横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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横浜黒船研究会 コロナ巣ごもりレポート 

2022-03-02 00:16:45 | コロナ巣ごもりレポート

ペリーが報告した箱館産キングサーモンは誤認だった

横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

 2020年4月「ペリーはサケに舌鼓」と題した、黒船研究会の巣ごもりレポートをホームページに掲載いただきました。

 ペリー艦隊は開港予定の箱館(函館の旧地名)が滞在に適しているか、湾内の水深を測量し上陸における細則を取り決めるため、1854年5月中旬より検分に同地を訪れた。

 箱館滞在中に魚類調査と食料確保を兼ねて、地引網や釣りによる魚漁を行ない、サケ科の魚を大量に捕獲したと報告している。

 ペリー本人や乗組員の日記にもサケが美味であったとの記述が多数存在する。

 米議会報告書『ペリー艦隊日本遠征記』(以下『遠征記』)の第2巻でペリーが報告したサケの一種である和名「マスノスケ」は、アラスカなどでキングサーモンと称されるサケ科の魚である。

箱館でペリーらが捕獲しニューヨークの魚類学者が「マスノスケ」と発表した魚は、誤認であったことが判明した。

 

ペリー提督の報告

 『遠征記』第2巻所収の「博物学に関する報告」と題した序文で、ペリーは日本で捕獲した「魚類の分類は個人的な友人であるニューヨークのジェームズ・カーソン・ブレヴォールト氏(J・C・Brevoort)の好意的な援助に全面的に依存した」と綴っており、日本で捕獲した魚類の同定(生物の分類学上の所属や名称を明らかにすること)は魚類学者ブレヴォールトに依頼したと報告している。

『遠征記』第2巻に「日本産魚類図版覚書」を掲載したブレヴォールトは、同定の基となる魚の図版を描いた人たちについて次のように説明している。

 

「本報告書(『遠征記』)は、60種もの魚類が生き生きと描かれたスケッチをもとにまとめられたものである。これらの魚類は新たに捕獲されたものであるため貴重な資料となるであろう。このスケッチは、主にパターソン氏とピーターズ氏が行い、一部をハイネ氏とベイヤード・テイラー氏が行っているが、いずれもかなり正確に描かれている。」

 

『遠征記』第2巻に「SALMO ORIENTALIS, Pallas.」と魚の学名と解説が掲載され、彩色されたその魚の図版(PLATE 9 fig 2)は体長が21.5インチ(約54.5cm)であったと紹介されている。

「SALMO ORIENTALIS」は和名「マスノスケ」という魚で、漢字では「鱒の介」と書き、欧米の一部での呼び名はキングサーモンである。

魚の学名のあとに書かれた人名Pallasは、ドイツ人博物学者ペーター・ジーモン・パラスである。

 

日本魚類学会会長の検証

 筆者は「SALMO ORIENTALIS」の学名と和名「マスノスケ」が同一の魚であるか、キングサーモンと呼ばれている魚で正しいか、日本魚類学会会長で神奈川県立生命の星・地球博物館の主任学芸員の瀬能宏博士に検証をお願いした。

 瀬能博士は手元にあった『遠征記』(1856年)の原文を調べたところ、「SALMO ORIENTALIS」は「マスノスケ」で正しいが、「マスノスケ」として掲載されている魚の図版「PLATE 9 fig 2」は「サクラマス」であると指摘した。

 1997年に日本語翻訳本として出版された『遠征記』にも、同じ図版が紹介されていた。

 

『ペリー艦隊日本遠征記』掲載の図版(PLATE 9 fig 2)「サクラマス」

 

マスノスケの図版

 

 瀬能博士は『遠征記』掲載の図版には「マスノスケ」の特徴である背中や背びれ、尾ひれに黒い斑点が無いのを不思議に思われた。

産卵に回帰してきて河口で捕獲した「マスノスケ」の体長が54cmであることもこの魚にしては小さすぎるので、瀬能博士はブレヴォールトが他の種を誤同定している可能性を指摘し、文献を調査して次のようなことが判明した。

日本産魚類について報告しているブレヴォールトは、魚の同定及び解説の元となったのは、アメリカ人の画家が描いた魚の彩色スケッチ画であったと報告しており、ブレヴォールト自身は魚の標本を見ていないであろう。

『遠征記』の解説文は「マスノスケ」の特徴を引用した前半部分と、「サクラマス」の図を見て書いた後半部分が混在している。ブレヴォールトは「マスノスケ」について書いたつもりが、見ていた「サクラマス」の図を「マスノスケ」と勘違いしていたので、結果的に解説文は「サクラマス」のことを書いてしまった。

ブレヴォールトは間違いに気づいたが、印刷に回ってしまった図版の修正が間に合わなかったか、忘れていた可能性もある。

瀬能博士は、ブレヴォールトの同定は誤りであると指摘した書籍を見出した。

日本産魚類を初めて系統的にまとめた1913年出版の書籍で、魚類学者のデイビッド・スター・ジョーダン、田中茂穂、ジョン・オッターバイン・スナイダーの3氏による共著である。

東京帝国大学・理科大学紀要第33冊『THE JOURNAL OF THE COLLEGE OF SCIENCE, IMPERIAL UNIVERSITY OF TOKYO Vol, XXXIII.』の42頁によると、1856年発刊の『ペリー艦隊日本遠征記』ホークス編275頁に掲載された図版「PLATE 9 fig 2」の魚は、「マスノスケ」ではなく「サクラマス」であると訂正している。

ブレヴォールトが「マスノスケ」と紹介したこの魚は、正しくは「サクラマス」であることが判明した。

「サクラマス」は淡水魚ヤマメの降悔型で、通常は孵化の1年半後に降悔し、海で1年過ごして2~6月に母川に回帰する。

ペリー艦隊が停泊中の箱館で5月に捕獲されたことと、箱館湾や亀田川で大量に獲られた魚体の大きさも「サクラマス」と合致する。

 ペリー提督の伝記『Old Bruin』を著したS・E・モリソンは、文中で乗組員の魚釣りに関して「海産物は豊富で、新種の魚を期待したペリー提督は水兵たちに釣りを奨励した。期待した魚を捕獲すると彼らはまずスケッチをし、それが終わると早速皮をはいで厨房へ送った。」と書いており、ペリーが日本滞在中に魚類の新種発見に熱心であったことを物語っており、乗組員は魚のスケッチと皮の標本を残し、身は食べてしまったことを伝えている。

 

 「遠征航海中に乗組員は少なくとも数百種に及ぶ魚を採集し、同数の蟹や貝類を捕獲した。これらの標本のうち重要なものは生きているうちにハイネ、ベイヤード・テイラーその他の者によりスケッチされ、貝類や魚類の皮はできるだけ乾燥させて保存し米国へ持ち帰った。それを基にH・パターソンとW・T・ピーターズという2人の画家により色彩画として描き上げられ、ブレヴォールトが鑑定と記述を引き受けた。・・・ペリー提督とブレヴォールトの往復書簡は、これらの色彩図の全原画と共に製本して、ニューヨーク公共図書館に収められたが、紳士的友情と科学的探究心に結ばれた素晴らしい関係であった。」とモリソンがペリーの伝記に書いている。

 

 ワシントンのスミソニアン博物館に、日本から持ち帰った魚の標本が保管されていないか、ペリー提督の兄の子孫で生物学者のマシュー・カルブレイス・ペリー博士に調査を依頼した。

 幸い博士の友人がスミソニアン協会におり、スミソニアンのアメリカ国立自然史博物館の魚類部門研究助手・野中愛氏を紹介された。

 ペリーが米国へ持ち帰った魚の調査を野中氏に依頼したところ、スミソニアン自然史博物館の魚類庫へ作業に行った際、北海道で捕獲された「ギンポ」のアルコール液浸標本2瓶と、4匹の写真が保存されていることを発見した。


標本USNM5693

    

 魚類学者サンドラ・J・レアドン撮影

 

ブレヴォールトが同定した『遠征記』掲載の解説によると、この魚はギンポで、注記には箱館産で標本の大きさは9.25インチ(約23.5cm)と書かれていることから、4匹の標本から一番大きな魚を紹介した。

 ブレヴォールトの友人である魚類学者セオドア・ニコラス・ギルは、スミソニアン自然史博物館に保管されているギンポの標本「USNM5693」は、1852年から1854年のペリー提督による日本遠征の最中に、植物学者ジェームズ・モローにより収集されたと報告している。医師でもあったモロー博士は、アルコールに浸して魚を腐敗させないように保存する方法を知っていたのであろう。

 

はたしてモリソンが伝えるように、ペリーらが日本で採取した魚の標本や図版の原画、乾燥させた魚類の皮などが、ニューヨーク公共図書館に収蔵されているのか、解明されることを期待したい。