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ビジネスは人なり 投資は価値なり

2009-09-12 14:28:56 | 投資関係で成功するための本
「支払う金額に見合わない価値のものに投資する事は、あり得ない」
著者/ロジャー・ローウェンスタイン 出版社名/総合法令出版 1,890円


世界的な投資家ウォーレン・バフェットに関する成功本が、この『ビジネスは人なり 投資は価値なり』です。

彼の投資哲学の真髄は、「支払う金額に見合わない価値のものに投資する事はあり得ない。値上がりを期待して差額を儲けようとするのは、投機である」というもの。

彼は、投資の世界で成功した第一人者と言ってもいいほどの大物です。

では、ウォーレン・バフェットとはどんな人物なのでしょうか。

◆ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett、1930年8月30日 -)はアメリカの著名な株式投資家、経営者、慈善家。現在は、世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの会長兼CEOを務める。

明確な投資哲学・スタイル(長期投資を基本スタイルとする点など)や先見性、慈善事業に積極的なこと、大富豪となっても質素な生活を送っていることなどから、他の投資家はもとより世界中から尊敬を集めている人物であり、敬愛の念を込めて「オマハの賢人」(Oracle of Omaha)とも呼ばれる[1]。

毎年オマハで開催されるバークシャー・ハサウェイの年次株主総会に、バフェットと同社の副会長で、バフェットの長年のパートナーであるチャーリー・マンガーの話を聞くために世界中から数万人にものぼる株主が参加することは有名である[2]。

◆概要
バフェットは株式投資で成功を収め、フォーブス誌によるアメリカの長者番付フォーブズ400では1986年の5位以来、毎年ベスト10に入り続けている(2008年現在)。[3]世界長者番付ではビル・ゲイツが1994年から13年連続で1位となり[4]、バフェットは2位になることが多かった。バフェットは2007年に前年から資産を100億ドル増加させ、620億ドル(約6兆4360億円)となり初めて1位になった(米国内の長者番付では1993年に1位になったことがある)[5][6]。

バフェットの資産は主に自身がCEOを務めるバークシャーを通じて形成されている。[7]バフェットの生活は質素で、1958年に31,500ドルで購入したオマハの郊外の住宅に今でも住んでいる。バークシャーから年に10万ドルを受け取り、暮らしている[1]。

2006年6月にバフェットは資産の85%にあたる約374億ドルを5つの慈善財団に寄付すると発表した。これはアメリカ史上最大の金額であり、寄付はバークシャーのB株の形で寄付残額の5%ずつ毎年支払われる。寄付のうち約310億ドル(B株1000万株)は友人であり2004年からバークシャーの社外取締役を務める[8][9]ビル・ゲイツのビル&メリンダ・ゲイツ財団に[10]、残りは4つの財団に寄付される[11][12]。

◆生い立ち
バフェットは1930年にネブラスカ州オマハで証券業を営むハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。バフェットは幼い頃からビジネスを始めていた。例えば祖父からコーラを6本25セントで購入し、それを1本5セントで売ったり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなどを行っていた。[13]

バフェットは11歳の時に初めて株式を購入した。姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入したのだが、その後、1株27ドルまで下落した。バフェット達は1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。この経験からバフェットは忍耐を学んだと後に述懐している。[14]

1942年に父親が下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越したが、当時12歳のバフェットは新しい生活になじめず、祖父の家からオマハの学校に中学2年まで通うことになった。[15]1943年には自転車を仕事の経費として控除し13歳で初めて所得税を申告した。[16]。中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。また成績は芳しくなかったが、新聞配達の方は絶好調であった。

その後、中学を卒業したバフェットはワシントンD.C.に戻り、高校に進学した。[15]高校3年のときに友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになった。[17]その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却している。

1947年にペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退し、ネブラスカ大学オマハ校に編入した。ネブラスカ大学を卒業後、ハーバード大学ビジネス・スクールに入学しようとしたが断られた[18]。その後、コロンビア大学で著名な証券アナリストであり、『賢明なる投資家』の著者のベンジャミン・グレアムとデイビッド・ドッドが教職についていることを知ったバフェットはコロンビア大学のビジネススクールに進学し、投資について学んだ[19]。

グレアムが保険会社GEICOの重役であることを知ったバフェットは、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かった。門前払いをされそうになったが、中に入れてくれるまでドアを叩き続けたという。そこでバフェットは当時の副社長、そして後の友人であり、影響を受けたLorimer Davidsonに会った。[20]

1951年に大学院で修士号を取得後、ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対された。バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。バフェットは故郷オマハに帰り、株式ブローカーとして父の証券会社で働いた。テキサコガソリンスタンドに資産の20%を投資したが、後に失敗した投資の1つとして語っている。[21]また、人前で話をする訓練のためにデール・カーネギー演説コースを受講した。[22]学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで平均年齢が彼の2倍以上の受講生に"投資原理"を教えた。この頃にスーザン・トンプソンとデートをするようになる。

1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈った。後にビル・ゲイツがバークシャーの子会社の宝石店ボーシャイムに指輪を買いに来たときに例に用いて諭している。[23]1953年に長女スージーをもうけ、翌年には2人目の子供で長男ハワードが生まれた。

◆パートナーシップ経営
1954年にグレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマンに証券アナリストとして入社した。(初任給は年間12,000ドル)ここでは後に著名な投資家になるウォルター・シュロスと共に働いた。1956年にグレアムは引退し、グレアム・アンド・ニューマン・カンパニーは解散した。グレアムはバフェットを評価しており、1970年代の後半に『賢明なる投資家』の改訂を行っていたグレアムが入院した際に手伝いをバフェットに依頼した。バフェットは根本部分は変更せずにインフレや企業分析について改訂を提案したが、退院したグレアムは自分で改訂作業を行った。[24]

大学を卒業して以来の貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。バフェットは故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。1957年にさらに2つのパートナーシップを追加でつくり、合計5つパートナーシップを運営した。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、1957年にファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入した。この家にバフェットは現在も住んでいる。[1]

1959年、後にバークシャーの副会長となるチャーリー・マンガーに出会い、2人はすぐに意気投合した[25][26]。彼は会社の成功の要になる。1960年にはパートナーである1人の医師に10,000ドルを投資する気がある10人の医師を見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。1961年、パートナーシップの資産が数百万ドルを突破し、風車の製造会社に対して初めて100万ドル規模の投資をした。

1962年にニューヨークへ出かけ、古い友人から数十万ドルの資金を集めた。パートナーシップの資産が720万ドルになる。多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめ、最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更した。運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザ(地元オマハの名士ピーター・キューイットの名にちなむ[27])に移す。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。

繊維業のバークシャーが1株あたり8ドル未満で売られており、経営を改善すれば業績が好転すると考え、最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進めた。マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談し、マンガーにハリー・ボトルのほうがいいと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、結果大きな利益を出す。

1963年、バークシャーの筆頭株主になる。デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。翌年、アメリカン・エキスプレスが倒産の危機のある子会社に対して法的義務のない状態で資金を融通しようとしたスキャンダルによって同社の株価が暴落したときに、バフェットは解決可能な問題であると判断し[28]、逆に株を買った。

1965年にウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。1株38セントで当時の時価総額の5%にあたる400万ドルを投資した。その後1株48セントになったときに売却したが、後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めている。1967年、バフェットのパートナーシップの資産が6500万ドルになる。バフェットはこのパートナーシップに初めて10セントの配当を出した。[29]1969年、バフェットはパートナーシップの解散を行った。パートナー達は現金かバークシャーの株式など幾つかの方式を選ぶことができた。[30]

◆投資基準
バフェットが投資する基準として事業の内容を理解でき、長期的に業績が良いことが予想され、経営者に能力があり、魅力的な価格であるという4つを挙げている。[49]

事業の内容が自分にとって複雑すぎる分野には手を出さないため、ハイテク分野の企業などには投資をしていない。長期的な業績を計るためにはブランド力や価格決定力を持つことを重視している。[50]

企業は事業拡張や多角化の際に誤った判断によって容易にその価値を失いトラブルを発生させてしまうため、尊敬できる有能な経営者とだけ付き合う。ただし、有能な経営者も悪化したビジネスを立て直すことはできないと考えている。[51]かつては割安であることを基準としていたが、経験を経て普通の企業を格安で買うよりも優れた企業を相応の価格で購入すべきだとしている。[52]
(※ウィキペディアより抜粋)


現代における投資の巨匠、ウォーレン・バフェット氏に触れる絶好の機会が、この書籍と言えるでしょう。



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