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日本海軍呉鎮守府司令部地下壕

2018-05-26 00:11:32 | 遺構 /人間魚雷 回天の島 大津島など

日本海軍呉鎮守府地下壕の作戦室

太平洋戦争時に日本海軍呉鎮守府(広島県呉市)が使用した地下壕。

呉市が編集した資料などによると、地下壕は米軍機による初の本土空襲があった1942年に旧海軍が設計。呉鎮守府(現呉地方総監部)の庁舎裏の斜面を切り開き、45年春に完成したと伝えられる。

防衛省防衛研究所が保管する史料にも、鎮守府地下に作戦を進める戦闘指揮所があったとの内容が記録されている。

(説明板)
日本海軍呉鎮守府司令部地下壕
(旧地下作戦室)
昭和17年、日本本土は米軍機による初空襲を受け、昭和19年頃からは連日のように空襲を受けるように鳴り、爆撃の被害を避けるため日本海軍の地上施設は地下に建設されるようになった。


当該施設は、呉鎮守府司令部庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を切り開いて建設されており、昭和17年設計、昭和18年頃に着工、昭和20年頃に完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当該施設完成後は重要書類等も「地下作戦室」で保管されるようになった。


「地下作戦室」の1階には会議室・発電機室・換気施設・排水施設、2階には通信室・事務室・映写室・休憩室があり、通信室には大本営・連合艦隊司令部・呉鎮守府管下の各要所等との電信・電話線が引かれ、「地下作戦室」1階中央正面の壁一面には西日本の作戦図が掲示され、外部との開口部(窓・出入口)には封鎖可能な鉄製扉が設置されていたようである。


また、地下施設への連絡用として地下通路が整備されており、「地下作戦室」の奥に見える鉄製の扉を開けると、呉地方総監部庁舎裏側にある出入口と繋がっている。


昭和20年7月、米軍機による呉市への空襲により、呉鎮守府司令部庁舎も外壁のみを残して焼失したが、重要書類等は「地下作戦室」に保管されていたため爆撃の被害を受けず、そのため呉鎮守府司令部は終戦まで作戦その他要務を支障なく遂行できたと言われている。

海上自衛隊呉地方総監部によると、当時の技術の粋を集め、アーチ型の天井や厚さ約1.5メートルの壁に覆われた作戦室は、臨時の「指令本部」として使用された可能性もあるという。


 呉地方総監部によると、地下壕は1945年4月ごろ、呉鎮守府司令部庁舎の裏手に建設された。同年7月に空襲で庁舎が焼失した後、海軍は地下壕で任務に当たっていたとされる。終戦後は倉庫として使われていた。


 頑丈なコンクリート壁で覆われ、幅14メートル、奥行き15メートル、最も高い地点6メートルの作戦室と隣の小部屋、鎮守府庁舎をつなぐ地下通路への立ち入りが許可された。

敵機襲来時には作戦室の壁に張られた地図の豆ランプが点灯する仕組みになっていたとする記録が残っているという。


呉鎮守府(くれちんじゅふ)とは、広島県呉市にあった大日本帝国海軍の鎮守府。通称、呉鎮(くれちん)。

1886年4月22日、「海軍条例」において全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くこととし、5月4日に第二海軍区(範囲「紀伊国南牟婁郡界ヨリ石見長門国界ニ至リ筑前遠賀宗像郡ヨリ九州東海岸ニ沿ヒ日向大隅国界ニ至ルノ海岸海面及四国ノ海面並内海」)を所管する鎮守府は呉港に置くことが定められた。

その後、用地買収、建築工事が進められ、1890年3月末までに建築工事の大部分が完成した。呉鎮守府の開庁は1889年7月1日付で告示がなされ、開庁式は1890年4月21日、明治天皇臨席のもとに挙行された。

また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・監獄署などを置いた。


1945年の終戦時に廃止され、1946年から1955年までは司令長官官舎などがイギリス連邦占領軍の総司令部として使用された。その後海上自衛隊に返還され呉地方隊として継承し、現在も「呉鎮」(くれちん)という愛称で親しまれている。

1886年(明治19年)5月4日:呉港に鎮守府を設置することが定められる。
1889年(明治22年)4月1日:海軍病院設置。
4月17日:呉鎮守府海兵団設置。
7月1日:呉鎮守府開庁告示。
1890年(明治23年)3月10日:呉鎮守府造船部小野浜分工場設置(旧小野浜造船所跡)。
4月21日:呉鎮守府開庁式。
1893年(明治26年)5月19日:鎮守府条例改正。予備艦部・造船部・測器庫・武庫・水雷庫・兵器工場・病院・監獄を設置。呉鎮守府造船支部を小野浜に設置。
1895年(明治28年)6月6日:呉鎮守府造船支部(小野浜)廃止。
1896年(明治29年)4月1日:呉鎮守府海兵団、呉海兵団と改称。呉水雷団を設置し、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。仮呉兵器製造所設置。


1897年(明治30年)5月25日:仮呉兵器製造所廃止し、呉海軍造兵廠設置。
1903年(明治36年)11月10日:呉海軍工廠を設置し、造兵廠は工廠の造兵部となる。
1909年(明治42年)12月1日:呉海軍人事部設置。
1920年(大正 9年)8月1日:呉海軍工廠広支廠設置。
9月:海軍潜水学校開校。
1921年(大正10年)3月:海軍燃料廠設置。
1923年(大正12年)4月1日:軍需部開設。呉海軍監獄、呉海軍刑務所と改称。
1931年(昭和 6年)6月:呉海軍航空隊設置。
1937年(昭和12年)6月1日:海軍通信隊設置。
1945年(昭和20年)10月15日:呉海軍工廠廃止。
11月30日:呉鎮守府廃止。

 


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