<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

重大な証(聖餐式に想う)[改題]

2010-09-25 16:38:20 | デボーション(瞑想)。
土曜日の午後です。安息日(土曜日)にブログを書くの、めずらしいでしょ?。

・・。

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人と神との関わりで、私はモノを考えたいです。

ともすれば、人間関係の間の世界で、見失いそうになります。自分の本当に願っていることとか、見えないものとか、それと、物事の後ろにある、本当の意味とか。

人だけがこの世に生きているという前提で考えたら、気がおかしくなりそうです。だって自分の事を本当に理解する人間なんて、自分自身を含め0(ゼロ)人だから。

もし人間だけで、この世をなんとかしていかなければならない、(自分自身の人生も含め)と思ったら、絶望の淵に陥りそうです。・・・ ふと時々錯覚する瞬間はあります、(神抜きで自分の人生を生きているという錯覚) でも大抵次の瞬間に何か(大なり小なり)が起きて、すぐにそれが錯覚で、主との対峙という構造の中でしか、生きられないんだな、っていう感覚に戻されます




教会に行きました、土曜日だから。

そこで過ごしながら、今日はこのような事を思いました、前記のことから始まって

一週間にあったいろいろのことを思い合わせながら、母子室(子供小さいし)などで礼拝説教を聴きながら 考えるわけですけれど

 ・陰気臭い顔つきで信仰深いふりをしながら”宗教”するのでなく{決して誰かの事を指していません・むしろある時期の自分自身だったかな}

 ・また、小さな(教会という)顔の知れた同志の中での一体感・安心感で満足するのでなく

⇒願い・真に、あなた(神)とともに、日々の人生を歩むことができますように、ということです。

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デボーション[瞑想]

洗足聖餐式(せんそくせいさんしき)という式が今日はありました。

よくある・・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(イエスと12人の弟子の13人が同じテーブルについている)絵の光景、その中で、イエスが「(御国が来るときまで)・・私を記念するために、このように行いなさい」と私達に命じていかれたため、この式があるのです

とりなし というのをご存じでしょうかー・・ まあ、子供がお父さんに、何かをして叱られる。ところに、例えばお母さんが、「まあまあ、今回は ゆるしてあげて こういう理由があったんだし」
(あんまり的確なたとえではありませんが)と、まあ相手の為に有利に取り計らってあげるということか。

重大な証(発表)をします。と

・・つととある18年前、私は独り大阪に居りました。その時

夕焼け空のあまりの美しさと、その空の下に在る、大阪の下町を行き交う、車の騒然さ・人のやかましさの”対比”の著しさに一瞬 

「これは、だれかが ”とりなし” をしているー」と

こう思ったんです
洗礼を受ける1年前ですし 聖書も未だ読んだことがなかったんです。(一度も)

聖霊、というのを聞いたことがありませんか、これがそのそれのなせるわざなんかな(教えてくれる)、と思います。 (もっとも教会はそのあとで通うようになったんです)

あ、注釈がー もちろん とりなし のわざをされたのは、イエス(キリスト)ですね。

それとー

命の話、になると、重すぎて ここでは どなたが読んでくださってるのか、すべての顔がわかるはずもないので、あまり軽く書くべきでない、ことは私でも注意したいんです

その上で、これだけ思いを記してる場所なので、だんだん中途半端にしたくない思いも募ってきて-。だれも不快に感ぜず、また自分も傷つくことのないように、よいところで効果的に筆(筆ちゃう)がキマるのが好ましいのですが。

つまり・・命の話ですね これは、人は自分自身の命を捨てることも、また1日でも長くすることも、正確な意味では、不能なことなんですね (他人の命をうばったり、傷つけたりしてもいけない、というのもこれから言う意味に同じく理由を起するのですが)

それは被造物たる私たちは創造主なる神の所有物である、ということに発端を起するのですが

それにしてもー・・。

なぜか。私はですね 昔(子供)のころから、何かの拍子に
自分は神(さま)ととても距離(間)が開いてしまって、もう元に(自分の力では)戻れない
と思って
それは、自分の罪のせいであったり、他から及ぼされる罪の結果であったりもするのですが
それで失望、→絶望感におちいったことがよくあるんですね
そんなときは聖書にあるように(聖霊みずからがうめきをもって、とりなしの祈りをしてくださるーのとおり、注・もちろんクリスチャンではその時はありません。)その祈りのおかげで、なんとかまた我をとりもどして、なんとかやってきましたね
ところが ある時 とうとう命を捨てたくなるようなところにまでなりました。
やがてそのように実行していくことになるわけですがー

命の操作が、自分自身で出来ない、とどうやらわかりだしたのは そういうことを経てですかね。
おそろしいことですが、進化論、無神論ベースで行くと、そうしてもよいこと、可能、ということにたどり着くんですよ。・・その時の私は神の存在を知りませんでした

しかしね、そういうことを経て行くうちに・・どうやらちがうんです

ちがう、なにがちがうって??どうやら・・下駄をはかされてるんです、意味がわからない?か、
えーと、下駄をはかされてる=身の丈よりも、大きくされている
ボーナス・ポイントをいただけてる、んです

自分がしたこと・・(犯罪じゃないですよ)罪、というのは聖書でいう人間がおかす、原罪たる”罪”ですが、このおかした罪による隔てが私を神から遠ざけ、そして滅びても文句の言えないような立場になっているはずが・・どうもおかしい。どうも、ボーナス・ポイントをもらえてる。だれかにかばっていただいて、自分がしたよくないことを帳消しにされ、神に直接ゆるされているー とりなしのわざをそこに、感じるんですね(繰り返しますが、クリスチャンの知識をつける前ですよ。)・・・どうやら
”誰か”が介在している・・生きた存在。それも、とりなしてくれる、愛情たっぷりで、それも”個人的に”自分を愛してくれている存在がね。
それが この記事の冒頭、聖餐式をとりおこなさい、と遺言して、十字架の上に行かれた、イエス・キリストだったんですね。それはもうまちがいないですね。個人的に・・クリスチャンになる前に、父・子・御霊(聖霊)の神が、私に教えてくださってるんですから。

私たちの、これまでの罪もこれからの罪もすべて、2千年前に十字架上で、贖(あがな)いのとして、すべてキリストが全部、清算し終わってくれてたんですね。だから、負い目があっても、私達は堂々と命をもらえて、生き延びていいわけです。
20年以上前、死ぬんだどうなんだとぐだぐだ考えていた私の罪も、信じるならば その自分の感じてた”罪”を、すべてゆるされていたんだ、と。

そんなことがわかっていったのはまた神のおかげですね。

教会の使命は、そのこと(福音=イエスのおかげで、罪ゆるされること)の真実を、みなに告げ知らせることなんです 

えーとつまり、・・今日の聖餐式では・・実際にすごく、20年以上前のあやまちは、直接にイエス・キリストが ”身代わり” になり、また ”とりなし” をしていて くれた おかげで、今日私はここに命あるものとして生きているんだ、と切に感じましてね かっこわるくはあったけど、こうやって土曜日にここに記そうと、した次第であります。

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