徳井由美子の音楽活動(アイリッシュ・ハープ、弾き語り/シンガーソングライター)、思い、日々の記録(2014年以降)

神戸出身・大阪在住。クリスチャン、シンガーソングライター、アイリッシュ・ハープ演奏や他活動・思いの記録

原爆追悼記念日を含む、8月4~6日 広島訪問

2016-08-07 10:47:54 | 政治・社会問題
2016年8月4~6日に、私は広島へ、初めて行く機会があり、行ってきました。

きっかけは、(私は基本、どこの政党・団体に所属していない者ですが)成り行きで、新婦人の会旭支部また大阪からの代表者の中に混じって、”原水爆禁止2016世界大会”への参加と、またそれに加えて、この旅程では、そのほかに、自分の自由行動としての見聞・行程を経験してきました。その自由行動の中に、主に 8月6日の朝8時からの”原爆追悼記念式典”(正式名称『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』への参列ほか、平和公園内の散策と慰霊碑などの見学、また、個人で、”折り鶴タワー”(民間企業・広島マツダの施設で、原爆ドームの数十m北東にあり、12Fの高さからドームほか、平和公園や広島市内を俯瞰~見渡せる)に入ったりしたことを、抜粋して記そうと思います。全部の行程の記録と、また非常に深い思いや概念、自分の信仰観とか人生哲学的な分野に至るまでの思考がこの旅によって思い起こされましたが、そこまではここで書くには至りません。

ごく一部の旅程内容を写真とともに記すにとどめます。


8月4日(木) 新幹線 新大阪駅集合8時45分発 初めて会った都島区の方と隣席になった。着いた先でも1日目の大半は行動を共に。写真もその方と撮り合いしました。

広島に新幹線で午前10時過ぎ着。広島電車(広電)という路面電車で、市内を西へ移動、八丁堀で簡単に昼食後、徒歩でさらに西へ。下調べにより、先ず、世界遺産・原爆ドームの南東へ約150mに位置する、島外科内科の建物沿いにある、『爆心地』標識へ。この時節柄、外国人はじめ、訪問する人、TVカメラも多い。この真上・上空600mで、原子爆弾が、AM8:15に炸裂

 

そこからすぐ、原爆ドームがある。はずかしながら、この年になるまで、原爆ドームはおろか、広島へ来たことすらなかった。これが、それなのか。・・
原爆ドーム(通称)は、爆心地から北西約150mに位置する、当時の「産業奨励館」。爆心に近いため爆風の圧力が真上からかかったのと円柱形であったことで壁の一部が残った。当時、内部にいた人は全て、即時になくなった。1996年世界遺産登録された。

 

     

6本(過去に7本)の川によるデルタ地形から街が形成される、広島 (元安川)

 


平和公園から道路を隔てて、北側の、(元・広島市民球場があった辺り)「市民体育館グリーン・アリーナ」に。
その前に、武道場で大阪代表団集会(12:30~)があり、「世界大会」の”開会総会”へ。(PM2~4:30)

5,500人程の人が、日本国中から、世界から集まったという。(海外代表のうち、3日前に大阪で”海外代表と話そう”に参加された、3人のガーソン氏、セルマさん、ヘイリーさんとは、前もって話をしたり、名刺交換などを少しできた)

※この開会式中、つくづく、自分がここにいる事を思うと、不思議でならなかった。原水禁運動・・まったく、今までは関わりがなかった分野だ、・・原発問題が核兵器保持のための潜在的能力の要素を含むことを思うと、結局、福島以降、原発の問題に絡む問題を始めとして政治や政策のあり方に疑問をもってきた、・・そのことが結局、ここに自分を居させることに、つながったのだろう。

   

12:30から始まり16:30となり、解散して・・都島のNさんと、その知人で尾川さん(ピースイン大阪でも通訳されていた)と合流し、夕食の前にまた、平和公園方面へ。私が初めてで、初日のうちに、「平和資料館」(8月の時期は閉館時間が遅い)を見ておきたい希望があった。また道路を南側へ戻り、原爆ドームを通過して(ドームだけは、平和公園から元安川をはさんで隔てている)元安橋を渡り、平和公園を南下する。

「原爆の子」の像と鐘、(当時の ささきさだ子さんが、2歳で被爆し、後に白血病を発症して12歳でなくなった。クラスメートの子達の請願で出来たモニュメント。千羽鶴を折った さだ子さんにちなみ、全国から物凄い数の千羽鶴が寄せられる。※写真は、翌日5日撮影)

     

平和公園南端の、「広島平和記念資料館」(広島市立)へ。8月は19時まで開館している。¥200。
中へ入ると、6日に行われる式典の準備の様子がよく見えた
オバマ大統領(米国)が5月に訪問したばかりで、その時の写真パネルなども展示されている
館内は、私の印象では 想像していたより、さっぱりとこぎれいな感じ(もっと鬼気迫る雰囲気を想像していた)

     

国立の「広島原爆死没者追悼平和祈念館」というのもある。(翌日5日の午後に、単独訪問。)



広電でガタゴト、宮島口(厳島神社のある、”宮島”の目の前)に着き、宮島コーラルホテルにチェックインしたのは、21時半ごろ。お相手としばらくしゃべり、すぐ就寝した。

翌日5日は、文科会で、コースが各人で異なる。私は”動く分科会”といって、脚で動きながら見て回るコースのうち、「遺跡・碑巡り」コースを選択(実は、これが一番暑くてしんどい前評判。当然だな・・)。それが平和公園の一角にAM8:30集合。ということは・・宮島を7時過ぎに出るため、大急ぎで仕度。1人市内へ向かう。目の前は、厳島・・観光はなし。フェリー乗り場から、多くの男女が下りてくる。通勤・通学の様子。対岸にも生活している人がいるのか。フェリー乗り場の構内に少し入って雰囲気だけ楽しむ。

目の前は観光地

   

この広電・・・路面電車、乗り心地は多少揺れてわるい、時間も超・ゆっくりかかる、しかし、なごむ。料金も、市内なら¥160、宮島⇔広島市内でも¥260.しかし、ゆっくりなので、遅れそうだ・・分科会に

  

集合場所まで、小走りしながら、撮影

原爆犠牲者慰霊碑と、平和の灯、・・・「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

  

   

分科会に着き、スタート。碑巡り、当地の熱心な案内役によるガイドがついた

峠三吉の詩碑・・原水禁運動の先駆け ”ちちをかえせ、ははをかえせ、・・・”


被爆した、アオギリの木(爆心より1kmと少し離れた場所から移植した)
 

平和の鐘~ ”自己を知る” 鳴らした音は、ドームの方へ この鐘に描かれている世界地図には、国境がない。
  

原爆供養塔。と、円墳。ここに、無縁のお骨が入っている
 

当時、韓国の方も多く被災された。ここでも慰霊の催しが独自にされていた。


被爆の爆風で飛んだ墓石。爆風でいったん爆心とは逆方向に石が飛ぶものの、真空状態から次に吹き戻しによってまた石が戻ってくるため、一方向に飛ばず、このように石がバラバラの方向に散乱する


驚いた。当時、この平和公園のあたりは本当に賑わっていて、繁華街のように映画館もあれば、いろいろな商いの商家、民家、・・このように多くの人々の生活・営みがあった様子が、記憶の証言のわかる範囲で記録に残されている。このような所に、爆弾が落とされた。


動員学徒慰霊塔。


・・
さて、午前のこの”歩き”によるガイドが終わり、午後はアリーナで、被爆体験者(81歳)の証言と、現地の人による”被爆の実相”について、話を聴く。
それが終わり、解散。・・したが、また、私達は、PM6~8時の、「女性のつどい」に参加するまで、時間がある。今現在、1人。で、ひとりで少し観光気分というのか、束の間緊張を解いた。

ガイドさんが、少し苦い顔をして、高い(料金が)、と言っていた、折り鶴タワー。なかなか来ることもないので、上って見ることにした。

なるほど・・12Fまで登り、この高さから目前に、原爆ドームが見られるとは、思ってもいなかった。この観光タワー(民間)は、上るのに¥1700かかり、また、もらった折り紙5枚(セット料金¥500)を使って自分で折った折り鶴を、11Fの特定の場所から投下すると、するするとそれが1Fまで吹き抜けになった空間を落ちていく。その部分はガラス張りになっていて、なるほどビルの外からでも、その落ちていく様子と、階上の人と、また底にたまっていった鶴の山が透けて見えるようになっている。多少バカバカしい(ガイドさんも言う)ように思えたが、ちょっとここは観光客のノリになってみる。また、ここは民間業者らしく、コンパニオンらしい社員が多く配置されている。多くは若い地元生まれの人だ。ここはいっちょ大阪のおばちゃんになって、数人のコンパニオンさんと・・原水禁大会でここへ来たことや、初めての広島の感想、などなどいろいろと、地元の人から情報をもらうつもりで話を交換してみた。けっこういろいろなことがわかった。目の前の空き地は実は以前の広島市民球場で、先日は安倍総理はここでヘリコプターから降りた、とか。また、他にも。

      

さて・・ここを出て、次にまた元安橋を渡り、レストハウス・・は、この平和公園界隈では、原爆ドームとともに、2つだけ残っている、被爆建物。元・大正屋呉服店で、戦時中に、燃料会館。で、そこの地下でちょうど被爆し、命が助かった男性 野村英三さんの逸話が残る。この建物が残ったのは、ちょうど被爆した面に窓がなく頑丈だったこと。にしても、あまりにも爆心に近いため、結局この地下に居た人だけが助かった。しかも、地下には小さな窓があり、その窓からも離れた場所にいたということがあったため。その建物と、地下室がそのまま残るというので、ぜひ見てみたい。昼間のツアーでは、混雑しすぎ、見学の許可がもらえなかったが、思い切って単独で申し出ると、すんなりヘルメットをもらい、入れてもらえた。その地下を下りると、カビくさい匂いと、古いたたずまいがそのままある。狭い部屋だ。時と場合が違えば、ここであんな大惨劇に遭ったのだ。私はたまたまここで1人だったので、・・それを思い、急にあの原爆の惨事の事が、身近に迫って考えられた。

  
  

地下室を出て、地上に上がり、数分で声をかけられる、1人の男性。・・あ、大阪で知人でクリスチャンの、N田くんだ。
これは・・こんなところで会うとは。まさに Godの御業 数分、いや数十秒ずれていたら、そうならなかったでしょう。今この公園に、何千人いるんだ?。

で、写真を撮り合い。数分立ち話して、(国粋・民族主義者のデモ・スピーチもあり、警官も多いね、など) 各方向へ分かれ。



  


その後、”国立広島原爆死没者追悼平和祈念館”へ向かい、軽く見学した後、元安橋を渡って公園を北上し、食事をとらないといけないので探すが、結局時間的にまた、グリーンアリーナへ行く途中にあった、折り鶴タワーの1Fでとることにした。(原爆ドームを目とハナの先にしながら、外部デッキで食事をするなんて、びっくりした。自分でも、フキンシンな気持ちも。・・しかし、こんないつも身近で、広島の人は過ごしてるんだ)

足早に 夕方6~8時、またグリーン・アリーナへ向かい、今度は『核兵器なくそう 女性のつどい 2016 in 広島』へ、出た。(これは、必須のニンムである)

ちょっと、女性のつどい、というのは、自分に向かない気がした。最後の方は、ダレてきた。ごめんなさい。(正直)



5日の日は終わり。また、広電でガタガタ1人で宮島口までホテルに向かい、1時間、21時すぎにホテル着。相方さんは数分後帰ってきて、私は翌朝、個人行動(許可済み)で 独り、朝の「平和祈念式典」に出たい意向があるので、(席がとれる?間に合う?ワカラナイ・・)とにかく、早く寝ました。もう、身体は、昼間(帽子を忘れて、3時間も炎天下の碑めぐりをして)の活動で、消耗していました。

翌朝、気が張っているので、4時台に起きれました。5時すぎに本格的に起きて用意して、ホテルの朝食はパスして、単身6時前に出て、6時4分の、今度は「JR」で、宮島口⇒広島駅、まで。チェックアウトの荷物をすべて持って、です。調べていたとおり、JR構内のコインロッカーに、大荷物を投入。

して、また広電で、10駅先の、「原爆ドーム前」駅へ。この頃でAM6時台ですが、すでに、市内は熱気と人でムンムンです。車内は人混みで、小学生の固まりもいて、「祈念式行くの?」と尋ねたら、「そうです。」と答えていました。

平和公園についてすでに7時。とは思えない活気で、政治団体や、警官、機動隊の数が、思ったより、ずっと多い。原爆の追悼、平和の祈念、ということが、どうしても政治につながるんだな・・・

6日朝7時のドーム。さまざまなボランティアがおり、途中で、小学生の群れに、献花のための、花を無償で手渡された。また、凍ったおしぼりを、渡してくれる一団も。
 

正直、一般人が当日行って、席に座れるのか、そこからしてわからなかったのですが、近づいて聞いてみると、ふつうに入場口から入ってください、とのことで、入り口で簡単な荷物チェックを受け、座席を探すと、広大な一般座席の中の数か所がポツポツと空席になっていたので、かなり後方ではありましたが、これ以上前へ進んで座れなくてももったいない、と思い、後ろの方へ座りました。この時点で、7時すぎ。すでに、ものすごく湿度が高く、テント内でも暑いです。もし、扇子がなかったら、あぶなかったと思います。そしてこういう時には、スマホでのFACEBOOKなどへの投稿で、時間と気を紛らわせることができます。大阪の皆さんの中でも、投稿に注目してくれて反応のコメントをしてくれる人もいました。



8時になり、おごそかな雰囲気で、平和祈念式典、正式名称『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』が始まる。重々しいブラスバンド編成による奏楽の中、広島市長、遺族代表らによるあいさつ、式辞の言。また、献花、と。
そして、原爆投下の時刻、8:15、に一斉に黙祷する。次に、広島市長による「平和宣言」(5分程度)。終わるころに、鳩を放つ。私達の頭上の白いテントにまで、その陰影が映りました。それから、こどもの代表による、平和宣誓(一段と、市民による拍手が盛大に)。そして・・あいさつは、内閣総理大臣、安倍晋三氏。ここに、彼とはじめて場所を共にすることに、因縁と感慨を思いました。その直前に、私の思いを、携帯からSNSに投稿していた文章を、ここに書き写しておきます。エラそうにすみません(本音です)。{⇒”安倍首相も、この場にいます。彼も、非核、恒久的平和について、そして、各人の人権について、よくよく考えることが出来るように、思いが胸に迫るよう、祈ります。彼は今この場で、どういう思いでいるのでしょうか!”(2016/8/6 AM8:29FACEBOOKに投稿)}

平和の歌を、全員で唱和し、閉会となりました。

その後、散会ですが、思い思いに、また、特に献花のために、式典会場前方の、「慰霊碑」(安らかに・・過ちは繰返しません、の文)のところに並ぶため、また炎天下に、物凄く多くの人が、列をなしました。私も苦行ではないが、何せ並ぼうと思い、再度列で並んで待っていました。

   

この列に並んでいるときに、長い列を、あまりに暑いのにだまって並んでいる人々の背中を見ながら、以下のように思ったことを、並びながら、またFACEBOOKに書いて投稿した文を、記しておきます。この日の記念式典の中で、最も印象に残った言葉は、広島県知事の言葉で、「現実の世界においては、核抑止力、つまり核保有を論じる者が”現実主義者”で、核廃絶を訴える者が”理想主義”だと 考えられるようだが、私は逆だと思う。数字の上で、政治戦略上、○○発の、どのくらいの規模の核を保有したから我々は安全だ、という考えがされがちだが、それは”観念”でしかない。だが、私達、人は、観念で生きているのではない。核がひとたび使われると、人間の身体は現実的に損傷を受け、その人にあるはずだった、輝かしい未来・人生が、奪われてしまうことを、思えば、核による抑止力は現実的とはいえない」(言葉は違いますが、私の記憶にあるまま、書かせていただきました)でした。ですので、私も、その言葉への感動を受け、以下のように記したのであります。

”私達人間は、゛観念゛の世界で生きている者ではない。
血肉をもち、有限の存在として、だからこそ今の命を生きます。
その存在のひとりとして、人間はだれでも、核で死にたいと思う人はいないでしょう。
ならば、人類は人として、核を捨てるひとつの道しか、選択肢は残されていないと結論づけることが出来ると思います。”(2016/8/6 AM9:42投稿)

・・
この時点で、10時ごろ。また、10:30~には、”世界大会2016”閉会総会のために、ここから数百m離れた、グリーン・アリーナ(市民体育館)に、行かなければいけません。時間のある限り、せいいっぱい、いろいろ見ておこうと思い、このあとも、一度見た碑と遺跡の、文章を読み足りないところなど含め、もう1度ひとめぐりしました。

そして、ギリギリにまたグリーン・アリーナに入場し、原水爆禁止2016世界大会~広島、閉会総会、に10:30~13:10まで。
ありがとう、よい経験をさせていただきました。



この投稿を締めくくる前に、かんたんでありますが、旭区平和の会に、求められて提出しました、たった150字の稿を転記させていただきます。

『今まで自分から遠かった、”広島”と”原爆の事実”が、今回現地を訪れ、様々の当時の様子を残す碑や遺跡を見学し被爆体験者の話を聴く中で、本当にあった原爆の歴史と自分との距離が縮まり、実相を帯びて迫ってくる体験をしました。また、世界大会への参加を通し、人類の未来のために核抑止論でなく核廃絶への思いを、あらためて強く誓いたいと思います。』

あ、9月3日(土)に、旭区民ホールで催される、今年の「平和のための戦争展」では、(午後?の時間帯か)この広島での事を、少ししゃべらせていただく事があると思います。

以上は、この3日の旅程での主に、実際的に巡った事柄などの記載の一部であります。私の得た思いや知識など、無形な部分はほとんど記せてはおりません。しかし、特に1つだけ、得られた知識を元に起こりえた諸々の思考のうちの、総括と言うべきことは、やはり、人間と核の共存はあり得うべくもない、ということです。前出しましたが、核抑止による世界の平和や戦略的均衡の目論見は、論理の前に、倫理・原則として破たんしていると思います。核は人間にとって現実的でないです。人類が生き延びるためには、核抑止はあり得ず、一斉の核廃絶こそが理想であり現実であり責務であります。

実は、ここに書き得なかった、深い思いや自分の歴史・過去の内省、つまり内的世界への振り返り、反省なども、自分で思いもよらず、この広島の原爆の歴史と、原水禁運動に関する事柄を考える中で、関連づけて、気づかされた点が多いのです。それは、あまりに書き得ないので、ここでは割愛させていただきます、が 何かの折に、また個人的なつながりの中で、お話させていただく機会もあれば、と思います。それでは、これにて。