
東武鉄道は伊勢崎線北千住 - 久喜間の新規開業用として、1898年に10両の5500形の同形車B1形 (3 - 12) を輸入したが、1899年および1901年に計6両を総武鉄道に譲渡し、4両 (3 - 6) のみを継続して使用した。しかし、1907年(明治40年)8月に(亀戸線)亀戸 - 足利間の開通に伴い、残った4両だけでは不足を来すこととなってしまった。そのため東武鉄道では、同年、ピーコック社から同形の製造番号5089,5090を輸入し、14, 15(1915年、7, 8(いずれも3代目)に改番)とした。
その後、国鉄から5両の同形機 (5541, 5544, 5549, 5531, 5551) を譲受し、東武鉄道では54 - 56, 59, 58(2代)と改番して使用した。これにより、東武鉄道プロパーの6両を合わせて計11両のB1形が東武鉄道で使用されることとなったが、これらは1945年(昭和20年)に3が事故廃車(除籍は1952年)となった以外は、1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)に至るまで社線内の貨物列車牽引に使用された。
廃車は、4が1959年、55, 59が1960年、56が1962年、8, 54が1963年、58が1964年、5, 6が1965年である。最後まで残った5・6が東武鉄道創業時の機関車として東武関連施設で保存・展示されたのち、1989年に開設された東武博物館に保存・展示されている。
同型の5500形は1893年(明治26年)から1898年(明治31年)にかけて、イギリスのベイヤー・ピーコック社 (Beyer, Peacock & Co. Ltd., Gorton Foundry) で製造され、輸入された蒸気機関車で明治時代を代表する旅客列車用蒸気機関車の一つであり、日本鉄道(現在のJR東北本線や常磐線などの前身)の主力機関車だった。官設鉄道(後の国鉄→現JRの前身)や、総武鉄道(現在のJR総武本線の前身)、東武鉄道でも同形機が使用された。ピーコック社製のテンダー機、略して「ピーテン」と呼ばれる一連の蒸気機関車の代表格である。
日本鉄道及び総武鉄道の同形機は、1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により官設鉄道に移管され、1909年(明治42年)の鉄道院が制定した車両形式称号規程により、5500形となった。両数は、官設鉄道が6両、日本鉄道が60両、総武鉄道(東武鉄道からの譲渡車)が6両の計72両である。これ以外に東武鉄道でも、1899年(明治32年)の伊勢崎線新規開業に際して独自に同形機を輸入しており、後述の官設鉄道からの譲受機を加えて、長く使用された。
1929年(昭和4年)から翌年にかけて、10両がタンク機関車に改造されB10形となっている。
官設鉄道では、1896年(明治29年)にニールソン(ネルソン)社 (Neilson & Co., Hyde Park Locomotive Works) 製の6両(後の5630形)、日本鉄道では1893年に同じくニールソン社製を5両(同じく5630形)および1898年(明治31年)にシャープ・スチュアート社 (Sharp Stewart & Co. Ltd., Atlas Works) 製を6両(後の5650形)を輸入している。
官設鉄道では、ピーコック社製とニールソン社製をあわせて12両の導入にとどまり、以降の増備は動輪直径が152mm大きい6200系列となったが、日本鉄道では標準型として、実に60両もの大増備を行っている。
車軸配置4-4-0 (2B) で2気筒単式の飽和式テンダー機関車で、動輪直径は1372mmである。本形式に先行する5300形系列では、第2動輪が運転台の直前、火室の横に置かれていたが、本形式では動輪の軸距を伸ばして運転台の直下に置き、火室を第1動輪と第2動輪の間に配した安定感のある姿となった。その意味では、1882年(明治15年)ベイヤー・ピーコック社製の2B型タンク機関車(後にテンダー機関車に改造され5490形となった)のリファイン版といえる。
ランボード(歩み板)の前部が斜めにはね上がり、シリンダがそれに沿う形で斜めに取り付けられているのも先行各形式と同様である。また、銘板は第1動輪スプラッシャー(泥除け)の装飾を兼ねた扇形の大きなものが取付けられており、機関車のスタイルに対して特に意を配ったとされるベイヤー・ピーコック社の姿勢を垣間見ることができる。テンダー(炭水車)は3軸固定式である。
5500形と5630形は、別会社の製造であるが非常に似ており、機関車後部とテンダー前部の寸法の違い、主台枠、テンダー台枠の形状の違いのほかに、運転台前面窓の形状が5500形は四角形、5630形は丸形で、ランボードの斜め部分の立上がり位置が5500形では第1動輪のスプラッシャーと砂箱の少し前であるのに対し、5630形では第1動輪の前部あたりとなっている。また、ロッド類の断面が5500形ではI形であるのに対し、5630形では平形(長方形)で、動輪に取り付けられたバランス・ウェイトの形状も5500形が扇形であるのに対して5630形では三日月形であるなど細部では異なっている点がある。
官設鉄道の5500形は、東海道線の増強用としてベイヤー・ピーコック社に6両を発注したもので、製造番号は3597 - 3602であった。官設鉄道での形式番号は、計画時は形式AF (226 - 231) であったが、組立て完了までに番号が142 - 147に改められた。
落成後は、東海道線中部の静岡機関庫などに配置されたが、後に142 - 144, 146は奥羽南線でも使用された。1898年(明治31年)には、ニールソン社製の5630形とともにD6形に改められた。
日本鉄道では、1894年(明治27年)に同形機をPbt2/4形として12両を輸入した。こちらはボイラーの仕様が官設鉄道のものと若干異なり、整備重量も重かった。日本鉄道では、1897年(明治30年)に36両、1898年に12両を増備したが、1898年製の3次車は、第1動輪のスプラッシャー前方の砂箱を大型化している。
日本鉄道所属車の、製造番号及び番号は次のとおりである。
1894年製 製造番号3640 - 3651 番号93 - 104
1897年製 製造番号3889 - 3924 番号153 - 188
1898年製 製造番号4014 - 4025 番号189 - 200
東武鉄道では、1898年製の10両(製造番号4026 - 4035)を輸入し、B1形 (3 - 12) とした。これらは、日本鉄道のものと主要寸法は同一であったが、使用圧力が9.8kg/cm²と、官設鉄道や日本鉄道のもの (11.2kg/cm²) よりも低かった。翌年、東武鉄道は伊勢崎線北千住・久喜間を開業したが、以遠の建設は資金難のため困難となってしまった。10両ものテンダー機関車の保有が重荷となった東武鉄道は、1897年に本所(現錦糸町)・銚子間が全通したものの、タンク機関車ばかりを保有していた総武鉄道に本形式を譲渡することとした。両社には共通の重役もいたため、譲渡話は順調に進み、1899年に4両 (9 - 12) 、1901年に2両 (7, 8) の計6両が譲渡され、総武鉄道の16 - 21に改番された。
1906年に公布された鉄道国有法により、日本鉄道と総武鉄道は買収・国有化され、両社に所属した66両が官設鉄道に編入された。これを受けて1909年に制定された鉄道院の車両形式称号規程により、官設鉄道のD6形及び旧日本鉄道のPbt2/4形、旧総武鉄道の16 - 21は5500形と定められ、官設鉄道の6両が5500 - 5505、旧日本鉄道の60両が5506 - 5565、旧総武鉄道の6両が5566 - 5571に改められた。
官設鉄道の5500 - 5505は、この頃には北陸線に移っており、中部鉄道局に所属していた。その後は、西部鉄道局に移り、山陰線の豊岡や米子に配置されたが、1921年(大正10年)6月に東京鉄道局に転じている。
旧日本鉄道・総武鉄道の66両は、高崎線、東北線、総武線の主力として使用されたが、一部は蒸気圧力を12.2kg/cm2に上げて気筒直径を縮小し、奥羽線に転用された。また、信越線北部および羽越線に転用されたものもあり、1923年(大正12年)6月の仙台鉄道局新津運輸事務所管内には5539 - 5552の14両が配置されていたと記録されている。総武線へは、国有化後に5500形が増備され、やがて房総線でも使用された。
1923年9月1日に発生した関東大震災では、実に9両の5500形(5526(品川庫), 5528, 5530(千葉庫), 5560, 5564, 5567, 5569(錦糸町庫), 5557, 5558(安房北条庫))が被災しているが、幸いにも廃車は発生していない。
1925年(大正14年)に仙台鉄道局配置の3両 (5541, 5544, 5549) が東武鉄道に譲渡され、1929年(昭和4年)および1930年(昭和5年)には、12両 (5509, 5511, 5519, 5523, 5536, 5554, 5556, 5559, 5561, 5563, 5567, 5569) が廃車となり、10両 (5506, 5507, 5510, 5512, 5515, 5527, 5534, 5557, 5558, 5565) は、B10形2B1タンク機関車に改造された。
1933年(昭和8年)6月現在で、東京鉄道局に36両、仙台鉄道局に11両の計47両が配置されていたが、東京鉄道局配属車のうち17両は休車で、稼働車はすべて入換専用であった。東京鉄道局では、1935年(昭和10年)3月までに、先の休車17両に2両を加えた19両 (5503, 5504, 5514, 5516, 5517, 5518, 5520, 5521, 5522, 5524, 5526, 5528, 5529, 5531, 5532, 5533, 5562, 5564, 5566) が廃車となった。
仙台鉄道局の11両は、越後線で使用されていたが、1939年(昭和14年)までに6250形に置き換えられ、5539, 5540, 5543, 5545, 5547を残して廃車された。このうち、5531,5551は東武鉄道に、5542は三井三池港務所に、5552は寿都鉄道に、5560は日本曹達天塩鉱業所に譲渡された。
太平洋戦争後の1947年(昭和22年)1月には5546が三岐鉄道に、5548が名古屋鉄道に譲渡された。この頃には、22両が飯田町、横浜、国府津で入換専用で使用されている。
1952年(昭和27年)10月17日、鉄道開業80周年記念行事の一つとして、東横浜 - 汐留間[1][2]に蒸気列車「汽笛一声号」が運転されることとなり、その牽引を5500形が務めることになった。当時横浜機関区に在籍していた5500形7両 (5501, 5513, 5530, 5537, 5538, 5570, 5571) のうち、最も状態の良かった5571に5501のナンバープレートを取付けて運転したが、これらも1955年(昭和30年)9月に廃車され、5500形は施設局に5508, 5540, 5543, 5553の4両を残すのみとなった。
1961年(昭和36年)に、翌年の鉄道開業90周年を記念して開設されることとなった青梅鉄道公園での保存機として5540が選ばれ、残りの3両は解体された。これをもって、国鉄の5500形はすべて姿を消した。
ベイヤー・ピーコック製の本形式は、80年もの間使用されながらも気筒とピストンの磨耗がほとんどなく、検査時にも気筒のプッシングの必要がまったくなかったという。後年、国鉄研究所では、その材質を分析したが、リンの含有量が少し多いという以外、金属の材質からはその理由が全く解明できなかったという。
主要諸元
全長:14,021mm
全高:3,671mm
全幅:2,286mm
軌間:1,067mm
車軸配置:4-4-0(2B)
動輪直径:1,372mm
弁装置:スチーブンソン式基本型
シリンダー(直径×行程):406mm×559mm
ボイラー圧力:11.3kg/cm²
火格子面積:1.33m²
全伝熱面積:80.3m²
煙管蒸発伝熱面積:73.0m²
火室蒸発伝熱面積:7.3m²
ボイラー水容量: 2.3m³
小煙管(直径×長サ×数):45mm×3,229mm×170本
機関車運転整備重量:34.07t
機関車空車重量:30.97t
機関車動輪上重量(運転整備時):22.34t
機関車動輪軸重(第1動輪上):11.62t
炭水車重量(運転整備時):24.55t
炭水車重量(空車):11.64t
水タンク容量:9.1m³
燃料積載量:3.46t
機関車性能
シリンダ引張力:5,990kg
ブレーキ装置:手ブレーキ、真空ブレーキ
5500形の国鉄から私鉄への譲渡機は計10両で、東武鉄道に5両が譲渡されたほか、寿都鉄道、三井三池港務所、日本曹達天塩鉱業所、三岐鉄道、名古屋鉄道に各1両が譲渡されている。三井三池港務所の5542は、同系の三井芦別鉄道に再譲渡されている。
三岐鉄道では、5546が1948年11月に竣功し、国鉄時代の形式番号のまま、主に富田駅の入換用として使用された。同機は、ディーゼル機関車の導入にともない、1952年11月に廃車解体された。
名古屋鉄道に譲渡された5548は、1948年10月に竣功し、国鉄時代の形式番号のまま使用された。同機は名古屋鉄道唯一のテンダー機関車である。貨物列車の牽引に使用されたが、1960年6月に廃車となった。
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