観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

幻の今福線 第一下府川橋梁 近くの「のり面」

2011-03-20 11:43:52 | その他 廃 線 /未線 今福線

【1度目の計画 】

 島根・広島の県民にとって、浜田市と広島市とをむすぶ鉄道の建設は、長年の悲願でした。中でも、「広浜鉄道計画」は、日本海側と瀬戸内海側をわずか92 ㎞で結ぶ最短路線として熱烈にのぞまれました。昭和8 年(1933)、広浜鉄道のうち、広島側の「可部~加計」間と島根側の「浜田~今福」間の着工が決まりました。地元の人が鉄道建設を願い出てから、実に37 年の年月が流れていました。終点の名前をとって「今福線」と呼ばれました。

 当時の鉄道は人を運ぶことが目的なので、今福線の起点は浜田駅ではなく下府駅となり、上府・宇野(当時は有福)・佐野・今福の4 つの所に駅ができて、村々を結ぶことになりました。(全長15.6 ㎞ )。少しでもまっすぐなコースになるよう、下府川をまたぐ橋や12 のトンネルが計画されました。この地はところどころに三郡変成岩という薄石が重なったような地層があり(オンジャクとよばれる地層もふくまれています。)ダイナマイトがたくさん必要でした。多くの人が鉄道工事にたずさわりました。(なお、この今福線の工事の時、下府廃寺塔跡あと(国指定 史跡) がみつかりました。)特にトンネルを掘る坑夫は、高い賃金でやとわれました。作業は「かつぎ」と言われるやり方です。岩を背にし、後ろ向きになって「のみ」(たがね)を持ち、「せっとう」(かなづち)を肩かたごしにふって、のみで岩を崩したり、ダイナマイトを仕掛ける穴を開けたりしました。ちなみに坑夫の四つ道具は①のみ、②せっとう、③カンテラ(ガス灯)、④さんだわら(座ぶとん)です。工事は順調に進んでいました。けれども、昭和12 年(1937)、日中戦争が始まり、工事に必要な鋼材が手に入らなくなってきました。

橋を、鉄からコンクリートに設計変更するなどして工事は続きました。しかし、太平洋戦争(1941)へと突き進む戦時体制のなかの昭和15 年(1940)、残念ながら工事は中止されてしまいます。そのとき、下部構造が完成し、橋げたをかければ完成する橋がいくつか残っていましたが、メガネ型のアーチ橋7つはすべて完成していました。(なかでも佐野上に残る高さ14m のアーチ橋は見事です。)上府駅、宇野駅、佐野駅のプラットホームやトンネルもすべて完成していました。また、路盤も完成していて、あとはレールを敷くばかりというときの中止だったのです

 

 


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