以下は一つの考えであり、議論するつもりは全くありません。皆さんご自分の中で考えてください。僕は正しいとか正しくないとかいう論争は全く意味がないし、僕にとってはどうでも良いことです。
ただ考えてみて下さいね。
そもそも民主主義の存在しない今の日本で投票率を上げると民主主義は崩壊する
投票率向上により独裁管理監視主義国家が誕生する。
選挙になると投票率が常に問題になります。僕の住む地域でも投票率は30~40%台で推移しています。
テレビのニュースや県や市あるいは選挙管理委員会が投票率が低いことを問題として報道したり、広報車が巡回しています。
毎回投票に行く人たちは、投票率が低いのは政治的無関心がいけないのだ、国民である以上権利を放棄してはいけないと真面目に、特に投票率を上げるのが良いことだと思い、若者だけではなく投票に行かない人はダメだという論調で話します。
先日も、ある非常に活動的でいろいろな問題を提起されている方と話しましたが、やはり投票率を上げるのが大切だと言います。
僕はその人に、まあ一般的にはそうでしょう。でも、僕は今の政治を変えるには、投票率をゼロにした方が良いですよと説明しても全く理解でききません。
それはそうでしょう。それが国民の権利であり、民主主義だとそう思い込まされているからです。
僕はこれまでも無関心でいろと説明してきました。選挙に行くなと。
どうも多くの人は民主主義は多数決だと勘違いしているようです。
そもそも若者をはじめとして、選挙に行かない人が多いのは何故かと考えた時に、関心が無いというのもありますが、政治に対してもうすでに無気力になっているからだと思います。
あなたの一票が社会を変えるという言葉が虚しく響き、そんなの嘘だろということです。
そして実際にそうです。誰か政治家になり政治を動かしているかを考えたらそれは経済界や権力者です。これは明白でしょう。
一般庶民の一票など社会を変えることなどできません。住んでいる場所によっても一票の重さも違うのです。
何をどうしようが自分の一票で変わるわけないじゃんと。
その関心も興味も失った人に選挙に行けと言われても、行ったところで一体、選挙会場で誰に投票しろというのでしょうか。
いや、政治に関心を持ちきちんと立候補者の政策や人柄を把握して投票してくださいとでも言うのでしょうか。
はっきり言いますが、それは無理です。政策を見てもその立候補者のことはわかりません。紙面の政策など誰も深く書いている訳では無い。
そんな字面をみてわかると思いますか。それに市議会議員や県議会議員にいたっては一体何人立候補しているのですか。
本当にやろうと思えば、取材に行くしかないでしょう。そんなジャーナリストのようなことはできません。
自分の住んでいる地域以外の候補者の事務所に行って、話を聞きますか。自分の地域以外の候補者のところに行けば警戒されます。
そもそも立候補者が個人に関わりあっている時間などないでしょう。
その人の演説を個別に聞きに行きますか。それも不可能。
庶民も会社に所属して利権構造の中に取り込まれています。ですから、誰に投票するかは所属する会社や団体の利益で行動するしかないのです。
立候補者も当選するには政策など曖昧にして、当たり障りのない耳障りの良いことを言うしかありません。
それで投票率を上げましょう。投票に行かない人は国民としての権利を放棄していると言われても、
投票率向上に何の意味があるのか?あるいはその意図することは何なのかを考えないといけません。
表題にあるように、そもそも日本の民主主義は民主主義ではありません。
投票に行かない人が悪いというならば、投票に行く気力もないほどの政治を運営しているのは誰かという問題も同時に責められるでしょう。
政治家の人は、庶民にその責任を押し付けてはいけません。
今の状態で投票率を上げても、多数決を民主主義だとしている時点で、この国はもう終わりです。
投票率が低いと言う現象は逆に、皮肉にも民主主義の在り方を示しているように僕は見えます。
民主主義は多数決ではなく、少数の意見を取り入れながら話し合いで決めていきましょうということです。強行に多数決で決めるものではありません。
しかし、どうですか。国会をみてもそうですが、話し合いをしているように見せながら最後には数の論理で強硬に可決していく。
それを見せつけられている庶民に対して、投票率をあげましょうなどとよく言えたもんだ。多分何の思考もしていない人がそういう理屈を言うのだと思います。
それを変えるために選挙に行きましょうなど、できるはずもない。何しろ権力で当選しているだけだからです。
庶民の一票など社会を変えません。
さらにマスコミを使って、国民を洗脳しており、それに騙されている国民が8割もいるのだから、この状態で投票率を上げたら、少数派の意見など何もかもないがしろにした独裁政権が出来上がることは明白。
注)洗脳された人が8割という意味は、嘘風〇事件や嘘戦争などを見たらわかるでしょう。
なぜ少数派の意見を大切にするべきかというのは、多数派の意見が間違っているかもしれないからです。真実や本質は少数派の中にあることが多々あります。
さらに少数の弱者の人々にも配慮した世の中が平和で幸せな世の中です。
注)今の弱者を盾にした一部活動家の過激な方法には僕は賛同しません。その方たちの活動にはおそらく弱者も賛同していないと思います。
つまり、例えれば、嘘風〇事件で8割の人は口輪をつけて、摂取したわけです。
これが例えば口輪と摂取を投票で決めましょうとなったとすれば本当に恐ろしいことです。これが多数決の論理。多数決は恐ろしいと思います。
僕はだから、選挙に行くな。投票率ゼロを目指せと言っているのです。
僕は無関心を進めていますが、今では超無関心にパワーアップしました。
もし、民主主義を創ろうと思うならば、民主主義とは多数決では無いということをきちんと国民に知らせるべきです。
この洗脳された国民が8割を占める国で投票率を上げたり、国民投票をしたりすることを考えると、
その多数決で決まった結果に僕はぞっとします。
政治家は国民の多数が決めたことだからということを理由に、誘導したい方向にいくらでも持っていけます。
それに対して、国民は何も言う権利はなくなります。これを民主主義と言うのでしょうか。
そんな茶番に僕は嘘には従いたくありません。
投票率ゼロで政治家の権力を奪い、庶民はもう一度、民主主義とは何かについて考えることです。
そして、もし日本に民主主義が完成しても、投票率は50%程度が僕はちょうどいい案配だと思います。残りの50%は多数決で決定されない為にもバッファとして確保している分です。
どんなことにも遊び(余裕)が必要でしょう。
無関心に興味がある方は、僕のブログのカテゴリ 無関心の勧めをお読みください。無関心について18程の記事があります。
追記
僕のTwitterは永久凍結されました。
テレビで恐ろしい事件を取り上げていますが、特に日本の犯罪が凶悪化したとかいうことはありません。
事件が起こると類似の事件を集中してあるいは連続で報道します。
これはテレビ局が意図的に行っていることであり、背後には様々な権力がそれを操作しています。
一日のうちにあらゆる事件事故が起こっていますが、テレビ(マスコミ)の媒体は日本は非常に少なく、限られている上に、皆結託して、同じ情報(情報源が同じ)を抽出し、意図的に誘導するよう番組のブログラムを提供し続けます。
全てに意図があります。
ですから、凶悪事件をことさら、大きく取り上げ、さらにそれに関する情報を付け加え、類似の事件をことさら集中して提供し続けます。
一体全体、ことさら強調して詳細に報道することに何の意味があるのでしょうか。
見ている人はただただ気が滅入るだけです。
それは何のために行っているのかを考えれば、その意図するところは理解できると思います。
日本の犯罪率は世界と比較して非常に低いのです。
日本で殺〇事件は一日一件は起きています。
もし、テレビが殺〇事件を重大な問題として取り扱っているなら、毎日強調して、詳細に報道しなければなりません。
実際は、それはほとんど報道しません。
皆さんは毎日、ニュースやワイドショーで連日そのような報道を目にすることがあるでしょうか。
極悪な事件はどの時代にもあります。
最近は歌舞伎役者の問題はジャニーズや宝塚やその他の類似問題をことさら大きく報道しています。
しかし、国としてもっと重大で私たちの生活に直結する物価高や汚職や憲法問題、原発などのエネルギー問題増税やウクライナ、ロシア(ものすごく偏った偏向報道であるのに、やはりみんな騙されています)さらに日本が有事に至る可能性の問題、この3年間の戦後最大の薬害事件等を真剣に報道することはありません。
重大問題から目を逸らされている状態なのです。
さらに、公的なあるいは権力が絡む問題は、それが、つまり
テレビを見ていると恐怖に陥り、正常な判断が出来なくなります。
なんとなくおかしいと思いながらも、周囲に合わせているうちに、本当に深刻な事態に陥ります。
おそらく明治維新以降の日本人は、すでに思考が操作され物事を理解する力が極端に低下し、無関心ではなく、無気力になっている状態なのだと思います。
無関心ではなく、”無気力”です。
その無気力の日本人は、この崩壊していく社会を望んでいるように私には見えます。
悲惨な状況を楽しみにしている。
まさに、政、祭りごとが始まるのです。
本当に馬鹿げていますが、今の状況を見ていると、私には戦争がしたい。
そして悲劇の感情劇場を楽しみにしているように見えます。
そういうことを鑑みると、おそらく多くの人々は、この今の日常がずっと続くのが耐えられないのです。
私はもし、戦争が起こるとするならば(今のまま推移すれば99%起こると思います)
それは誘導されているとはいえ、最終的には大衆が賛成します。
嘘風邪と同じです。注射を8割の人は2回以上接種したのです。
打っていない人は、あるいは何の意味も無い、口輪をしていない人は非国民扱いされたのです。これは未だに続いています。
特に、口輪を顎にしている人の頭の中がどうなっているのか全くわかりません。
戦争は大衆が賛成して成立します。私は今の状況では、多くのほとんどの人は戦争に賛成すると確信しています。
つまり、戦争を起こすのは大衆だということです。騙されたではすみません。第二次世界大戦も終戦後、すべてが嘘だったことが露呈したのです。
嘘風邪も、ようやく嘘であることが目の前に出現してきていますが、それでもまだまだ騙されている人が8割いると思います。
これはもはやこの世界の仕組みです。そうなっている。8割の思考停止の人々、嘘に気づく一割の少数派、一割の確信犯。
いや、それは違うと否定する心があるならば、今現在起きていることや、これから起こることが予想される悲惨な状況を必ず回避できるはずです。
しかし、現実にはそうなっておらず、目の前に崖があるのに、率先して崖から飛び降りようとしています。
何の自覚もありません。無自覚で無気力で退屈で、悲劇で興奮するのを楽しみにしている。
私が尋ねると誰もかれもが戦争はいけないと答えます。でもそれは嘘です。無自覚な嘘でしょう。
今の日本は、無関心という状態ではありません。
無気力、無自覚、退屈が蔓延していると思います。そして大衆は貧困になり、生きる気力を奪われ、誘導されます。
私は能動的無関心を進めています。
能動的無関心とは積極的無関心であり、あらゆる謀(はかりごと)を無効にする力を持っています。
多くの人が、自分のことを中心に据え、自分が幸せだという状況を創り出し、自分のコントロール外のことに無関心であれば、
この世は、必ず幸せになるでしょう。
以下は理解できないかもしれません。ひとつの考えであり、正しい訳ではありません。以下のことについて議論をするつもりもないし、そういうものでは全くありません。
ご自分で考えてみて下さい。
有名な環境活動家の人の講演が僕の治療院の近くで行われるとのことで、行ってきました。
木〇町に高レベル放射性廃棄物の処分場が出来るのではないかという問題に宮〇県は晒されているのです。
僕の住む都城も関係があるのです。
いつもの通りに、無関心で挑みましたが、終了後は無関心を超えてしまいました。
いわゆる超無関心です。
僕はそもそもあらゆることを調べているのですが、改めてこの世界の闇深さを認識しました。
さて、このような講演に行くと、いつももやもやした状態が、しばらく残ります。
そのもやもやした状態はシュレディンガーの猫状態です。
そして無関心の僕も頭を抱えることにしばしなるのです。
それは、活動家の人がどうということではなく、一体、社会活動とは何なのか考えさせられるからです。
中には真剣にこれは問題だと何らかのアクションを取る人もいるでしょう。
もちろんこのような問題に関心がある人が集まっているので、それはあります。
僕らが住む世界の闇深さは、本当にうさぎの穴はどんだけ深いのかについて途方に暮れることになります。
そして、このような出来事に、まじめに活動している人とは一体何がしたいのかを僕は考え込みます。
善と悪の概念が成り立たないこの世界で、一体何をしたいのか。
そう考えた時に、もちろん何がやりたいのかは明確に単純に、理解できます。原発がそもそも不要だという通常の頭で考えた時に至極当たり前のことです。
しかし、現実に原発は日本にたくさん建てられ、再稼働しさらに動かそうとしているのです。
これは多くの人が望んだからです。望んでいなければ絶対にできません。洗脳されたからだといえばその通りです。でも、うすうすとおかしいなとは思っていたでしょう。
だから事実として完成しています。
しかし、世界の歴史やその他大勢の人間の思考を考えた時、この世の中が、
何故このような嘘社会になっているのかという観点に立った時に、
僕は明確にわかるのです。
それは洗脳されたとか、いろいろあるけれど、もし、洗脳され誘導された結果がこの社会であれば、それは洗脳でなく、それがこの世界です。
ですから、この原発問題に限らず、この3年間の嘘風邪をみても、第二次世界大戦にしても国民や、あるいは世界に置き換えても、間違いなくコントロールされ、物事は進んでいくのです。
それはこれが正しいとか正しくないとかいう問題を超えてそうです。
つまり、原発の問題に気づいてもそれは、新たな洗脳に過ぎないということです。
良い洗脳なら、いいじゃないかと思う人がいるかもしれません。
しかし、それが一見よく見えても、それが良いかどうかはわからないのです。
活動家は本当に凄いなと単純に思うし、社会的に気づきをもたらす存在として尊敬します。
多くの活動家や良い人はこの世界を良くしようと思って行動します。
戦いや争いを止め、平和で幸せな世の中にしたいと考えるのです。
そのこと自体は僕も本当に賛同し、共感します。
しかし、嘘社会に洗脳された人が大多数を占めているのが、この現世です。その人たちを気づかせても、ただ反転するだけで新たな洗脳が完成するだけなのです。
活動することにより、間違いなくその他大勢の洗脳された庶民との分離から闘争に至ります。
ここが最大の矛盾になります。
平和な世界を創ろうとする際に必ず分離と闘争が起こります。
そもそも平和を求めているのに、行うことが反転します。
それは確実にそうです。
結局、人間は良いとか悪いとか言いながら、行っている行動が同じになるということです。
何しろ、その争っている相手が、ストレートに権力者やその悪事を働いている人に到達せず、その間には同じ庶民を挟んでいるのです。
この矛盾から考えると、良いと思って活動する闘いに人生を捧げるのは最終的に人間界はエゴが発動するサバイバルの弱肉強食世界ではないかということです。
実際に、歴史も現世もそうなっています。ずっと繰り返しています。
この繰り返しの仕組みに気づくと、その社会運動は同じ延長線上にしかないのではないかということです。
同じことを繰り返している以上は、同じ歴史を繰り返すだけであり、そこには何の思考も存在しない機械的な営みにみえてしまいます。
おそらく僕が考えていることは、多くの人には伝わらないと思います。
もしも、この世界を良くしようと考えるのならば、社会ではなく、自分の本当に身の回り、手が届いて自分で変えられる範囲内で幸せな状態を創ることです。
そのことに社会活動も要らなければ、闘争も必要ありません。
ただ、幸せに生きていればいいのだと僕は思います。
もちろん、自分の身に降りかかれば、戦います。しかし、多くの人は身に降りかかる前に活動しようとしています。
それはその事自体が、僕はやりすぎであり、自分のコントロールの外に手を出すことに繋がり、争いに至るのです。
問題が降りかかる前に、問題に入り込み争いに巻き込まれる。
つまり、問題を創り出しているのは自分自身かもしれない事態になりかねないのです。
徹底的に自分の手が届かない範囲に介入し争わないということに多くの人々が徹すれば、きっと新しい世界が訪れるでしょう。
何しろ、歴史上これをできたことが一度たりとも存在しないからです。
だから何もしないことが最大の方法になります。
もちろん、これは大多数の人が何もしないで争わないという選択をするということです。
それが無理であれば、今までやってきたように徹底的に闘い、戦い、破壊活動に徹することです。
そのことをその活動家に尋ねてみたところ、悟ったように何の返事もありませんでした(他の人も大抵同じ反応です)
勘違いしないように。僕はそれが良いとか悪いとか言っているのではなく、どうすれば争わずに世界が良くなるのかについて述べているのです。
その為には、人類が今までと違う方法に至ることが必要だと思います。
一般的には、活動家は権力者から弾圧され、庶民からは正義の味方であったり、実際に会うと良い人なので、絶賛されます。
しかし、その絶賛の向こう側には何があるでしょうか。
絶賛するあなたの心の中には、何があるのか自らの内面に尋ねてみることも考える必要がありそうですね。
そういうことです。
ちなみに僕のエゴは、木〇町に高レベル放射性廃棄物処分場が出来るのには絶対に反対です。
(注)まだ具体的に決まったわけではありません。それに原発の闇だけに気づいても、他のことに気づかないのであれば、何も気づいていないのと同じで、仮に処分場の建設を回避できても、別の問題に突き当たり、結局のところ何も気づかないのと同じだと僕は思います。
もし、人類がその程度であれば、仕方のないことです。
僕は何が起ころうと、社会には関係なく、ぎりぎりまで幸せを感じ続け、幸せを行使します。
いや、それではいけない。吉田は何もしないのか。それでいいのか。
吉田はほっとけ、あいつは何もしない奴だ。俺たちは戦う(闘う)と皆さんは言うのでしょうか。
僕はその人にこう言います。
そうなんですね。この世界は闘い生き残るサバイバルなんだね。
厳しい世の中なんですね。
追記
僕には社会活動家とか正義や良いことを言う人と、いわゆる権力者とか支配者のような悪人が相似形を表現しているように見えてしまい、そういう人が絶賛されているのを見たときに、一挙に冷めてしまうのです。
そういうことは、何もこの現世に生み出さない単なる繰り返しの悲劇とヒーローの劇場に見えます。
僕らはそういうことのために、現世に生まれてきたわけではないと、
僕は強く確信しています。