あるネットニュースを見ていたら、とある就活アドバイザーなる男が「底辺の仕事ランキング」をウェブ上で紹介、炎上して消す騒ぎが昨年あったとか。その職種には「工場や倉庫作業員」「コールセンター」「建設土木作業員」「介護職」「飲食店スタッフ」「清掃員」「ドライバー」などがあったらしい。
さて、これらの職種、私自身も直接携わったか、もしくは事務職としてこれらの職種のサポートに関わったことがある。飲食店バイトなんて学生なら誰もが経験値ありそうだし、地元局の美人アナですらカフェのウエイトレスやっていたと告白したぐらいだから。新進気鋭の事業主のなかには起業する前は、引越し作業員や土方で資金をがっぽり稼いだという人も多い。土木作業員は、その昔、農業が閑散期だった時の出稼ぎ先として好まれていたのだ。こうした暮らしを支える職人仕事がなければ、われわれは夜露をしのぐことすらままならない。
かつて、小学生時代の旧友Aは露骨に職業差別をする女だった。
大企業の中間管理職父と専業主婦の母との家庭で育った彼女の、差別思想はあきらかに父譲りで、小商いだった(といっても有限会社の社長でバブル期には会社員よりははるかに稼いでいた)私の父親を毛嫌いしているふしがあった。彼女が私と仲が良かったのは、私の成績が良くて良い影響を与えてくれそうだからという。
このAの職業観がいびつなことに気づいたのは、おろかにも私がすでに大学生のときだった。
「クリスマスの売り子のバイトをやるのは時給がいいから」「将来の夢は大手マスコミのアナウンサーか外交官」。同級生の誰かの親の職業をくさす発言もあった。もし、私の親だったら即刻縁切りしていただろうが、私は人当たりのいい彼女の小悪魔らしさに気づかなかった。
就活に失敗して英語が活かせるホテルのフロントになっても「ベッドメイクの仕事なんて」を毒を吐く、彼女のマンションの自室はものが溢れて整っていなかった。通訳の仕事を干されて、留学にさえ逃げたが英語を活かす仕事など得られず、自宅で仕事ができるからとウェブデザイナーを目指し始めた彼女は、亡くなったイラストレーターだった私の妹をなじるようになり、私にも芸術系の仕事に就けなかったと面と向かって批判するまでになった。芸術系の仕事をあきらめたおかげで、私はいま数奇なことに、中小企業の正社員で人事部門責任者にいられるわけだが。
彼女が目指していたのは一環して、いわゆるホワイトカラーな、いま流行りの、クリエイティブでかっこいい仕事ばかりだった。
だが、40歳を過ぎると技術のない派遣の紹介が途絶えてきたのだろう。東京に逃げたから地元では素性が知られないものの、現在の生業を知る者はほとんどいない。SNS上では以前は「大手マスコミの専任デザイナー」「コミックアーティスト」「お酒の失敗談で本が出せる」などとアピールしていた今の彼女のプロフは「グローバルサイトのディレクター」と書かれている。いったい、何を専門にしているかもはや意味不明な職種だ。しかも正社員でも、独立起業したわけでもないことは日ごろの言動を見れば明らかなのだ。ただ、日がな働いて、そのお金を旅行だの食べ歩きだのに散在していて、人生の目標も哲学もない、ただの遊興人なわけである。
私自身は就職氷河期よろしく、ここ20年ぐらいは望ましい職種にありつけなかった。直接雇用の事務職といってもブラック契約のところが多い。派遣はいわずもがな。大学院卒や資格といった箔付けも、現実の職場がもとめる働きには作用しないことさえもある。それでも、なんとか個人事業主と兼業会社員で暮らしていけたのは、周囲の人の恩恵によるものなのだろう。ありがたいことである。だからこそ、私は現業として社会に必要な職業人たちをさげずみがちな、自称仕事できる似非クリエイターを激しく憎む。
私自身が悪い条件が重なっても働くことをあきらめなかったのは。いかに「底辺」とさげずまれようとも長年その仕事で働き続けた人なりの生き様や働きぶりに感化されたからだった。一文だにならないのに朝早く出社して掃除をする男性、有休を多くとる人の代わりに負担をかぶっても文句ひとつ言わない、いつも陽気な女性。経営者と板挟みになっている中間管理職、癌でいくども入院しながらも就業をあきらめなかった人。けっして高学歴でもなく、資格持ちでもない、そんな彼ら彼女らから働く心構えを私は教わったのだった。
彼ら彼女らは世間からいえば、けっして高級な仕事ではないだろう。
給与水準もまず低い。それでも、働くことをあきらめない。なにがあの人たちを支えているのかと言えば、それは。その仕事が好きで、もしくは好きではなくとも、生活のためならば働くのが当たり前だとしつけられているからだろう。それは、世界を震撼させた日本軍兵士の粘り腰にあるような忍耐、古き良き日本人の美徳だった。私たちは自己実現のためではなく、他者のために、社会をつくるがために働くのだ。
若い人に敬遠されているような、伝統工芸の世界でも。ホスピタリティが求められる医療福祉やサービスの業界でも。つねに労災事故と隣り合わせの建設土木や製造業界でも。衣食住や暮らしを支えるものを生み出すひとたちも。その世界に長らくいる人には、いる人なりの輝きがあり、人生の渋みがある。組織の中でそうした出会いに恵まれることが、報酬以上に、職業人としての果報でなくてなんであろうか。
日本はいつの間に、安易に口先だけ動かす、娯楽めいた虚業のような仕事がもてはやされるようになったのか。ユーチューバーやウェブ上の物書きやら絵師やら漫画家名乗りらが乱立し、ひきこもり相手のビジネスをはじめたせいで、誰も農林水産業や生活インフラに従事する人に感謝の念を送りはしない。金融投資でもうけて、働いたら負けなどというネットミームが出回り、真に受けたひとが破産したり、オレオレ詐欺の加担をしたり、ひきこもりで正常なキャリアパスを描けないまま貧困中高年になっていく。
生きていくための下支えをする仕事ではなく、オフィスワーク系やアイデアありきの、手を動かさないような仕事師たちが巨万の富を得ている。しかも国が補助金ありきで奇妙な文化産業がもうけだし、ふらちな芸能人どもが跋扈する。そのバランスの悪さが、いま、コロナショックで暴かれたのだ。
消費が落ちたとか、高齢化少子化が日本の経済を委縮させたとかいろいろ言われているが。我が国の経済を駄目にしているのは、海外譲りの終身雇用崩壊といびつな高等教育者の職業的な偏見のせいで、多くの人が生きるために必要な職業が人手不足に陥っているせいだ。後継者がいないせいで、貴重な技術や知識が継承されておらず、たとえば獰猛や野性動物を狩るハンターがいないために人が襲われる、といった事態が続出しはじめている。米以外の農産物、とくの果物はもはや庶民には買えないほど高額になっている。耕作放棄地が増えて、農地付きの家屋が廃墟になり、治安の悪化や倒壊の恐れ、自然災害時の二次被害の誘発になっている。
SDGsだの、プログラミング教育だの、なんだののメディアが取り上げるようなスローガンも、オリンピック関連の不正な業者の資金源そのもの。アイデアありきの官製談合がもたらしたうわばみのビジネスで儲ける、うさんくさいスペシャリストが群がっている。そのせいで、実直な労働者が支払った血税がどこかへ消えていく。
日本の学校も、親も、大人すべてがやらねばならないのは、正当な労働者育成であって、まずもって、そのための倫理観教育なのではなかろうか。小手先の語学やらIT技術やらを教え込む前に。
前述の私の旧友はおそらく、自分が望む通りの仕事をもはや得てはいないだろう。
生きていくために不本意ながらもその職に就いた者をあざ笑うものは、見栄えのいい高級そうな仕事人を装ったとしても一流になれないどころか、プライドだけ高い凡人以下の労働者になるだけなのではなかろうか。
ハイクラスの仕事に就くのは、学歴を誇るから、良き配偶者を得るから、エリート圏の人脈を築くから、だけではないのだ。お役所で手続きをするとふだんは市民に上から目線で接し、自分の過ちを認めず、非がみつかればたちまち上司の女の影に隠れてしまうような若い男性をみると、子どもの頃からのお受験ばかりで人間として大成するに必要なものを与えててこなかったのではないかと、私はいつもがっかりするのである。
仕事なんてものは、そのひとの一生のキャリアを保証するものではないのだ。ましてや、いまは、知的生産性の高いホワイトカラーほど、AIに仕事を乗っ取られていく。だから、職種や業界で自分のアイデンティティを誇るような愚かな真似はしないに限るのだ。自分がどういった人間かは、職業ではなく、そのひとの言動にあらわれており、富に恵まれたエリートでありながら卑賤なふるまいをする人間からは、正常なひとが離反していくのである。
(2023/08/13)
【画像出典】
ジャン=フランソワ・ミレー「落穂拾い」(1857年、油彩、オルセー美術館)