Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 3

2013年12月03日 | Weblog

写真的経験の条件
西澤諭志展『ドキュメンタリーのハードコア』(SANAGI FINE ARTS)

西澤諭志の『ドキュメンタリーのハードコア』展を見る。西澤諭志は片山博文や良知暁たちと並んで、僕が関心を寄せる若手写真家の一人である。彼らの写真作品は、写真家が見た現実や感じた現実、解釈した現実、あるいは現実のなかの見えない事象を可視化するといった写真とは大きく異なるものだ。彼らの写真作品に共通しているのは、写真というイメージを見ること、あるいは写真装置(カメラ)を介して現実を見ること、その視覚的構造や条件をあらわにすることで、視覚的イメージによる知覚経験を刷新しようという試みのように思える。

ミシェル・フーコーはブランショを論じた有名な論文『外の思考』*1のなかで、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることではなしに、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」と語っている。ここでフーコーが言及していることは、フィクション(虚構)によって見えるものと見えないものを配分する視覚的な構造や条件をあらわにするということであろう。こうした姿勢や試みは、60年代後半から70年代にかけての、写真を使う美術作家たちの主要なテーマの一つでもあった。われわれはとりあえず、こうした写真作品を写真的イメージに対する構造的な内在批判と呼んでおこうと思う。

今回の西澤諭志の『ドキュメンタリーのハードコア』は、“窓”をモチーフとして構成されている。周知のように、西洋美術史において、ルネサンス期における遠近法以来、“窓”(あるいは舞台)は視覚的なイメージが成立する場-平面として特権的な地位を与えられてきた。遠近法絵画は“窓”によって区切られた平面に、現実と描かれたイメージの写像関係を基礎づけた。後の19世紀に登場する知覚の生理学においても、人間の眼や知覚の機構が“窓”に喩えられ、現実の世界から知覚のスクリーン(平面)が分離されることになる。この生理学的光学が印象派絵画に大きな影響を与えたことはよく知られている。

 言うまでもなく“窓”は、現実の風景を縦軸と横軸によってフレーミングする。この縦と横、あるいは垂直と水平の関係性によって現実を写し取るという考え方は、星の軌道とその通過にかかる時間との関係を規定する近代天文学をはじめとして、物体が通過する距離と物体が落下する時間を関係させる近代物理学、動く直線における任意の瞬間(一点)を縦・横の座標軸によって求める近代幾何学等々と深いつながりがある。つまり、ルネサンス期の遠近法以来、われわれの視覚的体制もまた近代科学と同様の座標的関係性のなかに規定されてきたということである。

アメリカの美術批評家ロザリンド・クラウスがその秀逸な論文「グリッド」*2で詳細に論じているように、モダニズム美術においても“窓”はグリッド(格子)という形態によってきわめて明示的に主題化されてきた。もちろん、モダニズム美術におけるグリッドの使用は、クラウスも指摘するように、遠近法絵画とは異なり、現実との関係を断ち切ることにより平面化され、幾何学化され、秩序付けられたグリッドに、芸術の純粋性を、精神の自律性を求めたものである。とはいえ、“窓”あるいはその派生物としてのグリッドをイメージが生じる場ととらえたことは変わりないであろう。ようするに、西洋美術史において、視覚的イメージであれ、心像としてのイメージであれ、“窓”がイメージの生じる場としてつねに表象され、考察の対象にされてきたということである。

写真史においてもまた、フォーマリズム批評の代表的な存在であるシャーカフスキーよって、1978年に文字通り『鏡と窓』と題された写真展がニューヨーク近代美術館で開催されている。ここでシャーカフスキーは「写真を自己表現の手段」とする“鏡派”と「写真を調査の方法」とみなす“窓派”とに簡潔で明確な区別をしたことはあまりに有名である。シャーカフスキーによる“窓”と“鏡”の区別は、カメラという視覚スクリーンがもつ両義性-つまり現実を見渡すことができる“透明な窓”と自我を映し出す“不透明な窓(鏡)”とみなしたことによる。写真的知覚の透明性と不透明性。

クラウスも指摘するように*3、この“窓”がもつ両義性は、象徴主義の絵画が内と外の境界を、いわば視覚経験の場として、いささかロマンティックな雰囲気をもって主題化したものでもある。今回の西澤諭志の写真作品も一見すると、“窓”をモチーフとして、カメラを介して現実を見る場(ドキュメンタリーの現場)を可視化したようにも思える。実際、西澤諭志の写真はカスパール・ダーヴィト・フリードリヒやオディロン・ルドンといった“窓”をモチーフとした象徴主義絵画との類縁性も感じさせるものだ。内部と外部を仕切る“窓”、あるいは内と外の境界としてのイメージ空間。ウタ・バースやサビン・ホルニッヒといった写真家たちとの共通した問題意識も垣間見える。西澤諭志は“窓”という境界にこそ「ドキュメンタリー」-写真経験の「ハードコア」-核心部分があると言いたかったのだろうか。

しかし、西澤諭志の写真をしばらく見つめていると、「どこかが変だ」という奇妙な感覚のブレを感じるようになる。画面が微妙にゆがんでいるというか、ずれているのだ。とりわけ“窓”の格子を通して外の光景を写し取った写真は、われわれの注目を惹く。格子がずれていることで、窓枠によってフレーミングされた表面が意識され、窓の向こう側の光景がどこで生じているのかと、軽いめまいのようなものを引き起こすのだ。つまり、通常の写真ならば、窓枠によってフレーミングされた向こう側に広がる光景を何の迷いも、疑いもなく見ることができる。透明な窓として、窓枠によってフレーミングされた表面を意識することはない。ところが格子の写真は、格子をずらすことによって、外の光景の奥行きから表面が分離され、否応なく窓枠によって区切られた平面が見る者の意識に浮かび上がってくるのだ。

展示前半の窓ガラスに焦点をあてた写真もまた、窓ガラスについた水滴や汚れによって、その表面性が強調されている。ベランダにつるされた衣類や外の光景と交じり合いながら、絵画表面のような物質性を帯びた画面が出現している。これらの写真もまた、格子の写真と同様に微妙にずれているのだが、その表面は窓ガラスの存在によってリテラルに分離されているように思える。

ところで、この写真のずれは、分割撮影された映像を貼り合わせる、いわゆるスティッチング技法によって得られたもののようだ。通常、スティッチング技法は高解像度の画像を得るために使われるもので、一枚の巨大な画像フォーマットの写真を展示したり、被写体のディテールを高精細に表現したりする。しかし、西澤諭志は合成を微妙にずらすことによって、フレーミングによってもたらされた表面を出現させるために利用しているように思える。

合成とは言うまでもなく一種のコラージュにほかならない。ここで思い起こすのは、グリーンバーグがコラージュについて書いた一文*4である。グリーンバーグはブラックやピカソのコラージュについて、「現実の表面を否定すると同時に宣言する」と書いている。つまり、現実の表面-文字通りのキャンバスの表面を否定することによって、コラージュによって生じた狭間に非物質的な平面を出現させるということである。いわゆるグリーンバーグいうところの「蜃気楼(ミラージュ)」であり、リヒターが語る「シャイン(仮象)」である。

そういえば、展示前半の窓ガラスをモチーフとした写真は、リヒターのオイル・オン・フォトと似ていなくもない。しかし、前述したように、窓ガラスがリテラルな表面であるのに対して、格子の写真はフェノメナルな表面として現前している。しかし、改めて今回の展示を見直していくと、実はリテラルな表面からフェノメラルな表面への推移を提示しているようにも思えてくる。“窓”という境界線によって、奥行きと表面が分離されていくプロセス。

とするならば、西澤諭志の写真作品は、“窓”をモチーフとして、象徴主義絵画のように、見るという経験の場をロマンティックにあるいは神秘的に表現しようとしているというよりも、イメージが立ち上がる場、あるいはその平面化のプロセスを可視化しようとしているのではないか。「ドキュメンタリーのハードコア」とは、写真というイメージが立ち上がる核心部分そのものの考察と言えるかもしれない。

西澤諭志らの写真作品は、現代美術から大きな影響を受けた写真として、あるいはきわめて思弁的で理屈っぽい写真として、現実をストレートに切り取る写真家たちからは敬遠されがちである。しかし、写真という視覚体制が一方では“透明な窓”として、他方では撮影者の感情を刻み込む“不透明な窓=鏡”として流布している現在、少なくとも西澤諭志たちの写真作品は写真というイメージを見るということはどういうことなのか、写真から得られる視覚経験を前述したような写真とは異なる知覚経験へと導く契機となるものではなかろうか。と同時に、写真のデジタル化以降、写真における加工・合成の意味、意義について、デジタル以前の写真における加工・合成との違いを示唆してくれる(この問題については再度、考察を試みたいと思っている)。

ところで、前回取り上げた中平卓馬の展示タイトルは『Documentary』であった。今回の西澤諭志の展示タイトルは『ドキュメンタリーのハードコア』。そして次回、取り上げる予定のホンマタカシの展示は『ニュードキュメンタリー』とタイトル付けられている。期せずして3人の写真家が「ドキュメンタリー」という言葉をタイトルに選んでいる。ここにはどのような符号があるのだろうか。いま、なぜ、「ドキュメンタリー」という言葉が再度、写真家たちの関心を呼んでいるのだろうか。次回はホンマタカシの『ニュードキュメンタリー』の展評を軸に、この問題についても考えてみたい。


注:
*1・ミシェル・フーコー著「外の思考」(『フーコー・コレクション2』所収・豊崎光一訳)
*2・ロザリンド・クラウス著「グリッド」(『オリジナリティと反復』所収・小西信之訳)
*3・同上
*4・クレメント・グリーンバーグ著「コラージュ」(『グリーンバーグ批評選集』所収・藤枝晃雄編訳)


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