お坊さんのブログを読んで↓
http://72463743.at.webry.info/201309/article_11.html
色々考えちゃった
わたしは葬式が嫌い
葬式で腹を立てたことがとても多かった
武蔵の親族やここ田舎の風習が納得いかないので
わたしは浅草のお墓に入る 葬式やらないでくれ
と言ってきたが
それは自分勝手というものなのだな
お母さんをよく知る人と偲ぶ会とかもダメ?
とちよが言うのでそれはいいのだが
(あちゃあ どういう風に偲ばれちゃうか 私もそこに居たい)
この頃 私はおばさんより先に死にそうだなという気がして
そうすると おばさんの気持ちを考えないといけないわけだ
それが 難しい
おばさんの考え方も私には訳が分からないが
それはおばさんのことだから
おばさんの望むようにするよ と言ってあるし実際そうする
でも 嫁さんが ここのお墓を蹴って 浅草に行っちゃうという希望だと聞いたら
頭に来ちゃうだろうなあ
何が気に入らないかと言って 故人を偲ぶとか送るとかが二の次三の次
ここらはつい最近まで 地区の組が葬式を執り行い
それには古い顔役とかいるわけで
新しい方式で葬祭場なんかでやっちゃったりして
(おじさんの葬儀はそうした )
組の顔役の出番がないと
そのことでそういう人はいちゃもんをつけてくる
故人を偲ぶ気持ちも 悼む気持ちも吹っ飛んでしまう
席順もそうだ
武蔵が ちよが故人に一番かわいがられてたな
と葬儀委員長の隣に座れ
と座らせたら
甲高い声で
そんな馬鹿な席はないと叱られ
べそべそしてる娘は
訳わからず 席を変えさせられた
もうこんな人々の間で自分の葬式なんかやってもらいたくない
と思ったんだが
ま 古い人は先に行くのが順だからとはいうものの
武蔵の親族は みなすごく元気で
わたしは だめ 私が先だわ
で 残った子供たちが 葬式やらない
浅草の墓に入ると
わたしの遺言のせいで 子供たちが親族の間で辛い思いをしたら
いけないよねえ
死んじゃえば自分は分かんないんだから
どうでもいいっちゃ いいのだが
浅草のお墓に入れば
わたしの両親も 残った人の記憶に少しは長く残るだろうしなあ
一人っ子の義務だよ
というのは通用するかなあ?
葬儀は家族とよし子ちゃんなど近しい親族だけで
浅草のお寺でやってもらうというのなら
おばさんは 納得いくかも
(ま 分骨したっていいのだ 浅草方式の葬儀ならいいということ
だいたい 子供らの都合で 先行き 浅草のお墓を田舎に移したって
別にわたしはかまわない)
ま 相談して よきにはからえだな。
わたしは 宗教心がないと思っているけれど
仏教のあれこれの考え方には興味もあるし
いろいろ ああそうかということも多く
実は 仏教好きになって来ている
わたしの母が亡くなったときは
頼んだわけでもないのに
東京の東の端から住職は毎週わが家に通ってきて
お経をあげて 親鸞聖人の御書の中から いろいろ読んでくださった
それが 実に 心にしみた
家族で心ひとつにして旅立っていった母を偲んだものだし
その旅立ちを胸に収めるのに
本当にありがたいお話だった
だいたい住職は声もよかった
ありありと 故人の旅立ちの行程がイメージできるようなお話だった
詳しくは みんな忘れちゃったけど
その住職も鬼籍に入っちゃったが
ああ
阿弥陀様って描いたことないんだな
今度描いてみよ
人はその事を忘れて生きているから自分の両手で持ちきれない程の物を貯め込んで悩みを増やしている、自分の両手から余る物は他人の分なのだってことも忘れている・・仏教を教える坊主も子供はエスカレーター式の大学へベンツで通わせたりするご時世。。。。
高いお金を出せばよりいい名前(戒名とやら)が付きますとそれが当たり前のような世界。
いまだに天皇陛下は神様だと思っている人達にこんな事を云うと嫌われますが 僕も葬式はやるな坊主なんて呼ぶなと言ってあります。
浅草の亡くなっちゃった住職は幼馴染で気持ちも通じたし
ここ田舎の住職も結構好きで仲良くしてる
田舎は 第一 いろいろな費用は安いよ
戒名なんて おばさんちの人々は皆院居士なので
へえ!?よっぽどお布施はずむのか
と思ったら
全くそんなことはないのだけれど
それは
本山が金持ち ということで鷹揚だという話だ
ラッキーだっただけ
浅草のお寺はお布施で生活してるわけでない嬢はかなり大変だって
それなのに男の坊主が会合開いては
コンパニオンをはべらせるってなんだ!って お寺の奥さんが
かんかんに怒ってた
厭なのは世俗の方の権威振りかざし 威張りやなのだけど
この地区は本当に威張りたい人が多くて
変なの
天皇神様の話だけど 先日都内に出たら
皇太子は救世主だみたいに大書した街宣車が居た
これから治安維持法めいた法律も出そうだし
心引き締めないとね
誕生は数人死亡は数倍と言ってました。
昨今では、法事もしない家が増えた、説法はそんなものではないと言いましたが、
戒名もお布施次第
全てがそれに含まれると思いきや、一つ一つに所作にお金です。
自分の都合で会食に出なくても食事代と車代です。
お金がないとお寺さんを呼んでの葬儀はできません。
お寺離れがどこにあるの考えてません。
お寺さんは立派なビジネスです。
私も葬儀は、ただのお別れ会で無宗教で共同墓地か散骨を希望です。
お寺さんも売れない絵描きのように肉体労働や
アルバイトでたつきの道を考えねばならないかも
わたしは本当に不当にお布施を要求されたことはなく
出来る範囲でしかしないので不快な思いもしたことはないのです
浅草の方のお寺さんはお布施を集めるのにいろいろ工夫はするようだけれど
それはそれで
わたしはかまわないと思ってるの
財力に応じてやりゃいいんだ
でもみな損得で考えるとお寺はやがてなくなり
仏教は無くなっていくのだろうな
皆は無宗教だからそれでいいのだろうが
そうだろうか?
わたしは 仏教は哲学のようだなとこの頃思い
芸術とか文化とか
飯のタネにならないものを育てる余裕のない世の中になったのは
金儲け主義が世の中の基本になっちゃったからだと思うの