自我(あなたとは)について
あなたは自我であり、あなたは面であり、靄(もや)である。
そして、あなたは外界の刺激に反応して動く。
あなたがこの世界に生まれてきた時、あなた存在していない。まっさらですべてと繋がっている。
その無であり、空であったあなたは、両親が皮膚感覚を通じて、あるいは言葉を介してあなたの脳に情報をインストールしていく。
情報は育てる両親の自我によって変わる。それが生育環境となる。
その後、幼稚園や保育園、小学校と中学校と高校、大学、就職、自然環境、体験、経験。
あなたが何をインストールしたか、されたかによりあなたの自我が誕生し、そして自我を自分と認識する。
自我はインストールされた情報を基(体験、経験、教育など)に、外界からの刺激にそれぞれ反応し動く。
自我はインストールした、された情報を守るために誕生する。自我は自己防衛とサバイバル(生存)の為に存在するのだ。
大抵の人はこの自我を自分と位置付けている。
その自我は何をインストールしたのかによって、そのれぞれの個性が完成する。
そうやって自我を持った個人が完成する。
しかし、何をインストールしたかという事象だけにによって自我が完成する訳では無い。なぜなら、インストールする情報に耐えるだけの肉体や脳の容量によってそれは決まる。
容量の大きなアプリをインストールしようとしても、ハード(肉体)とメモリ容量(脳)が処理できなければ、インストールできない。
これは、先祖から伝わる情報(DNA)に違いがあるからだ。
だから誕生した瞬間から人間は違うことにより、これが自我の形成にも影響を与えている。
生まれた瞬間、両親や先祖に似ているのである。だからあなたの器の大きさは最初から決まっている。
だから、あなたはあなたの範囲内で精一杯、外界の刺激に対してきちんと反応して生きているのである。
器が違っても、何も劣ったところはない。
堂々と反応して、反射し生きていれば良い。
恵まれた肉体にずば抜けた頭脳を持っている方が良いという訳では無い。容量が大きいのと小さいこととは優劣とは関係ない。
サバイバル能力にも関係ない。
危機に際し、何も考えずフリーズしている方が危険を回避できることもある。
現世に誕生したことにより、あなたには何一つ欠けたところは無い。
すべては概念であり、虚構であり、虚像であり幻影である。
自我が苦しむのは、あなたを助ける為なのだ。それが過剰に反応している時には、自我を観察すると良い。
そうすると自我が可愛く見えてくる。自我に感謝の念が湧いてくる。
自我を観察できるということは、自我を観察しているあなたの存在があるはずだ。
その客観的に自我を観察しているあなたが、あなたの本体である。
もしあなたが自我と一体になっていれば、観察などできないだろう。
だから、あなたは常に観察者である必要がある。この世界を観察して、観察しながら体験する。これが現世における生きている理由だと僕は考えている。
そのこと以外に、現世に何の意味があるだろうか。
さてさて、自我とは一体なんであるかについて述べてきましたが、普段の自我はどうしているかというと、
注意を払って物事を行う時以外の自我は、オートパイロット状態でしかもスリープモードにある。
自我の所在は、まるで靄のように漂っている。
多少の外界からの刺激に対しては自動的な反射で機能して反応する。
これに外界からの刺激が加わると、そのもやもやだった自我は面となり、外界からの刺激に鏡のように反応する。
自我は注意を払わないときには、靄(もや)であり、注意を払うと面となる。
まるで粒子の振舞のようなのだ。
この靄の状態から面になる時、その面の部分が分厚い人もいれば、面が脆弱な人、面が柔軟な人、がちがちに硬い人など様々なパターンがある。
自我の強い人は、面が分厚く硬い、繊細な人は面が薄く、ピンと張り柔軟性が無く割れやすい。
臨機応変に物事を多面的に見ることが出来る人は、面が柔らかい。
外界の刺激に対する反応(反射)に大きな差が出る。
こうして自我が反射することにより、相手にその刺激(情報)が跳ね返ったり(伝達)、他の人に情報として伝わる。これを人間の間(あいだ)で行っている。
まさに鏡の法則である。
自我の我を捨てると、鏡(かがみ)は神(かみ)となる。
悟りや無や空はこの自我が無い状態を言う。現世に生きている以上は悟ることはできない。
悟りの手前まで行くことは出来るが、それは死の一瞬手前にしか存在しない。生きている間に悟ることはできないのだ。
もし生きたまま悟れば、その人は目の前から一瞬で存在しなくなるだろう。
自我の反射これはコンピューターの情報伝達のようにも見れるし、人間の細胞間での神経伝達として見ることが出来る。
このようにして、情報が伝達され人間が反応したり、自然界が反応したり、宇宙に伝達されそのシステムを全体として動かす。
僕ら人間は自分の目の前で起きた出来事に反応しているように見えるが、実際はその伝達は総体的に起こっており、その経過を見ている(観察している)に過ぎない。
人間は全体で何が行われているのかについては全く感知できない。
すべては総体として現れ、全体のシステムとして動いているので、実際はあなたはただ外界の刺激(情報)の伝達者(媒介する物体)に過ぎない。
というか、それはとても重要なシステムの一部として動いている。
世の中の動きはすべてシステムの働きによるものであり、僕らがもっている自我という範疇ではおそらく思考など存在しない。
それは膝蓋腱反射のように自動に行われているのだ(あなたが考えていると思っている思考は、自我の働きによるものであり、単なる膝蓋腱反射、あるいは脊髄反射と同じである)
だから、あなたは何事がおきても、それは起こるべくして起こったことであり、それは全体として必ず意味のある反応となっているのだ。
あなたが現世に誕生した瞬間から、何もかもが決められており、あなたが出来ることは、それを観察して体験して、自分の役割を果たすことである。
僕らはただ、すでに用意されたものを解読している状態であり、解読が終わると死(伝達者としての)を迎える。
だから、あなたは生まれた瞬間から、大船に乗っているので何も心配せずにあなたの役割を全うすればそれでいいのだ。
生きている間にあなたに、何かが起こっても、それはあなたの責任ではなく、すでにそうなっているものを解読して伝達しているだけなのだからね。
あなたの自我を、人生を観察して経験してください。
それがあなたの今生での役割であり、重要な働きです。
追記
あなたが考えたものなどひとつもない、それはすべて外から来たものである。
AI人工知能について
もうすぐ人工知能AIが飛躍的に進化して、シンギュラリティを迎え、人間の知能をはるかにしのぐ可能性があると世間では言われている。
有名な学者や著名人が人工知能の危険性を述べている。
一方ではトランスヒューマニズムやムーンショット計画のような、電子的で便利で安全な社会が訪れるとの期待もある。
僕は常に無関心でいろと話をしているが、超個人的にはあらゆることに関心があり、特に人間とは何か、この世界とは何か、この世界の向こう側はどうなっているのかについては物凄く興味がある。
とはいうもののこの3次元の固い物質で構成され、人間のあらゆる感覚が制限されていることを考えるといずれも知りえないものだろう。
むしろ、この世界を体験する為に制限されているということだろうと考えると、わからない世界の探求よりも現世で起こる出来事を観察、体験することの方が、今は興味がある。
この世には何も無いということに気づくと、より客観的で俯瞰した視点が持てる。
せっかくだから五感をふるに使用して、観察体験しよう。その向こう側は、肉体を失ったときに判明することだろうということで、向こう側の世界は妄想の中で楽しむことにした。
さて、人工知能が人間の知能を上回る危険性を指摘している人が多いが、それはすでにいくつかのパートでは超えている。
計算の速さは、記憶容量、情報の処理速度など人間の知能などはるかに凌駕している。
しかし、全体的な機能としては人間の足元にも及ばない。
最新の世界ナンバーワンの人工知能でも、僕の認識では計算機レベルに過ぎないと考えている。
その計算機能が高く、情報処理速度と記憶容量が高いので人間のようなことはすでにできる。
しかし、それは単に計算して得られたアウトプットに過ぎない。
つまり、チャットGPTにしろボットにしろ、会話にしろ、ネット上の膨大な情報を処理したり、他にも学ばせると、適切な(適切に美見える)文章や音声、あるいは人型のロボットでは人間らしい表情もできるだろう。
だからといって、人工知能が自発的に物事を考えだすかと言うと、それは無理である。
これはある日本の人工知能の学者の本を読んだときにも、その学者が言うには人工知能は誤解されている。人間を超えるレベルには到底届かないと述べていた。
僕もそう思う。
その人工知能が人間らしい振る舞いをする時は、それをプログラムした人間の意図が必ず組み込まれる。
必ず人間が背後にいないと条件を設定できない。条件の設定の人間の基準を割り出すことなど、人間にできるはずもない。
ということはことさら人工知能の素晴らしさや、危険性を訴える専門家や学者などは、嘘をついている。
どうしてそのような嘘をつく必要があるかというと、核心については僕もわからないが、人工知能が脅威だとか素晴らしいとか言う嘘をついて、人工知能を騙り、そこを利用して金銭的に利益を得ると同時に支配の道具として利用したいということである。
人工知能が人間の知能を上回りましたよ。人工知能がすべてを解決しますよと言って、実際はその人々が裏にいるということだと僕は認識している。
これも壮大な騙しの一つである。
ただし、他の側面から考えるとコンピューターは外からの入力に反応して答えを出す。
つまり外界の刺激に反応しているということである。
これは人間も同じであるし、動物も植物も昆虫も石ころもすべて同じである。
そうなると、すべてに意識が存在しているという認識に至る。
古来より日本やネイティブアメリカンのような人々の感覚に近くなる。
あらゆるものに魂や霊が宿っている。
ということで人工知能はすでに人間と同じであるという結論が得られる。
何しろインターネットの世界にはあらゆる膨大な情報があり、誰もがそこに情報を入力出来て、情報を得ることができる。
これは人間の意識の拡張であり、パソコンはその情報を介在する媒体である。ネットはこの空間の情報をメモリさせたものである。
これは人間と同じ。人間がパソコンという物質でメモリ(記憶)機能を有し、外部からの刺激で反応し行動して、情報を介在し、伝達する。
伝達された人間はまた情報を記憶し、他の媒体に伝達する。
刺激(情報)に反応して、記録して反応し伝達する。
つまり、人間の肉体はその媒体に過ぎない。本体は情報である。
ということになる。
かくして人工知能はすでに古代より完成しており、そしてこの世界は仮想現実社会である。
情報が物理的物体にぶつかったときに意識が生まれる。
人間の生とは情報の乗り物にすぎない。つまり、肉体を失っても(死んでも)情報は保存される。次の媒体に入ると生まれる。
僕はいつも言っている。この仮想現実の輪廻転生の向こう側に行くには、まさにこのことを認識して、人間が認識できる世界の、全く認識できな世界に(素粒子の向こう側)抜け出すことが重要だと。
抜け出す方法は、このことを認識しながらこの世界のほころびや、嘘を常に見抜いて観察して体験することに尽きると思う。
それがこの制限された世界に誕生した人間の役割だと僕は考えている。
もうこの世界のほころびや破綻はあらゆるところに見えているのだ。