カトリック清水教会聖堂、建設の歴史
このブログで3回、清水カトリック教会の「木造ゴチック双塔の聖堂」について書いてきた。この聖堂は、静岡市清水区の高台にあり、建設当時は富士山と清水の町清水港が眼下に丸々見えた景勝地。清水港には現在クルーズ船が年に70艘入っているが、間もなく倍の140艘入る予定で港の整備が行われ、今も発展途上にある。
世界遺産になった<三保の松原>にも近い。
まず改めて、この聖堂を建てた仏人宣教師のドラエ師のことから始めたい。
ドラエ師は1884年生まれ、パリミッション会の宣教師になり、1914年30才で静岡県地区の宣教の使命を担った。当時のドラエ師は、浜松から富士宮市にかけて約100キロを自転車で駆け回った。交通網が未整備だった時代に、出会う人々と話し合い東奔西走の日々だったと伝えられる。
ドラエ師が初めて清水の地を訪れた時、人口わずか3万5000人に満たなかった所だったが、霊峰富士山を仰ぐ天然の良港の地、自らもフランス北部の港町:ブローニュ育ちの師は、静岡県の<宣教中心地>としての将来性を感じ取っていた。立地で目を付けたのは、高台にある徳川家康の<浜御殿>の跡地で、キリシタン迫害時代には、すぐ近くで6人の殉教者を出した所でもあった。
しかしドラエ師が、この地を手に入れることは難しかった。外国人宣教師だからだけではない。日本がロシアを相手に戦争を始めた時期と重なり、土地価格が10倍に急騰、資金不足で計画はとん挫した。しかしドラエ師は、宣教の熱意にあふれた人「この地に学校や聖堂を建て、宣教の拠点にする」ことを、決して諦めなかった。
ドラエ師はまず、県の西寄りの藤枝市に1909年、小さいがゴシック様式(こうもり天井)の聖堂を建てた。(1978年に市内の岡部町に移築されて現在に至る) 珍しい建物が人々の目を引き、宣教のきっかけとなることを願ったのであろう。
その後、静岡市西郊外の谷津地区に、2つ目の小さな聖堂を建て巡回教会とした谷津教会は非常に小さいながらも、美しい木造聖堂で、「国の指定文化遺産」になったが、2012年に残念ながら焼失した。しかしこの谷津地区は<信仰の村>と呼ばれるほどになり、ここから内野作蔵神父が誕生し、埼玉県内で活躍、後に浦和教区の教区長(司教)となった。今でもこの地の出身者は、信仰熱心だと言われている。
ドラエ師は、自然豊かな谷津が気に入り晩年をこの地で過ごした。病弱だったドラエ師の診察には、清水教会で親しくなった仏教徒の中村医者が、清水から遠いこの地に通っていたと。ドラエ師は今、聖堂裏側にある高台の墓地で、谷津の人たちと安らかに眠っている。
1930年頃にドラエ師は、浜御殿の跡地に、当初「幼稚園を」と希望したが、規約上難しいことを知り、聖堂を建てようと想いたちフランスの故郷に行った。その地の信徒らが寄付を募り、パリミッション会日本管区の賛同を得て1935年、ドラエ師は清水に来て約20年後、浜御殿跡地の高台に「総ヒノキ造り、双塔ゴシック様式清水教会聖堂」を、完成させた。この聖堂は、今壊れたら元通りに作れないほど、高度な技術が詰まった建物だと言われている。
これが現在も同地に屹立する「カトリック清水教会聖堂」である。ドラエ師の情熱と大工たちの技術、それに応える清水小教区信徒の総意が支えとなって、今日まで聖堂は85年の風雪に耐えてきた。
戦時中1945年7月の大空襲、艦砲射撃にも奇跡的に免れた。ポツンと残った聖堂内に、助けを求めなだれ込んだ市民を、ドラエ師は、近くの中村医師と力を合わせ応急処置をした(生き残った人々の証言から)。ドラエ師は東京の孤児たちを、50人も疎開のため司祭館に受け入れ、これも信徒と協力して助けた。戦中、2度の震度7前後とも伝えられている大地震にも聖堂はビクともせず、清水区民を高台から見守り、地域信徒の活動拠点ともなっている。
「聖堂を取り壊して建て替える」と言う<教区の新方針>と、小教区内の動き
2014年、清水・草薙両協会に主任司祭としてT師が赴任して来られたすると間もなく、隣の草薙教会の信徒が意外な情報をもたらした。「T師が、聖堂と信徒会館を一緒にした新しい清水教会の完成イラストを、草薙の信徒らに見せている」と言うのだ。「清水教会は、今の聖堂を取り壊すの?」と聞かれ・・・清水の信徒は仰天した。 「信徒会館が古いから新築する必要がある」ことは聞いていたが、「現聖堂を取り壊して新築する」とは…、清水小教区の信徒にとっては初耳だった。
そういえば、15年位前か、「この聖堂は一寸大風が吹いても壊れる」という噂が広まり、隣接する聖母保育園の子供たちに聖堂で祈りをさせない時期があった。しかしその後、それが単なる憶測だと分かり、聖堂内での園児の祈りは復活していた。
それでも当時の信徒委員長は、<将来、聖堂を残すかどうかを判断するためには客観的な根拠が必要だ>と思い、保育園に長年来ていた信頼できる日本建築にも詳しい一級建築士、古池春雄氏に診断してもらった。
古池氏は、天井の裏側にも入って入念に診断した。そして「この聖堂は木造建築にして素晴らしい、美しい建造物。部分的に修繕すれば十分にまだ使える」との診断結果が出た。
ところがこの診断結果と前後して、「聖堂は負の遺産だ」と宣伝され始めた。又、「修理代がないから、残すことはできない」とも。2015年夏ころ、清水教会の信徒は小グループで「聖堂を残すべきか、建て替えるか」を話し合った。その時の私の体験だが、教会の集会室でフィリッピン人学生2人と日本の若者2人に「聖堂を取り壊して新しくする方がよいと思うか」聞いたところ、4人とも「残してほしい」と言った。「もし地震で壊れたらどうする?」と重ねて聞いたら、「壊れたらその時に考えればよい、ミサならテントでもできるし」と言った。
その時点でほとんどの信徒は「結婚式や、父母の葬式もしたこの想い出ある聖堂を残したい」気持ちを強く持っていたが、大地震が来るのではないかと言われて、迷う信徒が多くなってきた事実も否めない。
信徒にアンケートを取ったところ、「残す」「取り壊す」が半々だった。困った信徒委員長は、教区の司教様に「決めて頂きたい」と手紙を出した。その後も信徒らは小グループで「聖堂をどうしたいか」話し合いを重ねたが、結論は出なかった。この頃からT師を中心に、信徒たちに「取り壊すべきだ」と言うプレッシャーがかけられていた。
2015年11月、横浜教区から派遣された一級建築士が来た。十分残せると診断した古池氏(宮大工)が一緒に立ち会ったが、横浜からのその人は古池氏の顔も見ず話しもしない。天井裏や地下を見ることもなく、外観だけを見て「天井や塔が高すぎるから壊れる」と独り言を言って帰った。(古池氏は、この人は<日本建築を知らない人だ>と怒った)
間もなく横浜教区から「聖堂は残せないものだと了解してほしい」と言う手紙が来た。しかしこの時点で、信徒委員長、建設委員長の2人は、この文面が「聖堂を取り壊す」と言う意味であるとは全く理解していなかった。信徒委員会にもかけないのに、主任司祭から「すぐ返事を出すべきだ」とせかされて「了解しました」と言う返事を送ってしまった。するとT師は「司教様の望み通り、これで聖堂取り壊しは決まった」と公言するようになった。
意味の取り違え、意に沿わない返事をしたことを逆手に取られた信徒委員長は、後日「あの返事は本意ではなかった、取り消したい」と手紙を送ったが、司教からの反応はなく、T師は「聖堂の取り壊しは決定した」と信徒委員にお触れを出した。(つづく)
* トップの写真は<清水の町と富士山
* 後ろからの清水教会聖堂(オレンジ色の西洋瓦が美しい)

聖堂の内部(脇祭壇:マリア像側)

