昨日の朝、車でいつもの通勤路を会社に向かっていると、
ある路地の一部分が通行禁止になっており、
制服警官が15,6名くらい要所要所に立ち、交通整理をしたりそのあたりをウロウロと動き回っていた。
最初何事かと思ったが、すぐに一昨日のヤクザ射殺及び刺殺事件の現場だと気付き、
後続車がいなかったのを良い事に、できるだけゆっくり車を運転して、
できるだけ目を皿のようにしてジットリと現場を見廻した。
ジットリと見廻したが、何も大した事は見つからなかった。
私が見廻すよりずっと以前から警官がもっとジットリ見廻したはずであるから、、当たり前である。
そんな事があったものだから急に興味が湧いてきてテレビや新聞を見ると、
私の住む街は何だか殺人がしょっちゅう起こっている西部劇の無法地帯であるかのように報道されており、
住民のコメントを見ても『怖くて街を歩けません』とか
『子ども達の安全をどうしたらいいのか途方にくれています』とか書かれている。
しかし、私の周りに街を歩けないくらい怖がっている人は居ないし、途方にくれている人の話を直接聞いたことがないので、
これは少し大げさではないのかと思う。
ずっと以前に、
やはりこの街でヤクザの抗争事件があったとき、
東京に暮らす義母(家人の母親)から『大丈夫なのか?』と電話があり、
『大丈夫よ』と家人が笑いながら応答していたのを思い出した。
10年ほど前、大阪で小さなスナックに行った時、
金平糖のような顔をしたホステスさんに『どちらからですか?』と訊ねられ、
『九州、F県のKです』と応えたら、
『いやぁ~!K、知ってるわぁ!!、、、、、そしたら、坂田はん知ってはる?』
と言われたことがある。
・・・・・し、知らんわ!!、、、、Kは住民30名か?!
宣伝(報道)の効用と危険性をもっともよく知っていた人物ですね。
香川坂出市の事件にしても、
私たちはまるで坂出市の人々があの事件の事に明け暮れているかのように錯覚しますが、
坂出市の方のブログを拝見するとまったくそうではなく、
のんびりとしたもののようです。
私の街の殺人現場も今日はもう既に警戒が解かれていました。
もうそこに暴力団員は存在せず、
報道による危険な街の印象だけが硝煙の匂いのように残っているだけです。
新聞の報道姿勢は本当に腹立たしいものがあります。
彼らは、公平な報道の土台であるべき、ニュートラルな立ち位置という概念がまるで欠落しており、
事実や人々の真意を簡単に歪曲してしまいます。
Pさんが言われるように、地元の住民はなんら変わらない(といっても何らかの支障はあるかもしれませんが・・・)生活を送っておきながら、
都合の良い記事だけをデフォルメして取り上げるのは
新聞の常識になった観があります。
話が拡散しますが、その情報の大河に身を委ねるわれわれにとって、
遍く情報を
自分というフィルターに通し
あらゆるバイアスを配した情報を
抽出する能力こそが
時世を生き抜く大切なスキルの最たるもの
となっていくのでしょう
「新聞(メディア)はピアノの鍵盤と同じ、弾き方によっては 甘美にでも 絶望にもなりえる。」
といったアドルフ=ヒトラーの言葉を
回想しました
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