夏音

「なつのね」ぶろぐ

"ユビキタス"を語源から考える

2005年11月03日 20時04分03秒 | テクノロジ
ユビキタスうんたらな講演を聴いてきたんだけど,なんとなく
腑に落ちないことがあったので,書いてみる.

"ユビキタス"のコンセプト自体はゼロックスのマーク・ワイザー
という人が提案したものである.

彼が意図していた世界と今,多くの企業/大学関係者が語る
ユビキタス世界が同じなのか?,という議論もあったりするが
ここでは議論しない.

本題だけど,どうしても気になったのが次の1点.

"ユビキタス"という言葉は元々はラテン語を語源としており,
元々の意味は「神が至る所に存在する/見ている」というところ
から来ているらしい.

で,この「神」って言葉が気になったところ.
ラテン語が母国語であったローマはキリスト教を国教とするまで,
多神教国家であった.例えば,“融和”なんていう概念的なものを
神として神殿を作ったりしていたし,帝政時代では死んだ皇帝を
神にするなんてこともやっていた.
この辺の感覚は八百万の神を生み出した日本人だと理解しやすいと思う.

で,この多神教の「神」って存在は決して,生き方そのものを指し示す
存在ではなく,努力する人を見守る神(お賽銭投げて祈るときに考えてる
ことを思い出せば理解できると思う)として解釈するのは,それほど
外していないと思う.
#この辺の考え方は塩野七生的.感化されてるなぁ.(^^;

つまり,主体的に行動する人間像が前提となっている.

でも,今語られているユビキタス世界で生活する人間はどれほど
主体的に行動しているのだろうか?例えば,こんなサービスが
想定されている.
 街を歩いていて,その近くで嗜好にあった商品があれば,
 それをお知らせするメールが届いたり,自宅に到着前に
 エアコンの電源が入り,帰宅時には快適な空間が….

さて,どこに主体性があるだろうか?

技術の進歩の点から,ユビキタス世界の夢を語るのは結構である.
でも,何か大きな見落としをしている気がしてならないのは気の
せいだろうか?

東浩紀氏が公開した「情報自由論」の「第4回 イデオロギーなしの
セキュリティの暴走」
に次のような一節がある.

> 本論の主題のひとつは「セキュリティ security」である。筆者のような
> 哲学系の研究者はすぐ語源を調べたがるものなのだが、じつはこの言葉も、
> 語源を調べると興味深いことが分かる。「セキュア secure」とはもともと
> ラテン系の言葉なのだが、これは、配慮や関心を意味する cura(英語の
> careの語源でもある)に、欠如を意味する接頭辞 se が付されて作られた
> ものだと言われている。つまり「セキュリティ」とは、語源的には、配慮や
> 関心がない状態(without care)を意味する言葉なのである。とすれば、
> 「セキュリティを高める」とは、ただ安全性を高めるだけではなく、世界に
> 対する配慮を必要としない状態を作りあげること、人々ができるだけ何も
> 考えずに生活できる世界を作りあげる行為を意味することになる。

「コトバ」とは古代の人の叡智が創り上げた一つの文化である.
その起源を調べることで,彼らが何を考えて,一つ一つの「コトバ」を
生み出したのか考えてみると,何か大きなインスピレーションを得ることが
出来るのかも知れない.