体だけが目当だったタチの悪い男に、
オモチャにされた事もあったが、他に行くとこが無い。
たった一つ良かった事は、故郷の兄嫁が病気で亡くなった。
~あと少し働いて、年金が入るようになったら~故郷へ帰ろう。
これだけが生きがいになった。
これが “東京婆さん” の経歴だ。~普通なら、これで終わりだ。
が、生まれ故郷に帰ってみると、
数十年前~中学校当時~学校ではデキが悪かった金持ちの娘が
~そのまま~金とコネで~学校の先生になっていた。
~今や高額の年金生活者となり
人から “先生・先生” と言われながら、村の行事の世話役になっていた。
他にも~もう一人~また、もう一人。
同じ様なアホが、
田舎のコネで、上手に~ノンビリと人生を乗り越え、年金をもらいながら
村の指導者的な役目に座り、なつかしそうに “東京婆さん” に声をかけてきた。
“東京婆さん” は関東の “江戸っ子弁” で
スマートに “粋” な返答をしたが、内に秘めた心は
やっぱり “人生は銭” かとの思いが強烈に湧き上って来た。
“東京婆さん” は、誰にも見られない “三尺道” を歩きだした。
手には “鎌” を持っているが、この付近では草を刈る為に誰でも持っている。
三尺道は~畑へ~隣の集落へ~尾根へ~どこまでも通じている。
竹藪から顔を出し、
畑で熟れているスイカに、鎌で浅い切れ目を入れた。切ると、2~3日で腐りだす。
モモやナシも、同じように浅く切った。
「~どうせ年金暮らしのアホが、暇を持て余して作ったモノじゃ」
なにか~得体のしれない憎しみが沸々と煮えたぎってくる。
“なぜ?” と言われても解らん。ただ~快感を感じる。
************************************
この様な事は、一度も無かったので “ウワサ” が駆け抜けた。
~それと同時に “ウワサ” を話題にする際
本名で “ウワサ” をするのが “マズイ” ので、
“東京婆さん” との名前(隠語)が村内に定着した。
~つまり、この時点で~地元では “有名人”
…………何も知らないのは、警察だけだった。
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“快感には限度が無い”
~最近~草を刈るより、薬で枯らす便利な除草剤が出回るようになった。
しかも強烈な薬らしく、隣村の集落では、
夏に噴霧器で、風下から除草剤をまき散らしていた爺さんが
畑で倒れて、病院に運ばれ、10日位で死んだらしい。
………………~病院で死んだら “病死か事故死よ”
~それだけじゃぁ~殺したわけじゃない。
~スイカを鎌で切るのと~同じ様なモンさ。
集落を走るコンクリート製の主幹道路は、一本しかない。
この一本に入る、出入り口の
~山の中腹に “東京婆さん” のあばら家(離れ屋)がある。
道路側に木製枠が少し曲がった、動かない窓がノゾキ穴の様にボツンとあった。
つまり~この集落に出入りする車の全ては、婆さんの家から観察できる。
しかも裏山には“三尺道”が、深い森林の中を静かに流れている。
時間だけは、ウンザリするほどあった。
まだ暗いうちに眼が覚め “また一日が始まった” と、思う。
~この瞬間が一番つらい。
窓の “ノゾキ穴” から見ると
~誰の車が~どちら側へ走ったか~手に取るようにわかった。
この村では、人の職業や趣味趣向まで、わかっている。
そこまで解れば、誰の家が留守か~車が無かったら~留守だ。
村の中じゃぁ~バスも走ってない。
車かオートバイが無かったら、買い物にもいけん。
足が無いのと同じじゃ~足をみりゃぁ~留守かどうか解る。聞くまでも無い。
“東京婆さん” は、無言で動けた。
………………~今日は、あの家が留守だ。
~“三尺道” からユックリ流れ出た。
まるでイカダに乗っている様に~音も無く歩いていく。
手には、いつもの鎌を握っているが
モンペ(ズボン型の野良着)のポケットには、除草剤が入っていた。
鍵をかけてない留守宅の裏手は、ハンで押したように山があり、三尺道が通っている。
三尺道から台所に入るのは、婆さんの “あばら家” に入るより簡単だ。
台所に必ずあるものは、醤油だ。ショウユが無い日本の家はない~ココは村だ。
~必ずある。しかも一升瓶で。
一升瓶の中には、7分目~8分目位の醤油が入っている。
これに除草剤を半分ぐらい入れたら~ずいぶん薄くなるから~すぐに死ぬ事はあるまい。
醤油は毎日使うものだから、徐々に少量の薬が入る。
…………死ぬことはない。病院へ行くだけだ。~たいした事じゃぁ~ない。
…………緊張感の中で~最高の快感を感じながら、2度3度と繰り返した。
やがて吉報が届いた。二人入院・一人通院。(その後~全員病死)
(たぶん~それ以上?)
……病院へ行くんなら病気だろう~“病は気から” と言うだろうょ~病気だよ。
が、一つ気になる事がある。
“三尺道” を動いているとき、
何度か知り合い(御近所)の山師(木の伐採・運搬・販売等)に会った。
~ちょうど、その付近で仕事をしていた。(複数の作業員・遠目の山師の目撃者)
何回目か近くで顔を合わせた際、山師が “歩いているだけ” の婆さんを見て
「散歩かい?…………」と声をかけた
…“この村で、鎌を持って散歩なんかするか” ボケェ~
この一言が気になった。
…“もう一人だけ、病人を増やすか”
ヨケイナ事を言った山師は “病院へ行ってもらう”
~たいした事じゃない~病人が一人増えて~病院がもうかるだけだ。
“東京婆さん” には、
除草剤を配達する “この作業” が “ベテラン” の域に達していた。
……~たいした事じゃぁ~ない。
いつものように “三尺道” を流れ~知り合いの山師宅へ~
台所の醤油を取り出してみると、
一升瓶の半分以上使っていたが、いつものように除草剤を入れた。
2~3日は、何も起きなかったが
山師宅では、年に数回は御馳走(すき焼き)を食べる習慣がある。
昔~牛肉は、高価なゼイタク品だった。
~ステーキなんて、家庭では見たことが無い。
映画の中で “アメリカ人だけ” が食える肉だ。
……~“すき焼き” 以上の料理は、日本には絶対ない。
~ステーキは非国民の喰い物だ。
…………あんなモン喰っているから~アメリカ人は、ハゲが多い。
…~ホントかナぁ~…と、思いながら~土佐の田舎で育った。
山師の食欲は絶大なもんだ。
空気がキレイな山奥の山村で、一日中重労働する山師は、
俗に言う “山師の一升メシ”
飯を一升食う “一升飯” と言われていた。
酒もメシも、一人で “一升” たいらげる。
と、例えられる大飯ぐらいが多かった。
それが~久々ぶりにスキヤキで晩飯となった。
焦げ付かないように、たっぷり汁を入れ
野菜や肉と一緒にウドンを入れて堪能するまで食った。
汁を多くしたのは目的があった。
ウドンは汁を多く吸うから、初めからダシが出た汁を多めに……………
そして~
~久し振りのスキヤキは、一度で終わるのはモッタイナイ~
この様な場合。
現在の都会の若者には、理解できないだろうが。
~翌日アマリを食った。
つまり、
その時食べたスキヤキの鍋を、その日に洗って仕舞うのがホントだろうが
……………………~それじゃぁ~そこでスキヤキが終わる。
だから~洗わずに、そのまま残して翌朝~再挑戦する。
これで~二度・すき焼きが食える。
………美味しく食べる・とか
~上品に食べる・とか
~そんなモン、土佐の田舎にはなかった。
徹底的に食う。
山師はスキヤキを残して、翌日の弁当に詰め込んだ。
山師の弁当カン~
この当時は、大きく・ひろい~金属製の箱。(弁当カンのカンは、缶の意味)
重箱よりは小さいが、
メシとオカズ(スキヤキ)を山モリに入れ、上からスキヤキの “汁” を
タップリかけた “汁カケ飯” の上から、
弁当カンのフタを~ギュウ~と押し込むと
メシがギュウ~と “圧縮され” 最大限のメシが入る。~容量の倍は入る。
山師は、容量の倍は入った “巨大な弁当カン” を持って山仕事に出かけた。
…………………………“東京婆さん” の思惑で計算した数倍のパラコートを持って
いつものように汗をかき重労働に精出し、
全身の血液へ、内臓から吸収したエキスが廻った午後~山師は倒れた。
…………………そのまま病院へ運ばれたのだから病気だろうが、早すぎた。
山師の食欲は “東京婆さん” の思惑の数倍。
たぶん~除草剤の濃度もイツモより濃いかった。
“病気になった者” の原因と結果を、最も詳しく理解している婆さんは
やがて~………~警察の足音がする~足音がする~足音がする~~~~~~
と、独り語を~繰り返し~繰り返し~繰り返し~~~~~~~~~~~~……………………
…………不眠症とノイローゼ的な症状で、
自宅付近の草むらに~隠れた警察官を探す様に
…………家の周りを徘徊する様になった。
徘徊したから~見た人がいたのだろう~その後、即・精神病院に入院した。
田舎では、特に山村では
………………………~これは、非常に悪い言い方だが
よほど悪くならないと、この種の病院へ “入院” させない。
一族の者から “病” が出れば、村内の全てに知れ渡る~ウワサが走りだす。
~だから自宅監禁された気の毒な事例がある。
虫歯と精神病は、早く病院へ行くほど治りが早いものだが、
僻地では~そうはいかない。
が、“東京婆さん” は、ノイローゼ程度・不眠症程度で早々と入院した。
……つまり~と、思う。
周辺の身近な人達は、充分な認識があったのだろう。
“知っていた” とは言わない。
“充分な認識” が有った。
~だから “隔離” (病院)した。~逃げ込み寺だ。
…………………………~このくらいは、言ってもいいだろう。
しかし、その必要はなかった。
こっけいな “蛇足”~
…………婆さんは、ヘビの絵に足を書いた。
警察は “墓を掘った” ~“腐乱した膨満死体” を解剖した段階で
すでに “収束宣言” の結論を用意していた。
いや逆だ、“結論ありき” で “墓を掘った”
………………“結論の型” を整える為に “墓を掘った”
“墓掘り” は “お絵描き” だ
~自分は自分で守るしかない。
“お絵描き” をしながら上手に “↑上↑” へ ,
…………………………県 警察本部 へ 御報告したんだろう。
~この刑事課長は
……出世街道を驀進(ばくしん)した。
バカな “墓掘り” をしたのは、警察学校を出たばかりの
クソ若造の~新米アホ警官だ。
~オレの事さ、大ボケ野郎だ。
大ボケ野郎のクソ若造は
その後~何とかして~警察をヤメて、足を洗って正業に就こうとした。
一時期、独学で猛勉強して “社会保険労務士” の国家試験を取った。
都会なら~これでヤメだ。
が、不景気が続き~田舎の大企業(土建会社等)が、次々に倒産する中で
子供は進学~就職~女房は病気になって~結局何もできず
また気を取り戻そうと、一頑張りしたところが
またまた~四万十川の辺で、警察によって隠蔽された “警察犯罪”
「銀行員失踪事件」(悪魔と踊ろう)に遭い
ミミズの様に生きていく羽目になって、やっとこさ~定年より4年早く警察をヤメた。
大ボケ野郎の “墓掘り” から34年たって
クソ若造の~新米アホ警官も中高年のクソオヤジになった。
60歳を過ぎ、後どのくらい生きるのか~
ぼんやり、物思いにふけりながら田舎道を歩いている。
遠くで~稲刈りの準備をしている田んぼの中に、
作業の邪魔をしている~無用のカカシが、一本足で笑いながら立っていた。
脳ミソの中まで、ワラでできたカカシは、
使う時も・捨てられる時も~笑えるもんだ。
まるで粗大ゴミの様に~~~
………………最初から~最後まで、笑いながら使われ~
~笑われながら捨てられるピエロを~~~
なにか~自分を見ている様な・親しみと・あわれみを感じた。
34年たった秋
~カカシにひかれて、腐乱死体を掘り出した墓を見たくなった。
~あれから34年
寒村は益々寒村に~すでに限界が過ぎたかのように、だれも歩いてなかった。
動いているのは、風に揺れる竹かススキの穂~村の亡霊か、他には動けない。
あの時の事件関係者は、皆さん全員~亡くなられた月日が流れた。
もし生きておれば、110歳を超えた人もいる。
………………………~それは~ないだろう。
みんな死んで、墓に入っている。
墓の中で何をしているのか、もし世間で話題になる死後の世界があるのなら
この大地を引き裂くか
~せめて、秋風のメロディ~♪で “地鳴り” ぐらい歌ったら~~♪~♪~~~~~♪
少しは、、マシな世の中に成るのかもしれない。
………………カカシは34年前の夢を山里に見た。
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