ドアを開けると生温かい空気が入ってきました。室内のほうがひんやりしているのです。5月中旬の暖かさでしょうか。昨年の今日のぶろぐにも、さまざまな花が咲きだしました、と書かれていますがほんとうに花水木、モッコウバラ、シャクヤク、フジの花、ヤマボウシなどなどが咲き誇っています。でけるときに、門灯をつけて出かけなくても帰宅時はまだ明るいです。
戸を開けて家に入ると、昼の陽ざしのぬくもりが残っています。でも、その瞬間のどこかひんやりとした空気がひとりのさびしさを突き付けてきます。あなたはこの空気がわかりますか?今までいた人がそこにいないという・・・。「ただいま」
きっとあの人もこのさびしさに耐えられなかったのだわ・・・。ただぼんやりとしばらく部屋に佇むだけの時の流れに。なぜ、ひんやりとしているのでしょうか。
復活祭が済んで、教皇様が御父のところへ召されました。復活祭までいのちをつないで、天に召された感じです。キリスト教で一番わからないことがこのイエス様の「復活」と言われています。「復活」は「蘇生」ではないということです。イエス様のお墓に駆け付けたマグダラのマリアはそこに遺体がないことに驚きます。ある神父様のお説教には、空の墓にあったのは「希望」だったのだ、と言われています。希望・・・。
その人のいない部屋に「希望」はあったのでしょうか。救いようもないかなしみが満ちていた気がします。「なぜ?こんな運命なのか?」
でも、この頃思います。そこにあったのはこれから生きていくものへ託するものではなかったのかと。それを「希望」と呼ぶのではないでしょうか。