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観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

日本国有鉄道 クハネ 581 8号 九州鉄道記念館

2017-03-25 09:13:03 | 乗り物(鉄道:船:飛行機:バスなどなど)

クハネ581-8は福岡県北九州市門司区の九州鉄道記念館で展示保存。
近郊化改造後のクハ715-1として1998年(平成10年)に廃車され、その後も解体を免れて九州旅客鉄道(JR九州)小倉工場(現・小倉総合車両センター)に留置されていたが、2000年(平成12年)の小倉工場まつりのために修復工事が行われた。。ただし、内装および窓・扉配置はクハ715-1のままであり、後位側扉・ロングシート・中吊り広告受の残置などがある。2003年(平成15年)の同館開館により移設されている。

国鉄583系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した動力分散方式の寝台電車。交直両用特急形電車。最初に使用された列車にちなんで「月光形電車」とも呼ばれる。

寝台設備を持つ動力車は、20世紀初頭にアメリカのインターアーバン(都市間電車)や1950年代中頃に西ドイツの寝台気動車VT10.5形など数例が見られ営業運転も行われていたが、静粛性の問題や昼夜兼行とする経済的メリットが存在しなかったことから、いずれも少数・短期間にとどまった。本格的な寝台電車は本系列が世界で最初のものである。
本系列の開発の経緯は、以下に示す日本の鉄道の特異性が関係していた。
地形が複雑で勾配や曲線の多い日本においては、1960年代初頭より昼行列車は加・減速性能や上り勾配での速度に優れている電車ないしは気動車による動力分散方式が一般化してきた一方で、夜行列車は一部が動力分散方式に切り替えられたものの寝台車については静粛性の観点から従来どおり機関車牽引の客車で運行される動力集中方式が一般的であり、高速化には限界があった。
1960年代に入ると好景気による輸送需要増大に伴い全国的に優等列車の増発が進められた。この過程で運転本数が多くなった急行・特急列車に対し、運行する車両を留置する車両基地の容量の問題が浮上してきた。
さらに車両の新規製造コスト捻出が問題化していた。
これらの解決策として、昼夜兼行で使用可能な寝台兼用電車を設計することになったものである。
当初は寝台車の接客設備水準から昼行列車では急行列車の運用が想定されていたが、昼行運用が平均時速が遅い急行列車で使用する場合十分な転換時間が得られないことや居住性を考慮すると「Bロネの3段化」が望ましいが大幅な定員減であり収入減となるなどの理由から、特急形電車として設計された。その結果として以下のメリットが発生した。
寝台列車としては当時の日本の在来線では最速の120km/h[8]での走行が可能。
朝夕のラッシュ時に通勤用車両がフル稼働して余裕のある車両基地で寝台設備の解体・組立を行うことにより新規の地上設備投資を抑制。
昼夜兼行形車両とすることで、1日により多くの車両運用が可能になり投資に対する費用対効果を向上。
主に首都圏・近畿圏での早朝到着の列車を電車化することでダイヤカット(列車の運転間隔の短縮)に寄与。
こうして1967年(昭和42年)に電動車が直流・交流60Hz対応の581系電車が登場。翌1968年(昭和43年)には電動車が直流・交流50/60Hz対応となり、これを機にそれまでの581系グループも含めて583系電車となった。

それ以前の国鉄特急形電車がボンネット形の先頭形状と低い屋根による速度感の強い外観だったのに対し、本系列は寝台スペースの確保のためにほぼ車両限界いっぱいまで広げられており車高が高く、車体側面を垂直とし国鉄特急形電車としては初めて前面貫通路が設置された。
従来の特急形電車では静粛性から電動発電機と空気圧縮機を客室から遠ざけるため、車両先端のボンネットに搭載していたが、本系列は先頭車の貫通構造と寝台列車では昼行列車以上の静粛性を要求されることから機器類とを客室の分離は必須であるためにクハネ581形には電動発電機(MG:容量150kVA)および空気圧縮機 (CP) を搭載する機器室が運転台後位に設けられ、スペース確保のためにこの部分は側通路構成を採用した。CPは181系・485系のC3000形に対してC2000形(容量2,000L/min)を搭載し、容量の関係でサシ581形食堂車の床下にも搭載した。
運転台窓配置は従来の特急型から設計変更され、前窓は151系や481系などの曲面ガラスを使わず、新幹線0系電車と同じく平面ガラスで構成された。側窓は0系同様に傾斜させることで屋根部との面変化を少なくした。ただし、0系は流線型であるため側窓の1枚は正面と側面を繋ぐ形で斜めに配置しているが、本系列では側窓を同表面で構成し在来線の車両限界の制約から0系よりも傾斜が強い。このため側窓後部から屋根へのデザイン処理は独特となり後に新幹線100系電車でも採用された。
正面愛称表示器は、183系以降の貫通型・非貫通型先頭車のそれと比べ横長かつ天地の寸法が小さい。
文字のみで列車愛称を表示していた時代は、他系列とは異なり書体は切紙風で黄色または黄緑色に黒色の細い縁取り付きとした。
塗色は在来特急車の窓周り赤色(赤2号)に代わって窓周り青色(青15号)とした。この色は20系客車などの寝台車に使われているものと同じであるほか、当初は新大阪で東海道新幹線に接続するため新幹線と共通するイメージを持たせることも考慮された。地色のクリーム色も青15号との相性から、在来特急車のクリーム4号からクリーム1号として落ち着いたイメージを持たせた。塗り分けは「こだま形」のものを踏襲したが、窓周りの青は寝台車としての性格を強調するため幅広となった。また、運転台前面上部は反射防止のため青15号で塗装された。
客扉は戸袋ができるのを避けるため折戸とし、腐食防止のためステンレス製とした。また、側面出入口付近に本系列独自の正方形とした20コマ対応電動巻取式方向幕が装備され新製時より使用された。

貫通扉のスタイリングについては、開発担当する車両メーカーの設計陣のほか鉄道車両工業会に当時設けられていた鉄道工業デザイン委員会のメンバーが加わって検討が行われ、貫通扉と幌を覆う構造・運転台の窓構成・大きな車体断面から先頭部にかけての形の変化などが議論された。
貫通路方式は将来の列車分割・併合を見越したもので連結器もボンネット形で採用された自動連結器とカバーの構成から密着連結器に変更されている。当時の特急列車は長距離輸送の主役であり、優等列車の先頭形状には優雅さが求められたことから、貫通扉・幌・さん板を隠す左右2分割式の外扉が設けられた。特急マークは外扉の表面に設置した上で外扉同様に左右2分割式を採用した。

デザインも含めてこれらは後年の国鉄特急形電車に影響を与えた。
しかし、当時の電車特急は長編成での運行が基本であり分割・併合が実施されることはなく、後に正面デザインは前面貫通型をベースとしつつも貫通扉路を省略した先頭車(クハ481形300番台など)が登場することとなった。なお、本系列は非貫通型先頭車登場前に製造が終了したため落成した先頭車はすべて貫通型である。
また腐食や寒冷地での隙間風防止の観点から外扉の溶接を実施した車両が存在し、中にはクハネ581-7(→クハ715-3)のような事故復旧時に非貫通型に改造された車両もある。
JR東日本秋田車両センター配置のクハネ583形は修繕に際し完全に貫通路が埋められ非貫通型となった。同編成は青森所属時に外扉を溶接しているが、外見上はオリジナルに近く切れ目が入っている。
国鉄時代末期からJR化後にかけ特急列車の短編成化と分割・併合運転が増加し、本系列も含め従来は使用することがなかった貫通型先頭車を活用する例がでてきた(詳細は後述)。また681系や285系のように設計当初から分割・併合を視野に入れ本系列に類似した外見・構造を持つ貫通型先頭車が登場している。

Mn車(モハネ581・583形)には山岳区間での使用も考慮した抑速ブレーキを搭載した自動ノッチ戻し機構付きのCS15系制御装置を搭載し、ユニットを組むM'n車(モハネ580・582形)も含む8基の定格出力120kWのMT54系主電動機を制御するMM'ユニット方式を採用した。
交流電化区間では交流を直流に整流して用いる401系・421系電車から一貫した手堅い間接式の機器構成が踏襲されており、M'n車には主変圧器・主整流器などの機器とPS16B形菱形パンタグラフに降雪対策として押上げ力の強化や構造の簡素化を施工したPS16D形を搭載する。
台車は車重の増加に伴い、DT32系台車の板厚を増して軸受等を強化した上で枕ばねをベローズ式からダイアフラム式に変更したDT32D形(動力車)・TR69D形(付随車)を採用した。
これらの構成は前後して登場した485系グループと同等である。したがって本系列ともども485系グループとの併結も可能であり、営業運転では分割民営化後に京都総合運転所所属車を充当した「シュプール号」において以下の実績がある。
485系側6両編成[16]のクハ481形200番台と本系列8両編成のクハネ581形を向い合わせで連結(10M4T)。もしくは485系側7両編成のクハ481形200番台と本系列7両編成のクハネ581形を向い合わせで連結(8M6T)。北陸トンネル通過時の安全対策上から貫通路も使用。
本系列10両編成からサロネ581形を抜き485系MM'ユニットを組込んだ11両編成(8M3T)。
どちらも加速力補強という観点から電動車比率が高められた。
動力車を寝台車に用いるという特殊事情から遮音・防振の対策は非常に徹底されており、その後に登場した寝台客車と比較しても遜色のない水準にある。

当初はB寝台車兼普通車(1969年までは2等座席・寝台)モハネ581形・モハネ580形・クハネ581形・サハネ581形と食堂車サシ581形のみが製造された。これはA寝台車(1969年までは1等寝台)については昼間に使用する際に特急列車用グリーン車(1969年までは1等車)に必要な居住性を確保する方策がなかったためである。食堂車についても車体断面形状・側窓・冷房装置等を他形式と同一とした。
B寝台車の内装については、20系までの寝台客車で標準とされた片側通路式をやめ座席車としての運用時に4人掛ボックスシートとして使用できる中央通路式の「プルマンスタイル」が採用された。そのため、上段・中段寝台用にプルマン式A寝台車と同様の明かり窓が備えられている。パンタグラフ取付部は、屋根高さの関係から中段・下段の2段とした。この部分は中段寝台の寝台舟および荷物棚の方式が一般部と異なっている。
構造上の都合により原則として営業列車の走行中における転換作業は行わないとされたが、約1000kmの長距離を走った「きりしま」や臨時「日本海」等で走行中に転換作業を行った実績がある。
寝台幅は従来の52cmから居住性改善のため、上段・中段寝台については70cmとし、下段については座席幅2人分を確保するため1等開放寝台並の106cmとなった。
昼間使用時の4人掛ボックスシートについても、人間工学に基づいて設計された深い背ずりと1,970mmのシートピッチにより、その居住性は客車における一般型1等車(並ロ)に匹敵するものであり、同時期の181系や485系グループなどの回転式クロスシートに対しても決して劣るものでなかった。ただしボックスシートの構造上リクライニング機能は搭載されていない。
食堂車を除く各車両では寝台使用時を考慮し、車端部にトイレは2基、洗面台は3基設置としたほか、開閉可能窓による外開式非常口を備えた乗務員室が設置された。これにより車体外観を含めて本系列の独特のスタイルが形成されている。
窓の日よけは、通常のカーテンや布製ブラインドでは寝台セット時に邪魔になるため、2枚のガラスの間に回転式ブラインド(通称:ベネシャンブラインド)を仕込む方式とした。ブラインドの上下は窓上部に設けたハンドルの手動操作による。この回転式ブラインドはその形状・色彩から内装だけではなく外見上も良く目立つものとなった。これ以外にも、サシ581形から採用されたFRP製座席や、折りたたみ可能な片持式テーブルなどは、同時期以降における他形式の食堂車に波及した。
冷房装置は、風の吹出方向および車両限界の関係から新設計した小型のAU15形分散式冷房装置を寝台区画ごとに設置し、クハネ581・583形に8基、モハネ580・582形に4基、その他の形式に9基搭載した。ただし、パンタグラフを2基搭載するモハネ580・582形はAU15形のみでは容量が不足するため床置形のAU41形も3基搭載する。

世界初の寝台電車特急「月光」としてデビュー。
昼間は座席特急として昼も夜も運転できる便利な特急用車両です。昭和45年には仲間も増え「つばめ」、「はと」などの関西、九州間特急に使用されました。昭和59年に小倉工場で普通電車に改造され交流電車715系(クハ7151)として生まれ変わり、おもに長崎、佐世保線で平成12年まで活躍しました。廃車後は登場当時の特急塗装に戻され小倉工場に保存されていました。
■製造初年:1967
■製作社等:日立製作所


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