アトムの子のスピリチュアリズム日記/東京スピリチュアリズムサークル(旧 埼玉シルバーバーチ読書会)感想

     
      この地上人生を生きる目的は、『霊界』という本来の世界へ帰るための準備期間です。

10月の読書会に参加して…

2012年11月17日 20時56分02秒 | 日記

 

朝晩の冷え込みがだんだん厳しくなり、朝起きるのが辛くなってきました。また、日々仕事に追われていたせいか、木々の葉の色の移り変わりに先日まで気がつきませんでした。自然は急ぐことなく焦ることなく、季節の順番をきちんと守りながら、1枚1枚ゆっくり葉の色を赤や黄色に変えていっているはずなのに、私はゆっくり空を見上げることも、木々を見つめることも出来ていませんでした。

私は決して、(季節の流れが分からなくなるほどの)仕事人間ではないのですが、職場の状況が変わったこの数ヶ月のあいだ、いろいろな形で霊的視点からと地上的視点からの学びに時間を割いていたような気がします。1日の仕事の時間が長いため、仕事がスムーズにいく・いかないは勿論ありますが、なにより職場は相手があることですから、相手の感情に振り回されて落ち込むこともあります。理不尽なことを言われたりもします。それでも自分の感情は横に置いといて、職場や相手を明るく楽しくしたいという気持ちが強くありますから、元気に対処していかなければなりません。人によっては、「あんなに怒られて、よく辞めないでいられるね」と言う人もいますが、男性のなかに混じって女性1人、日々の仕事の段取りや流れを考えたり、知識の勉強や技術の追求などの奥の深さ、どれをとっても、今世の私にとってはとても有意義な時間であり大きな学びの場になっています。

確かに、苦難や突然の壁には弱い私です。この職場1つとっても、今回は無理かもしれないという出来事が何度かやってきました。しかし、いざ苦難や壁が来た時は、その場しのぎの安易な道を選んだり、自分に言い訳したり、逃げるのだけは絶対にしたくないと思ってきました。例え生き方が下手だと言われても、損した生き方だと言われても、不器用ながらも壁を乗り越える方法や進む道は(自由意志のどのランクを選択するかの問題だけで)必ず用意されていると思っています。なにより、この私だけに用意された経験やカルマ解消のチャンスを、ここで逃すのはもったいない気がしています。

ただ、そう言いながらも、普段は自分にとても優しい(甘い)私です。日々の生活習慣を見直し、来年に向けてもう少し自分を律していきたいと思っています。必ず「霊界の道具」になることを目標に、どこからでも少しずつ変わっていきたいと思ってます。もちろんこれからも苦難がきた時には、先延ばしにはせず、いろいろな方法で悩みながら考えながら乗り越えていくつもりです。


さて、今回(10月)の読書会では・・・


奉仕(サービス)こそ霊の通貨(コイン)です。宗教とは何かと問われれば、わたしは躊躇(ちゅうちょ)なく申し上げます――いつどこにいても人のために自分を役立てることです、と。神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。

※ここでの奉仕(サービス)とは、利他愛の実践のことです。霊界に持っていけるだけでなく、霊界でも通用する「通貨」(魂の宝)が得られるのです。そして、いつどこにいても人のために自分を役立てることが、地上でも霊界でも通用する本当の意味での「宗教」なのです。しかし、人は先に、物質的外観を整えようとしてきてしまったのです。


自分を人のために役立てること、それが宗教です。あなたの住むその世界のために役立てるのです。世の中を明るくするために役立てるのです。人の心を思いやり、やさしくいたわり、気持を察してあげなさい。しかし同時に、邪悪(魂を阻害する)なものに対しては敢然と闘ってください。

※シルバーバーチのこの言葉は、いつどこの交霊会でも同じことを言っています。スケールは大きく感じますが、利他愛は決して難しいことではないのです。霊界の人たちは、常に実践していることです。霊界の人たちと共に働いていくには、同じ気持ち・同じ姿勢にならないといけません。


わたしが地上へお伝えに戻ってきた真理とは、こうした何でもないことばかりなのです。しかし、こうした基本的な真理にしがみついてさえいれば、道を誤ることはありません。霊的知識を広めることです。ときには拒否され、ときには嘲笑され、軽蔑され、愚弄されることもあることでしょう。しかし、気になさってはいけません。そんなことで傷つけられてはなりません。用意のできていない者は当然受け入れることはできません。でも、それであなたは、あなたの為すべきことをなさったのです。

しかし、一方には、それが干天の慈雨(じう)である人もいます。そういう人こそ大切なのです。その人たちのお役に立てば、それだけで、少なくともあなたの人生は存在価値をもつことになります。

※霊界人にとっての「真理」は何でもない普通のことですが、地上人にとって「真理」に沿う生き方はとても難しいことです。しかし苦難の時ほど、その「真理」にしがみつけるかどうか、私たちスピリチュアリストとしての生き方が問われます。人は苦しいときほど、逃げたくなるものです。しかし逃げるということは、乗り越えるべき苦難を先延ばしにしただけではなく、やっとここまで積み上げてきた自らの霊性の位置にさえ(楽な方に逃げるというカルマを作ったため)戻るのを困難にさせてしまうのです。

※霊的知識を時期の来てない人に伝えるということは、相手にとっては当然受け入れられないことです。それでもあなたが真理を広めようと努力しているその行為や動機は無駄にはなりませんし、素晴らしいことなのです。

※人が死ぬ間際に、「自分の人生いったい何だったんだろう」と思うのは、死後の世界も知らず、人生の価値も分からないまま過ぎてしまったからです。真理や霊界の存在が分かっているかどうかで、私たちの人生の意義は大きく違ってきます。


どうか、わたしがこれまでに述べてきた知識の中から、物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりに存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ち構えている霊の存在(※1)を認識してください。あなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが、自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫、魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であるということ、宇宙の宝物(ほうもつ)は無尽蔵(むじんぞう)であるということの意味を、しっかりと理解してください。

わたしたちは金や銀の財宝をお持ちしてあげるわけにはまいりません。が、それより無限大に貴重(※2)な、霊的真理という名の宝石をお持ちしております。これは色褪(あ)せる心配がありません。永遠に価値を発揮しつづけます。これさえ携えていれば、人生を生き抜く上での、光輝あふれる照明(※)となってくれます」

※1)人のために働きたいと・役立ちたいと思えば、それに呼応する霊がいるのです。

※2)私たちは永遠に霊的成長をしていくわけですから、この宝石は財産なのです。

※3)霊的光がなければ、心配事だらけで何を支えに生きていけばいいか分からなくなります。「真理」という霊的光は、何を信じ・何を持って生きていけばいいのかをハッキリ教えてくれているのです。

 
ここでP62を飛ばし、先にP63「道義心」のことを学んでいきたいと思います。先に「道義心」を学んでおくと、P62の「動機」が理解しやすくなります。


「善と悪は、何を規準にして判断したらよいのでしょうか。人間一人ひとりの問題でしょうか、それとも霊的法則の中に細かく規定されているのでしょうか」

「一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に、絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれています。これまでに何度となくこの問題が持ち出されましたが、わたしには一貫して主張している見解があり、それを変更する必要はみじんも認めません。

※地上に生まれた時から、人間の中には判断装置(モニター)が組み込まれているのです。


これまでに獲得した霊的知識を総合的に検討した結果として、わたしはこう申し上げております。すなわち、正常な人間であるかぎり、言いかえれば、精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることのない装置が正常に働きます。いわゆる道義心(※1)です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く、不変の指標です。それが、いかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げてくれます(※2)。それを人間は、時として揉(も)み消したり、言い訳や屁理屈(へりくつ)で片づけようとします。しかし、真の自我はちゃんとわかっているのです」

※1)「良心」(conscience)と同一の意味で、同じ単語を
近藤千雄さんがここでは「道義心」と訳しています。大霊(神)の不変の真理を基準にしているのです。

※2)霊的本能として、霊的真理に沿う方向(魂を成長させるための方向)を指示してくれるのです。

※無垢な魂は、いつでも「魂」を成長させたいと思っています。しかし、そこに色々なカルマや自由意志が出てきて、魂の叫びが聞こえなくなるときがあります→聞こえなくなってしまった時は、真理に沿うことが出来ずに、もっと大きなカルマを作ってしまうことになります→その時は、強制的にカルマを精算するようにもっていかれます。

※『善』とは…今は苦しいけれど、きっとこの方がいいだろうと判断し対処・努力した行為をいいます。、その時は、モニターが正常に働いているのです。逆に『悪』とは…苦しいのはどうしても嫌だからという自由意志を選び、逃げたときです。その場合、カルマの精算は別な機会になります。


ここで改めて、P62「動機」の内容に戻り学んでいきたいと思います。


「私たち兵士が外地を転戦した時、みんな敵の方が悪いのだと思って戦いました。しかし、考えてみると、その敵もみな、その戦いにかける大義名分があればこそ戦っていたのです。こうした場合、罪の報いはどうなるのでしょうか。われわれは敵が悪いと思って戦い、敵は自分たちこそ正しいと思って戦っているのです」

「いかなる問題においても、わたしたち霊界の者は、地上的観点から見ていないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている、近視眼的無分別に振り回されることは絶対にないことを、まず申し上げておきます。

さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における摂理の働きを体験してきたわたしたちは、地上の人間を悩ませる問題を、人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野では捉えていないということも知ってください。

※ここは先に学んだP63の「善・悪」と同じで、霊的観点から見ています。地上人とは全く逆の見方をしているのです。


以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりまず第一に考慮すべきことは、“動機”は何かということです。自分は正しいことをしているのだと、真剣に思い込んでいる人は、魂に罪過を負わせることにはなりません。いけないことと知りつつも、なおも固執する人間は、明らかに罪過を犯していることになります。なぜなら、道義心を踏みにじり、魂の進化を阻害していることになるからです。わたしたちの目には国家の別はありません。全体が霊的存在で構成された一つの民族であり、一人ひとりが、国家の法律ではなく、大自然の摂理によって裁かれるのです」

※罪になるかどうかは「動機」によるのです。自分が正しいと真剣に思っている人を罰することはできません。しかし、先に「道義心」を学んだことで理解しやすくなりましたが、ここで大切なのは、いくら『動機』といってもあくまでも「利他愛」が大前提ということです。自分を満足させるためとか、地位・名声を得たいためにというものなら、例え気持ちを隠していたとしても本当の「利他愛」ではありません。もちろん、霊界からはすべて見られています。真理普及(伝道)を例に上げていうならば、どんなに稚拙(ちせつ=経験が少なく、未完成な点が目につくこと)であったり、伝え方が未熟であっても、相手を思う気持ちがあればいいのです。大事なことは、「利他愛」という真心があるかどうかなのです。また、普段から魂を磨いていないと、そういう時に神の声が届きにくいものなのです。

※また『動機』と言っても、「思い込み」もあります。魂は正しい判断ができているのですが、そこを何重にも自分の気持ちを隠し、自分は正しいことをしていると思い込んでいる場合があるのです。

※間違ってると知りつつ、悪や罪やカルマなどで「道義心」を踏みにじり、自分なりの判断で「魂の進化」を阻害することは明らかによくありません。あくまでも摂理に沿った努力がなされているかどうかで判断されるのです。




参考資料;スピリチュアリズム普及会より『地上人類への最高の福音…2章 悟りは苦しみの中から生まれるのです(P60の1行目~P64の2行目)』