横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

今までの活動状況は左サイドメニュのブックマークから旧ブロブに移行できます。

「鳳凰丸」

2021-08-07 12:55:13 | コロナ巣ごもりレポート

「鳳凰丸」

横浜黒船研究会会員 清水 隆博

 

毎週月曜日の朝日新聞(夕刊)に日本各地の名所・旧跡を紹介する連載コラムがある。

昨年の5月13日には、「都会の水辺を訪ねる、隅田川テラス」というタイトルで佃島と

その周辺の案内が記載されていて、それをぼんやりと読んでいたのだが、次の一文を目にして驚いた。

 

「(佃島は)その後は工業の町に変わる。ペリー来航の1853年、幕府に命じられた水戸藩が石川島に造船所を創設。日本初の洋式帆走軍艦「旭日丸」などが建造された」

 

 日本最初の洋式帆走軍艦は「鳳凰丸」と固く信じて疑わずに来たので、驚きを通り越していささか怒りを覚えた。新参者とて、横浜黒船研究会の末席に名を連ねる者としてはこれを見過ごすわけにはいかない。早速、朝日新聞社へ抗議し、訂正を要求しようと思い立ったのだが、相手は天下の大新聞社、それ相応の根拠があって記事を書いたのであろうと思うと不安になった。そこで、「旭日丸」を含め、同時期に建造された3隻の軍艦について調べてみることにした。

  • 「旭日丸」

 ペリー艦隊が来航してから約3か月後の嘉永6年9月、幕府は「大船建造の禁」を解き

、西洋式軍艦の国産化を図ることを決意。同年8月8日、西洋式軍備の導入において先進的な藩であった水戸藩へ建造の内命が下った。以下、竣工までの経緯を時系列で記す。;

  • 嘉永7年1月2日、幕府直轄地であった隅田川河口に於いて水戸藩が整備した石川島造

船所にて起工

  • 安政2年、進水したものの、水深が浅かったため着底して横倒しとなった。オランダの書物を参考に廻船や樽を縛り付けて浮力を増し、どうにか復元。

(江戸の町民達はこの不手際をあざ笑い、この船を「厄介丸」と揶揄した。又、「動かざる御代は動きて動くべき船は動かぬ見と(水戸)も無き哉」という落首も詠まれたという。)

  • 安政3年5月竣工、「旭日丸」と命名

 性能諸元は以下の通り。;

◎排水量:約750トン(推定)

◎全長 :約42.3m

◎全幅 :約9.7m

◎喫水 :約7.3m

◎兵装 :不明(絵図の上では、舷側の片側に12の砲門が設けられている。)

 竣工した「旭日丸」は幕府に献上され、幕府海軍で運用されることとなったが、完成時には軍艦の主流は蒸気軍艦となっており、軍艦よりも輸送船として使用されることが多かった。その後、輸送船としては順調に任務を果たし、「厄介丸」の汚名とは異なって十分に実用性を発揮した。

 

  • 「昇平丸」

 藩主に就任以降、富国強兵政策を採っていた島津斉彬は、薩摩藩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、幕府に洋式軍艦の建造許可を願い出る。嘉永6年4月に許可が下りると、翌月から建造を開始した。以下、竣工までの経緯を時系列で記す。;

 

  • 嘉永6年5月29日、桜島瀬戸村造船所にて起工
  • 嘉永7年4月3日、進水
  • 安政元年12月12日、竣工

  性能諸元は以下の通り。;

◎排水量:約370トン(推定)

◎全長 :約31.0m

◎全幅 :約7.3m

◎喫水 :不明

◎兵装 :砲10門(砲種不明)

 

竣工後は江戸へ回航され、主として練習艦に使われた。

 

 

3.「鳳凰丸」

 ペリー艦隊の砲艦外交に衝撃を受けた幕府は、ペリー艦隊退去の3か月後、浦賀奉行所に「鳳凰丸」の建造を命ずる。以下、竣工までの経緯を時系列で記す。;

  • 嘉永6年6月19日、浦賀造船所にて起工
  • 嘉永7年5月10日、竣工

 性能諸元は以下の通り。;

◎排水量:約600トン(推定)

◎全長 :約36.4m

◎全幅 :約9.1m

◎喫水 :約4.5m

◎兵装 :

*7.5貫目大筒、4門

(ほぼ68ポンド砲に相当)

 *3貫目中筒、  6門

(ほぼ24ポンド砲に相当)

             *剣付き洋式小銃(50丁)

竣工の翌日には乗り試し(試験航海)が行われ、浦賀奉行の戸田氏栄以下、130人が乗艦し、房総半島の洲ノ崎近くまで帆走して無事に終了。水主(乗組員)として徴用されていた塩飽諸島の船頭、嘉吉(よしきち)は「殊のほか乗り廻しよろしき候につき、御奉行様より御褒美として御樽肴料

下され」と記している。

同年9月、奉行所の役人および塩飽の水主27人と浦賀の水主13人で安房まで訓練のため航行することになった。途中、大砲10門の一斉射撃をすると、「その響き百千の雷が落ちたごとくまことにおびただしく、その響きにてバッテイラ(瑞船)三艘立ち裂けに相成り」と記録されている。ペリー艦隊来航以来、その傍若無人な振る舞いと無理難題に翻弄され続けてきた中島三郎助をはじめとする浦賀奉行所の一行は、この瞬間、まさに溜飲が下がる思いであったと想像される。

余談で恐縮ではあるが、亡父が乗艦した航空母艦「瑞鳳」は浦賀の隣にある横須賀海軍工廠で建造された。昭和17年10月、「瑞鳳」は横須賀からトラック島へ向けて出港。つい半年程前、長時間の漂流後に生還した亡父は、「今度はダメかもしれない」と覚悟したという。今回、「瑞鳳」が観音崎沖を通過してから東京湾を出るまでに辿った航路は、「鳳凰丸」の乗り試しのそれとほぼ一致することを知った。「瑞鳳」は東京湾を出た後、一気に南下する航路をとったので、亡父は三浦半島と房総半島の山々をどのような思いで眺めたのであろうかと思うと感慨深いものがあった。

話を元に戻すと、「鳳凰丸」竣工の翌年(安政2年)2月に老中の阿部正弘、若年寄ら幕閣の観閲を受けた際には、中島三郎助、佐々倉桐太郎の両名の指揮の下、高度な操船技術を要する逆風航行の他、艦載砲の空砲射撃演習、小銃調練も行い、非常に好評であったと伝えられている。更に翌月の4日、7日、8日、12日にわたって幕府要人合わせて285名が「鳳凰丸」を見学した。

 

4.結論

 以上、幕末に建造された3隻の洋式帆走軍艦の略歴について述べてきたが、それぞれの艦の起工から竣工までの経緯と概要を以下の表のとおりに整理したのが次の表である。

 この調査結果を基に朝日新聞社へメールを送付したところ、以下の回答がメールで送られてきた。

 

「この度は、ご指摘ありがとうございました。複数の専門家の方に改めて取材したところ、旭日丸が日本初の洋式帆走軍艦としたのは、誤りとわかりました。(5月)25日

(土)夕刊にて、訂正しおわびさせていただきます。」

 

 これで一件落着、「鳳凰丸」の名誉も回復されて一安心となるべきところが、そうはならなかった。「鳳凰丸」を調査する過程で様々な資料を読み解くうちに、「鳳凰丸」を酷評する資料(「日本近世造船史」)があることを知ってしまった。曰く、「(鳳凰丸は)唯僅かに外観に於いて、西洋式を模倣せるに止まり、船体要部の構造に至りては、豪も在来の大和形船と異なることなく、頗る脆弱不完全たるを免れざりき」と記されている。これには

更に驚いた。もっと調べてゆくと、「順風でしか航行できなかった」とか、「強風で船体が分解した」とか散々な評価をしているものもあった。

 これでは、日本最初の洋式帆走軍艦がどの船であったかを論ずる前に、そもそも「鳳凰丸」は洋式の船であったかどうかが問われることになる。これは何としても名誉挽回せずばならないと調査を開始したが、これがなかなかの難事であった。

 

5.考察

 「鳳凰丸」を酷評している張本人は、共に幕臣であった栗本鋤雲(くりもと じょうん)と勝海舟であり、くだんの「日本近世造船史」はこの二人の回顧譚に依拠していると

いっても過言ではない。一体、「日本近世造船史」は何を以て「鳳凰丸」は洋式帆走船ではない」と主張しているのかというと、その論点は次の3つに集約される。

①船体構造が洋式の船体と異なる。②船体強度が低く、耐波性に問題があるので外洋航海に適さない。③螺旋釘(ボルト)を使用せず、和船建造用の和釘を使用している。

 ①については、「鳳凰丸」の船体断面図と当時の標準的な大型和船である弁才船のそれを以下の通りに比較すれば一目瞭然で、「鳳凰丸」の船体には肋材が使用されており、洋式の船体構造を持つ船であるとわかる。

 

「鳳凰丸」の断面図               

 

弁才船の断面図

②に関しては、復元図から現代の造船工学で強度計算をすると、現代の木船構造規定の要件を満たしていること、そして榎本艦隊の輸送艦として活躍し15年にわたって船歴を重ねた事実が全てを物語っている。

③については、指摘のとおりではあるが、洋式釘3種類のうち2種類は螺旋のない釘であり、和釘と大差はないので、決定的な論点にはなり得ない。

 以上の調査結果を以て、「鳳凰丸」は名実共に日本最初の洋式帆走軍艦として判定できると思うのだが、いかがであろうか。

 ところで、5月25日付の朝日新聞には約束どおり次のような訂正文が記載された。しかし、今読み返してみると、「別の船が先に造られていました」という部分が気になり出した。ここは、「別の船」ではなく、「鳳凰丸」と明確に記載して欲しかった。

中島三郎助をはじめとして、「鳳凰丸」の建造に関わった方々からは、「鳳凰丸の名を天下に知らしめるには千載一遇の好機であったものを、それを逃すとは何たる不始末。このたわけ者!」と一喝されるのかもしれない。

 されど、元より浅学菲才の身としては、これが精一杯のあがきにござりました。平にご容赦くださりませ。

 

 

*参考文献・出典;

 

旭日丸の図; 旭日丸図(船の科学館 蔵)/ 日本財団図書館企画展、

「ペリー来航と石川島造船所」報告書  

 

昇平丸の図; 「昇平丸御軍艦(松平文庫 松平宗紀氏 蔵)

 

鳳凰丸の図(モノクロ); 船の科学館:幕末・明治の洋式船、近代造船の夜明け

(日本海事科学振興財団)

 

鳳凰丸の図(カラー) ;「 ペリー渡来図貼交屏風 ―鳳凰丸の図―」東京大学史料編纂

所蔵

 

鳳凰丸の断面図;「幕末・明治のふね遺産候補 ― 洋式帆船鳳凰丸と旧浦賀ドック」―、

平山 次清、日本船舶海洋工学会講演会論文集(第24号)

 

弁才船の断面図;「幕末に建造された洋式帆船「鳳凰丸」と「ヘダ」の比較」、

日本船舶海洋工学会講演会論文集 第26号、日本船舶海洋工学会、

正会員 平山次清

 

 

 

(お詫び)

 本稿は、2021年3月26日に著者から受領いたしていましたが、「コロナ巣ごもりレポート」用原稿掲載担当の怠慢で、掲載が本日になりました。大変申し訳ありません。お詫びいたします。v