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遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

小さいボロや

2012-09-15 21:31:19 | ただの記事

東京と言う都市はごった煮なので

千差万別の人々がいるのだが

触れ合うのはごく一部だ

で このだだっ広い茨城県にいると

様相はだいぶ違うなと

この間友だちと話していて思った

私の所属階層は 下町の貧しい家なので

(三代前くらいに富山から出てきた)

あまりハイソな人とはつながりがない

住んだ家々を思い出すと 本当にすべて

小さいぼろやでこれは 田舎の人には想像がつかないだろうよ

生まれた家は覚えていないが深川の住吉と言うところだ

空襲がひどくなったので

戦死した父が世話になった先生に呼ばれて

高田の馬場に間借りして先生の近くに住んだ

ここは2歳ころの話だけれどほんのり覚えている

出征した夫を持ち一人児を抱えている母を心配して

空襲もひどかったから

好意に甘えて

その高田の馬場の先生宅に転がり込んだ

去ったあと 住んでいた間借りした家は空襲で燃えちゃった

その高田馬場の先生と言うのは

私の両親の育ったあたり(両国)で若者の集いの指導的な人だったようで

戦死した父は若者の楽団でマンドリンを弾いていたようだよ

娘も息子もバンド活動が好きなのはそのDNAだなあ

話が脱線するけれど

その若者の集まりは 芥川龍之介なんかもかかわっていたんだよ

と母は言ったが

検索すると芥川龍之介は私の親の親の世代だよ

直接一緒に若者だったわけじゃないや

でも当時両国界隈にはそういう 好きなことで集まる

という若者文化があったような気配もある

戦後 母は私を連れ子して結婚したのだが

その時住んだのが御徒町で 覚えているのはそこのボットン便所

そこでウサギを飼っていたこと

上野の山の焼け跡にウサギのエサの葉っぱを取りに行ったことぐらいだ

これが四歳ころ

次に引っ越して住んだのが 池袋の長屋

二軒つながりの長屋で やっぱりボットン便所が臭い長屋だった

その次に住んだのが世田谷の家で

これまた小さい家だったが

ぼろ家ではなく新築だったわけだ 引っ越したのが6歳

だからその家は 現在築62年 恐ろしいぼろやだ

しかし 近所にはこじんまりしたバタヤがあった

そこはもっとぼろや 映画に出てくるような家

バタヤって放送禁止用語だそうだが

その家は何世帯化一緒に住んでいて中に通路があって

親たちはニコヨンで生計を立てていたり

屑ひろいをしたりいて

そこの坊やと私は 同い年 同じクラスになって

お手手つないで小学校に通った

そこのおばあさんは 私の母がお店屋さんだったので

忙しかったから 我が家の洗濯を引き受けてお小遣いを稼いでいた

 

当時 屑やさんと言うのがあって

近所にそういう廃品回収業の元締めの家があって

大変なお金持ちだったそうだ

屑屋さんだと言って 侮ってはいけない

手広くやっているお商売だ と教わった

私が世田谷育ちだと言うと バブル期のイメージで

高級住宅で育ったか?

と思う人が居るけれど

世田谷と言うのは かつては農村だったので

農家だった家は大地主(子供のころはそんなこと知らなかったが)

他はよそ者 都心からはじき出された貧しい人々が住む場所だった

(私の家のあたりはね)

で 私が家を飛び出して住んだのが 大田区の多摩川近くの

アパートで三畳しかなくトイレも共同 お風呂は?お風呂屋さんに行ったんだな

多分。

その後母の病気で一時家に帰ったが

学生時代卒業製作で家に帰れないので

学校近くに下宿した そこは6畳

やがて結婚して住んだのが 大家さんが階下にいる二階

じき職員住宅に入ったけれど

その職員住宅 あまりにぼろ家なので取り壊す

と言うのを 住人が自分で修繕して住むという条件で

組合が借り続けた家で

私たちも入居時台所の床があまりにひどいから直したら

柱の下の方が腐っていた!

これが 本郷 東大のそば

だから子供たちはお散歩は東大構内だったのだよ

ここまで すごいなあ

私の 小さいぼろや歴!!

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2 コメント

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庶民の戦後の生活は、似たり寄ったりですね。 (深山 霞)
2012-09-16 02:39:40
近頃思う事は、情報発信地に近い人たちのほうが、老後を楽しく生きているようです。
深山 霞 様 (遊工房)
2012-09-16 05:35:09
原発事故でどのくらい人々の暮らしが壊れてしまっていくか
予想がつかないけれど
戦後の暮らし
今の田舎暮らしを合わせて考えると
生き延びていくパワーをどういうふうに求めて行こうか
イメージが湧く気がしますが
情報発信地に近い と言う意味がよくわからないのですが
都会に近いということでしょうか?

ここ田舎の老人たち おばさん世代と
私たち世代とでは
いろいろ違って面白いです

おばさん世代は 強いです

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