ハッピー(吉田鍼灸指圧治療院から)

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社会と病気の関係について全てを解き明かしていきます。

人間に自由意志は存在するか

2024-02-17 08:47:53 | 本質
以下の記事は、正しいとか間違っているとかいう概念とは全く関係ありません。答えでもありません。意味もありません。吉田がただ遊んでいるだけです。
 
ですから、遊びたい人は自分で考えて遊んでください。討論や議論とは全く関係ありません。
 
とにかく自分で考えて下さい(これも僕が自分で考えているのかもわかりませんし、僕が書いている情報も全て外からの情報であり、自分で考えたことなど1mmもありません。皆さんも同じです。何もかも)
 
人間に自由意志は存在するか
 
表題にあるテーマは大昔から哲学的、科学的な大きな問題であり未だに答えはみつかっていない。
 
一般的の方々が日々過ごす上で、自由意志が存在するかどうかは基本的にどうでも良いことだと思う。
 
哲学的にも科学的に考えた場合、現時点においてはどうも人間に自由意志は存在しないのではないかという見解が主流になりつつある。
 
月にロケットを飛ばしピンポイントで月面に着陸させるには、厳密に計算してしまえば可能となる。これはロケットや宇宙船を設計して実際にそれを行う前には計算が終了している(本当に宇宙があるのかは別として)
 
つまり、計算すればすべてが決まるということを意味している。この方法はあらゆることに利用されている。軍事的にも、あるいは旅客機にも鉄道にも建築にもスポーツにも洗濯機にも車にも利用されている。
 
全てが計算できるので決まったように動かすことができる。それが動かないときは設計ミスや老朽化などの要因があるが、それも理由があってそうなっているのであって、決まっているのだ。
 
情報が足りないときにうまくいかないだけであるが、それは情報が足りないだけなのだ。
 
ラプラスの悪魔(すべては最初から決まっている)は未だに存在している。
 
計算をするということを考えるときも、その情報をすべて先にあるものの中で計算が成り立つので、すでにすべてが先にあることになる。
 
この世界が本当にビッグバンから始まったのであれば、すでにすべてが決まっていることになる。
 
私たちの一挙手一投足まですべて決まっており私たちに選択の余地は一切ない。
 
科学的には脳の神経の発火よりも行動が先であることは明白に証明されている。例えばあなたがコーヒーを飲みたくなって自動販売機にコインを入れて、コーヒーを買う。
 
その人にどうしてコーヒーを買ったのですかと尋ねたら、ほとんどの人はコーヒーが飲みたかったからと答えるが、実際はコーヒーを飲みたいと思う前に、コーヒーを買う動作は始まっているのだ。(受動意識仮説:私たちが認識する前に身体が動いている)
購入した後に脳がその行動を後付けで分析して都合よく解釈をしているということだ。
 
あたかも自分がそれを自由意志で行ったように脳は解読してつじつまを合わせるということになる。自分の欲求よりも身体が先に動いているとなると、では誰が自分の身体を動かしているのかということになる。
 
何故そうなっているのかというのは、時間と言う概念(時間は人間が創り出した概念に過ぎず、実際には存在しない)を考えるとおそらく理解しやすいのではないだろうか。
 
時間という物理的概念により、身体表面のセンサー(受容器)に刺激が加えられ、その神経刺激による伝達が脳に届くまでにタイムラグが生じる。つまり刺激に対する認識は遅れる。
 
ろうそくの炎で手をやけどして痛いと思う前に手は反射的に動き、炎から手を遠ざける。その後、脳に痛みとして遅れて到達する。
 
脊髄反射により脳を介さずに瞬時に火傷しないように身体が動く。脳の認識は後になるが、同時に起こっているように感じる。
 
この脊髄反射にしても、瞬時に行われているようだが、実際は痛覚の受容器から脊髄に到達するまでも時間が必要だ。
 
ではこの際に、手を最初に動かしているのは誰なのか?痛覚繊維なのか、それは感覚であり運動神経では無い。
 
このように物理的概念である時間というものを計算したときに、誰が手を動かしているのか全く不明である。
 
そしてすべてが同時に動くことは出来ない。反応は必ず遅れるのだ。もしも同時に物事が起こるのならば、そこに空間としてのスペースが無くなり一ミリも動くことは出来なくなる。
 
時間という物理的概念により空間が生まれて、その間を私たちは動くことが出来るのだ(概念により動けると言うことは、まさにこの世は幻)この空間があることにより3次元の遠近や幅が生まれる。遠くの物を取りに行くには、近くの物を取りに行くよりも時間がかかる。なぜなら、空間として時間がかかるからだ。
 
こういう現世の物理的仕組みを考えた時にラプラスの悪魔や受動意識仮説を考えなくても、私たちが動けるのは、すでにあらゆるものが先に存在しているから動ける。
 
こう考えるとすべての物事は先に用意されていることが理解できるだろう。
 
私たちはすべてがすでに存在し、あらゆるものや出来事を後で認識(解読)して、都合が良いように後付けで解釈しているということになる。
 
もし、あなたの周りに何も存在していないとしたら、これから瞬時(同時に)にあなたはすべてを創造しながら、しかも自分がそれを構築する前にあらゆることを起こしておかないと、あなたは一歩も動くことは出来ないだろう。
 
その際、あなたは何の情報も存在しない状態で、創造しないといけないのだ。このことがいかに不可能かは一目瞭然である。
 
あなたはあらゆるものが先に存在し、出来事が先にあるからこそ、その中で自由に動ける(動いていると錯覚)ようになり、そしてそこのすでに存在している情報を利用して計算したり、創り出しているに過ぎない(あなたが生まれた時にはすでに世界は存在していたでしょう)
このように、もうすでにあらゆる決まっているのだ。あとは私たちの身体や脳がそのことを解読して認識しているだけなのだ。
 
あなたの前に何もなければ一切動くことは出来ないのだ。
 
それでもあなたは自由意志があり、自分で選択して動いていると思うかもしれない。しかし、今日、あなたがとった行動を振り返って頂きたい。
 
あなたは朝ご飯を食べる暇が無くて、コンビニでサンドイッチを購入した。コンビニはいくつもあったが、なぜそのコンビニに入ったのか?なぜサンドイッチを購入したのか?
 
本当に食べたくてサンドイッチを購入したのか?もしかしたら、鳥の唐揚げを一緒に購入したかもしれない。最初に鳥の唐揚げを食べようと思ったのだろうか?
 
目に入ったから一緒に購入したのであって、食べたいから購入した訳では無い可能性が高い。それはサンドイッチの横にディスプレイされていたので食べたくなった。
 
昼になり昼食を食べようとスマホの情報を見た。どこか良いカフェは無いだろうか?美味いしく安価なカフェと検索に入れた。あなたはなぜカフェと入れたのか?
 
それはあなたがすでに知っている情報の中でカフェを選択したに過ぎない。検索する前に広告を見たのかもしれない。
 
いくつか候補が出てきて、その中でも古民家風のおしゃれなカフェのパスタが目に入った。ここにしようと決めた。しかし、あなたは最初からパスタが食べたかったのか?
 
このように突き詰めていくと、自分で選択して自分で決めていると思っていることも、実はすでにある情報が外部刺激として与えられ、ただそれに反応して決めているに過ぎない。
 
そのあと、パスタが食べたかったからその店を選んだとか、あるいはパスタが食べたかった訳では無いが店の雰囲気が良かったからとか、とても美味しくて良かったとか、不味くて行かなければ良かったとか、後付けで理由をつけるのだ。
 
そこにはあなたの自由意志など存在せず、都合の良い後付けの解釈しかなく、その情報は先に存在し、情報があなたを動かしたということであなたが自由意志で動いた訳では無い。
 
つまり、あなたは自分で考えて判断したことなど何も無いのだ。情報は先に存在しており、その情報があなたを動かしている。
 
これはすべてのことについて言える。
 
テレビをネットを観ていて突然飛び込んできた情報により、その物が欲しくなり購入したり、旅行に行ったり、その数秒前までそんなことを考えていなかったにも関わらずサプリメントや便利な掃除機や鍋やきれいなネックレスを購入してしまう。
 
それは本当にあなたが欲しかったものだろうか?
 
人間が何もないところから何かを創造することは出来ない。すでに存在するものを利用して創造している。何度も繰り返すがすでに何もかもが存在している。もし存在していないものがあれば、それは単に未発見(情報不足)というだけである。
 
大自然も私たちの身体も見事にプログラムされており、それが完璧に作動することによってこの世界は成り立っている。何もかもがカオスであれば、この物理的プログラム世界は存在しえない。
 
人間にそれが出来る筈もない。今の人類はこの世界を仮想現実としてプログラムして、その世界を創造しようとしているが、もしもそれが可能になったとしたら私たちがすでに完璧にプログラムされた仮想現実の中に住んでいるということになる。
 
なぜなら、仮想現実を作り出した瞬間に、仮想現実が無数に存在することになり元の現実がどれであるかわからなくなるという事態に陥る。
 
今のところ仮想現実社会を私たちは構築できていないので、この世界はリアルだと思われるが、それもわからない。
 
この世界をプログラムした知性があるのであれば、それは神と呼べるかもしれない。仮想現実の仮想現実が未だに無いことを考えると、この世界はすべてが決まったシュミレーションゲーム(シュミレーション仮説)であり、必ず終わりを迎えることになる。
 
それがリセットなのかはわからない。
 
自由意志が存在せず全てが決まっていると考えると、なんだかつまらないと考える人もいるかもしれないが、全てが決まっているというのは九州大学の妹尾武治(ベクションを心理学に応用している研究者:心理学的決定論)氏が言うように、全てはあなたのせいではありません。となり、すべてを自分以外の何かに任せてしまい、結構気楽にこの世界を楽しめるかもしれない。
 
何しろ自分が思うようにいかないのは、決まっているからだと考えると腑に落ちるし、気楽になれる。それを自分が自由意志で選択して、生きているんだとなると、結構大変な人生かもしれない。すべては自分次第となり、上手くいかないのは自分のせいなのだ。
 
僕は自分が思ったようになると考える方が、かなり無理があると思う。何しろ自分の身体は自分がコントロールしなくても勝手に動いている(心臓も内臓も何もかもほとんど勝手に動いている)のだから。
 
しかし、こんな理屈など知らなくても、あるいは信じなくても、自分で自由に生きていると考えるのも悪くはない。
 
どちらが正しいかはわからない。そもそも正しい答えなど存在しない。
 
もしかしたら、起こった出来ごとは同じでも、その解釈は自由に出来るのかもしれない。そうすると、見えていた景色がまるっきり変わるので、そういうことにより自由を獲得できるかもしれない。
 
僕はこのようなことは、その時その場で都合よく解釈して生きていくのが良いのだと思う。
 
幸せな時もあれば最悪の事態もある。人生はそうなっている。
 
#本質 #この世界の仕組み #自由意志 #運命論 #決定論

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