ドラエ神父は1884年、フランスの北、ドーバー海峡に近い港町、ブローニュに生まれた。「パリ・ミッション会」という宣教会に入り、日本に来た。当時、パリ・ミッション会は東洋に宣教に行くのが目的で、日本や中国にに出たら2度と故国に帰ることはなかったので、命を懸ける信仰心がないとダメ、故郷でも尊敬された。
ドラエ師が静岡に赴任したのは1914年30才。県西の浜松から東の富士の当たりまで100キロ以上を自転車で宣教した。今なら新幹線あり、車で高速道路なら1時間半~2時間だが、舗装もされていなかった時代の道路を、走りながら宣教したという
ドラエ師が初めて清水に来た時、人口は3万5千人にもみたないさびれた町村だったが、富士山を眺望する港町の将来性に着目し、教会建設の構想を抱いたと。
やがて現在、清水教会がある絶景の高台の地、すぐ近くに6人のキリシタン殉教者が出た地でもあるが、港が見える丘の上:徳川浜御殿の跡地を見つけた。時は第一次世界大戦、日本はロシアと開戦し土地が10倍にも急騰、資金不足で、その計画は頓挫した。しかしこの地に聖堂を建てることを諦めることはなかった。
ドラエ師は静岡を拠点として宣教、郊外の「谷津」と言う所に1920年小さな聖堂を建てた。木造だが非常に美しいもので、「国の文化財」に指定され、毎年、大勢の小、中学生たちが先生と一緒に見学に来ていたと。
ドラエ師が谷津で宣教した頃のエピソード。知的で優しいドラエ師は、その地の人たちと仲良くなり、キリスト教にも大いに興味を持たれたが、1年たっても信徒になる人がいなかった。ある日、突然ドラエ師が村人たちを前に怒り出した。「あなたたちはキリスト教に興味があるのになぜ勉強しないのか! 毎週勉強しなさい」と未熟な日本語ながらすごい剣幕だったと。仏様のように優しかったドラエ師の剣幕に、驚いた村人たちは毎週勉強して、イエスの教えを信じて洗礼を受けた。その後、その谷津から内野神父が排出、埼玉地方を司牧し、後に浦和教区長(司教)になった。静岡で名だたる<信仰の村>をドラエ師はつくった。
谷津教会は10年位前に火事に見舞われた。それを知った全国の信徒からお金が送られてきた。信徒たちも資金を出しあって、前のものには及ばなくても聖堂を建てな直したいと思った。が、現管轄責任者の司教が許さなかった。今は庭にマリア像があるだけになっている。高齢化しているがその地には、今も信仰深い信徒がいて、その一人は清水教会にいる。80代の男性だが、その祈る信仰深い姿を見るだけでも、私たち信徒の刺激になっている。
上の写真は、ドラエ師が最初に建てた「谷津教会」 小さいながら、バックの山の景色と共に美しい和建築。その裏手の丘の上には、村の人たちと信徒たちの墓地があり、その中心にドラエ師の少し目立った墓がある。
<清水聖堂を建てたドラエ師(その2) を後日掲載の」予定>