Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2010年07月22日 | Weblog
今夏はフィードラー、ヒルデブラント、リーグル、ヴェルフリンの再読に費やしている。19世紀末から20世紀初頭にかけての「様式史」の著作を読むことは、写真というイメージを考察する上でも必定なことのように思える。それにしても、暑さがこたえる。

フリードのバルト論(あるいはプンクトゥム論)の結論とは、「『明るい部屋』において明らかになったのは、徹底して反演劇的な写真の「美学」を構築することは不可能だということである。」。しかし、であるがゆえに、バルトは「写真(これをアナログ写真と呼ぼう)という産物に固有の演劇的な性質」を十分に認識していたということだ。フリードに従えば、まさにデジタル化以降の写真こそが「反演劇性」を実現することになるだろう。ということは、フリードにとっての写真というイメージは、観者の存在を絶対的条件とする19世紀以降のイメージのあり方の典型なのである。写真(アナログ写真)とはつねに見る側の存在(観者)を前提とするイメージなのである(つまり、演劇的なイメージということ)。そうとらえると、フリードの写真論はひじょうに納得できるものだ。

「雰囲気というもの(私は真実の表現をやむをえずこのように呼ぶ)は、自己同一性の、いわば手に負えない代理・補完物である」「雰囲気とは、このように、肉体についてまわる光り輝く影なのだ」「写真家が生命を与えるのは、雰囲気というこの微妙なへその緒を通してなのである」(バルト『明るい部屋』花輪光訳)。ここでバルトが語る「雰囲気」とは光が作り出すものでなくして何であろうか。『明るい部屋』の前半(Ⅰ)で、あれほど写真のイメージ性を批判し、「せめて「写真」が、中立的な、解剖学的な肉体、何も意味しない肉体を与えてくれたらよいのだが!」と語っていたはずなのに……。ここでわれわれは写真におけるイメージ(光が作り出すもの)の二つの機能を峻別しなければならない。写真を「イメージと実在性」という二項的対立ではなく、「イメージ」そのものを二項対立化しなければならないのだ。「嘘のイメージ」と「真のイメージ」とに。

写真に即物性や記録性を求めた写真家たちは、いわゆるフォトジェニック(光が作り出すものという意味で-フォトジェニー)的なものを拒否し、写真の固有性をインデックス性(痕跡としての記号)としての「存在者の実在性」に求めた。たとえば、バルトの『明るい部屋』前半における「プンクトゥム」も、その文脈に沿って、フォトジェニックなもの=文化コード=ストゥデイウムととらえ、そのストゥデイウムを脅かすものとして「プンクトゥム」を定義している(前半の「プンクトゥム」は写真家の意図を逃れたもの=無媒介性。そもそもこれは、写真は芸術ではない、成りえないという言説の反復以外の何ものでもない。シュールリアリズムの誤解と失敗)。しかし、後半における「プンクトゥム」はまったく異なってくる。たとえば、後半で語られる「雰囲気」とは何か(「写真家が生命を与えるのは、雰囲気というこの微妙なへその緒を通してなのである」)。この「雰囲気」を作り出すものこそ、フォトジェニックなものでなくて何であろうか(ルイ・デリュック「フォトジェニー」を参照)。したがって、問題なのはインデックス性とフォトジェニックの関係なのである。フォトジェニックな対象をインデックス性によって自然化するのか、反対にインデックス性の対象をフォトジェニック性によって人工(人為)化するのか。これはまさに「存在者」と「存在論」の違いである。

遅ればせながらフリードの「ロラン・バルトのプンクトゥム」(pgp.no6掲載・城丸美香訳)を読む。バルトのプンクトゥムに関する前半と後半の違いいついて、あまり明確に語ってはいないことに不満。とりわけ、「ポーズ」や「対面性」をプンクトゥムに結びつけ、そこに「反演劇性」を見る論理の展開には首肯できない。が、それでも写真における「ポーズ」に「反演劇性」を見ていくフリードの視点はさすが、というか興味を惹かれる。通常、「ポーズ」とは特権的な瞬間であり、イデア的な綜合による現実の把握の方法である。しかし、写真家によって要求されたポーズと被写体が自ら選択するポーズにはいかなる差異があるのか。おそらく、初期写真の肖像写真においては、写真家と写される側には共通のポーズ意識(階級意識)があった(しかし、未開発人や非ヨーロッパ人、あるいは病者や医学的患者を撮影した人物には、明らかにその齟齬がある)。しかし、現代のポートレート写真において、カメラに撮られることを意識した被写体(人物)の「ポーズ」とはどのようなものなのか。それにしても、フリードが写真における「ポーズ=対面性」に関心を抱くということは、改めて理念的芸術(表現)の奪還(裏を返せば、写真という実証主義=記録主義への批判。あるいはスナップ写真の終焉-笑)を意図しているように思える。

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