グリーンバーグを再再読。モダニズム絵画は何故に「穴を穿つ」こと(三次元的イリュージョン)を拒んだのか、あるいは異なる方法での三次元的イリュージョンを求めたのか。芸術=表現とは優れて人工的なものである。芸術と現実(あるいは自然的知覚)との関係において、何ゆえに改めて現実を再現(あるいは模写)しなければならないのか(イリュージョン化しなければならないのか)。写真というイメージとはけっきょくルネサンス絵画の代替物として「穴を穿つ」ことに汲々としてきたのだろうか。写真において「記録主義」を唱えた写真家たちは、意識を介さない無媒介性(脱・イリュージョン)を写真に求めたのであろうが、写された現実がすでにして記号化(イリュージョン化)された現実であったとしたらどうなのだろうか。そのことをいち早く自覚していた写真家がウィリアム・クラインかもしれない(記号化されたアメリカ社会を写しだすこと)。方法的な次元では、いわゆる非・中心化された知覚として具現化されている。下記にも記したが「どこか街の一箇所を写した写真は現実を写したことになるのか」という疑問につながることである。いったい、われわれ(人類)が芸術として何かを表現するということはどういうことなのか。けっきょくはその問いに帰着するのかもしれない。もちろん、その方法や形式は時代や場所(土地)、社会と深く関わっているわけだが。グリーンバーグは人類が何かのイリュージョンを作り出すことの意義を決して手放すことはないし、そこにこそ芸術作品の最大の価値を見出している。エジプト美術において、視覚的イリュージョンを作り出すことは、死への抵抗であったことはよく知られた事実だ(精神の抵抗=平面性、幾何学性等々)。では何故、ギリシア美術は自然との親縁性を求めたのか、あるいは求めざるを得なかったのか(その帰結が三次元的・彫刻的イリュージョン=陰影法と肉付法の発明)。そしてさらにギリシア・ローマ美術からビザンチン美術への移行(三次元的イリュージョンから平面的・装飾的イリュージョンへ)。そして再びルネサンス的三次元イリュージョンへ。さらにはルネサンス美術からモダニズムへ(三次元から平面、あるいは図解へ)。この一連の形式的変化、あるいは反復は何を物語っているのか。西洋における視覚芸術の大きな流れに沿って、写真というイメージをとらえると、写真は一般的にルネサンス美術の代替物として機能してきたことが分かる(もちろん、言うまでもなくモダニズム写真はその抵抗を含んでいることもまた事実だが)。60年代後半、あるいは70年代以降の「アート・フォトグラフィ」はまさに、このことの自覚でなくて何であろうか。であるがゆえに、写真を経た絵画に絵画化される写真という問題が浮上してくるのだ。したがって、デジタル化以降の写真を、いわゆる「絵画化された写真」ととらえることは誤りであり、というよりも「絵画化」の「絵画性」を写真以前の絵画ととらえては大きな誤りを犯すことになる。デジタル写真を「偽のイメージ」ととらえることは、写真以前の絵画に即して、デジタル写真をとらえているにすぎないし、あまりにも安易なことだ。
フリードの『芸術と客体性』を読む限り、ミニマリズム(ドナルド・ジャッド)は、ドゥルーズが言う「総体(ensomble)」と「全体(tout)」の二つの「全体性」を区別できなかったように思える。多くの写真家と同様に(笑)。表面の組織化という観点から、全体と諸部分(絵画の、あるいは写真におけるフレーミングされた画面)の関係を考察してみること。
「リテラリズムの芸術の経験は、ある状況における客体の経験である。」(フリード『芸術と客体性』批評空間「モダニズムのハード・コア」所収・川田都樹子他訳)。
ここでフリードが批判する「ある状況における客体の経験」とはまさに、撮ることを特権化した「生きた経験」としての写真でなくて何であろうか(笑)。
「一片の木目模様の壁紙はいかなる定義をもってしても、それを真似て描いたものよりも「現実的」であったり、あるいはより自然に近いということはない。」(グリーンバーグ「コラージュ」『グリーンバーグ批評選集』所収・藤枝晃雄編訳)
例えば、一枚の壁紙を写した写真は、現実を写したことになるのか。さらに敷衍して、どこかの街の一箇所を写した写真は、現実を写したことになるのか。この場合の“現実”とは何か。
フリードの「反演劇性」の概念は、ドゥルーズがそのフランシス・ベーコン論で論じている「象形化(図解的・物語的-フリードの演劇性)」を免れる二つの方法-「抽象的形態」と「形体(figure)」の後者と関連があるような気がする。フリードもまたモダニズム美術におけるグリーンバーグの道を間違っていたと明言している。つまりは前者(=抽象的形態)の道だ。フリードが18世紀のディドロや19世紀のクールベ、マネの研究に遡っていったのは、「抽象的形態」とは異なる「反象形化(反演劇性)」の起源を探るためであったように思える(それを抽象に対する具象という対立概念であってはならない。とはいえ、フリードが関心を寄せているのはある種のリアリズムであることは間違いない)。グリーンバーグ的なモダニズムの理念-純粋視覚等々を維持しながら、しかしグリーンバーグ(抽象的形態)とは異なる方法を探ること。それがフリードの意図であろう。それにしたがえば、フリードが写真を語るのはある意味、必然であったと言えるかもしれない。けっきょく、フリードの本作(『なぜ写真はいま・・・』)を読んでいないにも関わらず、そのインタビューに大いなる関心を覚えたかと言えば、われわれが考えてきた写真(あるいは写真への見直し)を論じるうえで非常に示唆的な言説にあふれているからだ。
興味深いのはフリードの『なぜ写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』のなかで取り上げられている、「反演劇性」と呼ばれる多くの現代写真家の作品が、従来なら「演劇的な写真」と呼ばれるような写真であることだ(読んでいないので、あくまでも本書の紹介からでしかないのだが・・・)。ここでも、フリードの「没入」と「演劇性」の概念が特異であることが理解できるし、「演劇性」をどう理解するかがフリード読解のキーともなるだろう。われわれの立場から言えば、これまでの写真における記録性や表現性、あるいは構築性や演出性といった概念を無効にする契機となる気がする。きわめて大胆な発言をすれば、もはや写真と絵画を異なるものとして記述する必要がなくなるだろう(笑)。だからといって、写真が絵画化されたなどと間違ってもとらえてはならない(’とりわけデジタル時代において)。むしろ、写真化された絵画に絵画化された現代の写真、つまり写真の写真化ということだ(笑)。
同じpgp掲載の林道郎の「覚書」を読む。基本的には、フリードの「没入」に関しては下記に書いたような理解でいいようだ。一つ、感想を記せば、バルトの「ストゥデイウム」と「プンクトゥム」に関しての下りである。林道郎によれば、「ストゥデイウム」とは意味であり、意図であり、演劇的なものである。他方の「プンクトゥム」は「演劇的効果を超えて、観者を撃つ」「存在の過剰」である。意味(演劇性)と存在(反演劇性)。フリードも言うまでもなく、バルトの「プンクトゥム」に「反演劇性」を見る。しかし、意味の自律性を唱えるフリードにとっては、先の「意味」と「存在」から言えば矛盾することになりはしないか。林氏ももちろん、同じ指摘をしている。ここからは私見だが、バルトの「プンクトゥム」(『明るい部屋』の前半部分の)は「存在」の過剰ではなく、「存在物」の過剰ではないか。つまり、即物的な存在に過ぎないということである。『明るい部屋』の後半に至って、「時間のプンクトゥム」によって初めて「存在」の過剰を語ることが可能になる。おそらく、フリードの言う「自律した意味の世界」とは、存在論的な場から立ち上がるものなのではないか。実際、デマンドの試みとはそのようなものではないか。バルトの「プンクトゥム」を「存在物(痕跡)の過剰」と「存在の過剰」の二面からとらえてみること。そうすることで、フリードの「没入」と「演劇性」の対立がよく見えてくくるような気がする。
フリードが言う「没入」とはイメージ(イリュージョン)の自律性のことなのだろうか。つまり、描かれる側・写される側が見られることを忘れ、演じること・写されることに没入することは、観者(イメージを見る側)とは無関係に、ある一つのイメージ(イリュージョン)を自律させることになる、ということなのだろうか。その場合、観者(イメージを見る側)にとって、現前するイメージは切り離(隔絶)されてあることになる。これは常々われわれが言ってきた、ジャン・リュック=ナンシーの言う「イメージの区別・分離する機能」ということではないのか。
それにしても、フリードのインタビューで一番、印象に残った下りといえば、「「…私にとって、「なぜ」という問い-意味、意図、動機に関する問い-は私自身が解決すべきことですから。それこそが私の仕事であり、楽しみなのです。それこそが取組み全体を批評的に意味あるものに変えるわけですし、それこそがこのようなことを行う喜びなのです。」。“芸術作品”という存在物の「意味・意図・動機」を探ること。それこそが“芸術作品”について書くことの喜びなのだ!
pgp掲載のフリードのインタビューを読了。読後の感想を一言言えば、早く誰か『なぜ写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』を翻訳してほしい。原書を読むほどの英語力も時間もない(笑)。それでもいくつか興味深い用語(概念)-たとえば、「被視性(to-be-seenness)」とか、「隔離世界性(world-apartness)」とか-や言葉に出会った。しかしやはり、フリードにおける「演劇性」とは何を意味するのかを理解することが最も肝要だろう。それはもちろん、『芸術と客体性』以来の論点なのだが。一般に「演劇性」という言葉からわれわれが受け取る概念は、「ドラマ性(事件、出来事の状況的な把握)」とか、あるいは一つの事件なり、出来事を再構成する方法がイデア的な綜合によるものという理解ではなかろうか。しかし、フリードは「演劇性」を「客体性」とか、「即物性」とか、いわばリテラルなものとしてとらえている。このことを理解するためにはおそらく、演劇がもつ視覚的形式-主体と客体という構図を考えなければならないだろう。つまり、フリードの「演劇性」とは、ハイデッガーが『世界像の時代』で論じた近代的視覚形式-存在物を対象化し(計算可能なものとして)、世界を像として征服することーと関連しているにちがいない。ひじょうに極論を言えば、「アート・フォトグラフィー」以前(おおまかに言えば1970年以前か?)の写真はすべて「演劇的」であったというわけだ。われわれ流に言えば、写真が「記録」という幻影にとりつかれてきたことによるものだ。実はフリードが、「アート・フォトグラフィー」以前の写真においては、写真と観者の関係ではなく、被写体(モデル)と写真家の関係が重要視されていたと語るときも、上記の問題との深い関わりがある。われわれ流に言えば、写真の直接話法的な理解が優位を占めていたということだ(フリードが論じる「アート・フォトグラフィー」とは、間接話法あるいは自由間接話法的写真の使用法なのだ)。もう一つ、面白かったのは、ウォルター・ベン・マイケルズが論じたバルトのプンクトゥムについて。「プンクトゥムは意図的であることを避けているおかげで、必然的に即物性の側に、つまり、ほとんど演劇性の側に味方してしまう」(これはわれわれがずっと主張してきたことだ!)と、マイケルズは主張する。それに対して、フリードは賛同しながらも、バルトはやはり「反演劇的な理論家」だと言っている。ただしそれは『明るい部屋』の後半-「時間のプンクトゥム」を見出してからにちがいない。「没入」という概念についても、少々、誤解していた面があった。フリードの「没入」とは、被写体(写されるもの)の没入性なのであって、観者の没入性ではない。写される側の没入性=被視性でもあるわけだ。インタビュアー(甲斐義明氏)の質問-「被視性はほとんど演劇性に接近するわけですから…」に対して、フリードは「それはほとんど、演劇性の良い形のようなものです」と答え、ディドロを引き合いに出しながら、被写体写される側)が没入すればするほど、観者の眼が釘付けになると語っている(シャルダンの絵画がまさにそれだ)。つまり、観者が没入状態に入るということだ。それこそが演劇という形式、方法ではないかと、われわれは以前の清水穣についてのブログで言ったわけだが…。いずれにしても、われわれは観者の没入性について論じる必要があるだろう。とまあ、さすがにフリードの写真論は語るに値するものだ。ぜひ、本作を読んでみたいというのが結論。これから、同じくpgp掲載の林道郎「・・・覚書」も読んでみよう。もう少し、フリードへの理解が深まるかもしれない。
pgが発行する雑誌に掲載されたフリードのインタビューをちらっと読む。以前、清水穣の中平卓馬論の「没入」と「演劇性」について感想を述べたが、清水穣の論はどうもフリードに依拠したもののようだ。フリードにおいては、「没入」と「演劇性」が対立概念として扱われている(清水穣も同様に)。つまり、「没入」による「演劇性」の打破にその主眼が置かれているようだ。しかし、以前にも書いたように、一般的に言えば、「没入」と「演劇性」は対立する概念ではない。ならば何故に、フリードは「没入」を「演劇性」と対立する概念として措定できるのか。どうもこれは、ハイデッガーの存在論を下敷きにしているように思える。「没入」がもたらす「存在の経験」へのつながりである。しかし、「没入」を単に「反演劇性」ととらえてしまっては、「没入」がもつ危険性を取り逃がしてしまうことになる。ここはきちんとハイデッガーの存在論を踏まえなければならない。
近代技術の本質が「自然のエネルギーを調達(挑発)し、貯蔵すること」(ハイデッカー)にあるとすれば、インターネットはまさに情報(知)を挑発し、ストックすることにある。いわば「知-情報の用立て」の枠内にあるわけだ(写真という映像もまた、視覚情報の調達・貯蔵という近代技術の範疇にあるだろう)。しかし他方で、インターネットはライブ+フローも含んでいる。ライブ+フローとは、ハイデッカーに従えば、農夫における耕作道具のようなものである。ライブ+フローには成長を見守るという行為が含まれている(このライブ+フローは、インターネット時代にあって、ライブや現実空間における展示に関心が集まる要因でもあるだろう)。近代技術の調達(挑発)とは異なることになる。とすれば、現代の情報技術とは近代以前と近代の二つの技術的側面があると言うことか。そこで考えなければならないのは、ハイデッカーの言う「用立て」あるいは「用象」の概念である。「用立て」によって「集立」する技術。現代における「用立て」とは何か。(いずれの語彙もハイデッカーの『技術への問い』関口浩訳・平凡社を参照のこと)
「写真とはけっきょく絵画に属するものである」という仮説を立ててみる。静止画という唯一の共通点を根拠として。これまで写真によって生産・制作されてきたイメージは、すべて絵画がやってきたことの反復ではないか。もちろん、形式という次元においてだが。
『時の宙づり』(IZU PHOTO MUSEUMで行われた「時の宙づり-生と死のあわいで」展の関連本)を読む。ジェフリー・バッチェン、甲斐嘉明、小原真史らの論考が掲載されている。これらの論考にはいろいろと反論が可能な気がする(バッチェンも含め)。たとえば、甲斐義明の「スナップ写真の影」については、あまりにも写真というイメージに対する認識が甘すぎるように思える。「スナップ写真はまず何よりも連続的な映像として存在する」というのが結論(笑)。確かに、写真は「スナップ写真」において、絵画的視覚の模倣から離脱して、写真本来の機能を獲得したと言える。それは写真というイメージが「任意の瞬間」であることの自覚である。とすれば、一枚の(あるいは複数の)写真が連続性(全体)とどのような接続をしているかが問題なのである。素人写真とアート写真(とりあえずそう呼べば)の区別はそこにあるのだ。正直、フリードランダーら70年代に登場してくる写真家たちの写真の真価を正しく評価し切れていないように思える。
ヴァナキュラー写真とは、写真がそれぞれの土地の過去の文化コードによって取り込まれ、領土化されたものと言えるだろう。その面白さ-視覚文化の交差、変容等々は確かにある。しかし、そこに写真の本質があるというのは言いすぎである。モダニズム写真が取り逃がしてしまった、写真の潜在的機能が潜んでいるかもしれないにしても。
なぜ、いま、初期写真におけるピクトリアリズム(絵画主義)が注目されるのか?たとえば、オスカー・G・レイランダーやヘンリー・P・ロビンソン。これまでピクトリアリズム写真は、絵画的イメージを模倣したものであり、写真本来のイメージを見出していないとして、とりわけモダニズム写真によって否定されてきた。しかし、いま、写真のデジタル化の時代にあって、絵画的視覚と写真的視覚の境界にある、そのどちらにも回収されることのない曖昧な視覚イメージが、デジタル写真を考える上での、一つの参照足りえているのかもしれない。
ここ1年ばかり、写真(というイメージ)の使用法という観点から、写真というイメージを考えている。ハイデッカー的に言えば、写真の、その用具的存在性を問うことである。その具体的な試み-Clinicな試みとして、「現代写真の使用便覧」というのをやってみたいと思っている。ようするに、現代写真がどのような使われた方をしているかを探ること。もちろん、現代写真というのはあくまでも、表現行為の一環として写真を使おうとしている写真の領域に絞られるわけだが。当然、現在における写真の一般的な使われ方との関連を考慮しないわけにはいかない。とりあえず、2000年以降に発行された日本の写真集に限定しながら-アトランダムに写真集を取り上げながら、そのClinicな試みをしてみたいと思っている。
旧聞に属して恐縮だが、たまたま河出書房新社発行の『中平卓馬-来るべき写真家』所収の清水穣の論考「中平卓馬の「日々」」を改めて読んでみたのだが、ここで清水穣が展開する「アブソープション(没入)」と「シアトリカリティ(演劇性)」の区別にどうも納得がいかない。そもそも「没入」と「演劇性」は並列的なものとして区別できるものなのか(もともと次元の異なる概念なのだから、その相違を語ることに意味がない)。「没入」が効果の結果だとすれば、「演劇性」とは効果の方法ではないのか。つまり、「没入」という効果を生み出すための方法の一つが「演劇性」ではないのか。フレームを忘れさせるために(没入させるために)演劇的な方法が必要となるのだ。「演劇性」におけるフレーム(枠)とは、イメージを自律させるためのフレームであり(つまり、イリュージョンを自律させるためであり)、区別・分離を強調させるためのものではない。「没入」によって「被写体を通常の人間的現実から分離し、真にリアルな現実へ」導くためには、むしろ「演劇性」を回避する必要があるのではないのか(フリードを参照)。分離・区別する力としてのイメージを「演劇性」から遠ざけることこそが近現代美術おける最良の試みであり、挑戦ではなかったか。中平卓馬における「なぜ、植物図鑑か」以降における写真の試みはむしろ、「没入」から「演劇性」を引き剥がし、「没入」という近代的経験をハイデッガー的な存在の経験につなげたことにあるのではないだろうか(「演劇性」とは異なる分離・区別の方法)。
Web版ART it(http://www.art-it.asia/u/admin_columns)に連載している田中功起の公開書簡のなかで、田中功起は「芸術作品」に対して以下のような分類をしている。
・作り手の視点から
1) 「見せる」ことを「作る」ことに優先する
展覧会(時間空間的に限定された一回かぎりのもの)というフォーマットから帰納的にできあがった作品 インスタレーション パフォーマンス リレーショナル・アート
2)「作る」ことを「見せる」ことに優先する
作品の成立を展覧会よりも優位に置く
2-1) 「作る」ことを「見せる」ことに限定しないように回避する
コンセプチュアル・アート アイデア
2-2) 「見せる」ことに無頓着に「作る」
孤独化 アウトサイダー 制度のうちにおさまらない
3) 「見る」ことを複数化し、時間空間に限定させない
作品のオリジナリティを複数の潜在可能性へと開く。記録しかない作品(現存しない作品、公開を前提としない作品)+再撮影+カタログ(テキスト)+ウェブ(テキスト)+αへと複数化する。作品を時間空間のずれのなかに再配置する。
・観者の視点から
1)「見る」ことを「作る」ことと同等とする
受容美学 見ること/解釈の自由 観者と作者を同一平面に置く 作者からの解放
2)「作るひと」と「作られたもの」を分離し、「作られたもの」を「見る」
作品と観者の断絶を受け入れた上で「誠実に見届けること」
・制度の問題から
1)アーカイヴ+ストック
「見せる・見られる・見る」ことが先送りされるので時間空間に限定されない
「作品」を観者は「孤独」に見るしかない
1-2)サイト/孤独 そのためだけの場所
ヨゼフソンのためのメルクリによる美術館や宗教美術
空間的に限定されるが、時間的には開かれている
2)ライヴ+フロー
時間空間的に制限された1回かぎり 「展覧会」
で、われわれの関心はおそらく、以上のような分類からどのような抽象化が行われるのか、あるいは可能なのか。制作者(作り手)は結果的にどのような「作品」を生み出すのか、観者(見る側)はその結果からどのような効果を享受するのか、さらにメディア的制度から制作者(作り手)はどのような結果を生み出すことになり、観者(見る側)はどのような効果を受けることになるのか。問題は抽象化の方法であり、その在り様ではなかろうか。
twiteerをやりながら、あるいはその情報交換のなかで、一つ確かな認識を得た。今更ながら、デジタル時代とは情報の全面的なスペクタル化であること。視覚情報、聴覚情報、文字情報…。われわれはこのスペクタル化に抗って、デジタル・テクノロジーという新たなテクノロジーの潜在的可能性をどのように使用することができるのか。問われているのはその辺りかもしれない。
調文明氏がブログ「入院(完了)生活」で展開している(書いている)「映画と写真」が面白い。http://d.hatena.ne.jp/BunMay/201005
このブログもちょっとtwitter的な使い方になってきたな(笑)。
フリードの『芸術と客体性』を読む限り、ミニマリズム(ドナルド・ジャッド)は、ドゥルーズが言う「総体(ensomble)」と「全体(tout)」の二つの「全体性」を区別できなかったように思える。多くの写真家と同様に(笑)。表面の組織化という観点から、全体と諸部分(絵画の、あるいは写真におけるフレーミングされた画面)の関係を考察してみること。
「リテラリズムの芸術の経験は、ある状況における客体の経験である。」(フリード『芸術と客体性』批評空間「モダニズムのハード・コア」所収・川田都樹子他訳)。
ここでフリードが批判する「ある状況における客体の経験」とはまさに、撮ることを特権化した「生きた経験」としての写真でなくて何であろうか(笑)。
「一片の木目模様の壁紙はいかなる定義をもってしても、それを真似て描いたものよりも「現実的」であったり、あるいはより自然に近いということはない。」(グリーンバーグ「コラージュ」『グリーンバーグ批評選集』所収・藤枝晃雄編訳)
例えば、一枚の壁紙を写した写真は、現実を写したことになるのか。さらに敷衍して、どこかの街の一箇所を写した写真は、現実を写したことになるのか。この場合の“現実”とは何か。
フリードの「反演劇性」の概念は、ドゥルーズがそのフランシス・ベーコン論で論じている「象形化(図解的・物語的-フリードの演劇性)」を免れる二つの方法-「抽象的形態」と「形体(figure)」の後者と関連があるような気がする。フリードもまたモダニズム美術におけるグリーンバーグの道を間違っていたと明言している。つまりは前者(=抽象的形態)の道だ。フリードが18世紀のディドロや19世紀のクールベ、マネの研究に遡っていったのは、「抽象的形態」とは異なる「反象形化(反演劇性)」の起源を探るためであったように思える(それを抽象に対する具象という対立概念であってはならない。とはいえ、フリードが関心を寄せているのはある種のリアリズムであることは間違いない)。グリーンバーグ的なモダニズムの理念-純粋視覚等々を維持しながら、しかしグリーンバーグ(抽象的形態)とは異なる方法を探ること。それがフリードの意図であろう。それにしたがえば、フリードが写真を語るのはある意味、必然であったと言えるかもしれない。けっきょく、フリードの本作(『なぜ写真はいま・・・』)を読んでいないにも関わらず、そのインタビューに大いなる関心を覚えたかと言えば、われわれが考えてきた写真(あるいは写真への見直し)を論じるうえで非常に示唆的な言説にあふれているからだ。
興味深いのはフリードの『なぜ写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』のなかで取り上げられている、「反演劇性」と呼ばれる多くの現代写真家の作品が、従来なら「演劇的な写真」と呼ばれるような写真であることだ(読んでいないので、あくまでも本書の紹介からでしかないのだが・・・)。ここでも、フリードの「没入」と「演劇性」の概念が特異であることが理解できるし、「演劇性」をどう理解するかがフリード読解のキーともなるだろう。われわれの立場から言えば、これまでの写真における記録性や表現性、あるいは構築性や演出性といった概念を無効にする契機となる気がする。きわめて大胆な発言をすれば、もはや写真と絵画を異なるものとして記述する必要がなくなるだろう(笑)。だからといって、写真が絵画化されたなどと間違ってもとらえてはならない(’とりわけデジタル時代において)。むしろ、写真化された絵画に絵画化された現代の写真、つまり写真の写真化ということだ(笑)。
同じpgp掲載の林道郎の「覚書」を読む。基本的には、フリードの「没入」に関しては下記に書いたような理解でいいようだ。一つ、感想を記せば、バルトの「ストゥデイウム」と「プンクトゥム」に関しての下りである。林道郎によれば、「ストゥデイウム」とは意味であり、意図であり、演劇的なものである。他方の「プンクトゥム」は「演劇的効果を超えて、観者を撃つ」「存在の過剰」である。意味(演劇性)と存在(反演劇性)。フリードも言うまでもなく、バルトの「プンクトゥム」に「反演劇性」を見る。しかし、意味の自律性を唱えるフリードにとっては、先の「意味」と「存在」から言えば矛盾することになりはしないか。林氏ももちろん、同じ指摘をしている。ここからは私見だが、バルトの「プンクトゥム」(『明るい部屋』の前半部分の)は「存在」の過剰ではなく、「存在物」の過剰ではないか。つまり、即物的な存在に過ぎないということである。『明るい部屋』の後半に至って、「時間のプンクトゥム」によって初めて「存在」の過剰を語ることが可能になる。おそらく、フリードの言う「自律した意味の世界」とは、存在論的な場から立ち上がるものなのではないか。実際、デマンドの試みとはそのようなものではないか。バルトの「プンクトゥム」を「存在物(痕跡)の過剰」と「存在の過剰」の二面からとらえてみること。そうすることで、フリードの「没入」と「演劇性」の対立がよく見えてくくるような気がする。
フリードが言う「没入」とはイメージ(イリュージョン)の自律性のことなのだろうか。つまり、描かれる側・写される側が見られることを忘れ、演じること・写されることに没入することは、観者(イメージを見る側)とは無関係に、ある一つのイメージ(イリュージョン)を自律させることになる、ということなのだろうか。その場合、観者(イメージを見る側)にとって、現前するイメージは切り離(隔絶)されてあることになる。これは常々われわれが言ってきた、ジャン・リュック=ナンシーの言う「イメージの区別・分離する機能」ということではないのか。
それにしても、フリードのインタビューで一番、印象に残った下りといえば、「「…私にとって、「なぜ」という問い-意味、意図、動機に関する問い-は私自身が解決すべきことですから。それこそが私の仕事であり、楽しみなのです。それこそが取組み全体を批評的に意味あるものに変えるわけですし、それこそがこのようなことを行う喜びなのです。」。“芸術作品”という存在物の「意味・意図・動機」を探ること。それこそが“芸術作品”について書くことの喜びなのだ!
pgp掲載のフリードのインタビューを読了。読後の感想を一言言えば、早く誰か『なぜ写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』を翻訳してほしい。原書を読むほどの英語力も時間もない(笑)。それでもいくつか興味深い用語(概念)-たとえば、「被視性(to-be-seenness)」とか、「隔離世界性(world-apartness)」とか-や言葉に出会った。しかしやはり、フリードにおける「演劇性」とは何を意味するのかを理解することが最も肝要だろう。それはもちろん、『芸術と客体性』以来の論点なのだが。一般に「演劇性」という言葉からわれわれが受け取る概念は、「ドラマ性(事件、出来事の状況的な把握)」とか、あるいは一つの事件なり、出来事を再構成する方法がイデア的な綜合によるものという理解ではなかろうか。しかし、フリードは「演劇性」を「客体性」とか、「即物性」とか、いわばリテラルなものとしてとらえている。このことを理解するためにはおそらく、演劇がもつ視覚的形式-主体と客体という構図を考えなければならないだろう。つまり、フリードの「演劇性」とは、ハイデッガーが『世界像の時代』で論じた近代的視覚形式-存在物を対象化し(計算可能なものとして)、世界を像として征服することーと関連しているにちがいない。ひじょうに極論を言えば、「アート・フォトグラフィー」以前(おおまかに言えば1970年以前か?)の写真はすべて「演劇的」であったというわけだ。われわれ流に言えば、写真が「記録」という幻影にとりつかれてきたことによるものだ。実はフリードが、「アート・フォトグラフィー」以前の写真においては、写真と観者の関係ではなく、被写体(モデル)と写真家の関係が重要視されていたと語るときも、上記の問題との深い関わりがある。われわれ流に言えば、写真の直接話法的な理解が優位を占めていたということだ(フリードが論じる「アート・フォトグラフィー」とは、間接話法あるいは自由間接話法的写真の使用法なのだ)。もう一つ、面白かったのは、ウォルター・ベン・マイケルズが論じたバルトのプンクトゥムについて。「プンクトゥムは意図的であることを避けているおかげで、必然的に即物性の側に、つまり、ほとんど演劇性の側に味方してしまう」(これはわれわれがずっと主張してきたことだ!)と、マイケルズは主張する。それに対して、フリードは賛同しながらも、バルトはやはり「反演劇的な理論家」だと言っている。ただしそれは『明るい部屋』の後半-「時間のプンクトゥム」を見出してからにちがいない。「没入」という概念についても、少々、誤解していた面があった。フリードの「没入」とは、被写体(写されるもの)の没入性なのであって、観者の没入性ではない。写される側の没入性=被視性でもあるわけだ。インタビュアー(甲斐義明氏)の質問-「被視性はほとんど演劇性に接近するわけですから…」に対して、フリードは「それはほとんど、演劇性の良い形のようなものです」と答え、ディドロを引き合いに出しながら、被写体写される側)が没入すればするほど、観者の眼が釘付けになると語っている(シャルダンの絵画がまさにそれだ)。つまり、観者が没入状態に入るということだ。それこそが演劇という形式、方法ではないかと、われわれは以前の清水穣についてのブログで言ったわけだが…。いずれにしても、われわれは観者の没入性について論じる必要があるだろう。とまあ、さすがにフリードの写真論は語るに値するものだ。ぜひ、本作を読んでみたいというのが結論。これから、同じくpgp掲載の林道郎「・・・覚書」も読んでみよう。もう少し、フリードへの理解が深まるかもしれない。
pgが発行する雑誌に掲載されたフリードのインタビューをちらっと読む。以前、清水穣の中平卓馬論の「没入」と「演劇性」について感想を述べたが、清水穣の論はどうもフリードに依拠したもののようだ。フリードにおいては、「没入」と「演劇性」が対立概念として扱われている(清水穣も同様に)。つまり、「没入」による「演劇性」の打破にその主眼が置かれているようだ。しかし、以前にも書いたように、一般的に言えば、「没入」と「演劇性」は対立する概念ではない。ならば何故に、フリードは「没入」を「演劇性」と対立する概念として措定できるのか。どうもこれは、ハイデッガーの存在論を下敷きにしているように思える。「没入」がもたらす「存在の経験」へのつながりである。しかし、「没入」を単に「反演劇性」ととらえてしまっては、「没入」がもつ危険性を取り逃がしてしまうことになる。ここはきちんとハイデッガーの存在論を踏まえなければならない。
近代技術の本質が「自然のエネルギーを調達(挑発)し、貯蔵すること」(ハイデッカー)にあるとすれば、インターネットはまさに情報(知)を挑発し、ストックすることにある。いわば「知-情報の用立て」の枠内にあるわけだ(写真という映像もまた、視覚情報の調達・貯蔵という近代技術の範疇にあるだろう)。しかし他方で、インターネットはライブ+フローも含んでいる。ライブ+フローとは、ハイデッカーに従えば、農夫における耕作道具のようなものである。ライブ+フローには成長を見守るという行為が含まれている(このライブ+フローは、インターネット時代にあって、ライブや現実空間における展示に関心が集まる要因でもあるだろう)。近代技術の調達(挑発)とは異なることになる。とすれば、現代の情報技術とは近代以前と近代の二つの技術的側面があると言うことか。そこで考えなければならないのは、ハイデッカーの言う「用立て」あるいは「用象」の概念である。「用立て」によって「集立」する技術。現代における「用立て」とは何か。(いずれの語彙もハイデッカーの『技術への問い』関口浩訳・平凡社を参照のこと)
「写真とはけっきょく絵画に属するものである」という仮説を立ててみる。静止画という唯一の共通点を根拠として。これまで写真によって生産・制作されてきたイメージは、すべて絵画がやってきたことの反復ではないか。もちろん、形式という次元においてだが。
『時の宙づり』(IZU PHOTO MUSEUMで行われた「時の宙づり-生と死のあわいで」展の関連本)を読む。ジェフリー・バッチェン、甲斐嘉明、小原真史らの論考が掲載されている。これらの論考にはいろいろと反論が可能な気がする(バッチェンも含め)。たとえば、甲斐義明の「スナップ写真の影」については、あまりにも写真というイメージに対する認識が甘すぎるように思える。「スナップ写真はまず何よりも連続的な映像として存在する」というのが結論(笑)。確かに、写真は「スナップ写真」において、絵画的視覚の模倣から離脱して、写真本来の機能を獲得したと言える。それは写真というイメージが「任意の瞬間」であることの自覚である。とすれば、一枚の(あるいは複数の)写真が連続性(全体)とどのような接続をしているかが問題なのである。素人写真とアート写真(とりあえずそう呼べば)の区別はそこにあるのだ。正直、フリードランダーら70年代に登場してくる写真家たちの写真の真価を正しく評価し切れていないように思える。
ヴァナキュラー写真とは、写真がそれぞれの土地の過去の文化コードによって取り込まれ、領土化されたものと言えるだろう。その面白さ-視覚文化の交差、変容等々は確かにある。しかし、そこに写真の本質があるというのは言いすぎである。モダニズム写真が取り逃がしてしまった、写真の潜在的機能が潜んでいるかもしれないにしても。
なぜ、いま、初期写真におけるピクトリアリズム(絵画主義)が注目されるのか?たとえば、オスカー・G・レイランダーやヘンリー・P・ロビンソン。これまでピクトリアリズム写真は、絵画的イメージを模倣したものであり、写真本来のイメージを見出していないとして、とりわけモダニズム写真によって否定されてきた。しかし、いま、写真のデジタル化の時代にあって、絵画的視覚と写真的視覚の境界にある、そのどちらにも回収されることのない曖昧な視覚イメージが、デジタル写真を考える上での、一つの参照足りえているのかもしれない。
ここ1年ばかり、写真(というイメージ)の使用法という観点から、写真というイメージを考えている。ハイデッカー的に言えば、写真の、その用具的存在性を問うことである。その具体的な試み-Clinicな試みとして、「現代写真の使用便覧」というのをやってみたいと思っている。ようするに、現代写真がどのような使われた方をしているかを探ること。もちろん、現代写真というのはあくまでも、表現行為の一環として写真を使おうとしている写真の領域に絞られるわけだが。当然、現在における写真の一般的な使われ方との関連を考慮しないわけにはいかない。とりあえず、2000年以降に発行された日本の写真集に限定しながら-アトランダムに写真集を取り上げながら、そのClinicな試みをしてみたいと思っている。
旧聞に属して恐縮だが、たまたま河出書房新社発行の『中平卓馬-来るべき写真家』所収の清水穣の論考「中平卓馬の「日々」」を改めて読んでみたのだが、ここで清水穣が展開する「アブソープション(没入)」と「シアトリカリティ(演劇性)」の区別にどうも納得がいかない。そもそも「没入」と「演劇性」は並列的なものとして区別できるものなのか(もともと次元の異なる概念なのだから、その相違を語ることに意味がない)。「没入」が効果の結果だとすれば、「演劇性」とは効果の方法ではないのか。つまり、「没入」という効果を生み出すための方法の一つが「演劇性」ではないのか。フレームを忘れさせるために(没入させるために)演劇的な方法が必要となるのだ。「演劇性」におけるフレーム(枠)とは、イメージを自律させるためのフレームであり(つまり、イリュージョンを自律させるためであり)、区別・分離を強調させるためのものではない。「没入」によって「被写体を通常の人間的現実から分離し、真にリアルな現実へ」導くためには、むしろ「演劇性」を回避する必要があるのではないのか(フリードを参照)。分離・区別する力としてのイメージを「演劇性」から遠ざけることこそが近現代美術おける最良の試みであり、挑戦ではなかったか。中平卓馬における「なぜ、植物図鑑か」以降における写真の試みはむしろ、「没入」から「演劇性」を引き剥がし、「没入」という近代的経験をハイデッガー的な存在の経験につなげたことにあるのではないだろうか(「演劇性」とは異なる分離・区別の方法)。
Web版ART it(http://www.art-it.asia/u/admin_columns)に連載している田中功起の公開書簡のなかで、田中功起は「芸術作品」に対して以下のような分類をしている。
・作り手の視点から
1) 「見せる」ことを「作る」ことに優先する
展覧会(時間空間的に限定された一回かぎりのもの)というフォーマットから帰納的にできあがった作品 インスタレーション パフォーマンス リレーショナル・アート
2)「作る」ことを「見せる」ことに優先する
作品の成立を展覧会よりも優位に置く
2-1) 「作る」ことを「見せる」ことに限定しないように回避する
コンセプチュアル・アート アイデア
2-2) 「見せる」ことに無頓着に「作る」
孤独化 アウトサイダー 制度のうちにおさまらない
3) 「見る」ことを複数化し、時間空間に限定させない
作品のオリジナリティを複数の潜在可能性へと開く。記録しかない作品(現存しない作品、公開を前提としない作品)+再撮影+カタログ(テキスト)+ウェブ(テキスト)+αへと複数化する。作品を時間空間のずれのなかに再配置する。
・観者の視点から
1)「見る」ことを「作る」ことと同等とする
受容美学 見ること/解釈の自由 観者と作者を同一平面に置く 作者からの解放
2)「作るひと」と「作られたもの」を分離し、「作られたもの」を「見る」
作品と観者の断絶を受け入れた上で「誠実に見届けること」
・制度の問題から
1)アーカイヴ+ストック
「見せる・見られる・見る」ことが先送りされるので時間空間に限定されない
「作品」を観者は「孤独」に見るしかない
1-2)サイト/孤独 そのためだけの場所
ヨゼフソンのためのメルクリによる美術館や宗教美術
空間的に限定されるが、時間的には開かれている
2)ライヴ+フロー
時間空間的に制限された1回かぎり 「展覧会」
で、われわれの関心はおそらく、以上のような分類からどのような抽象化が行われるのか、あるいは可能なのか。制作者(作り手)は結果的にどのような「作品」を生み出すのか、観者(見る側)はその結果からどのような効果を享受するのか、さらにメディア的制度から制作者(作り手)はどのような結果を生み出すことになり、観者(見る側)はどのような効果を受けることになるのか。問題は抽象化の方法であり、その在り様ではなかろうか。
twiteerをやりながら、あるいはその情報交換のなかで、一つ確かな認識を得た。今更ながら、デジタル時代とは情報の全面的なスペクタル化であること。視覚情報、聴覚情報、文字情報…。われわれはこのスペクタル化に抗って、デジタル・テクノロジーという新たなテクノロジーの潜在的可能性をどのように使用することができるのか。問われているのはその辺りかもしれない。
調文明氏がブログ「入院(完了)生活」で展開している(書いている)「映画と写真」が面白い。http://d.hatena.ne.jp/BunMay/201005
このブログもちょっとtwitter的な使い方になってきたな(笑)。