Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 2

2013年12月03日 | Weblog

中平卓馬という問題群
中平卓馬写真展『Documentary』(シュウゴアーツ/BLDギャラリー)

写真というイメージは、一方において現実にあった“もの”を“ものの状態”として実在的に指し示す。痕跡としての写真。他方で、光学的な機能(レンズの効果、構図、距離感、諧調…)によって“こと”、つまり“ものの在り様(現象)”を表現する。前者を写真のインデックス機能、後者を表現機能と呼べるだろう。写真の発明は光学的なルーツと化学的なルーツをもつとされるが、この二つのルーツをそれぞれ光学的-表現機能、化学的-インデックス機能という対概念でとらえることも可能だろう。もちろん、事実上、この二つの機能は混在している。区別が可能なのは理念上にすぎない。ここで理念上というのは、あらかじめ“もの”と“こと”が区別されているわけではなく、表現されることによって区別されるということである。

ところで、清水穣はその秀逸な中平卓馬論*1のなかで、「写真とは、全ての普通名詞が固有名詞化し、すべての存在者が「これ」であり、その「これ」性(haeccity)において等価(equivalent)になる事態である」と述べている。通常の認識、「これは猫です」に対して、写真的認識は「猫(固有名詞)はこれです」であり、すべてのものが「これ」によって等号で結ばれることだと。しかし、「これは猫です」とは個別的なものが猫という種に一般化されることであり、「猫はこれです」とは一般的なものが個別的なものによって代理=表象されることではなかろうか。前者が個別的なものを一般化(全体化)するとすれば、後者は一般的(全体的)なものを個別的なもので代理=代表してしまう。この関係は写真における部分(瞬間)と全体(現実の運動)の関係でもあるだろう。

絵画的イメージがイデアという総合に基づいて諸特徴を抽出された部分(特権的瞬間)であるとすれば、たしかに写真は現実の運動から任意に切断された瞬間(部分)である。しかし、たとえばギャロップの一歩目をとらえた写真があるとすれば、われわれはその一歩目の瞬間をギャロップという運動の一部として特権化してしまう。部分が全体に還元されるわけである。写真におけるこの部分と全体の関係は、事件や出来事の客観的記録という写真の神話を問いに付す。中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』に至る多くのテクストのなかでこの問題を追求している。たとえば、「テレビは、ある出来事を、その断片的映像の組み合わせによってひとつの加工された全体に作りあげ、それをひとつの出来事、いわゆる「事件」として報道する。その時、映像そのひとつひとつがあくまでも出来事の断片的、部分的映像であるにもかかわらず、つねにこの作りあげられた全体性を背負い込んだもの、つまりその全体の象徴としての性格を帯びざるを得ない」と記している*2。写真というイメージの特権化と一般化。いわゆる「記録性のアポリア」である。

しかし、写真にとって部分と全体をつなぐ繋辞機能が唯一の問題というわけではない。むしろより問題なのは「猫はこのよう(・・)な(・)もの(・・)です」という形で、光学的な機能によって“ものの在り様”が繋辞機能に折り重なり、意味づけされるときである。たとえば、初期写真の観相学的写真によく見られるように、「犯罪者の顔はこのような特徴を持っています」という形で、犯罪者の姿形が一般化(同一化)される。“もの”と“こと”が、“ものの状態”と“ものの在り様”が一体となってその効果を発揮する。“こと”を“もの”と錯覚し、“ものの在り様”が“ものの状態”によって保証される。ここにこそ、写真というイメージを現実に置き換え、あるいは客観的イメージとする神話の最大の危険性が潜んでいる。前述した清水穣の引用のなかで、写真的認識の「猫(固有名詞)はこれです」に「固有名詞」という括弧が挿入されているのは、“もの”から“こと”が排除されることを示しているだろう。

われわれが『なぜ、植物図鑑か』以降の中平卓馬の写真に見出すのは、二重の闘争とも言うべきものである。一つは写真における部分と全体の関係をどう回避するか。二つ目は“もの”から“こと”をいかに切り離すか。しかし、この二つの問題はその一つひとつを順番に解決していけるものではない。同時に解決しなければ、そのどちらも解決することはできない問題である。

今回、都内二箇所で同時開催された中平卓馬の写真展には、『Documentary』というタイトルが付けられている。一般にドキュメンタリーとは、ある出来事なり事件を、虚構を用いず記録に基づいて作られたものをいう。しかし、中平卓馬の写真がある一つの出来事なり事件を対象化することはない。ここに提示されているのは、いわゆる“もの”たちである。人、動物、植物、道具、物(岩や石など)等々。おそらくは中平卓馬が日々の撮影行為のなかで出会った“もの”たち。中平卓馬の写真がある事件なり出来事を対象化しているわけではないとすれば、断片を断片として提示することで対象(テーマ)化しようとしているのは、“見ること”あるいは写真的視覚そのものということになろう。言葉を変えて言えば、写真における“記録性”そのものをテーマ化していると言えるだろうか。写真の断片を外部に全体化すること、あるいは画面外に還元されることへの拒否。

清水穣が「すべてのものを「これ」によって等号で結ぶ」と述べているのは、このことである。「猫」を「これ」によって同一化(全体化)するのではなく、「これ」を等号で結ぶことで「猫」を個別化(固有名詞化)するということである。しかし、「すべてのものを「これ」によって等号で結ぶ」ためには、「これ」(“もの”からの“こと”の分離)が成立していなければならない。

多くの論者が指摘するように、中平卓馬の写真には、カラーであること、白昼に撮られていること、近接像であること、縦位置であることなどの特徴がある。これらの特徴はすべて、“もの”と“こと”を分離するための方法と言えるだろう。

“もの”から“こと”を分離するという方法は、言うまでもなく近現代美術におけるモダニズム的方法の核心にあるものだ。もちろん、グリーンバーグのフォーマリズム批評もその例外ではない。西洋におけるルネサンスから近現代に至る美術の流れを俯瞰すれば、道具から装飾的(付随的)なものが切り離され、美術という作品が生まれ、近代に入って道具が商品となることで、今度は道具が美術作品に接近していく。その時、美術作品は“もの”に近づくことで、美術作品のポジションを死守しようとしたとも言えるだろう。

われわれはモダニズム的方法を批判しようと意図しているわけではない。むしろわれわれは“もの”と“こと”を分離するというモダニズム的方法をさらに二分化すべきではないかと考えている。“もの”と“こと”の分離を抽象化という言葉で言い換えれば、抽象化には二つの方法があるのではないかということである。一つは形態への抽象化、二つ目は感覚の抽象化である。ドゥルーズに従えば、前者が脳髄的(知的)であり、後者が神経的(感覚的)ということになる*3。近現代美術の先駆者と言われるセザンヌの絵画にはすでに、この二つの抽象的方法があったことは、近年つとに指摘されていることである(いわゆるモダニズム批評は前者を特権化していった)。われわれが一般的にモダニズム的方法として想起するのは前者の方法である。

一般にモダニズム写真と呼ばれるものも前者に属するものだろう(たとえば、モホリ=ナジを起源とする石元泰博に代表されるような写真)。モダニズム写真は光学的な機能を操作することで、“もの”と“こと”を分離し、一つの形態を抽出しようとした。しかし、われわれの前提では、光学的機能こそが“こと”を生み出す。とするならば、光学的機能による操作はたしかに、機械の眼による操作であり、間化された視覚ではあるが、あくまでも“こと”の内部での区別であり、本性的に“もの”を区別したことにはならないのではないか。そこで抽出された形態は、“もの”ではなくて“こと”の一つの属性でしかないだろう。

中平卓馬の写真は、もう一つの方法による“もの”と“こと”の分離を試みようとしたのではないか。中平卓馬がカラーや白昼に撮ることにこだわるのは、光学的機能による効果を避けるためであり、その意味ではむしろ裸眼に近い視覚を求めたとも言える。光学的効果を回避し、限りなく裸眼に近い類似像(イメージ)を提示すること。もちろんそれは裸眼と写真の視覚(イメージ)を一致させるためではない。むしろ競合させるためである。裸眼との類似性が高ければ高いほど、その競合性が際立つことになる。裸眼との類似性が希薄になればなるほど、その競合性は薄れ、まったく別の像(イメージ)となるだろう(たとえば、加工・合成された写真)。写真の類似性をめぐるパラドックス。

中平卓馬の写真における近接像や縦位置といった特徴もまた、光学的空間の回避にあるだろう。近接像に触覚的空間(haptic)という美学上の根本的な地位を与えたのは、アロイス・リーグルである。ドゥルーズ=ガタリはこの触覚的空間を把握的空間という言葉に置き換えている*4。遠隔像-光学的空間に対する近接像-把握的空間という対概念(そしてドゥルーズ=ガタリは、光学的空間を条理空間に、把握的空間を平滑空間に置き換えている)。この把握的な近接像とは、光学的な視覚モデルによらない現実の知覚のことである。たとえば、原始美術における人体像の極端な歪曲は、視覚による再現ではなく、内的な感覚による再現と言われる。つまり、視覚によって対象化(客体化・距離化)されたものの反映ではなく、内的な感覚(触覚)によって把握されたもの-強調されたものが反映されるということである。たしかに、中平卓馬の写真はどこか、原始美術における人体造形を喚起しないだろうか。

ドゥルーズ=ガタリはこの把握的空間(平滑空間)について、きわめて興味深い指摘をしている。「(把握的空間における)指標は視覚モデルをもたないのだ。このようなモデルこそ、指標を交換し、外にいる不動の観察者のものとされる不動性のクラスに指標を統一するものだ。指標とはこれと反対に、「モナド」と呼ぶこともできるが、むしろたがいのあいだに触覚的な関係をもつ、ノマド〔遊牧的〕と呼ぶべき多くの観察者に結ばれている」*5。不動・唯一の観察者に対する、多数の観察者への結びつき。ここにこそ、中平卓馬が写真に求めた、“もの”を指し示すインデックス機能における“記録性”の核心があるのではなかろうか。

“もの”と“こと”を光学的な機能によって分離するのではなく、インデックス的(把握的)機能によって分離すること。これこそがモダニズム的方法の二つ目(後者)の方法ではないだろうか。こうしたモダニズム的方法における第二の方法は、中平卓馬の写真だけに見られるものではない。たとえば、日本の現代美術における60年代末から70年代にかけての「もの派」にも共通して見られる傾向だろう。実際、写真を論じる多くの論者のなかで、近年、このインデックス機能に多くの関心がもたれてきている。

さて、われわれは“もの”と“こと”の分離を何か価値あるかのように語ってきた。しかし、実際のところ、“もの”と“こと”を分離することに、いかなる意味と意義(価値)があるのだろう。まず指摘する必要があるのは、分離によって得られた“もの”を「ありのままの現実」とか、「ものそのもの」という言葉で実体化してはならない。“もの”が“こと”に先行して存在するわけではないし、“もの”に“こと”が付加されるわけでもない。むしろ、冒頭に述べたように、表現されることによってしか、この区別は可能ではない。とするならば、“こと”から“もの”へ、表現行為から指示行為への移行こそが問題であると同時に、この移行こそが表現という場の秘密を開示するのだ。

たとえば、われわれは「農耕馬」も「競走馬」も「馬」という普通名詞によって一般化(種別化)する。しかし、感覚的確信によって「この馬」の「このもの性」を指示することによって、一般化(種別化)される場そのもの(表現が生起する場)が切り開かれる(明るみ晒される)。そのとき、“もの”と“こと”の結びつきが決して必然的なものではないことを知るだろう。「農耕馬」はその“こと”性において、「競走馬」よりも「牛」に近い存在であり、「競走馬」は「農耕馬」よりも「フォーミュラーカー」に近い存在に分類される可能性を開くだろう。

われわれは写真におけるインデックス機能を“ものの状態”を実在的に指し示すという定義をしてきた。言うまでもなく、この定義はアナログ写真のみに該当するものだろう。写真のデジタル化においては、この定義は成立しない。デジタル写真におけるインデックス機能は、実在的なものではない。実在的鋳型から関係性の鋳型へ。デジタル写真はアナログ写真のような一対一の実在的な指示関係をもたない。化学的プロセスが光学的プロセスに吸収されたと言えるかもしれない。だからといって、インデックス機能が失われたわけではない。デジタル写真は“ものの状態”の関係性を指示するのだ(このデジタル化における関係性の鋳型は、写真における加工・合成の概念を大きく変えることになるだろう。ここでこの問題についての言及は避けるが、アナログ写真における加工・合成とはまったく異なる概念になるということである)。

 ここで注視したいのは、関係性という概念である。中平卓馬は写真におけるインデックス機能を徹底的に露出させることで、“もの”と“こと”の分離を試みてきた(他方で、いわゆるモダニズム写真は光学的な機能を徹底的に露出させた)。しかし、いま、われわれに問われていることは、中平卓馬の限界を、モダニズム的方法の限界を見極めることである。  
“もの”と“こと”の分離を追求したモダニズム写真に対して、“もの”と“こと”、インデックス機能と表現機能の関係を問うことではなかろうか。たとえば、東松照明は『NAGASAKI』以降の写真において、この関係性をテーマとして問うていくだろう*6(ちなみに、この関係性の観点から、現代写真の在り様を照射すれば、荒木経惟の写真は感情的なものを光学的機能-レンズの効果や構図、諧調などによって翻訳したものであり、90年代以降の写真のメインストリームはこれに属するだろう。高梨豊や小林のりおの写真はインデックス機能によって指し示された“ものの状態”に社会的構造-ものの配置を見出すものであろう)。“もの”と“こと”の分離を前提として、その関係性を問うこと。“もの”はいかにして、どのように“こと”に移行するのか。その関係性の構造を探ること。
 中平卓馬はモダニズムの限界を思考した写真家であると同時に、写真を最も哲学した写真家と言えるかもしれない。

参照注
*1:WEB版『ART IT』清水穣「批評のフィールドワーク14」http://www.art-it.asia/top
*2:中平卓馬著『見続ける涯に火が…』(OSIRIS)所収「客観性という悪しき幻想」
*3:ジル・ドゥルーズ著『感覚の論理-画家フランシス・ベーコン論』(法政大学出版)
*4:ドゥルーズ=ガタリ著『千のプラトー』(河出書房新社)
*5:同上
*6:WEB版『ART IT』清水穣「批評のフィールドワーク3」参照 http://www.art-it.asia/top


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